更級郡大岡村字川口熊井総本家三十一代熊井貞勇氏旧屋敷跡の隣にもう一軒、別家の熊井家があります。川口熊井総本家は、同村根越地区にある村社正大岡神社(祭神健御名方命・八坂斗売命)の神官吉田家とは縁が深く、25代茂右衛門の娘が吉田丹波正春盛の妻となっています。別家熊井家はこの神官吉田家(京都吉田神社は総家:神主は京都の吉田家の支配下にあり、吉田家は神主に従五位下〇〇守の官位を与える権限を持っていました。いわば朝廷から委任されたような形でした。大名とは別系統でした。(「長野」159号))からの分家で熊井姓を名のりました(川口熊井家別家熊井惣一郎氏談)。したがって両家は「茂兵衛(茂右衛門)」という共通の御先祖を持ちます。しかし川口総本家とは別に、この熊井家については明治36年に出版された系図師小池満慶の手による『美名鏡(びめいかがみ)』(長野県立図書館所蔵の「熊井渋雄君」の項で、次のような説明がなされています。

『美名鏡(びめいかがみ)』「熊井渋雄君」の項

「更級郡大岡村字川口に住居す君が祖先を温するに清和源氏の血流正四位検非違使信濃大和の国主左衛門尉頼親より出ず 頼親の末孫にして熊井筑後守実親は大和国熊井城主たり 其五代の孫熊井相模守親能始めて信州村上家(管理者注 大岡村の香坂氏も村上一族)の客将たり 其子同左京之亮村上義清公へ奉公す数度の勲功あるを以て水内郡にて永百五十八貫二百文の地(鎌倉時代以降の武士の知行高で一貫は十石)を給わり当郡へ城廊を築き住す 時に天文年度甲斐国主武田信玄公軍兵を信州へ出して村上家と戦端を開くや君の祖能登守重国も出馬し諸所に転戦頗る力めしが天 義清公に幸を輿ず全軍敗亡す 義清公は越後上杉氏へ寄る其家臣は皆陰散しまたは信玄公の幕下となる 左京之亮も武田家へ奉仕す それより弘治永禄元亀天正に渉る数十年間戦争の止むとき無かりし時に諸処へ従軍す 勲功も従て大なり 天正十年武田勝頼天目山に没落するや農となる 左京之亮 九右衛門 茂兵衛を経て九左衛門に至る 寛文年度検地竿請の令あるや竿請す それより九左衛門 茂兵衛を通称し 農となりてより十三代相続き代々村役相務む」

(管理者注)
源頼親は大和源氏の祖で『尊卑分脈』によると永承2年(1047)に前信濃守として名が掲載され、大和・周防・淡路等の国司も歴任しています。熊井の地名が残る地は、この頼親が赴任の地に送り込んだ頼親と縁のある者たちがそのまま任国に土着して、介や掾という国衙の官人となり、古来から在地に基盤を持つ土豪たちとも手を結んで、都からくる受領国司(守)のもとで実権を握って開拓したのかも知れません。この頼親は晩年に土佐に流されてその地で亡くなっています。土佐にも熊井の地がありますね。そして源頼親は源満仲次男ですが、(四男)従五位下武蔵守源頼平がいました。
ウィキペディアフリー百科事典によると、源頼親は、正四位下、検非違使、左兵衛尉、左衛門尉、大和守、周防守、淡路守、信濃守などの官職を歴任して、「武勇人」「つはもの」と民衆から畏れられ、藤原道長は「殺人の上手なり」と評した。数カ国の守を歴任したが、大和国は三度も守と成り、その勢力を扶植した、とあります。
全国に分布する熊井姓の由来を解き明かすには至極都合のいい話なのですが、同じ熊井家からの分かれなのに、時代が下ると由来がまるで違ってしまうのは、さてさて、どうしてなのでしょう