謹啓
薫風の候益々ご清祥のことと慶賀に存じます。
先般は「熊井の苗字のこと」お送りいただき有り難うございました。
私は現在和歌山県に居住していますが、出身は長野県塩尻市片丘の南内田です。
私も熊井の苗字に幼少の頃から関心を持ち続け、自分なりに資料をみていますが、貴殿がお送りいただいたもの以外は見つかっておりません。
学生の頃須磨に行き一ノ谷の合戦の遺品が残るとされる須磨寺へいったところ絵馬があり、それは刀を振りかざした熊井太郎が描かれており、背中がぞくぞくしたことを憶え、それを思い出し、先般近くに講演に行った際、もう一度訪れましたが、すでにその絵馬はなし、事務所で聞いたが不明で残念でした。
現在小生は超多忙ですので時をみて貴殿を訪問して、心ゆくまで語れたらと思っておりますので、そのときは何卒よろしくお願い申し上げます。
資料をお送りいただいた熊井○○は私の娘で現在は結婚して改姓しています。


電話でお聞きした情報(英水様が添削してくださいました)

熊井英水氏の本家は塩尻市片丘南内田に居住したが、松本に移住し、戦後再び南内田に戻る。
近くのもう一軒の熊井氏の位牌には熊井能登守の名。北熊井城跡には一本松があり、その根元に五輪の塔が立っていたという。
これは熊井の先祖の塔であるから鄭重に祭れといわれたが、その塔はいつの間にか現在は小松某家の墓地に移転されているというが、確かなことは分っていない。
映画監督の熊井啓氏は英水氏の出身校松本深志高校(当時は松本中学)の五年先輩で、熊井明子氏は啓氏の夫人で同校の五年後輩。
安藤氏(元熊井姓という)の長男は英水氏と同級であったが埼玉県に移転。次男が跡をとったものの亡くなり、奥さんが残っている。
青柳源之丞の息子は同級生。源之丞氏からは大岡村の熊井氏は熊井城が落城したときお姫が逃れて大岡村にたどりつき帰農したとの言い伝えがあると聞いた。また小野神社の熊井氏は北熊井の出。押田の熊井氏は九州に行きまた戻ってきたと聞いた。

「熊井の歴史を語る会」で「北熊井城主の墓」と見なしている小さな五輪の塔は、今では風化して読めなくなってしまったが、父から聞いた話では、「熊井」ではなく「大井」と書かれてあったという。北熊井城跡には一本松があり、その根元に五輪の塔が立っていた。その塔には「熊井」の字があった。しかしその五輪の塔は、いつの間にか、現在は小松某家の墓地に移転されている。(平成19年9月30日談)



「郷里の友人と話をしておりましたら、彼曰く、過般愛知万博に行った際、確か長久手町と記憶しているが、そこに熊井神社という大きな社があり駐車場となっていた、という事でした。この情報は私初めて聞くことでありましたので、一筆したためた次第です。」(平成19年11月22日のお便り)

(HP管理者)
愛知万博会場近くの駐車場に、熊井神社!!
英水先生ならずとも、はじめて聞く情報でした。
そこで、愛知万博の長久手町駐車場を調べてみたところ、以下の三カ所にありました。
@長久手インター駐車場(長湫地内)
Aながくて南駐車場(長湫地内)
B北ターミナル駐車場(熊張地内)
北ターミナル駐車場のあった場所を地図で調べました。
「熊張」のほかに、なんと「前熊」の地名まで。

ひょっとすると熊井神社もあるかもしれない………。
さっそく図書館にいって『長久手町史』を探し出して読んでみました。
曰く、尾張徳川氏の支配管理地として、北熊村、大草村、前熊村、岩作村、長湫村があった。
後に、北熊村と大草村とが合併して熊張村となった。
更にその後、熊張村と前熊村が合併し、上郷村となった。
その後にまた、長湫村、上郷村、岩作村の三つの村が合併して、長久手村(現長久手町)になった。
熊張村の由来は、大昔は熊村(曲村)といった。クマザサが生い茂る曲回りの多い地形から転化した、とあります。
ところで、長久手町熊張には、大草城という戦国時代の城跡が残っていて、そこに熊野神社が祀られているそうです。
調べはそこで行き詰まり、残念ですが、熊井神社の存在はいまのところ確認できていません。
これからも調査は継続します。
愛知県内には29軒の熊井姓のお宅があります。
しかし、長久手町にお住まいの熊井さんはおられません。

どなたか、長久手町の熊井神社を御存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報ください。

末筆になりました。熊井英水様 いつもいつもお心に掛けていただき、心から感謝しております。


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熊井家の由来