◇五◇  翌朝、地面の下から見る学園の光景は、まさしく地上のそれとは一変していた。  表情のない機械人形が、学園に次々とやってくる生徒達を迎えている。  いや、表情はあるのだ。おそらくは、体の内側から投影されているであろう映像による平面 画像が。  マネキンのように無機質な顔面に、表情だけがただ付けられ、それはまるで人間のように受 け答えする。オレ達には聞こえないが、少なくとも地上の生徒達には声が聞こえているらしい。  円城寺は相変わらず信じられないといった表情で、何やらブツブツと呟いている。地上の生 徒達の喧騒で、外には漏れ聞こえないのでまあ良しとする。  朝になって、ようやく生徒会エリアへの登校が可能となった倫には、出来る限りの現状を伝 えておいた。  最初は地下での環境の悪さに、俺達が幻覚でも見ているのではないかといぶかしんでいたが、 それでもきちんと裏を取ってくれるのがあいつの良い所なのだろう。  一時間後、倫が発見した恐るべき事実はオレ達に更なる衝撃を与えた。 「……夕夜達が言うように、教師達が人間でなく、ただの物言わぬロボットであったと仮定し た上で、幾つかの可能性についてシミュレーションプログラムを走らせてみました。その結果 ――この学園には、人間に作用し、軽い催眠状態を誘発するガスが常に散布し続けられている 事が判明しました。明確な意思を持った上で、機械による分析を行わなければ永遠に気付く事 はなかったでしょう」  倫からの受け答えも、流石に呆然としているのがその声質から伝わってくる。 「……信じられません。あれが人間でなくただの機械人形だったなんて……!しかしそう言わ れてみれば思い当たるフシは確かにあります。何故今まで気付かなかったのか……、いえ、気 付かないようにされていたのか、と言うべきでしょうね」  教師がロボットである、という絶対条件の下に倫が学園内を検索した結果、幾つか判明した 事実がある。  まず、現状ロボットであると確認されているのは学園の教師のみである。生徒に関しては、 少なくとも現在ロボットが存在する事は全く確認されていない。  第二に、彼らは今の所、人間に危害を加える存在ではないだろうという事だ。  確かにそれは、これまで学園内で生活してきて強く感じる所ではある。  少なくとも、オレがこれまで過ごしてきた経験の限りでは(常に軽い催眠状態ではあったら しいが)、あれらが人間に危害を加えようとする意思はまるで感じられなかった。  ただひたすら、学園の平和と秩序を維持しようと、ただそれだけの為に行動しているように 感じられた。倫のデータも、今の所それを証明している。  第三。学園に充満している催眠ガスは空気よりも軽く、学園の地上から散布され、学園内で 生活している限りはその影響から逃れる事は出来ない物であるらしい。また、その影響下にお いては、リスト型端末による刺激信号を教師の言葉として受け止められるらしかった。  成る程、それで教師が無言でも会話が成り立つのか。  つまり、このガスに影響を及ぼされる事なく学園の真実を知ろうと思えば、こうやって地下 から世界を眺めるしか方法がない。  瓜川にも確認してみたが、あいつは地上と繋がった場所に関しては、見つかるのが怖くてほ とんど近寄っていなかったらしい。この事実には全く気が付かなかったそうだ。  まあ、気付いていたら気付いていたで、学園生活が恐ろしい物になっていたような気がしな いでもないが。  結論としては、この事実に関しては今の所、保留。  何故ならそれに対処する理由がまるで存在しないからだ。  ロボットが人間を学園で囲い、何か悪巧みをしているというのなら何としても阻止せねばな らないのかもしれないが(まあその可能性は否定出来ないが)、少なくともオレ達の知る限り では、彼らはただただ真面目に学園を運営しているだけなのだ。それにこちらはその学園側に 追われる犯罪者とその一味である。仮に地上に出てこの真実を伝えたとして、何がどうなると いう物でもない。  あるいは彼らから逃亡する時には何かの役に立つかもしれないが、能力はほぼ人間並みなの で、これもまたほとんど意味がない。  何よりそんな事を考えている暇があったら、オレ達は学園の外への脱出を目指さなければな らないのだ。  気になる事実には違いないが、今の所、どうしようもないというのが本音だった。 「……人間としての判断を排除し、プログラムに任せるだけでも随分と新事実が出てくる物で すね……。生徒会の作業のほとんどは、彼ら教師――いえ、教師端末とでも呼ぶべきでしょう か、彼らのメンテナンス作業が主な物であったようです。機械同士では難しいデリケートな部 分を、人間に任せていたという事でしょうね。これで、マネキンを磨いたり、謎のスペースに 充電池を詰め込んだりする作業の謎がようやく解けましたよ」  そういえば、瑞希がそんな事を言っていたような気がする。あれは確か、反省室での特別課 題であっただろうか。 「そうですね、そちらの方も多分、全く同じ作業でしょう。生徒会は基本的に、常に人手不足 ですからね――、正直、猫の手も借りたい程に、作業量は不足している筈ですから」  そこで倫は、一旦言葉を切ってから。 「……先程、教師端末と言いましたが……、おそらく彼ら全体の指令は、学園のどこかに存在 するメインコンピュータが一括して行っている筈です。そしてそれは現在集まっている情報で は、地上でなく貴方達の居る地下エリアに存在する可能性が高い。もしそのコンピュータに私 達がアクセスする事が出来れば、あるいは学園の情報が今以上に手に入れられる可能性があり ます。つまり、学園外への脱出の可能性も高くなるという事です」  確かに、倫の言う通りだ。 「効率良く仕事を行っていきましょう。昨晩、瓜川さんの持っていった装備の中に、リョウカ に渡したのと同じ端末がもう一つ入っている筈です。夕夜と、リョウカ。二手に分かれて地下 通路内を探索して下さい。もしそれらしい施設、もしくは学外への脱出ルートらしき物を発見 したら、すぐに私の所まで連絡をお願いします。何より、時間がそれ程ある訳ではありません から」  確かに、こんな場所で何日間も過ごすのは流石に御免こうむりりたい。  それでなくとも、喜島率いる風紀委員会が次にどんな手を打ってくるのか分からないのだ。 「……そういえばさ、教師達がロボットだったっていう事は、もしかしてプログラムをちょい ちょいっといじって、オレ達を無罪にするとかいう事は出来ないのか?」 「現時点では不可能です。彼らは所詮端末ですから、大本であるメインコンピュータにアクセ スしない限りはその手段を取る事は出来ません。最も、ゆうに百体を超える数の人型端末を同 時に制御している程のコンピュータですから、相当なレベルの防御システムが備わっている可 能性が高い。実際に接してみない事には何とも判断が着きませんね」  もっともな話である。  オレ達は倫との通信をそこで切ると、指示通り端末を一つずつ手に取る。 「それじゃあ、一時間後にここに戻って来るって事で」 「うん、分かった。……気を付けてね、如月くん」 「お前もな、円城寺」  そうして、オレ達は互いに別の方向に向かって地下通路の探索を始めた。


 暗い地下通路を歩いていると、足音ばかりが妙に響いてしまって困る。  この反響音は、下手なお化け屋敷なんかよりも余程怖い。  私は昨日見つけたダムの下流に向かって歩いている。ダム施設から直接下っていく事は出来 ないので、大回りをしてでも狭い地下通路を通って行くしか方法がない。  如月くんは、やはりこういう時にも恐怖を感じないでいられるのだろうか。ちょっとだけ彼 が羨ましくなる。  私は静寂に耐え切れなくなり、通信機を使って倫に連絡を取ってみた。 「もしもし、倫?……ちょっとだけ、いいかな。ここ、狭くて暗くておまけに臭くて、不安で 息が詰まっちゃいそうで」 「別に構いませんよ、リョウカ。現状は基本的に、プログラムを走らせて情報を収集している だけなので、私も少し退屈していた所です」  倫は、優しい声でそう答える。 「あのね……、昨日の晩、如月くんに私の過去の事について話したの」  倫は、ほんの僅かの間沈黙してから、すぐに。 「……それで、彼の反応はどうでしたか?」 「……気にしないって。今の私は私なんだから、昔の事は気にしないって、そう言ってくれた」  倫は、再び少しだけ時間を置いて。 「そうですか。まあ、如月夕夜らしいといえばらしい答えかもしれませんね。彼にとっては、 相手が恐怖の対象であるかどうかは大した問題ではないのでしょう」 「それ、ちょっとひどいよ、倫」  私はクスリと笑って、軽く倫の言葉を受け流す。 「それに、そんな事を言ったら倫だってそうじゃない。私の過去を知っていながら……それで も友人で居てくれる」 「まあ、確かにそれはそうなんですが……、私の場合は、事例があまりに特殊過ぎませんか? 私は、円城寺良華の親友でありながら――未だ、内臓を見られていない人間なのですから」  倫は、私の言葉にそんな風に答える。  詩野倫と知り合った時、この、妙にひねくれた少女に興味を持った私は、当然のように彼女 の中身――内臓にも興味を持った。  だが、彼女の本質を知った時、私のその想いは全く別な形で消化される事になったのだ。  詩野倫。この学園の電子世界の女王にして、その心の大部分を仮想世界に取り込まれた奇妙 な人物。  彼女がある意味、この現実で生きる事を拒否しているのだと知った時――私は彼女の体や、 その中身には全く興味を持てなくなった。  彼女の本体は、電子世界の中にこそあるのだ。  それこそが、私の知る詩野倫の本質だった。  だから私は、彼女の体を引き裂き、その内臓を見る代わりに――彼女の仮想世界での中身と、 その本質の開示を迫ったのだ。  それは彼女にとっては、あるいは現実に体を引き割かれるより辛い事だったのかもしれない。 けれども倫は、私のそんな申し出を快く受け入れてくれた。  そうして、彼女は私の親友で、唯一この世に生き残っている人物となったのだ。 「確かに特殊な例かもしれないけど――それでも、貴方が私の大切な友人である事に変わりは ないわ、倫」  私は、確信を持ってそう答える。 「そうですね……。私にとっても、貴方はかけがえのない親友ですよ――リョウカ」 「ありがと、倫」  私は笑ってそう答える。 「それに、如月くんと出会えて私も少し変われるかもしれない。内とか外とか、本質とかそれ 以外とか、いつかこだわらなくても済むようになるかもしれない。そうしたら、仮想世界上の 貴方でなく――現実の貴方の中身も、知りたいと思うようになるかもしれないわ」 「ふふ、それはちょっと遠慮しておきたいですね。流石の私も――お腹を割かれたら、死に至 るしかありません。けれども、貴方の友情に応える為なら私は努力を惜しまないつもりですよ ――リョウカ」  そんな、優しい声で倫は答えた。


 オレは、昨日見つけたダム型の地下施設を上流の方に向かって探索していた。  当然のように少しずつ上に登っていく事になる。  そのせいか、地上の学園と繋がっているポイントが非常に多い。ほとんど天井一枚を隔てた だけの、排水溝ばかりを通り続けているような感じだ。当然、地上に居る生徒の気配にも随分 と気を使う事になる。だが、外の明るい光が見える事はそれだけでも随分と心強い。  円城寺が向かったのはこことは逆に、地下に降りて行くような感じの道筋だった。彼女には こちらの方を探索して貰った方が、心理的な負担があるいは少なかったかもしれない。少しだ け彼女が心配になってきた。  行く手の天井に、また地上からの光が漏れている鉄格子が確認出来る。先程は中等部のグラ ウンドと繋がっている様子だった。となると、この辺は位置的に高等部のエリア内かもしれな い。外に居る生徒に見つからないよう、気配を殺しながら慎重に歩を進めて行く。  地上を横切って行く人影が幾つか見える。ちらっと見えた様子では、この上はどうやら高等 部玄関前広場の辺りであるようだ。正午なら、いつものドラマを確認するくらいの事は出来た かもしれない。惜しい。  段々と鉄格子に近付いて行くと、先程までは角度が合わなくて気付かなかったが、どうやら 地上にはベンチがあって、そこに誰かが座っているようだった。しかも位置が非常に悪い。そ の誰かが立ち去るまで、この場所を通過するのは少しばかり危険かもしれない。  オレが息を殺していると、その誰かが、はあと溜め息を付くのが聞こえる。 「……よりによって、円城寺さんの逃亡に手を貸すだなんて一体何を考えているんだろう…… 夕夜ちゃん」  天井の外から聞こえてきたのは、忘れようもない、長年親しんだ声だった。  周囲に他の人間が居ないであろう事を、注意深く確認する。  良し、今、外に居るのはどうやら瑞希だけのようだ。 「瑞希……、みずき……」  出来るだけ小さく、彼女だけにしか聞こえないような声でオレはそう呼びかける。 「あれ……、幻聴かな。そんなに……疲れてるのかな、私」 「いや、幻聴じゃないって。本物だって」  瑞希は飛び上がるようにして驚くと、首を振って辺りを一生懸命に確認し始めた。しまった、 かえって目立ったかもしれない。  だが、結局オレの姿を確認する事が出来なかったのだろう。瑞希は再びうなだれると、再び トスンとベンチの上に腰を下ろす。 「そのまま、そのまま聞いててくれ、瑞希。幻覚でもなければ、夢でもないから」  瑞希は目をしばたたかせて、それでも周囲を少しだけ確認していたが、やがて、誰が見ても ただベンチに座っているだけの状態に姿勢を戻すと、小声で。 「……夕夜ちゃん?夕夜ちゃんなの?もしそうなら、私にしか分からないような事を言って、 ちゃんと私に確認させて」 「昨日スリ取ったペンをとっとと返せ、瑞希」  どうやらそれで、ようやく幻覚ではないという事を確認したのだろう。瑞希はなるべく自然 な動作で再び周囲を確認してから、鉄格子下のオレとついに目を合わせる。  彼女の目が点になった。 「……夕夜ちゃん、一体そんな所で何してるの。大掃除?」 「今の風紀委員会なら、本当にそれくらい無駄な事をやりかねないな。勿論、逃亡中の身故に 地下に潜っているのですよ」 「……文字通り地下に潜ってどうするの」  全く持ってその通りだった。  オレは、瑞希に現在の状況について簡単な説明をし始める。とりあえずだが、教師達に関す る話だけは除いておいた。  最初は少しだけいぶかしんでいた瑞希は、説明が終盤に近付くにつれ、あからさまな疑念の 目をオレの方に向けてきた。 「……そもそも、どうして夕夜ちゃんが円城寺さんに手を貸さなきゃいけない訳?」 「そりゃまあ、元はといえばオレの為に円城寺が起こした事件なんだからな。あいつ一人だけ に責任を押し付けて、ハイおしまいって訳には行かないだろ」 「でも、夕夜ちゃんがそれを頼んだ訳じゃないんでしょう?なら、放っておけば良かったじゃ ない」 「他人に無理矢理恩を売られて、オレが黙ってられる性格だと思うか?」  そう言うと、瑞希は自然と押し黙る。 「とはいえ、結果的に瑞希を少しの間、騙してしまった訳だからな、それは素直に悪かった。 ……すまん」 「ううん、それは別に構わないけど……、いや、本当は構うけど、今はそんな事はどっちだっ ていいよ」  そこで瑞希は少しだけ息を飲み込んで、再び吐き出すと。 「……それで、夕夜ちゃんはこれからどうするつもりなの?円城寺さんを学園の外に連れ出し たら、また学園に戻ってくるの?」  瑞希の質問にオレの目は点になる。  ……しまった、その先の事は、全く考えていなかった。 「いや、どうだろう。……正直そこまでは全く考えていなかったな。場合によっては、オレも 学園の外に出て、円城寺が安全を確保するくらいまでは着いて行くつもりだったんだが……。 オレが学園に戻ったとして、喜島のヤツに見つかったらまた面倒な事になりそうだしな。案外 そのまま外に」 「駄目ッッ!」  瑞希が突然大声で叫んだ。オレは慌てて鉄格子の下から離れて地下の壁の向こうに身を隠す。  しばらくして、周囲に目立った反応がなかった事を確認してから、オレは再びそろりと鉄格 子の所に近付き。 「……あまり大声を出さないでくれ。オレがこの場で見つかったら、それこそ今までの努力が パーになる」 「……別にいいじゃない。円城寺さんが捕まって、夕夜ちゃんがしばらく反省室に閉じ篭もっ て……。それでいいじゃない!どうして、出て行くなんて言うの!どうして、私から離れよう とするの!?」  無茶苦茶だ。  そういえば以前、学園からの脱出計画を試みた時にも、瑞希が癇癪を起こして随分となだめ るのに困った覚えがある。  結果的にオレが学園から抜け出す事はなかった訳だが、それでも、瑞希がオレと居る学園生 活に、どうやら特別な思い入れを抱いているのは間違いなかった。 「何なら、瑞希もこの学園を脱出するか?」  今度は、瑞希の目が点になる。 「え?でも、夕夜ちゃん。……いいの?」 「いや、まあ、正直人手が多いに越した事はないしな。それに、どちらかっていうと確認をす るのはオレの方だ。当然学園側に追われる事になる訳だし、脱出経路を探すだけでも、随分と 危険な作業になりかねない。それでも、オレ達と一緒に来るか?」  瑞希はぽかんとした表情を見せながら。 「……それは、円城寺さんも一緒っていう事だよね?」 「当たり前だ。……ていうか、そもそもあいつを逃がさないと何にもならないだろ」  オレがそう言うと、瑞希は腕を組んで悩み始めた。こいつが腕を組んで考え事をするのは、 本当に難しい悩み事を考える時だけだ。  五分程経過しただろうか。瑞希は軽く溜め息を付くと、随分とスッキリした表情で。 「……分かった。私も夕夜ちゃん達に協力する。でも、学園の外に脱出するのは止めておくね。 私だと足手まといになりかねないし、それに――」  瑞希は、たまにしか見せない随分と真面目な表情を見せながら。 「――夕夜ちゃんに、話しておかなければいけない事があるの」  昨日の朝方から、風紀委員会の動きがおかしい事は知っていた。  オレや倫の制服に、盗聴器が仕掛けられているだろう事も分かっていた。  だが、オレの場合それが、いつも身に着けていたボールペンに仕掛けられていたという事実 は、瑞希から聞いたのが初耳だった。 「……喜島先輩は、夕夜ちゃんがいつも身に着けている事を知っていて、それであのボールペ ンに盗聴器を仕掛けたらしいの。でもそれは、私があの時、夕夜ちゃんからスリ取ってしまっ た」  そう、確かにあの時、倫がオレ達の教室を訪れた時。瑞希はいつもと同じように、何の気な しにオレからボールペンをスリ取った。  だが、喜島にしてみればそれは忌々しい出来事以外の何物でもなかったらしい。  せっかく仕掛けた盗聴器が、思った通りの成果どころか、仕掛けた本人の身にさえ付いてい ないのだ。気分を害するのは当然といえば当然の結果だろう。  怒った喜島は、ボールペンをスリ取った所の張本人である小倉瑞希を、風紀委員会個室に呼 び出した。  曰く。「……君はそのボールペンの仕掛けに気付いていたのかね?」  瑞希は答えた。「一体何の話ですか?」  その時の喜島の表情たるや、それはそれは凄まじい物であったらしい。  個室内の機材を一通り破壊し、ひとしきりストレスを発散した所で、喜島は。 「……ところで君は、如月夕夜と随分仲が良いそうだね。……一つ、頼まれてくれないか?」  先程までの暴走ぶりをまるで感じさせないその爽やか過ぎる笑顔に、瑞希は戦慄せざるを得 なかった。  そんな喜島の頼みというのは、密かにオレの日常を観察、尾行し、何か怪しい動きがあれば 即座に風紀委員会に伝えて欲しいという――いわばスパイのような物だった。  だが、瑞希は喜島の暴走っぷりを今しがた確認したばかりである。彼女が何とかしてそれを 丁寧に断ろうとした、その矢先に。 「……もし君がこれを引き受けてくれたなら、万が一、如月が犯人の手助けをしていたとして も……罪が軽くなるよう、この私が取り計らってやろうじゃないか」  結果的に、瑞希は喜島からの頼みを聞き入れた。  その後、瑞希は密かにオレの後を尾行し――初等部寮を訪ねるという、如月夕夜の日常を知 る者なら絶対に見過ごせない違和感を発見。それを、風紀委員に通報したとの事だった。  あの突然の捜索は、瑞希が通報したのが原因だったのか。 「ごめんね……夕夜ちゃん。私が余計な事をしたばっかりに」 「いや、瑞希が瑞希なりにオレの事を心配して取ってくれた行動だろう?それに、結果的には 誰も捕まっていない訳だし、オレだって瑞希には何も話してなかったからな……。お互い様だ」  瑞希はオレの返答に苦笑いをすると、話を更に続けていく。  通報の結果、瑞希の想いとは裏腹にオレは円城寺と共に逃亡――いずこかに行方をくらまし た。  瑞希にとっては溜め息を付かざるを得ない結果だっただろう。  だが、喜島にとってはとにもかくにも事態が進展したのである。風紀委員会個室で再び会っ た時、ヤツはそれなりにご満悦の様子であったらしい。  一時の結果に満足したのか、喜島はニンマリとした笑顔を見せると、瑞希にそっと耳打ちを して。 「君にだけは教えておこう。実は私は近々、この学園の実質的リーダーとなる事が決定してい る。風紀委員会を現状のような組織に編成した私の手腕を見込んで、ある人物がそう、私に告 げてくれたのだ。教師達と同等の権限を既に与えられているのがその証拠と言えるだろうね。 私の言う事を聞いている限り、君達この学園の生徒は、何一つ心配する事はないのだよ――」  そう言って、喜島は哂い続けていたのだそうだ。  ……何だそりゃ。支配者? 「……元々おかしいヤツだとは思っていたが、いよいよおかしさが脳に極まったか」 「私も最初はそう思ったんだけど……、でも、私見たの。それを話している喜島先輩の後ろ側 に、何か幻みたいな影が――」  金色の髪を持った誰かが。  瑞希がそれを告げた瞬間、ゾクリとした。  彼女の言うその金色の影というのは――今まさにオレの前を通り過ぎようとしている少女の 影そのものであったからだ。  いや、待て。  知っている。  オレは、この人影を知っている。学園で見た事があるからだ。  それは、金色に輝く姿をしていて、見たと思った次の瞬間、何事もなかったかのように消え 去っている。見た側は、幻か、何かのカン違いだったとしか思えない。  だが、それは本当にカン違いだったのだろうか?  オレはこの学園の真実を知っている。生徒達は、催眠を誘発するガスによって、機械人形を 生きた教師だとずっと思い込まされてきたのだ。  ならば、それが単なる幻覚でないなどと誰が言える?  光る影は手招きをしていた。オレは、それに吸い寄せられるようにフラフラとその後を追い 掛ける。 「……信じられないかもしれないけど……。……あれ、夕夜ちゃん?夕夜ちゃん!?」  遥か遠くから瑞希の声が聞こえてきたが、オレはその言葉を意に介さず、光に招かれるまま 暗闇の中に吸い込まれて行った。


 予定の合流時間を一時間過ぎても、如月君は姿を現さなかった。  先程から倫に通信を試みているが、電波の状況が悪いのか、機械はただただ耳障りな雑音を 拾ってくるばかりだ。メールの返事も返ってこない。  段々と嫌な予感がしてくる。もしかして、二人の身に何かあったのかもしれない。  もう一度倫に通信を試みる。繋がらない。場所を変えてもう一度やってみる。  多分、その時の私は相当焦っていたに違いない。何故なら、背後から忍び寄るその足音に、 まるで気付きもしなかったのだから。  ジャリ……と、地面を踏む音に気付いた時には遅かった。  私は忍び寄ったその影に背後から、何かを背中に突き付けられていたのだ。 「動くな。……随分と手間を掛けさせてくれたな」  私の知らない声だ。だが、おそらく学園側の追っ手である事は流石に容易に想像が出来た。 「持っている物を投げ捨てて、腕を背中で組んで地面に伏せたまえ」  何を突き付けられているのかは知らないが、もしナイフか何かだったら流石に従うしか方法 がない。  私は手に持っていた通信機を投げ捨て、背中で手を組んでそのままの状態で地面に伏せ…… ようとしたが、いや、このドロドロの地面に伏せろというのはちょっと無理な相談だ。 「……ここの床に伏せるのは、流石に勘弁して貰えないかしら」 「随分と神経が太いようだな、円城寺良華。まあいい、そのままの状態で決して動かない事だ」  神経が太いとかいう以前に乙女の当然の主張だとは思うが、とりあえず私は体を動かさずに じっと耐える。  背中に触れていた何かの気配が、少しずつだが離れていく。 「良し、こちらの方を向きたまえ。先に言っておくが、この距離で私が狙いを外すと思ったら 大間違いだ。死にたくなければ、おかしな真似はしない事だな」  狙いを外すとは一体どういう事だろうか。まさか、ピストルを持っている訳でもあるまいし ……、そう思って私が振り向くと、そこには黒光りする拳銃がこちらに狙いを定めていた。  どう見ても本物の拳銃だった。  私が驚いているのを見ると、その男――大学部の制服を着た、おそらくは風紀委員であろう 人物は、口元をニヤリと歪めながら。 「驚いているようだな。まあ、この学園内で手に入るような代物ではないのだから、当然とい えば当然だろう……もう分かったかね?私がどうやってこの銃を手に入れたかが」  ……まさか。  倫の所に通信が繋がらない時点で、おかしいとは思っていたのだ。それに、拳銃を手に入れ たという事は、もしかして。  ……いや、それ以前に、この男の顔を私はどこかで見たような気がする。確か、寮の部屋の 中で、倫に見せて貰った映像の中に……。  そうか、この男は。 「……貴方が風紀委員長の、喜島薫ね?」 「ほう、良く知っているな。その通りだ。これまでは随分とお世話になったな、円城寺良華君」  喜島は歪んだ笑顔を私に見せると、その表情のまま、自分の仕事を誇るかのように。 「だが、これで君達とのくだらないゲームも終わりだ。……君の友人の詩野倫に、ショップ瓜 川店主の瓜川孝。彼らの身柄は既に我々風紀委員、並びに教師達の手で拘束してある。押収し た商品の中に、こういう便利な物があったのは嬉しい誤算と言って良いだろうな。おかしな真 似をすればどういう事になるかは……分かっているな?」  喜島のその解説に、私はくらりと一瞬眩暈を感じる。  薄々予想はしていたけれど、まさか、倫が。それに、瓜川くんまで。 「……詩野倫が捕捉していた君達の信号を追い掛けるのは、実に楽な仕事だったよ。まずは君。 そして残りの如月夕夜を捕まえて――ジ・エンドだ」  喜島の話によると、どうやら如月くんはまだ追っ手に捕まってはいないらしい。まだ最悪の 事態には至っていない事に、ほんの僅かにだが安堵する。  その安心がちょっとしたきっかけになったのだろうか、小さな疑問が私の頭の中を駆け巡っ た。  どうして、風紀委員長自らがこんな所に居るのだろう?  如月くんから聞いた話では、喜島薫は可能な限り自らは動かず、他人を利用して目的を達成 するのが常であるらしい。そんな彼が、単身こんな場所に姿を現した事に、私は妙な違和感を 感じた。  ……そういえば。  私達を探し回っていた学園側の追っ手の内、教師に関しては既に人間ではなかった事が判明 したのだ。  それに生徒会による定期メンテナンスの内容からして、彼らは相当にデリケートな体である 事が予想出来た。この汚れた地下水路のような環境下では、あるいは正常に活動する事が非常 に難しいのかもしれない。  教師はそんな理由でここには来られないのだと仮定して、では風紀委員に関してはどうなん だろう。  倫や、ショップ瓜川を押さえておくのにある程度の人員は必要かもしれないが、風紀委員長 自らが現場に出てこなければならない程に人数が必要だとも思えない。  いや、待て。……拳銃?  ショップ瓜川でそんな物を手に入れたとして、それが一個人の手にあるなんて状況を、学園 側が果たして黙認するだろうか。  危険物の取り扱いに関しては、学内でのこれを全面的に禁じると、校則にはっきりとそう書 いてあった筈だ。  少しずつ、情報のピースが埋まっていく。  しかし、どうやら喜島薫は私にそんな悠長な思考の余裕を与えていてはくれないようだ。 「さて、如月の居所は分かっている。君には私に先行してこの地下水路を進んで貰おう。くれ ぐれも、妙な事は考えないようにな」  そう言うと喜島は居丈高に拳銃をこちらに向け、私に早く歩くよう、顎で命令を下してくる。  まだ僅かながら時間はある。その間に、私は考えておかなければならない。  喜島薫の持つ拳銃に対処し、倫、そして瓜川くん達を助け出す為の、その方法を。


 三十分程暗闇の中を歩いただろうか。  オレを導くかのような正体不明の金色の影は、明かりを持たないにも関わらず綺麗な足取り を崩さないまま、地下水路を進んでいく。まるで暗闇などそこには存在しないかのように。  光を追って行く内に次第に我を取り戻したオレは、忘れない内に、現状をメールに書いて倫 に送っておく。  既に、円城寺との合流予定時間は過ぎ去っていた。倫に連絡しておけば、彼女の方から円城 寺にその旨を伝えてくれる筈だ。  金色の影は音もなく地下水路を進んでいく。しばらくの間観察して分かったのは、あの影は 決して単なる錯覚や幻ではなく、確かにそこに存在する何かだという事。人間に良く似た形で はあるが、決して人でない事だけは理解出来る。  あるいは学園の教師のようにロボットである可能性も否定出来ないが――少なくともそれよ りはかなり人間に近い。教師端末の外見を、相当バージョンアップしたならこんな風になるの ではないだろうかと予想する。  それは、金色に輝く長い髪を持った、美しい女性の形をしていた。  ふと気が付くと、足音の質が地下水路のそれとは全く違った物に変化していた。  足元から響いてくるのは、コンクリートではない明らかなる金属音。  少しずつだが、天井も広くなっているようだ。……いや、よく見ると周りが薄ぼんやりと明 るくなり始めている。いつの間にかそこは淡く光る長い廊下になっていた。前方には、更に開 けた空間。  金色の人影は、その空間の中央で動きを止めた。  オレがその側にまで近付いていくと、その影はようやくこちらを振り向き、初めてその表情 をこちらに向けた。  人ではない。しかし彫刻のように無機質でもない。  敢えて言うなら、それは妖精のような美しさとでも表現するべきだろうか。  ピンポンと、小さくチャイムのような音が鳴った。  それを合図にしたかのように、この広大な空間の上空、その中央に巨大な立体ウインドウが 表示される。一つ、二つ、三つ……。それは物凄い勢いで無数のウインドウへと変化していっ た。光の洪水に包まれたかのように錯覚する。  その全てのウインドウに、目の前に居る妖精の顔が映し出されていた。 「……初めまして、如月夕夜様。我は日本国所属・完全自立型災害救助船『アズフォール号』。 そのメインコンピュータのセリル・グランデと申します」  オレの前に姿を現した彼女は、確かに丁寧な口調でそう告げたのだ。 「……まず、最初にお断りしておきますと、我は貴方様に危害を加えるつもりは一切ありませ ん。ただ、この仮想学園都市における教師の役割を持った自立型マニピュレーション端末の現 状、その真実を把握したと思われる貴方様に対して、更なる情報の開示と、それに伴った些少 の情報提供をお願いしたく、ここに招かせて頂いた次第です」  オレは目の前でそう言葉を紡いでいくウインドウを、ただただ呆然と見守っていた。  ……とりあえず、こいつが倫の言っていた教師端末を統括するメインコンピュータなのだろ うという事は、どうにかギリギリで理解出来る。  だが、その前に言っていた言葉が分からない。  ……災害救助船?  チクリと。  ――脳の片隅に嫌な気配を感じたような気がした。 「如月夕夜様の脈拍が僅かに上がっています。しかし許容範囲内ですので、今の所、特に問題 はありません。これまでのデータから判断して、貴方様はこれから開示される事実に対して十 分精神的に対処可能であると我は判断しています」  感情があるのかないのか分からない声が、言葉をどんどん続けていく。 「今から五年三ヶ月と二時間二十五秒前。地球に多数の隕石群が飛来しました。それらの衝突 の影響により、地球上の都市の大部分はほぼ壊滅。更に、その隕石から発せられた未知なる放 射線は、生き残った生命にも多大なる影響を与えました」  オレが言葉を受け止め切る間もなく、話は次々と進められていく。 「研究者によってトラモイル線と名付けられたその未知の放射線を浴びた生命体は、その中枢 とも言える脳のコントロールを破壊され、一週間以内に99%超が死に至る事となります。稀 に生命力の強い固体が生き延びるケースもありますが、それでも放射線を浴びたその時点での 意思を強烈に焼き付けられ、精神に異常をきたす事となります」  こいつは一体何を話しているのだろう。  ――これは、果たして現実なのだろうか。 「我は元々、地球温暖化による水位上昇と、それに伴い増加が予想される水害被害者への救助 を目的として設計されました。その為、長期に渡る救助者の保護が必要となる場合を想定し、 様々な設備が船内に装備されていたのです。自動整備用端末、居住施設、食糧生産システム、 飲料水確保用のろ過システム、水害発生時における疫病対策用の、自動衛生システム等……」  無機質な言葉が、オレの脳を冒していく。 「それらの装備により、我は宇宙災害による世界規模の放射線被害に対しても、適切且つ有効 な対処を行う事が可能でした。トラモイル線の影響により、近距離以外で通信を行う事が不可 能でしたので――活動範囲内における都市部を直接探索し、生き残った方々を救助、収容する。 年齢的には五〜二十二歳の少年少女がほとんどで、それ以外の方は既に死亡、あるいは救助後 すぐに亡くなられるケースが後を絶ちませんでした。そしてこれらの事実は、生き残られた方 々にとって精神的に大きなダメージとなり、その後の生活に大きな支障を伴う危険性がありま した。故に我は――」  ウインドウの中のメインコンピュータは、少しだけ間を区切ってから。 「――精神的外傷を持った救助者に対する措置としてシミュレーションを重ねた結果、船内を 仮想学園都市とし、そこに転校してきた学生であるという架空の設定を作り出す事により、世 界規模の宇宙災害という深い傷を少しでも和らげる方策を採る事にしたのです」  そこでウインドウの中の妖精は、一旦話の間を空ける。  …………………………。  心のどこかでは、分かっていたのかもしれない。  この学園がどこかおかしい事は、ここで過ごす誰もが薄々と感じていた筈だ。  確かに真実は隠されていた、だがそれはあくまでオレ達を守る為の物であったし、そもそも 地下に潜る事が出来ればただそれだけで学園の欺瞞は暴かれてしまう。  絶対に隠さねばならないという秘密ではない。それを調べようとする者、知ろうとする者達 に対しては、いつだってこの真相への扉は開かれていた筈だ。  ただ、オレ達が。オレ達自身が。  騙されている事に薄々と感付いておきながら、おそらくは無意識に見て見ぬフリをしていた というだけなのだ。  これはただ、それだけの話。  オレの頭の中では、既に全ての情報が正しく事実として認識されていた。 「心拍、脈拍数、共に正常。お見事です如月夕夜様。正しく情報を認識された事を、我は心か ら感謝致します」  学園のメインコンピュータは、仰々しくそんな感謝の言葉を語ってくる。 「それで……、ええと、お前の名前は何だったっけ?」 「完全自立型災害救助船『アズフォール号』。メインコンピュータのセリル・グランデです」 「セリル、ね……。何だか人間みたいな名前だな」 「我を設計された方のお嬢様と、確か同じ名前だったと記憶しています」 「まあいいや、セリル。話を進める前に一つ確認しておきたい事があるんだが」 「承りましょう」 「お前の言ってる事が真実だというのは、オレにもおぼろげながら理解出来る。だが、言葉だ けできちんと納得出来るほど人間ってヤツは単純には出来ていない」  セリルは無言でオレが話を続けるのを待っている。 「……学園の外が、見てみたい。別に逃げようという訳じゃないんだ、ただ……、多分、外を 直接見ないとオレは心の底からは納得出来ない」  セリルはまだ無言のままだ。 「――トラモイル線による汚染はまだ地球全土に広がっています。このアズフォール号に関し ましては、我独自のトラモイル線への分析と研究開発により、既に放射線に対するシールド処 理が施されておりますが、個人レベルでの防護服開発に関しましては、未だ完全なレベルには 到達していないのが現状です」 「つまり、それを平たく言うと?」 「不完全な防護服を装備した状態で船外に出ますと、確率は非常に低いですが、トラモイル線 による影響が悪化し、最悪死亡する危険性があります」  成る程、実に分かりやすい。 「……でも、学園の上空は普通に開かれているじゃないか。そのトラモイル線とやらが危険な ら、学園はもっと閉鎖された空間に存在しないといけないんじゃないのか」 「あれは環境スクリーンに投影された擬似映像で、本物ではありません。学園全体は完全に外 部空間と隔離され、独立しているのです」  言われてみれば、あの空は太陽の位置も、その沈み方も、一年を通して全く同じだったよう な気がする。それに、時々吹く風も……非常に定期的な、まるで空調のようであった事に今更 ながら思い至る。 「勿論、それでも如月夕夜様が船外に出ると仰られるのであれば、我にはそれを止める術はあ りません。基本的に我の仕事は救助者の安全を確保する事ですが、その全体における安全が脅 かされない限り、救助者自身により示された明確な意志を、我には拒否する権限がありません」  つまり、学園の安全を脅かすような内容でない限り、セリルは人間からの命令に逆らう事は 出来ないって事か。 「言ってる事はとりあえず分かった。でも、外を見ない事にはオレはどうしても納得出来ない。 防護服があるならそれを着よう。ほんの五分でいい。世界がどうなったのかを……オレは知り たい」 「――承知しました。現在、我は都市部に近い海岸沿いを航行中です。世界状況を把握するに は、都合が良いタイミングであると判断します。では、中枢部専用の自立型マニュピレーショ ン――零号端末。貴方をここに導いた、彼女の後に着いて行って下さい」  セリルがそう言うと、空中に開かれていた無数のウインドウは全て消え去り、部屋全体を包 み込む淡い光だけが残される。先程からずっと立ち尽くしていた零号端末――金色の髪を持っ た彼女が、再び歩を進め始めた。 「……お前の事は何て呼んだら良いんだ?その……零号端末?」  前方を行く影はほんの少し立ち止まり、軽くこちらの方を振り向くと。 「いえ、端末は全て我――メインコンピュータ、セリル・グランデの単なる手足にしか過ぎま せん。中枢部専用の零号端末――彼女だけは、他の端末より上位の機種ではありますが、基本 は他と変わりありません。全てセリルと呼んで頂いて結構です」  いや、ウチの担任の田中までセリルと呼ぶのは物凄い抵抗があるんだが、まあ言いたい事は 何となく分かった。  セリルが通路の端までたどり着くと、行き止まりだった壁が小さな機械音を立てながら上下 に開かれ、彼女は更にその先にまで進んでいく。  そんな扉を幾つか通過しただろうか、立方体の形をした妙に狭い空間に出る。空間の脇には ロッカーらしき物があり、セリルはその扉を開くと、中から銀色の寝袋のような物を取り出す。 「トラモイル線専用の防護服です。完全ではありませんが、生身の状態で船外に出るよりは安 全率が高まります」 「……どうやって着るんだ?これは。上下が全く分からない上に、どこにも体を通す穴がない んだが」 「足元の部分のパーツが外れるようになっています。頭からかぶって、まずは体全体を覆うよ うにして下さい。後に体全体に定着処理を施します」  セリルの説明でどうにか外せる部分を見つけ、防護服を頭から体全体に通していく。自分で は分からないが、多分セリルからは銀色のゴミ袋のように見えているのではないだろうか。 「はい、それで結構です。定着させますので動かないようにして下さい」  セリルがそう言うと、銀色の袋がオレの体全体に、空気が抜けたかのようにぴたり、ぴたり と張り付いていく。いつの間にか、銀色のゴミ袋は宇宙服のような形に変化を遂げていた。 「はい、これであとは、こちらのブーツを装備して下さい。固定は我の方で致します」  彼女に勧められるままにオレは用意されたブーツを履いていく。セリルがそれを固定し、ど うやらこれで、ようやく準備が整ったようだ。 「それでは、こちらのエレベータにお乗り下さい。十秒後、当船の外装部に移動します」  エレベータの扉が閉まると、部屋全体から防護服にシャワーのような物が浴びせられる。消 毒処理か何かだろうか。  ピンポンという音と共に扉が開かれる。たどり着いた部屋には、重々しい金属の扉がただ一 枚、存在するだけだった。 「この扉の向こうが当船の甲板――つまり外の世界となります。トラモイル線の影響下となり ますので、身体の安全を確実に保障する事は出来ません。現在時刻は午前十時三分二十五秒。 北北東の方角に、かつての都市部を確認する事が出来るでしょう」  ……この扉の向こうに。  真実が。  ここまで来て躊躇うのはオレの性に合わなかった。  オレは仰々しい金属の扉に手を掛けると、思い切り力を入れてその封印を押し開いた。  目の前には、どこまでも赤い世界が広がっていた。  一瞬、これは夕方の景色なのだろうと思った。セリルは午前十時だなどと言っていたが、幾 らなんでもそんな時刻である筈がない。夕焼けか、少なくともこれは朝焼けの風景の筈だとオ レは思った。  だが、太陽は確かに遥か上空に存在した。セリルの示した時刻は間違いなく合っているのだ。  ではこの一面の染まった朱色は一体何なのだろう。  遥か遠くに見える都市――いや、かつては大都市だったのだろうと思われるそれは、見事な までに崩壊し、その下部を海水に浸されていた。打ち寄せる波が、崩れたビルのコンクリート を無残に濡らしている。人影は、微塵も見当たらない。  ……それは、多分心のどこかで知っていた光景。  知っていて――それでも決して認めたくはなかった光景。  聞こえるのは、ただ、波の音。そして、どこからか聞こえるこの船のエンジン音のみ。  その眺めは、まさにセリルの言った通り、崩壊した世界以外の何物でもなかった。  オレはただ呆然とその景色を見続けていた。  ただ、呆然と。  ――ほんの少しだけ、耳鳴りがした。    船内に戻ると、入り口で待機していたのであろうセリルは相変わらず表情を変えずに平然と。 「どうでしたか?如月夕夜様」  そんな事を、聞いてきた。 「……何とも言えん。ただ、少なくとも世界はかなりの確率で滅びてた。それだけは、この目 で確認したよ」  オレは正直な所を答える。 「やはり貴方様は動揺が少ないですね。良い傾向です。今の所、トラモイル線による影響の悪 化も見られないようですし……、納得して頂けた所で中枢部に戻りましょう。そこで、本題に 入らせて頂こうと思います」  中枢部に戻る途中、倫から受け取った端末を確認してみると、彼女からのメールは届いてい なかった。  倫に最後にメールを送ってから、一時間は経っただろうか。単に電波の状況が悪いだけの可 能性もあるが、すぐに返事が返ってこないのは几帳面な彼女らしくないと思えた。もしかする と、何かあったのかもしれない。  急激に嫌な予感が頭を掠める。セリルから明かされた真実に頭が一杯でそこまで考えている 余裕はなかったが、もしかすると風紀委員会が彼女達に何らかの手を出した可能性も否定出来 ない。  オレは僅かに躊躇したが、すぐに頭を上げるとセリルに一つの質問をしてみた。 「なあ、セリル。オレ達――如月夕夜と円城寺良華が、現在、殺人とその逃亡補助の容疑で学 園から追われている事については知っているか?」  「知っています。高等部の瓜川孝様、そして初等部の詩野倫様に霧沢美紀様もその協力をして いましたね」 「……そこまで知ってたのか」  学園全体を統括するコンピュータなのだからある程度予想はしていたが、セリルの情報収集 能力にオレは素直に驚愕する。 「この学園の事で、我に分からない事はほとんどありません」 「……もしかして、その情報は既に学園側にも伝わっているのか?」 「いえ、風紀委員会に許可されている情報開示レベルは、Bクラスに留まっています。我と全 く同じ情報を風紀委員会が持っている訳ではありません――しかし、委員会は現在独自の判断 で、瓜川孝様、詩野倫様、霧沢美紀様の三名への拘束を既に完了しています」 …………………………。  ちょっと待て。 「本日の午前九時三十九分十九秒、風紀委員長・喜島薫様の命令により、風紀委員、並びに学 園用端末による、ショップ瓜川、生徒会エリア情報処理室、並びに初等部居住エリアへの強制 捜査が行われました。その際に、瓜川孝様、詩野倫様、霧沢美紀様、計三名様の身柄を拘束。 彼らには現在、如月夕夜様及び円城寺良華様の逃亡扶助の疑いが持たれています」  ちょっと待て……!どうして。どうして美紀ちゃんまで。 「この命令の実行前、午前八時五十二分一秒。高等部玄関前広場にて、小倉瑞希様と喜島薫様 による口論の様子が防犯カメラのデータより確認されています。端的に説明しますと、如月夕 夜様と小倉瑞希様による密談の様子を、喜島様は偶然にも目撃されておりました。その後、喜 島様が小倉様に、先日依頼したスパイの件について問い質された所――小倉様はそれを拒否し、 学園内を逃亡。喜島様は、どうやら大変に興奮されていた模様です」  あの時の事を、喜島が目撃していた、だって……!?  何てこった。  あいつにしてみれば、瑞希はスパイをしてくれる大切な部下だったと言って良いだろう。  オレとの会話で結果的に瑞希はそれを止める事にした訳だが、もしその事を喜島が知ったな ら、ヤツがどういった反応をするかは比較的容易に想像が付いた。  それに、あいつはオレ達が地下に潜っているという事実も知ったのだ。  おそらくは、その侵入経路を知る為に――必要以上の強硬手段に訴えたに違いなかった。  くそ、完全にオレのミスだ。 「我が貴方様にお願いしたいというのはそこなのです。ご存知かと思いますが、現在学園全体 の運営に対して、我のシステムは一部に不具合を生じています。長期使用による端末のメンテ ナンスには限界があり、どこかで人間の手を借りなければ、学園全体の運営システムに破綻を きたしてしまいます。そして、現在最も危惧すべき不具合が、我――メインコンピュータによ る、人的問題に対する判断基準の精度なのです」  セリルは更に言葉を続ける。 「学園内で起こる様々な問題に対して、我はそれを沈静化するべく多くの対処を行ってきまし た。しかし、それらの活動にも関わらず、近年は予想通りの結果が出ない――いえ、むしろ数 値的には、微妙にですが悪化しているケースが多く見られ始めてきたのです。その事実に関し てシステムの不具合が影響している可能性を、我は否定する事が出来ませんでした」  ――確かに、最近学園内のシステムに不具合が多くなっているという話は、オレも少しは聞 いている。  そして、学内で起こる事件に対する教師達の対応についても、それ程褒められた内容ではな かったのは事実だろう。 「その問題を解決する為に、我は学園内の特定の一個人――これまでのデータから判断して、 最も倫理的観念が高く、最も正義感に溢れた人物をリストより選出し、その人物に学園内の活 動に対する判断の一部を担って貰う事にしたのです。それが……」  ちょっと待て。  何だか、段々と話が分かってきたぞ。 「――そうして我が選んだ人物が、現・風紀委員長である喜島薫様でした」  やっぱりか。 「しかしながら、喜島様に判断の一部を譲渡してからは比較的大した問題も起こらず、その効 果の実証が得られないまま時は過ぎていきました。……しかし、先日起こった円城寺良華様の 事件に対し、喜島様は非常に優秀且つ精力的な活動を見せてくれたのです。それは人工知能で ある我には決して出来ない判断で、我は、かの人物を選んだ事が決して間違いではなかった事 を確信し、更なる判断権利を譲渡する事さえ検討しました」  ……確かに、コンピュータには絶対実行出来ないような無茶苦茶をやっていたような気はす るが。とはいえ倫理観や正義感については、確かにあいつはこの学園でもトップレベルの人材 だろう。  ……ただ、それは冷静に判断している時だけの話。興奮すると前後の見境がなくなるという 事実については、どうやらセリルのデータの規定外らしい。  いや――それとも、それがシステムの不具合によるものなのだろうか。 「――しかし。少しずつですが喜島様の行動がおかしくなり始めたのです。校則違反ではあり ますが、精神衛生上必要だと判断し、放置していたショップ瓜川に対する強制捜査、その他、 倫理的観念に反する様々な活動……。あまりにも常軌を逸している為、我はその活動をこのま ま放置しておく訳には行きませんでした。そこで――」  セリルはオレの方に顔を向けると。 「我でもなく、また喜島様でもない、第三の判断基準を持つであろう人物に――現状に対する 判断と、その情報提供をお願いする事にしたのです」  …………………………。  成る程、そう話が繋がるのか。 「貴方様はかつて喜島様と真っ向から対立し、明らかに彼とは異なる視点を持っています。そ れ故、そこから得られる判断基準は、現在の我にとって大いに有用性があると判断しました。 我としては、貴方からの意見も我の活動に対する重要な判断材料としたい」 「……待った。別にそれは構わんのだが、ちゃんとした話はせめて中枢にたどり着いてからに してくれないか。少し、内容を整理する時間が欲しい」 「ええ、我もそう思っていたのですが――現状だと、中枢にたどり着いてからでは更に話がや やこしくなる可能性があります」 「?それは……どういう意味だ?」 「現在、中枢部に喜島薫様、並びに喜島様に拘束された円城寺良華様がいらっしゃいます。喜 島様は、一時代前に使われていた火器を所持しておりますので、そこで思考を整理するのはな かなかに困難であるかと推測します」  セリルの言葉に、オレの思考は固まった。


 喜島薫と共に地下通路を進んだ先には、私が想像もしなかった巨大な空間が広がっていた。 「何だ……これは……、コンピュータ制御室か?まさか学園の地下にこんな場所が存在すると は」  どうやら喜島も、この地下にある思いがけない施設に驚きを隠せないようだ。  そういえば、倫が学園のメインコンピュータは地下にある可能性が高いと言っていた。ある いはここが彼女の言っていた場所なのかもしれない。  部屋の中は、壁全体が淡い光に包まれている。幻想的で、だが同時にとても未来的な空間だ。  喜島は相変わらず呆けたように辺りの様子を眺めている。逃げるなら、あるいは今がチャン スかもしれない。  その時、部屋の中央に突然無数の立体ウインドウが開かれた。  突然溢れた光のシャワーに、私は驚きを隠せない。しまった、今なら逃げ出せたかもしれな いのに、明らかにタイミングを逸してしまった。  全てのウインドウの中に、見知らぬ金色の髪の女性が現れる。何だか、どこかで見たような 気がするのだがはっきりとは思い出せない。 「もしかして、貴様か……?私にこの学園のリーダーになって欲しいと耳打ちしてきた、あの、 人影は――」  話はさっぱり分からないが、どうやら喜島にはこの女性に何らかの見覚えがあるようだ。  ウインドウの女性が、口を開いた。 「こんにちわ、喜島薫様。初めまして――円城寺良華様。我は日本国所属・完全自立型災害救 助船『アズフォール号』。メインコンピュータのセリル・グランデと申します――」


 円城寺が、喜島に捕らえられた。  そして、喜島は拳銃で彼女を脅しながら、中枢部で先程オレが聞いたのとほとんど同じ説明 を受けているらしい。  それは、オレがまるで予想もしていなかった事態だった。 「我としては、喜島薫様、そして如月夕夜様が同等の判断材料を得られてから、今後の学園運 営方針について話し合われる事を望んでいます」  などとセリルは無茶苦茶な事を言う。 「いや、喜島は円城寺に銃を突きつけて脅しているんだろ……?その状態で、対等に話し合う 事なんて出来る訳ないと思うんだが」 「円城寺良華様の生死が、如月夕夜様の学園運営の判断に何か影響を及ぼすのでしょうか」  いや、何を言ってるんだお前。 「彼女が郷原丈邦を殺害した犯人である事は、我の知る限りの情報ではほぼ疑いの余地があり ません。勿論、当時の防犯システムに障害が発生していた為、明確な証拠はありませんが―― 状況から判断して、彼女が犯人である事はほぼ間違いのない事実であると我は判断しています」  まあ、実際、円城寺が犯人なんだからセリルがそう判断するのも無理はない。  だが確か、倫が、円城寺の無実を立証する為の証拠を提出したのではなかっただろうか。 「いえ……、そういった情報を我は得ておりません。詩野倫様が、喜島様と風紀委員会個室で 会話をしていたのは知っていますが――喜島薫様の命令により、あの場所における情報を我は 完全にシャットアウトする事になっております」  おいおい……、肝心な所で役に立たないコンピュータだな。 「いずれにせよ、現時点で彼女が犯人である可能性が濃厚である以上、我は彼女の安否に関し ては一切関知するつもりはありません。学園にとって有害であると判断した異分子は、表向き 退学の措置を取った後、外世界に排出する事になっています」  …………………………。  ちょっと待て。 「学園内の全ての生徒には一定の倫理ポイントが割り振られています。それらが規定数値以下 になった者は、基本的に反省室にて学園への復帰を促す事となりますが……ポイントが0とな った生徒については隔離措置を取り、新たに外部世界で発見された要救助者と、入れ替わりに 排出される事となります」  それはつまり。  このままでは、円城寺が。 「従って現状、我は円城寺良華様の生死に関知するつもりは一切ありません。喜島様の拳銃所 持についても、本来ならば倫理規定違反ではありますが――中枢部で尋ねた所、凶悪犯相手に この程度の装備は当然必要であるべきだと一笑に付され、我としては反論の余地がありません でした。話し合いの場においては、如月夕夜様に対する安全措置は、勿論取らせて頂きますが ――」  そこでセリルは、一旦言葉の間を置いてから。 「不服でしょうか?」 「当たり前だ……オレが円城寺に協力してたのはお前だって知ってるだろう。それを、死んで も構わないなんて言われて、平静で居られる訳がないだろうが!」  セリルは再び間隔を開いてから。 「――申し訳ありません。ただ、我は学園全体の安全を考え、その為だけに活動しています。 プログラム外の感情論につきましては、正直な所苦手なのです」  実際、確かにそうなのだろう。  だが、だからといって円城寺の事をこのまま見過ごして良い筈がない。 「ただ、もし彼女の無実が証明されたなら話は別です。その場合、円城寺良華様も当然学園の 生徒としての権利を認められた事となりますから、我はあらゆる手段を駆使して彼女の身の安 全を守る事になるでしょう」  …………………………。  そういう事か。  つまりは、オレ達による円城寺良華・無罪の主張、及び風紀委員会による理不尽な行為に対 する非難。  喜島による円城寺良華・有罪の主張、及び風紀委員会活動の正当性に対する証明。  それらに、今ここで決着を付けろという事か。 「……分かった。とにかく、喜島と話し合わなければどうしようもないって事だな」 「その通りです、如月夕夜様。お互いにとって有益な話し合いが行われる事を、我としても期 待しています」


 中空に映し出されたウインドウは、次々と学園の真実を語っていく。  信じられないという思いがある一方で、ああ、やはりそうだったのかとどこか納得している 自分が存在する事は否めない。  人が、いつか必ず息絶える存在であると分かっていながら、その瞬間までそれを信じられず にいる――これは、そんな感覚に似ているように私には思えた。  ウインドウはいつの間にか、語っている言葉をそのまま文字情報としても表現するようにな っていた。視覚と聴覚、両方で理解して貰おうという事だろうか。  時々、思い出したように小さなチャイムの音がピンポンと鳴った。メインコンピュータの活 動に付随する何かしら必要な信号なのだろうか。続けて三回、間を空けて一回。時々妙なリズ ムが含まれている。  喜島薫は、話を聞きながらも拳銃を持つ手を緩めない。


 中枢部の映像から全ての説明を聞き終わり、喜島がオレを呼び出したのはそれから十分後の 事だった。  こういう場面で時間を急くのが、いかにも喜島薫らしい。  オレがセリルと共に重い足取りで地下中枢部に戻ってくると、彼女の言っていた通り、そこ には喜島薫、そして喜島に拳銃を突きつけられ、不安げにこちらを見つめている円城寺の姿が あった。 「如月くん……!」  円城寺は悲痛な叫びでオレに助けを訴えてくる。だが、その背後の喜島は相変わらず無言の ままだ。しかも、薄く哂っている。 「やあ……如月君、まさか君と、こんな場所で再会出来るとは思ってもいなかったよ」  それは、こちらも同じ事だ。  喜島と円城寺はこの広い中枢部のほぼ中央に位置している。たった今、外部通路から入って きたオレとの距離は目算で約六〜七メートル。それ程遠い訳ではないが、円城寺を助けるには 決して近くはない距離だ。 「喜島……、セリルからおおよその話は聞いているな?お前との話し合いとやらには応じよう。 だから、円城寺から銃を離して彼女をこちらに渡してくれ」 「私がそんな要求に応じると思うのか?円城寺良華はこれでも殺人犯だ――私が彼女を解放し て、一体誰が私の身の安全を保証してくれるというのだね?私が拳銃を離した次の瞬間、彼女 が拳銃を奪い、私を撃ち殺す可能性は決して否定出来ないだろう?」 「確かに……喜島様の身の安全の事を思えば、凶器所持による対外圧力は対処法として非常に 効果的な物だと判断されます」  そこ、外野うるさい。 「だが、お前のこれまでの行動の事を思えば、いざという時にお前が彼女を人質に取り、自分 に優位な方向に話を進める可能性は否定出来ない」 「ふふ……それは私の事を随分と誤解しているよ、如月夕夜。私が彼女に銃を突きつけている のは、犯人の護送と私の身の安全の保証、ただそれだけの目的に絞られた物だ。無意味に他人 を傷付ける事は、決して私の望む所ではない」  そう言って喜島は確かに壊れた笑みを浮かべる。 「話が堂々巡りだな……。そもそも、円城寺が殺人犯だという事実が誤解なんだ。倫……詩野 倫が、お前の所に証拠の映像データを持っていった筈だろう」 「ああ、あれの事か……。確かに彼女が持ってきたデータは存在したが、あまりにも下らない 内容だったので私が独断で破棄したまでだ。学園側に報告する必要性さえ感じなかった」 「……どんなに些細な内容であっても、報告の義務くらいはあるだろう。しかも、それは円城 寺の無実を証明していたデータなんだぞ?お前が勝手に処分して良い物じゃない!」  オレは、喜島に向かって吼えた。 「そうかね?……私はメインコンピュータに、この学園における事件に対して、唯一私見で判 断を下せる権限を与えられた人間なのだ。その私の判断の、一体どこが間違っていると?」 「大間違いだね。……この世に、常に正しい判断を下せる人間なんていやしない。お前が自分 の判断を絶対的な物だと確信している限り――そんな物は、絶対に間違っているんだ」  会話の端からセリルが横槍を入れてくる。 「――確かに、常に正しい判断を下せる人間というのはこの世の存在として有り得ません。し かし、我が喜島様に与えた権限はまさしくそういう物なのですから――その判断に対して、我 から文句を付ける事は出来ません。その役割は、現時点では如月様の領分となります」  ああ、そりゃ、解説どうも。 「そもそも、セリルから話は聞いているだろう。オレ達は――いや、この学園の生徒全員は、 トラモイル線の影響によって精神の一部に異常をきたしているんだ。オレも、円城寺も……、 そして、お前もだ。セリルだって、長年の酷使で判断基準が徐々に怪しくなってきている。だ からこそ、互いに補い合わなきゃいけないんじゃないのか?」 「ふん……、貴様らのような狂人どもと一緒にするな。トラモイル線などとはいうが、それを 浴びた全ての人間が異常を発している訳でもあるまい。私は例外的にその影響を免れた人間な のだよ。だから、貴様らの判断など、必要がない」  いや、お前は特に影響されてる方だと思うぞ。  そこで、セリルは再びオレ達の会話に割り込んでくる。 「いえ、喜島様も、学園のほぼ全ての人間も――現状、間違いなくトラモイル線による影響を 受けています。ただ例外なのは、如月夕夜様、それに円城寺良華様――この二人だけは例外的 に、トラモイル線を浴びる前から既に精神に異常をきたしていたのです」  ――本当に何でもない事のように。  セリルはそんな重要な事を。  当たり前のように言葉に出した。  確かにあの過去の出来事は、オレの中でも確かな記憶としてこの頭の中に残っている。  おそらく、円城寺の過去についても同様だろう。  だからだろうか。  学園の生徒達の持つ様々な奇癖が、トラモイル線の影響による物だと判明した時。  オレは、確かに――妙な安心感を覚えたのだ。  ああ、この奇癖の原因は自分ではないのだ。あくまでも未知の放射線が、世界の全ての人々 に等しく起こした出来事なのだ――。  だがそれは欺瞞だった。  宇宙災害も世界の危機も関係なしに――オレの異常は、最初からただそこにあったのだから。  そして、円城寺良華の異常も。  それは、この学園の皆と同じようでいて、だが明らかに違う異分子。  だから、オレはほんの僅かだが呆然と。  その場に――立ち尽くしてしまったのだ。  喜島は、哂っていた。  ――ただ、愉快そうに哂っていた。 「ほら見ろ――ほら見ろ!結局、おかしかったのは貴様達の方なのだ。私だけが正常だ。この 学園で、この、私だけがな……!」  喜島はただ哂っている。  哂いながら、円城寺の背中に拳銃を突き付けている。  ……まずい、このままだと……円城寺が。  その、次の瞬間。 「――それじゃあ、貴方はどうしてここに一人で居るの?喜島――薫さん」  今まで黙っていた円城寺良華の軽やかな声が、この地下の中枢部に響くと――喜島は、まる で魔法の言葉をかけられたかのように――動きを、停止した。  そういえばどうして今まで気付かなかったのだろう。  円城寺を助ける事ばかりを考えて、喜島の事情など考える由もなかったが……、確かに、喜 島が一人でこんな所までやってくるなどという行動はおかしいのだ。  倫や瓜川達を拘束し、地下への進入ルートを知る事が出来れば、喜島薫という男ならば―― まず間違いなく、部下か、もしくは教師達を利用して地下の一斉探索を命令する筈なのだ。  オレが僅かにその奇妙な謎に頭を悩ませていると、その回答は実に意外な人物から語られた。 「喜島薫様が――瓜川孝様以下三名を拘束する時、その実行は非常に困難な物であったようで す。更に、捕らえられた詩野倫様による風紀委員会の現状に対する様々な指摘は、喜島様を大 変に激昂させまして――風紀委員以下、学園側の人間の士気を挫くのにはそれは十分な内容で した」  …………………………。  つまり。  倫の指摘で、例によって喜島は簡単にその感情を爆発させ。  瓜川達に対する大捕り物の場で、風紀委員達にその本性を曝け出してしまったという事か。 「その為か、風紀委員様方はその後の喜島様の言動に対し、非常に消極的な態度を見せるよう になってしまいまして……、地下への探索を尻込みしてしまったのです。また、教師端末に関 しては、地下への進入はエリア外となっていましたので――やはり探索の実行は不可能でした」  という事は。  今、目の前に居る喜島薫は。  誰の助けも得られないまま己の使命を全うする為――一人で地下探索にやって来ざるを得な かったという訳か。  一瞬の沈黙の後、喜島はゆっくりと頭を上げると。 「ふん……、私の命令を誰一人聞かなかったからといって、私の判断が間違っているという事 にはならないだろう。真に優れた者による、先を見通した判断ほど――凡人が理解するのは、 遥か後になってからのみ可能なのだよ」  喜島は、微塵も自身を疑っていない声でそう答えた。  こいつは、やはり――。  ――どこまでも喜島薫だ。 「喜島様の発言にも一理あります。現に、円城寺良華様を捕らえ、如月様への説得作業も果敢 に行われている。喜島様の行動によって事態が収集する可能性は、決してゼロではありません」  セリルはそんな、明らかにズレた言葉を返した。  確かにそれも一つの考え方であるのかもしれない。  だが――。 「喜島――正常と、異常の違いについて考えた事はあるか?」  オレがそう喜島に尋ねると、喜島は怪訝な表情をして。 「……?何をおかしな事を……。決まっている。私が正常で、そして貴様らが――私を除いた この学園の全てが――異常、だよ」  喜島は、そうはっきりと答えた。 「……そうか。オレは、そうは思わない。オレはずっと、この学園の外に出たかった。外にさ え出られれば、この閉鎖された学園から――この異常な学園から、開放されると思っていた。 でも、それは違ったんだ」  喜島はオレの台詞に怪訝そうな顔をする。 「学園の外は、とっくの昔に崩壊していて――正しいとか、間違っているとか、そんな概念す ら既に存在しなかった。外か内とかは関係なくて、世界はもう、ここにしか存在しなかったん だよ」  オレは、溢れ出す想いの赴くままに言葉を告げる。 「ここが世界、オレ達の居るここが全て……ならば、正しい事はどこにある?この学園には歪 んだ人間しか存在しないかもしれないけれど――ここでは、それが正常なんだ。壊れている事 が、正常。だって、もうそれしか存在しないんだから」  喜島は、黙ってオレの言葉を聞いている。 「滅びる前の世界で……正しい事っていうのは一体何だったろうな?いつの時代であっても、 いつの世界であったとしても……大多数の人間が支持する内容が正しい事、それ以外が間違っ ている事で……。それは。後の時代から見れば歪んだ思想だったりもするけれど、それでも、 信じる事さえ出来ればそれが真実になったんだ。オレ達だって、後の世界から見れば間違って いる存在なのかもしれない、異常な存在なのかもしれない。自分が正しいと確信出来る存在な んて、いつの時代、どこの世界にだっていやしないんだ。だから――」  オレは、小さく深呼吸をしてから。 「――だから、迷う事に意味がある。迷って迷って、答えを出して、そうやってオレ達は生き 続けるしかないんだ。正しい事なんてどこにも存在しないだろう、この世界を……」  円城寺の方に目を向けて、オレは力強くそう告げた。 「お前が間違ってるとは言わないさ、喜島。ただ……円城寺は、返して貰う」 「――長々と演説を開始して、一体何を言うかと思ったら……」  喜島はあからさまに呆れた顔で溜め息を付くと。 「下らん。中身のない話を語っても、せいぜい時間稼ぎくらいにしか……」  そこで、喜島はふと言葉を止める。 「時間稼ぎ……?もしかして如月、貴様」  まずい――!  喜島は何かに気付いたようにセリルの方に顔を向けると。 「セリル・グランデ。質問がある。もしや如月夕夜は、お前を通して学園の誰かに連絡を取っ たりはしなかったか?」 喜島はセリルにそう問い掛ける。  オレ個人としては、何としてもセリルにその返答を拒否して貰いたい所だったが、今の所、 彼女は完全に中立の立場だ。オレたちに対して公平に情報を与える義務がある。 「ええ。確かに先程、如月夕夜様は私を通して学園に居る小倉瑞希様に連絡を取り――円城寺 良華様の無実を証明する、その映像データを物理的に私の手元に送って欲しいと、そう、依頼 されました」  くそ、しまった――!  オレが中枢部にたどり着く前、円城寺を助ける為に考えた作戦がつまりはこれだった。  現在、学園内を逃亡中の瑞希に頼んで、円城寺の無実の証拠を提出して貰う事――。  喜島がデータを抹消したとはいえ、円城寺の無実を証明する為の元データは、生徒会エリア 情報処理室にそのまま残っている。  ねつ造データである故に、セリルには直接アクセス出来ないよう倫が細工を施してあるらし いのだが、それさえ物理的にセリルの元に届ける事が出来れば――事態は完全に逆転するのだ。  その為に時間ギリギリまで粘るつもりだったのだが、途中で喜島からの呼び出しを受けた為、 どうしても何らかの方法で時間を稼ぐ必要があった。  だが――。 「……残念だったな、如月夕夜。私を引っ掛けるつもりだったのだろうが――」  そう言って、喜島は引きつった笑みを浮かべると。 「セリル・グランデ。ただちに風紀委員に命令して小倉瑞希を拘束させろ。罪状は、そうだな ……公務執行妨害だ」  セリルが拒否する事をほんの少しだけ期待したが、しかし風紀委員の権限を持つ者が瑞希を 公務執行妨害だと断定したのだ。セリルにそれを拒否する事は出来ない。 「了解しました」  畜生――!  喜島のヤツは哂っている。本当に、嬉しそうに。  まずい、このままでは本当に円城寺が。  何とか彼女だけでも逃がせないものかと考えたが、銃口は相変わらず油断なく、円城寺に向 けられている。彼女が隙を突いて逃げる事さえ不可能だろう。  仮にオレが喜島に向かって行ったとしても、おそらく結果は同じだった。  ――絶望的だ。  まさにオレがそう思った時。 「お待ち下さい」  そこにセリルが。  至極、平然と――待ったを掛けた。 「風紀委員が捜索を始めるよりも前に小倉瑞希様がお持ちになった、指定の映像データの分析 がたった今完了しました。そしてその検証の結果……円城寺良華様の、無実が証明されました」  …………………………。  まさしくそれはギリギリだった。  円城寺は、ぽかんとセリルの報告を聞いている。  そして喜島は……ただただ呆然とした顔をしていた。 「よって、円城寺良華様の安全を保障するべく、我は喜島様に円城寺様の開放措置を要求しま す。既に、瓜川孝様、詩野倫様、霧沢美紀様の身柄は教師端末の手によって解放させて頂きま した。彼らの行動の正当性が、認められたのが理由となります」  セリルは、淡々と無慈悲に。 「――そして、今度は喜島様の主張が単なる危険行為であった事を認めなければなりません。 円城寺様の倫理ポイントは規定値まで回復しましたが、喜島様の倫理ポイントは――」  喜島の目が驚愕で見開かれる。 「現在、0ポイント。我は現在、喜島様の安全を保障する理由がありません。ただちに円城寺 良華様の開放を要求します」 「馬鹿な……!」  セリルのその発言に、円城寺に対する喜島の注意が一瞬だけ逸れた。今だ! 「円城寺!行くぞ!」  オレのその言葉を聞いて、円城寺はしっかりと固く目を閉じる。  次の瞬間、中空にある無数のウインドウから最大量の閃光が放たれ……部屋全体が白い光で 包まれた。 「があっ!?」  まともに目を開けていた喜島はひとたまりもない。  セリルから、中枢部に喜島たちが居るという情報を聞いてから……。オレは、瑞希に頼んだ 物とは別に、もう一つのとある作戦を立てていた。  円城寺の無実が証明されたなら――タイミングを見計らって、喜島の武装を無力化する事、 そして、その内容を何とかして円城寺に伝える事だ。  ショップ瓜川の合図については、既に彼女は知っている筈だ。ならば、それを利用して円城 寺にだけ連絡をする事は不可能ではない。  オレはセリルに頼んで、喜島達が見ている立体ウインドウに、文字情報と、それに付随する 音声による合図を盛り込んで貰った。  最初に三回、間を空けて一回。そのタイミング。  それさえ知っていれば、その文字情報から、オレの言いたい事が円城寺に伝わるような…… そんな、内容を。  どうやら円城寺には上手く伝わってくれたらしい。  喜島が閃光にたまらず顔を抑え、地面の上に這い蹲ると、円城寺はすかさずその場から脱兎 の如く逃走を試みる。  閃光の影響で思わず喜島が手放した拳銃が、カラカラと音を立てて金属製の床を滑って行っ た。  円城寺はどんどん喜島から離れていく。オレは、拳銃を奪うべく全力で歩を進めて行く。 「……!舐めるなあっ!」  喜島はまだ目が見えていないようだが、それでも音のする方向に向かってよろよろとだが駆 け出してきた。  オレが拳銃を手にした次の瞬間、喜島はオレの背後から踊りかかってくる。 「貴様ら……許さん、許さんぞっ!」  喜島は全力で目を見開きながら、オレに襲い掛かってきた。  まだ、目は見えていない筈だ……だがそれでも、ヤツの動きは異常だった。 「お止め下さい喜島様、これ以上の抵抗は、更に立場を悪くする事となります」  セリルはそんな事を言いながらオレ達の所に駆け寄ってくる。だが、そんな言葉で喜島が止 まる筈もない。  円城寺は、ただ遠くからオレ達の事を見守っている。  喜島の必死さが想像以上だったのか、あるいは、この状況でも恐怖を感じないオレの態度が まずかったのか……、圧倒的な力で喜島に拳銃をもぎ取られた時には、既にヤツの目は回復し、 そして。 「……死ねえっ!私に逆らう者は、どいつもこいつも皆死んでしまえ!」  喜島が手に握った拳銃の弾丸が、オレに向かって放たれる。  耳を劈くような轟音が、響いた。  セリルはオレと喜島の間に咄嗟に割り込み。  喜島の放った銃弾はその金属の体にはじかれると。  ――軌道を変えて、見事にオレの体に命中した。


 何が起こったかは、実は良く見ていなかった。  ただ、如月くんと喜島が銃を奪い合い揉み合っていた事、そこにセリルが割り込んで行った 事。  そこまでは分かる。  ただ、そこでどうして如月くんが倒れるんだろう。  どうして――如月くんが腹部から血を流し、地面に倒れ伏しているんだろう。  私の頭がそれを理解するのに、数秒間を費やした。 「――申し訳ありません。如月様をかばったつもりだったのですが――」  セリルが、良く分からない言葉を言った。  喜島薫は呆然としたまま突っ立っている。喜島は拳銃を持ったまま体を震わせると、少しず つ、本当に少しずつ大きな声で哂い始めた。 「はは……はははははは!残念だったな。如月夕夜!この私を陥れる為に、様々な工作を仕掛 けていたようだが……それも全て、これで終わりだ!終わるのは貴様だ!死ぬのは、貴様の方 なんだ!」  喜島は、そこでようやく私に理解出来る言葉を言った。  そうか……。  如月くんを傷付けたのは、如月くんの中身を銃で撃ち、傷付けたのは……。  ――お前か。  私は、喜島薫に一歩近付く。 「――綺麗な内臓の持ち主だったのに」  更に一歩。 「彼は、あんなにも素晴らしい中身を持っていたのに」  更に。 「貴方が打ち壊したのね……。喜島薫」  そこで、喜島はようやく私の存在に気付いたかのように。 「動くな。……セリルもだ」  ピストルの銃口を、こちらに向けた。 「ふん……内臓?中身?やはり貴様は、いや、貴様らは――異常な存在に変わりはないな。人 の中身がそんな大切か?好奇心が疼いてしょうがないのか?だったら――」  喜島は、壊れたような笑みを浮かべて。 「自分の中身でも――確認してみたらどうだ」  それは……私にとって最後の一線。  最後の理性を絶った言葉。  私は喜島に対して、自分に出来る最高の笑みを浮かべると。 「だったら――見てみる?――喜島薫」  私は、ポケットに入れていたメスをゆっくりと取り出すと。  それを自分の方に向けて。  少しずつ、制服の腹部を切り裂き。  そして――自らの腹部も切り開いた。  喜島は、棒のように立ち尽くしている。  その目は、まるで皿のように……丸く。 「……私にこの衝動が訪れた時……、最初に興味を持ったのは、誰でもない、貴方の言った通 り……自分の中身に対してだった。だから私は……躊躇せず、体を切り開き、その中身を一つ 一つ手に取り……観察したの」  私が一つ知った事は、例え内臓が多少なくなった所で……案外、人間生きていられるものだ という事だった。  それは、まるで宝石のように美しかった。  暖かかった。僅かの間なら、確かに脈打っているようにさえ感じた。  私は――満足だったのだ。  そこに、私の両親がやってこなければ、多分私はそのまま緩やかに、満足したまま命尽きて いたのだろう。  だが、現代医学は優秀だった。  私の両親は、その持てる私財を投げ打ち、私が失った中身の代わりに、最高水準の人工臓器 を――埋め込んだのだ。  私は、生きながらえた。  外部からの電力供給が必要な為、私の中身は一週間以上放置されたままでいるとその活動を 停止してしまう。  だから、私はこの学園で生徒会役員となったのだ。  この学園にも存在したその電力供給装置は、その高機能さ故、使用するのにとてつもなく高 額の費用がかかる。  そうしなければ、私は生きていけなかった。  ――生きていけなかったのだ。 「ば……化け物……!」  喜島は、怯えた様子で私から目を離せないでいる。  その言葉も、今はただ懐かしい。  私の腹部の傷から覗く、鈍く輝く銀色の光。  それらは、私の中に残った内臓たちと絡み合い、うねり、活動する。  私は足を一歩進める。  喜島は慌てたように拳銃を構えると、迷う事なく私に向けて――発砲した。  残念、外れ。  私はまた足を一歩進める。  喜島はまた、銃を撃つ。  一発。  二発。  三発……。  そして、最後の弾丸を撃ち終えた。  全て外れだ。 「私は、私の中身を見た。貴方の言った通りにね。だから」  私は、歩みながら喜島の目を射るように見つめると。 「次は……貴方の内臓を、見せて貰えないかしら――?」  そんな一言を、口に出した。  喜島は。  「ひっ」と小さく言葉を上げると、腰を抜かしたように倒れこんだ。  その姿勢のまま、少しずつ後ずさっていく。  そうして這うようにして背を向けると、喜島薫は慌ててこの場から逃げ出して行った。  あれは、船の外に脱出する方向だっただろうか。 「……大丈夫でしょうか、円城寺良華様。腹部の傷に関しては、今すぐにでも治療可能ですが」 新たなウインドウが開かれ、セリルがそんな言葉を告げてくる。 「いえ、大丈夫よ。私は自分の体のどこを、どうやって切れば出血を少なくする事が出来るか ……それを体験で知っている。これくらいは、自分で縫合――」  そうだ。忘れてた、如月くん。 「如月くんは大丈夫なの!?」 「現在、零号端末が容態の確認と応急手当に当たっています。重症ではありますが……現時点 では命に別状はありません。ただし、緊急の手術が必要となります。今すぐにでも治療を開始 しなければ、手遅れになる可能性があります」  セリルのその言葉に、私はすぐに如月くんの元に駆け寄る。  私のお腹の肉が歪んで、少しだけ血が滲み出て来た。こっちも早めに治療しておかないとい けない。  如月くんは息も絶え絶えに、しかし、笑みを絶やさず私を迎えると。 「……見てたよ、円城寺。喜島の内臓まで見たがるとはな……、何だろう、これは浮気ってい うのか?」 「あまり喋らないで。これは、今すぐ手術をすれば十分に助かる程度の傷だわ。だから、大丈 夫……如月くんは、死なない」 「いや、まあ、死ぬとか怖いとか、そういう事は思ってはないんだけどな……、ただ、ひたす ら、痛いぞ、これは」 「うん、分かる、分かってる……それは。私だって、似たような経験があるもの」  自分の外側が傷付けられるより。  自分の中身が傷付けられる方が……痛い。  外と内に、明確な違いがなかったとしても。  やはり、中身の方が……守られてる分、多少はデリケートに出来ているのだ。  だから、多分私は興味を持ったのだと思う。  人の、隠されたその部分。――内側という、そのものに。 「緊急用の担架をお持ちしました。通路の奥に手術室がありますので、ただちにそちらまでお 運び致します。円城寺様にも、出来れば手伝って頂けると助かります」  緊急用の担架を持ちながら、セリルがそんな事を言ってきた。 「え?手伝うって……、わ、私が?何を?」 「現在、システムの一部不具合により、手術プログラムの動作に不確定要素が混じっています。 その部分の手術を、貴方には担当して頂きたい」 「えっ!?で、でも私、手術なんて……」 「指示は私の方で行います。貴方はメスを使い慣れているようですし……大丈夫、それほど難 しい箇所ではありません」  いや、それもあるんだけど。  一番問題なのはそういう事じゃなくて、つまり……。 「……私が如月くんの内臓に、何かしちゃう可能性は否定出来ないと思うんだけど……」  それは、私自身が最も強くそう思う事だ。  私が現在、最も興味を持っている異性の、その内臓。  その手術なんて担当したら、どこで理性がぶっ飛んでしまうか自分でも分かった物ではない。  私がそう言うと、如月くんは息を吐きながら。 「大丈夫だよ……、任せる、円城寺。どの道放っておいたら死んでしまうかもしれないのなら、 お前がそうしたければ、それはそれで――悪く、ないんじゃないかと今は思ってるよ」  如月くんは、そんな事を言ってくれる。 「……ま、銃弾で傷付けられた内臓なんかに、円城寺良華は興味を持ってくれないかもしれな いけどな」 「……そんな事ないよ、例え傷付いても、如月くんは……如月くんだもの」 「それでは、手術室まで運びましょう。円城寺様、お願い致します」  セリルは随分なタイミングで私達の会話に横槍を入れてくる。 「ああ、そうそう……そういえばその後の喜島様についてなのですが」  ああ、そういえばあいつはどうなったんだろう。 「船外への脱出をひどく切望されていらっしゃいましたので、要望通りに船外に排出。後に…… どうやら海に飛び込まれたようですね。トラモイル線を直接浴びたのですから、無理のない話 かも知れません」  私達は無言でそれに答えると、手術室に向かって――歩み始めた。

何でもない日

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