◇四◇  私の起こした事件がおそらく学園中に知れ渡ってから、二日が経過した。  相変わらず、薄暗闇の部屋の中に私は閉じ篭っていたが、二日以上もそんな環境で過ごして いると、流石に少しはそんな生活にも慣れてくる。  今ではその闇の中で、霧沢さんと簡単な会話を楽しめる程度には順応していた。 (りんちゃんは、せいとかいではどんなふうにおしごとをしているの?)  彼女――霧沢美紀ちゃんは、本日十五回目の倫に関する質問をしてくる。  その様子から、彼女が本当に倫の事を好きなのだという想いが伝わってきた。 「うん、倫の生徒会での仕事はそれはもう凄いわよ。下手をすると、一日中生徒会エリアで仕 事をし続けかねないくらいの勢いだもの。学園全体のコンピュータメンテナンスなんて、この 学園じゃ多分倫にしか務まらないでしょうね」  私がそう話すと、美紀ちゃんは笑顔でそれに答える。  相変わらず長い髪に隠れて表情は見えないが、それでも何となく感情が分かる程度にはこの 娘の事が分かってきた。 (うん、りんちゃんはほんとうにすごいよ。りんちゃん、おへやにもどってくると、じぶんの さいとのこうしんも、まいにちかかさずやってるんだよ。わたし、りんちゃんのほうむぺえじ、 だいすき)  美紀ちゃんは、本当に嬉しそうにそう語る。  倫の運営しているサイトの事は私も知っている。学園のネット内では一、二を争う程の人気 サイトだ。  基本的にこの学園では、生徒一人一人が自分のサイトを持つ事を義務付けられている。  だが、それはあくまで入学当初の課題としてであって、その後もきちんと運営をし続けてい る人間というのは滅多に居ない。  ある意味では当然の事である。この学園には外部から入ってくる新たな情報などほとんど存 在しないのだから、サイト情報を更新しようにも、更新すべき内容がほとんどないのだ。  けれどもそんな中、倫のサイトはひときわ輝きを放っていた。  そのサイトは様々な詩や小説、CGイラストなど、いわゆる創作系の情報を中心に扱ってい るのだが、そこには情報が閉鎖された学園内でのそれとは思えぬ自由さと、そして豊かさがあ った。  かつて一度、倫に尋ねてみた事がある。  何故この閉鎖された学園の中で、これ程新しい物を生み出す事が出来るのかと。  彼女は答えた。 「世界が狭かろうと広かろうと、同じ事ですよ。要は、そこで自分が何をしたいかなのではあ りませんか?」  非常に倫らしい答えであったと思う。  美紀ちゃんは、いかに倫のサイトが素晴らしいかを熱く語っている。  私もほぼ同じ気持ちである為、自然と会話は白熱する。  いつの間にか、私は時間が経つのさえ忘れながらその暗闇でのお喋りに没頭していた。


 一昨日、喜島からの尋問を受けた後、オレは自分なりにこの事件――というより、円城寺の 行方について調べていた。  とはいえ、知り合いに円城寺を見なかったか尋ねて回った程度の事だ。  瑞希はオレのそんな行動を訝しんでいたが、円城寺の行方をはっきりさせておかないと、安 心出来ないというオレの説明でどうやら納得してくれたのだろう。オレの行動を止めるでもな く、むしろ積極的な協力を申し出てくれた。  瓜川にも、情報を集めて貰うよう頼んでおいた。  ショップ瓜川の人脈を駆使して集まる情報は、学園の表に流れるそれとは比べ物にならない 程に深く、そして広い。  だが、決して数が多くないとはいえ、学園の教師、そして風紀委員達が探し回っても未だま るで掴めない円城寺の行方である。  彼女の所在に関する情報は、依然何一つとして集まっていなかった。  それでも、円城寺の決して多いとは呼べない友人関係が幾つか判明した事は、それなりに収 穫だったと言えるだろう。  その内、高等部の友人については既に何人かを当たってみたが、彼女の行方を知る者は誰一 人としていなかった。  彼らの中に円城寺の行方を知る人間が居たなら、学園側が既に彼女を発見している筈なのだ から、当然といえば当然の話である。  まあ、もし彼らの中に彼女の行方を知る者が居たとしても、素直にそれを語ってくれるかど うかはまた別の話なのだが。  だがそれでも、今出来る事は全てやっておかないと気分が落ち着かなくてしょうがない。  今日の放課後には、初等部に居るという彼女の友人を当たってみるつもりだった。  彼女の名は詩野倫。  生徒会の中でも、円城寺と特に仲の良い少女という話である。  瑞希と顔を向かい合わせ、オレは昼休みの昼食を取る。  普段なら、オレは玄関前広場に出向いてドラマの内容を確認し、瑞希は友人達と食事をする 為、共に食事を取る事はほとんどない。  瑞希がオレと一緒に昼食を取るのは、いつも心に何かしら不安を抱えている時だ。 「あのさ、夕夜ちゃん……円城寺さんの事なんだけど」  瑞希は、缶詰に入ったパンを齧りながら、事件について話を始める。 「一昨日から皆がずっと探しているのに、彼女を見かけた人が未だにただの一人も居ないのっ て……、何だかおかしいと思わない?」  それは、薄々オレも感じていた事であった。  いかに円城寺が上手い隠れ場所を見つけたとしても、またいかに見事に逃亡したとしても、 学園の敷地は非常に限られた範囲なのだ。  教師や生徒、ただの一人にも見つからず、それを実行するのは非常に困難な事だと思えた。  だがそれは、円城寺が自分一人だけで逃亡していると仮定するならばの話だ。  もしも彼女を手助けしている人物が居るとするなら、その疑問は簡単に氷解してしまう。 「……彼女はもう学園の外に逃げ出したんじゃないかって、そんな噂が流れてるらしいの」  瑞希はオレの予想とは全く違った答えを返したが、それはそれで一つの可能性としてアリだ と思う。  だが、この学園の外に逃げ出すのがどれ程困難な事であるか、それを骨身に染みてよく分か っている人間としては、その考えには苦笑いをするしかない。  予想だが、多分喜島の奴は、生徒の中に協力者が居る程度の可能性は既に考え付いているだ ろう。  ならば何らかの手段でその対策を取り、今はじっと犯人側が動き出すのを待っている段階な のではないだろうか。  放課後、初等部の詩野倫に話を聞きに行くつもりではあるが、それは徒労に終わる可能性が 高い。  その後は、風紀委員会の動向を探りながら学園内を探索するのが、最も円城寺を見つける可 能性の高い方法に思えた。  気が付くと、何やら教室の中がザワザワとした雰囲気に包まれている。  何事かと思って皆の視線が集まっている方を振り向くと、高等部では見慣れない、初等部の 制服を着た小柄な少女が教室の入り口に立っていた。  その少女は、随分と不安げな挙動で何かを探しているようだったが、ふとこちらの方に目を 向けると、丁度オレと視線を合わせる形になった。  あれ?どこかで見た事があるような……。  オレと同じように視線を向けていた瑞希が、はっとした表情で何かに気付くと、小さな声で 耳打ちしてくる。 「夕夜ちゃん、あれ、円城寺さんの友達の」  ……そうか、ようやく思い出した。  瓜川の所で見た写真データと同じ顔。  詩野倫だ。  彼女は、オレに視線を向けたままこちらの方に近づいて来ると、ぱくぱくと唇を開きながら、 しかし声は何一つ発さずに再び口を紡ぐ。 「あー……、えーと、詩野さん?」  オレがそう言うと、詩野倫はようやく意を決したかのように。 「あ、貴方が如月夕夜……さん、ですね?」 「うん、まあ、そうだけど」 「リョウカ……、円城寺良華の事でお話があります。もし良ければ、少しお時間を頂けません か?それも、今すぐに」  彼女はたどたどしい口調で、だが確かにそう言った。 「どういう事?あなた、円城寺さんについて何か知ってるの?」  瑞希が強引に話に割り込んでくる。 「……いえ、彼女の行方は私にも分かりません。ただ、友人として、彼女の行方や事件につい て知りたいと思う気持ちはあります。だから……貴方の所に来たんです。如月夕夜さん」  その言葉を言う時だけ、詩野倫は随分とはっきりした口調でそう告げた。  多分、彼女が円城寺の事を心配しているのは事実なのだろう。  初等部の生徒であるにも関わらず、昼休み、まだまだ生徒が多い中でこうして高等部の教室 にやってくる事それ自体が、彼女の想いの強さそのものなのだと感じ取れた。 「分かった、オレも、君に幾つか聞きたい事があるしな、付き合うよ」 「いや、付き合うって……、午後の授業はどうするの?夕夜ちゃん」 「サボる。先生には、腸捻転がひどくて早退しましたって言っといてくれ」 「いや、幾らなんでもそれは通用しないと思うよ夕夜ちゃん……」  瑞希は少しだけ笑った顔を見せるが、それでも若干不安げに。 「話が終わったら、なるべくすぐに戻ってきてよ?」  そう言って、背中をポンと叩く。 「……そう言いながら、さりげに何ボールペンをスリ取ってるんだお前は」  瑞希は悪びれた様子もなく、たった今ポケットからスリとったボールペンを差し出してくる。 「バレたか。……でも、まあ、いいじゃない。すぐに戻ってくるんだからさ」  オレは、軽く笑いながら息を吐くと。 「まあいいか。それはしばらく瑞希が持っていてくれ。あんまり遅くなるようだったら、一度 メールを入れるから。それじゃあな」  そう瑞希に告げると、オレは詩野倫と共に昼休みの教室を後にした。 「……今の人と、随分と仲が良いんですね。如月夕夜さん」  高等部に居る事に慣れたのか、はたまた二人きりになったからなのか。先程とは違い、随分 と理性的な――だが無愛想な声で詩野倫が語り掛けてくる。 「まあな、ここに転校してきてから、瑞希とは何だかんだで長い付き合いだし」 「彼女ですか?」  そんな事を尋ねてきた。 「いや、違うな」  オレはそう、はっきりと答える。 「そうですか……、あの人の方が、貴方にはお似合いだと思いますけどね」  何だろう。  先程から、彼女は随分と攻撃的になっている気がする。 「それは……円城寺の事を心配して言っているのか?」  オレがそう言うと、どうやら図星だったようで詩野倫は瞬間口をつむぐ。 「……とにかく、話は高等部寮の貴方の部屋に着いてからです」  それだけを言って、彼女はしばらく貝のように押し黙った。  寮のオレの部屋にたどり着くと、倫は開口一番。 「……先程から指摘しようと思っていましたが、貴方は随分と匂いますね。高等部の男子とも なると、汗の匂いくらいは当たり前なのかもしれませんが……。出来れば、話をする前にシャ ワーの一つも浴びておいて頂けると助かります」  その物言いに、オレは少しばかりショックを受ける。  確かに午前中に体育の授業があったのだが、そこまで言われなければならない程に匂うだろ うか。  娘に臭いと言われてショックを受ける父親の気持ちが、少しだけ分かったような気がする。 「分かった。じゃあ、シャワーを浴びてくるからその辺に座って待っていてくれ」  ギリギリで大人の対応をして彼女をソファの上に座らせると、オレは服を脱ぎ、リスト型端 末を外してからシャワー室の扉を開ける。恥ずかしい姿を晒さないよう、タオルも用意してお かなければなるまい。  シャワー室のコックを捻ると、暖かいシャワーが体全体の汗を流していく。確かに先程まで はちょっと汗臭かったかもしれない。  そんな事を考えながらシャワーを浴びていると、ガラリと後ろの扉が開くような気配があっ た。  疑問に思う間もなく、忍び寄った人影にオレは背中からハンカチで口を塞がれ、耳元で。 「静かにして下さい」  そんな、詩野倫の声が聞こえた。  え、いや、ちょっと待ってくれ。  仮にも年上の男がシャワーを浴びている所に、年頃……とは言えないが、それでも女子が風 呂場に入ってきたりするものなのか?  オレが少しパニックを起こしていると、彼女は非常に冷静な声で。 「現在、私の制服には盗聴器が仕掛けられています。そして、おそらくは貴方の制服にも。よ って、これからの会話を外部に聞かれないよう、この場所を選ばせて頂きました」  ちょっと待った。……何だって、盗聴器? 「……最近、風紀委員会の誰かから尋問を受けませんでしたか?おそらくは、その時に何らか の形で盗聴器を付けられた物と思われます。少なくとも私の場合はそうでした。盗聴器を外し てしまうと、学園側が盗聴を悟られた事に気付いてしまうので、知らないフリをしてはいまし たがね」  そう言われてみると、喜島から尋問を受けた時、去り際に何故か背中を叩かれたのを思い出 す。もしかすると、あの時か。 「……何はともあれ、このハンカチを下ろしても決して大声は出さないと約束してくれますね? 理解して頂けたのであれば、壁を二回、叩いて下さい」  オレはしばらく考えてから無言で頷き、壁をコンコンと小さく二回叩く。  ようやく、オレの口を塞いでいた厚手のハンカチが下ろされた。  安心して後ろを振り向くと、そこに居る詩野倫の姿が目に入ってくる。  全裸だった。  オレは慌てて再び彼女に背を向けると、それでも小さな声で話すのを忘れずに。 「……どうして全裸なんだよ!せめてタオルくらいは巻いてくればいいだろ!」  だが、詩野倫は相変わらず冷静に答える。 「服を着たままシャワーを浴びる趣味はありません。どのみち体を濡らすなら、この格好の方 が都合が良いのは自然の道理でしょう?それに、ここのタオルは全て貴方が使用している物で はないですか。そんな物を体に巻くほど、私は破廉恥ではありません」  全裸で他人のシャワー室に入ってくる方が余程破廉恥だろう、と言いたいのを何とか飲み込 み、とにもかくにも深呼吸する。スー、ハー。  ……よし、完全ではないがさっきよりは少し落ち着いた。 「まず、話に入る前に幾つか質問をさせて下さい。……宜しいですか?」  何故かオレの手を握り締めながら、彼女はそんな事を言ってくる。 「構わん。聞きたい事があったらまずは何でも聞いてくれ。オレからの質問はその後でいい」 「……分かりました。まずは一つ目。伝え聞いた所によると、貴方はリョウカの……、円城寺 良華のその後の行方を追っているそうですね。それは、どういった理由によるものですか?」  詩野倫は、おそらくオレが一番答え難いであろうポイントをズバリと突いてきた。 「……さあな。ただ、あいつは多分オレに迷惑を掛けない為だけに、おそらくは郷原の奴を殺 したんだ。会って、何か一言言ってやりたいんだと思う」  オレがそう答えると、詩野倫はそれに無言の姿勢で答える。 「では、次の質問です。仮に貴方が彼女を見つけて、彼女に一言言えたとして……、その後、 貴方はどうします?彼女を、学園側に突き出しますか?」  言われて、オレはそこまで先の事をまるで考えていなかった事に気付く。 「……いや、そこまでは考えていなかったな。でも、円城寺がオレの為に事件を起こした訳だ から、学園側に突き出そうとかそういった事は考えていない。もし、今後あいつが同じような 事件を起こさないというのなら……むしろ、オレも何とかして協力してやりたい所だな」  詩野倫による無言の時が、しばらく続いた。  と、握っていたオレの手を離すと、彼女は手の平をひっくり返して、何やらボタン大の小さ な機械を確認しているようだった。 「何だ?それは」 「嘘発見器です」  どうやら全然信用されていなかったらしい。  やがて、彼女は息を吐き出すと。 「……いいでしょう。とりあえずは貴方の言う事を信用し、私の知る限りの情報を貴方に伝え ようと思います。正直、未だに迷っている部分はありますが、今はそんな事を言っている場合 ではありません」  彼女はそう言うと、事件のあらましから円城寺良華の現状、そして今後の対策についてまで を、一つ一つ順に語り始めた。  詩野倫は、超絶的なハッキング能力を駆使して円城寺良華を事件現場から救い出した。  そして、彼女の友人の協力もあって、初等部の学生寮に円城寺良華を匿う事に成功した。  そこまではいい。  そこまでは、何の問題もなかったのだ。  彼女は現状を打破する為に、面会室に残されていた防犯カメラの画像データをねつ造し、そ れを証拠として円城寺良華の無実を証明するつもりでいた。  そこまでは、良かったのだ。  問題なのは、その先である。  今日の昼休み――詩野倫が、オレの元を訪れるより少し前の話だ。  彼女が画像データ復元の依頼元である風紀委員会の個室を訪れると、そこに居た喜島風紀委 員長は、それを見るなり。 「成る程……、この映像によると、円城寺良華が郷原丈国を殺害したのは、郷原によって無理 矢理ナイフを握らされ、内臓を引きずり出さねば殺す――そう、脅されていたのが原因だった という事だな」  喜島は、そんな感想を漏らしたそうだ。 「……確かに、郷原のような生徒と面会する時には、護身用としてナイフの一つも持ちたくな るだろう。そして、郷原が円城寺の事を好いていたのは確かな事実だ。その愛の証を――強要 したとしても、この学園では何ら不思議な事ではない」  喜島がそこまで言ったのを聞いて、詩野倫はようやくホッとしたらしい。  だが、彼女が安堵出来たのはそこまでだった。  喜島はその直後、実に自然な動作で映像データを――完全に消去したのである。  あまりに自然すぎて、詩野倫にはそれを止める事さえ出来なかった。  当然のように彼女は抗議し、何よりこれ以上円城寺良華を追い続けるのは無意味だ、ただち に捜索を取り止めるべきだと主張した。  だが、その主張が聞き届けられる事はなかった。 「君が彼女の友人だという事は知っている……、確かに映像データは円城寺良華の無実を語っ てはいるが、あるいは、これがねつ造されたデータである可能性も否定は出来ない」  実際その通りである為、詩野倫は押し黙るより他に方法がない。 「だがね……、そんな事は正直どうだっていいのだよ。私にとって重要なのは――そこに殺人 犯が居て、それを我々風紀委員が捕まえるというその事実だ。我々が正義の刃を振るう機会が あるというその事実だ……!」  喜島は、その時確かに哂っていたそうだ。  あいつは――そういう奴だ。 「君が幾ら無罪を主張しようとも、実際に無実であろうとも、そんなことはどうだっていい。 もし君がそれを強行するなら、君も同じく彼女の仲間であるという事にして捕らえるだけだ。 なあに、証拠なんて物は幾らでもねつ造出来る――だから」  喜島は彼女を睨みつけると。 「君は、黙っていたまえよ、詩野倫――」  そう言われて、一体彼女にそれ以上何をする事が出来ただろうか。  詩野倫には、風紀委員会の扉から出て行くしか方法がなかった。 「……正直、風紀委員会があそこまで狂った組織だとは思っていませんでした」  詩野倫は、本当に悔しそうにそう漏らす。 「彼らが教師達と同等の権限を持っている以上、私達が何を言っても、リョウカが罪人である という認識は決して覆らないでしょう。そして、彼女を無実とするその可能性が絶たれた今、 彼女を匿っておく状況にもいずれ限界がやってきます」  そう言って倫は、ほんの少しの間押し黙る。 「こうなった以上、もはやリョウカを救う手立てはただ一つ。この学園の外に彼女を逃がすよ り他に方法がありません。そして、それには私の力だけでは足りない」  倫はそこまで言うと、オレの手を握り、自分の方を振り向かせる。  いや、だから、裸が。 「――リョウカは今後、同様の事件を起こす事はないと私に誓ってくれています。貴方がそれ を信用するかどうかは、また別の話だとは思いますが……それでも、貴方の協力が必要です。 いえ、正確には貴方と、貴方の友人である瓜川孝の協力が必要です」  自らの肌の露出も気にせず、詩野倫はオレに真剣に語り掛けてくる。 「彼の店……ショップ瓜川に入ってくる品物は、間違いなく学園の外部からどうにかして手に 入れてきた物です。ですが私のコンピュータ技能を駆使しても、どこから仕入れているのかま るでその流通ルートが掴めない。少なくとも職員エリアのルートを使っていない事だけは分か りますが――つまりそれは、そのルート以外に外部と繋がっている場所が必ずあるという事で す」  彼女は、顔をオレに近付けながら更に真剣な口調で告げてくる。  いや、だから、胸が。 「瓜川さんの所の流通ルートが確認出来れば、私の持つ学園データと合わせて外部への脱出ル ートが割り出せる可能性があります。そして、貴方はこの学園からの脱出を数度試みた事のあ る、いわばその道のベテランだ。絶対とは言えませんが、これだけの条件が揃えば――」  倫は、こちらにまっすぐな瞳を向けつつ。 「おそらくは、リョウカの事を救えます。だから如月さん――どうか、私達に協力して下さい。 お願いします」  そう言って、彼女はオレに向かって頭を下げた。  いや、まあ、もう、裸の事とかはどうでもいいか。  オレは倫の頭を上げさせると、流石に正面から彼女を見る事は出来ないが、それでも出来る だけ真剣な言葉で。 「分かった。瓜川の奴にも事情を話して、出来る限り協力して貰うよう努力する。オレ自身も、 円城寺の為に協力は惜しまないつもりだ」  そう、倫に対して誓った。 「……ありがとうございます、如月夕夜」 「夕夜でいい。オレも、お前を呼ぶ時には倫と呼ぶようにするからな」  オレがそう言うと、倫は少しだけ妙な感じの顔をして。 「貴方から倫と呼ばれると、何だか非常に腹が立ちますね」  だが、その表情は決して怒ってはいない。 「まあいいでしょう。とにかく、一刻も早く学園の外への脱出ルートを確保しなければなりま せん。喜島率いる風紀委員会は、長く放っておいたら何をしでかすか予想出来ない。可能な限 り速やかに計画を立て、実行する必要があります」  そこまで言うと、倫はこのシャワー室で行うべき事について、ようやく肩の荷が降りたのだ ろう。 「……それでは、そろそろここを出ましょうか。あまり長い間シャワーを浴びて、風邪を引い ても今後の行動に差し障りますからね。外に出た後は、打ち合わせ通りにお願いします」  そう言って、倫は静かにシャワー室を出ようとする。 「ああ、そういえばずっと言いたかったんだが、倫。シャワー室で男に肌なんて見せて、少し くらい危機感はなかったのか?幾ら初等部で、且つ非常事態であるとはいえ、他に幾らでもや り方があっただろう」  オレがそう言うと、倫はこちらを向いて平然と。 「まあ、他にも方法はあったかもしれませんがね。変に手間を取るのは私の流儀ではありませ んし……それに万一の事があったとしても」  倫はハンカチの中から、先程の嘘発見器とはまた違った、何やら小さな道具を取り出して見 せる。 「幼女に手を出すような変態趣味の男には、最初から協力を求める気はありませんでしたから ね。これ、瓜川さんの所で買った痴漢対策用品です。仕込まれた毒針で象でも一発だそうです よ」  いや、それは絶対に痴漢対策用品とかじゃないぞ。  ていうか、知らぬ間に死線を潜り抜けていたのかよ、オレ。 「では、この先は予定通りに。もし何かあればメールで連絡致しますので、データ消去だけは 忘れないで下さいね。それでは」  そう最後に告げてから、倫は音もなくシャワー室を後にした。  外で体を拭いているにも関わらず、ほとんど気配を感じないのは大した物だ。  しばらく待ってからオレはシャワーを止め、同じく外に出てからタオルで体全体を拭く。  彼女は、オレの長いシャワーをそれでも部屋で辛抱強く待っている。確かそういう設定だっ たな。 「……ようやく出てきましたか。一体何分待たせたら気が済むんですか?如月さん」 「悪い悪い、フロにはゆっくりと入る主義なんでな」  部屋の外に出て倫が立ち去るその時まで、オレ達はそんな予定通りの会話を演じ続けた。


 この部屋のドアをノックする音に気付いたのは、私達の会話が少しだけ途切れた時だった。  どうやら私は、僅かな間ではあるが美紀ちゃんとのお喋りに夢中になって、部屋の外の様子 を確認する事さえ怠っていたらしい。  流石に会話は外に漏れていなかったと思うが、それにしても迂闊以外の何物でもない。  次の瞬間、ガチャリと扉の開く音がして、私達は体を竦めあげた。  鍵は閉めてあった筈だ。あるいはマスターキーを使われたのかもしれない。  まずい。果たして今から隠れて間に合うかどうか。  私は慌てながら、しかし出来るだけ予定通り、迅速に。既に用意してあった隠れ場所の中に 避難する。  入り口からは私達は見えなかった筈だ。  多分、気付かれては居ない……だろう。  美紀ちゃんが入り口で対応している声から察すると、どうやら相手は居住エリア内を捜索し ている風紀委員であるらしい。  出来れば入り口での確認だけで終わってほしいが、倫の話によると風紀委員長の喜島さんと いうのは相当に厄介な人物であるようだ。  風紀委員が部屋の中まで探索に来る可能性は否定出来なかった。  しばらくじっと息を潜めていると、美紀ちゃんの物とは明らかに違った足音が、部屋の中を 探索し回っているのが分かる。  だが、部屋の中を探索するといっても、ある程度限度というものはあるだろう。  この部屋の中で人が隠れられる場所と言ったら、常識的には浴室、ベッドの下、そして洋服 ダンスの中くらいだとは思うが、そうそう詳細に調べるなんて事は……。  そう思っていると、浴室を開く音、ガサゴソとベッドの下を確認する声、そして最後に―― 洋服ダンスを開ける事について、美紀ちゃんに了承を得ようとする風紀委員達の声。  美紀ちゃんは洋服ダンスを開ける事については断固拒否の姿勢でいたが、業を煮やした風紀 委員が、美紀ちゃんの制止を振り切って洋服ダンスを開けようとする。  ……まずい。  私は心の中でそう思ったが、だが私には取れる行動というのは最初からただ一つしかない。  ひたすら隠れ場所の中で蹲っているしか……方法がない。  暗闇の中で静かにじっと耐えていると、洋服ダンスを開けた風紀委員が、美紀ちゃんが半年 以上溜めてあった洗濯物の山に押し潰される悲鳴が、聞こえてきた。  ああ……。  やってしまった。  後片付けをするのが、大変だ。  倫が盗聴器対策の為に私服に着替えて戻って来た時には、風紀委員が散らかした洗濯物の山 は、ようやくその半分が片付いたといった所であった。 「……一体何をやっているんですか?リョウカに――ミキ」  私達が事の次第について説明すると、倫は緊張した面持ちで、しかし予定通りに学園からの 探索をかわせた事にどうやら安堵したようだった。 「部屋の中まで探索する事は想定していましたが、まさか、あの開かずの魔窟を開けるだなん て……。敵ながらあっぱれとしか言いようがありませんね。まあ、流石に」  そう言うと、倫は部屋の壁の下にある木製の装飾を、力一杯手で押さえて。  ポコン。  そうやって、隣の倫の部屋へと繋がっている隠し扉を、押し開いた。 「――こんな所に、こんな物があるなんて事は予想出来なかったみたいですね」  元々は、常に部屋に閉じ篭り気味である美紀ちゃんの為に、部屋の扉を開けなくても互いの 交流が出来るように――倫が、手先の器用な友人に頼んで密かに作って貰った物であるらしい。  勿論、こんな形での使用は考えてもいなかった訳だが。  それでもこの隠し扉さえあれば、誰が部屋の中を探索しに来ようとも――ほぼ完全にその捜 索をかわす事が可能であった。 「これを作ってくれた友人には、誰にも喋らないよう念を押しておきましたし、身を隠し続け る事に関しては、とりあえずは問題ないでしょう。それよりも――」  倫は真剣な表情でその先を続ける。 「メールでも伝えておきましたが、リョウカを無罪にするという案が失敗した今、私達に取れ る手段はただ一つ。リョウカを学園外に脱出させるより他に方法がありません。その点につい て先程、夕夜――いえ、如月夕夜と今後の相談をしてきました。早急に過ぎるかと思いました が、最悪の事態を考えると、行動は迅速過ぎるに越した事はない」  え。  倫が――如月くんと話をしてきたなんて、初耳だ。 「ええ。彼の協力が得られなかった場合、貴方を悲しませる事になると思いましたから、そち らの方は敢えて連絡はしませんでした。まあ、結局は単なる杞憂に終わりましたけどね。彼は 貴方に協力してくれる事を、確かに約束してくれましたよ。……今後、リョウカが彼と会う機 会もあるでしょう」  嘘。  まさかこんな状況になって、再び彼に会える機会があるなんて思いもしていなかった。  しかも、てっきり事件の事で決定的に嫌われていると思っていたのに、私に協力してくれる だなんて。  どうしよう。……嬉しい。  私は倫の言葉を反芻しながら浮かれていたが、ふと、その中に聞き逃せない言葉があった事 を思い出す。 「倫、今、如月くんの事をファーストネームで呼ばなかった?」 「いや、まあ、そんな事はどうでも良いではないですか。それよりも貴方に確認しておきたい 事があります、リョウカ」  倫は再び真剣な表情に戻ると、一つ一つ、確かめるように言葉を紡ぐ。 「これまでは、無罪になればそれが最良であると判断した為、敢えて口にはしませんでしたが ……。風紀委員会がいかに危険な組織とはいえ、学園外に逃亡する事は、考えようによっては 更に危険な事かもしれません。ですから、貴方自身の意思をきちんと確認しておきたい。学園 に残り、学園側の裁きに則ってその罰を受け入れるか、それとも、僅かな可能性に賭けて学園 の外に脱出するのか……?」  倫は、そんな質問を私にぶつけてくる。 「貴方自身の体の事です。決めるのは――リョウカです」  それは……本当に今更な質問。  倫は分かっている筈だ。私が、どう考えているのか。  つい先程までの私なら、例え学園に捕まったとしても、それは仕方のない事だと諦める事が 出来たかもしれない。  でも、如月くんが。  彼が私に協力してくれるのだ。  彼と会う機会がもう一度あるのだ。  今更自首なんて――出来る筈がない。 「……もし、私が自首をするって言い出したら、如月くんの事はどうするつもりだったの?」 「それはまあ、当然、断るしかないですね。私にとってはリョウカの事が最優先ですから」  倫はさらりとそんな風に答える。  分かっている。今の風紀委員会というのは、おそらく私が思っている以上に危険なのだ。  でもつい先程までの私は、自首をして自分がどうなるかなどといった事には、ほとんど何の 興味も持てなかった。  だから、倫は先に如月くんの所に行ってその協力を取り付けてきたのだ。  ――私に生きる希望を与える為に。  彼女に答えるべき言葉は一つしかなかった。 「学園の外に賭けてみるわ。如月くんが協力してくれるのなら、断る理由なんてどこにもない」 「……分かりました」  彼女はそう短く答える。 「では、ひとまずは如月さんの行動結果待ちですね。おそらく放課後くらいまでには……」  倫は、何故かそこで話を切った。  いや、違う。切らざるを得なかったのだ。  暗くてよく分からなかったが、よく見ると少しずつだが倫の体が震え始めている。顔もいつ の間にか恐ろしく真っ青だ。   まさか、今朝まで生徒会の情報処理をこなしていた筈なのに。  どうしてこんなに早く、倫の発作が。 「倫、大丈夫!?美紀ちゃん、リスト型端末を開いて倫に見せて!生徒会のコンピュータとは 比べ物にならないけど、それでも多少は落ち着く事が出来る筈」  美紀ちゃんは慌ててリスト型端末を操作すると、開いた画面を出来る限り倫にリンクさせよ うとする。  学園側による行動のモニタリングを避けようと、倫はリスト型端末を彼女の部屋に置いてき たようだったが、どうやらそれはまずかったのかもしれない。 「……すみません、リョウカ……。今日は、風紀委員会と、そして如月夕夜の所で、随分と人 間らしい行動を取ってきましたからね……。そのストレスで、息切れが早くなったのかもしれ ない」 「喋らないで。……美紀ちゃん、誰か、生徒会の人を呼べる?」  私がそう言うと、突然の発作に最初は驚いていたものの、彼女は倫のこういった状況につい ては比較的慣れているのだろう。端末を操作し、すぐに生徒会に非常用のコールを送る。  流石に、生徒会役員が来る場に私が居る訳にはいかない。倫の容態については美紀ちゃんに 任せ、私はそっと隣室へと身を隠しておく事にする。 「ごめんね、倫……。迷惑ばかり掛けて」 「気にしないで下さい、リョウカ……。別に夜間ではありませんし、特に問題という程の事で はありません。情報処理室に行けば、収まりますから……」  バタバタと生徒会役員がやってくる足音が聞こえるのを確認すると、その音が到着するより も早く私は隠し扉を閉め、身を隠した。


 リスト型端末でサイト情報を確認し、ショップ瓜川にたどり着いた時には既に午後四時を回 っていた。  思いの他時間を取られてしまったが、それは単にオレが手間取ったからというだけではない。  風紀委員の活動により、学園側はショップ瓜川の捜査にまで手を伸ばし始めたらしいのだ。  それ故、ショップ瓜川による旧サイトは閉鎖を余儀なくされ、オレはその足取りを追い掛け るのに随分と時間を食ってしまった。  聞いた話によると、三日間の捜索にも関わらず円城寺がまだ見つからない事に、ついに喜島 のヤツは業を煮やしてしまったらしい。  あいつは普段は沈着冷静だが、勢いに乗るととことん暴走しまくるタイプだ。風紀委員会が ついに本格的に活動を始めたにも関わらず、未だその結果が出ない事に余程苛立っているのだ ろう。  これまでは学園側が手を出さなかった様々な問題点について、何人かの風紀委員を割り当て、 学園全体の更なる粛清を図っているとの事だった。  それは、明らかに八つ当たり以外の何物でもない。  倫に盗聴器が仕掛けられた可能性を教えられてから、オレはなるべく私服で居るよう心掛け ている。盗聴への対策の為だ。  喜島としては思うように情報が入っていない訳だから、あるいはそれも影響しているのかも しれない。  いつものように周囲の様子を確認してから、学園裏庭の隅にある体育倉庫の扉を、オレは情 報通り最初は三回、間を空けて更に一回、ノックする。  内側から、扉が開かれた。  体育倉庫に入ると、そこには例によってダンボールに詰め込まれた様々な商品が並んでいる。  だが、品数はこの前見た時よりも随分と少なめになっている。売れたのか、あるいは手入れ の時に失ったのか。  辺りを見回すと、倉庫の隅にある移動式の黒板の横に、ショップ瓜川の店主――瓜川孝が佇 んでいた。 「よう、瓜川。話に聞いた所によると、ひどい災難だったらしいな」  オレがそう言うと、瓜川は珍しくムスッとした表情で、チョークを使って黒板に独特の文字 を書く。 (風紀委員会、横暴)  そう読めた。  余程ひどい目に合ったのだろう。瓜川はそのままチョークで喜島の似顔絵を描き、憎らしげ にぐりぐりとその顔にラクガキをしていく。 「ところで瓜川。ちょっとした頼みがあるんだが……。成功すれば、喜島のヤツに一泡吹かせ てやれるかもしれない」  オレがそう話すと、瓜川は喜島の頭にチューリップを生やした所で手を止めてから、チョー クで新たに。 (1200)  そう書いた。  いや、頼み事にもやっぱり金を取るのかよ、お前は。  それに1200って言うと……、確か。  この前にあった出来事を思い出すと、オレはふと、一つの面白いアイデアを思い付く。  いや……今はそれはいいか。それよりも瓜川への頼み事だ。  オレは、店内の他の生徒にはなるべく聞かれないようにしながら、学園からの脱出計画につ いて、少しずつ瓜川に話し始めた。


 生徒会の役員が、倫を情報処理室へと連れて行ってから約三十分後。  倫から美紀ちゃんの端末に、彼女の無事を知らせる内容のメールが送られてきた。 「すみません、リョウカ、ミキ。もう大丈夫です。ついでですので、私はこのままここで学園 側の動きを少し探ってみます。どうも今朝方から、風紀委員の行動がおかしくなっているみた いです」  そうして更に二時間が経過した頃。  再び、誰かが部屋の扉をノックする音が聞こえてきて、私と美紀ちゃんは戦慄した。  慌てて私は隣の倫の部屋に隠れ、それを確認してから美紀ちゃんは部屋の扉を開ける。  倫の部屋に潜みながら、私は会話の内容に探りを入れた。  美紀ちゃんの声の様子からして、どうやら生徒会役員ではないようだが、何者だろう。  それに、何だか美紀ちゃんの声が少し弾んでいる。  あるいは彼女の知り合いなのかもしれない。  そんな事を考えていると、美紀ちゃんは何故かその人物を部屋の中に招き入れたようだ。  しかも、部屋の隠し扉に対して小さくコンコンとノックをしてくる。  部屋に入っても構わないという事だろうか。  つまり今部屋に入ってきた人物は、倫ではないが、しかし私達の味方であるという事で……。  え。  ……もしかして。  私が緊張しながら、隠し扉を開いて部屋に戻ると、そこに居たのは。 「……久しぶりだな、円城寺。元気そうで何より」  そこに居たのは、私がずっと会いたかったまさにその人。  如月夕夜くんが、そこには居た。  どうしよう。  何を話したらいいんだろう。  彼に会ったら、言いたい事が沢山あった筈なのに。  如月くんは暗い部屋の中、腰を下ろすと、美紀ちゃんと随分和やかに接している。 「あの、如月くん。もしかして美紀ちゃんと知り合いなの?」  私がそう尋ねると、如月くんはさも当然のように。 「以前、初等部のレクリエーションで、霧沢の世話をした事があったからな。まあ、まるで知 らない訳じゃないって程度の話だが」  そうか、それでか。  それでも、あの美紀ちゃんが打ち解けている姿を見るのは、何だろう、何故だか精神的にあ まり宜しくない。  そういえば倫も如月くんの事を、何故か夕夜などと名前で呼んでいたような気がする。  更に私の気分は宜しくなくなる。  そんな私の状態にはまるで気付かない様子で、如月くんは私に話しかけてくる。 「……それで、例の事件の事についてなんだが」  如月君は、ふと深刻そうな顔をして。 「どうして、郷原を殺したんだ?」  そんな質問を、投げ掛けてきた。 「……貴方に迷惑を掛けたくなかったから」  私は、そう答えるしかなかった。  如月君は、溜め息を付きながらこちらの方に手を伸ばすと、曲げた中指を親指で押さえつけ てから、それを私の額にぶつけてくる。  いわゆるデコピンだ。 「痛い」 「……そもそもの原因はお前とはいえ、悪いのは基本的に郷原だろうが。お前がそこまでしな きゃいかん義理はないぞ」  それは確かにそうかもしれない。  けれども。 「それでも……、私が止めなきゃいけないと思ったから」  私がそう言うと、如月くんは再び溜め息を付きながら。 「まあ、済んでしまった事は仕方がない。こうなったのは、半分はオレの責任という事でもあ るしな。……逃亡に、出来る限りは協力するよ」  そんな事を言う。  基本的に私は、彼を面倒な事に巻き込みたくなかった為にあんな事件を起こしたのだ。  なのに、今はどうしてだろう。  巻き込みたくない筈の彼が関わってくる事に、言いようのない嬉しさを感じてしまっている。 「それと、あと一つ」 如月くんは、そこで一旦言葉を切ってから。 「……どうしてあの時、何もせずに保健室を去ったんだ?」  ドクン。  彼の言葉に、私の胸の鼓動は大きく高鳴る。 「……それは」  そんなに美しい内臓でいられる、貴方のその内面を知りたかったから――。  なんて言える訳がない。 「ごめんなさい、それは秘密。……でも、もうあんな真似はしないわ、絶対に」  私は、そう言って答えをはぐらかす。  そう、内側。  私は彼の内面を最も知りたがっているのだ。  だからこそ、それにこうして今触れられている事が私の心を沸き立たせている。 「あの……如月くん」  私は彼の手の平を握ると、その瞳を見つめながら。 「例の……告白についての事なんだけど……」 「内臓なら見せないからな」  キッパリと断られた。  いや、違う。そっちの方もかなり見てみたい事には違いないけど、今は違う。  私は多分、如月くんの事を。  次の瞬間、突然部屋の扉を叩く大きな音が私達を包み込んだ。 「鍵を開けなさい!風紀委員会です。この部屋の中に、学園を逃亡中の円城寺良華が潜んでい る可能性があります。速やかにここを開けなさい!」  それは、この部屋の中に隠れ潜む私の元に、訪れた確かな破滅の瞬間だった。


 おそらくはマスターキー対策に自分で改良したのだろうか。部屋の扉には、通常の鍵以外に 自力で取り付けたと思われる簡単な錠前が幾つか取り付けられていた。  霧沢美紀に教えられた通りに、オレがその錠前の鍵を外すと、扉の外には五人もの風紀委員 が腕を組んで待ち構えていた。 「何なんだ?一体。この部屋の捜索は、今日済んだばかりだって霧沢のヤツが言ってたが」  オレはそう言ったのだが、風紀委員はその言葉を意にも介さず。 「そんな事はどうでも宜しい。理由はともかく、この部屋の中を少し改めさせて貰います。霧 沢美紀、如月夕夜。貴方たちには部屋の外に出ていて貰いたい」  風紀委員はオレ達二人に向かってそう告げると、有無を言わさずオレ達を部屋の中から引き ずり出し、部屋の中を改め始める。  てっきり全員で部屋の中を捜索するのかと思ったが、三人の委員は部屋の外に残り、おそら くはいざという時の為に周囲の様子を伺っている。  この分だと、部屋の外の窓側の方にも、何人かの風紀委員が見張りについているのかもしれ ない。  部屋の外の風紀委員たちに睨まれ、オレ達は少しずつ部屋の前から離れていく。  盗聴器対策は万全だった筈だ。リスト型端末による場所の特定に関しても、十分に対処は行 っている。  オレが初等部の寮を尋ねたという時点で、ある程度不審な点はあるかもしれないが、表向き は倫の友人として美紀ちゃんの部屋を訪ねただけだ。  怪しくても、通報される程の事ではないだろう。  ならば、何故、こいつらはここにやって来た?  風紀委員たちは、まだまだ部屋の中を探索している。こちらの方は遠巻きに確認する程度だ。  オレたちは廊下の曲がり角に差し掛かり、委員たちがまだ部屋の探索をしているのを確認し てから、姿を消した。  遠くから、風紀委員たちが叫ぶ声が聞こえてくる。 「おい、見ろ!こんな所に隠し通路が……!部屋の中に人が居たぞ!」 「円城寺良華か!?」 「いや、違う……縛られてる!こいつは……、この部屋の住人の、霧沢美紀だ!」  どうやら美紀ちゃんが発見されたらしい。オレ達二人は逃亡のスピードを更に上げる。  円城寺に脅され、仕方なく部屋の中に匿っていたと証言すれば、彼女がそれ以上疑われる事 はないだろう。美紀ちゃん、すまん。恩に着る。  オレの隣で走っている円城寺は、ショップ瓜川で購入した教師のカツラを放り投げると、そ のボサボサ頭の下から現れた綺麗な黒髪を風になびかせた。  なけなしの2000ポイントをはたいて、買い戻した甲斐があったというものだ。 「霧沢が、お前に近い体格をしてて良かったな、円城寺――胸がないのも、決して悪い事ばか りじゃない」  そんな軽口をオレが叩くと、走りながら円城寺に後頭部を叩かれた。  瓜川に教えられたポイントにたどり着くと、そこのマンホールから確かに古い排水溝に入り 込む事が出来るようだった。  マンホールのフタというのは、そもそも専用の器具がなければ決して開く事が出来ないよう に設計されている。瓜川が学園に来た当初から持っているそれがなければ、こんなルートは決 して発見する事が出来なかっただろう。  本人自身、妙な道具の収集家である瓜川の趣味が功を奏したという事か。  狭い入り口にまずオレが最初に入り、梯子を降りていくと同時に強烈なドブ臭さが鼻の周り を刺激する。水気が多いせいか、梯子は多少滑るようだ。  円城寺にそう注意をしてから、オレは彼女の動きを誘導する。ちょっとスカートの中身が見 えたが、それには気付かなかったフリをする。 「何だか、物凄い場所にたどり着いたわね」  円城寺がそうこぼしたが、それについてはオレも全く持って同感だ。  この学園で過ごしていて――いや、外の世界に居た時だって、これ程までに汚く、また強烈 に腐敗臭のする場所に入り込まなければならない事態などまるで想像した事がない。  瓜川が設置した明かりが僅かに灯っているからまだ何とか大丈夫だが、もしその明かりさえ なければ一秒だってこんな所には居られないに違いない。  詩野倫から指示された通り、明かりの示す方向に向かって少しずつ歩を進めていく。数メー トルより先は全く見えない。  円城寺が、多分無意識にだろうがオレの手を強く握ってくる。  こういう時には、全く恐怖を感じないというのもそれなりに便利なのかもしれない。  しばらく狭い排水溝の中を進んでいると、急に視界が開け、妙に明るくて広い空間に出た。  一体どのように表現すれば良いのだろう。  それはまるで、地下に存在する巨大なダムのような施設だった。  排水溝を流れていた汚水は、そのダム施設の更に地下へ全て流れて行っているようで、それ よりも上段には随分と綺麗な水が流れている。  よく見ると、動いている物体が幾つかあった。どうやらこの施設で活動している自動作業用 のロボットであるらしい。  上段を流れる綺麗な水の中には、幾つかの異物も流れているようだった。  それは、水に濡れた雑誌であるとか、捨てられたペットボトルであるとか、あるいは古い機 械、洋服といった妙に古めかしい物ばかり。 「瓜川くんの所の商品は、こんな場所から集められていたのね……」  多分、円城寺の想像する通りなのだろう。  瓜川のヤツが商品を仕入れていた場所が、まさにこの信じられない空間である事はオレにも 容易に想像が着いた。おそらく服は洗濯し、紙は乾かし、機械は可能な限り修復してから店頭 に並べているのだろう。  だが。 「……でも、この学園は都会から遠く離れた森の中に建っている筈なのに……、どうして上流 から、こんな物が流れ着いてくるのかしら?」  オレも、全く同じ事を考えていた。  この場所が、水源から水を補給する為の取水施設である事くらいは、誰にだって見れば分か る。  しかし、それでは流れ着いてくる様々な物についての説明が付かない。  まさかこの学園より更に山奥に、ここよりも開けた都市が存在しているという事もないだろ う。  だが、そんな事をゆっくりと考えている余裕はない。  いつまでもこんな場所に留まっている暇があったら、オレ達は少しでも前に進まなければな らないのだ。 「円城寺、倫から貰った通信機は、この場所でなら使えそうか?」  オレがそう尋ねると、円城寺は倫から預かった非常用の通信端末を、制服のポケットの中か ら取り出す。  もしこの場所で生徒用のリスト型端末を使用したなら、あっという間に学園側にオレ達の現 在位置を掴まれてしまう。  それ故に倫は、ショップ瓜川の商品の中から、オレ達との通信用に独自の端末を用意してく れたのだ。  現在位置の確認と、倫との通信、及びメールだけに機能が限定されているが、この端末によ る情報は学園側には決して掴まれる事がない。  この学園から脱出する為には、まさになくてはならない代物であった。  円城寺が端末を操作し、倫との通話回線を開く。  果たしてこの地下で上手く回線が繋がるだろうか。 「もしもし、倫、聞こえる?」  円城寺が端末に向かってそう声を掛ける。返事はない。  だが、しばらくノイズ音が聞こえた後、すぐに聞き慣れた声で返事が返ってきた。  詩野倫だ。 「……しもし。リョウカ、聞こえますか?この回線は、繋がっていますか?」 「大丈夫よ倫。聞こえるわ。私と如月くんの今置かれている状況については、把握してる?」  円城寺がそう尋ねると、倫は少しばかり拗ねたような声を出して。 「ええ……、ミキの部屋に潜伏しているのがバレてしまって、現在学園内を逃亡中という事だ そうですね」 「その通りよ。……ついでに言うと、かなり予定を前倒しにして、瓜川くんに教えて貰った地 下通路に入り込んでいるわ。場所の方は、そっちで確認出来るかしら?」  円城寺の質問に、倫の声は一瞬押し黙る。現在地を確認しているのかもしれない。 「……ええ、確認出来ました。どうやら地下でも問題なく使用出来るみたいですね。これなら、 私の持つ学園のデータと照らし合わせて、リョウカ達を上手くナビゲーションする事が出来そ うです」  その言葉に、円城寺は少しホッとした様子を見せる。 「そう、それは良かったわ。……それで、美紀ちゃんの方は大丈夫?私達に脅されたという事 にして、それで学園側はちゃんと納得してるかしら」 「その点については大丈夫ですよ、リョウカ。彼女が縛られた状態で発見されたのは、多くの 風紀委員が確認していますからね。実際、彼女が知っている事はほとんどありませんし……。 おそらくは、すぐに開放される事になるでしょう。――ただ」  倫は、そこで一旦言葉を途切れさせると。 「――ただ、罪のない生徒を脅迫し、利用したという事で、学園側の貴方達への対応は相当に 厳しくなってしまいそうです。おそらく、学園内にもその噂はすぐに広まる事でしょう。ある 程度は、予想していた事ではありますが……」  倫の緊張がそのままこちらにも伝わってくる。  つまりは今、いや、今後学園内にオレ達が出て行くような事があれば、それが誰であろうと 問答無用で学園側に通報されかねないという事だ。  このまま地下通路を使って、学園外に脱出出来るに越した事はないのだが……。 「……そうですね。ですが現在、あまりにも予定が前倒しになりすぎています。脱出経路の割 り出しは、こちらの方でも出来る限り急いでみますが、あるいは何日かの間は、その場所に留 まっていて貰わないといけないかもしれません」  倫は、そんなとんでもない事を言い出した。 「ちょっと待って、倫。この場所で過ごすって……!幾らなんでも、水も食料も何もないまま、 こんなひどい匂いのする所で数日間なんて耐えられないわ」  オレが思ったそのままの事を、円城寺がオレの代わりに代弁してくれた。 「いえ、何もずっとその場所で居て貰わなくても構いません。地下の排水溝用の通路は、幾つ かのポイントで地上にある学園側と繋がっていますから……。瓜川さんによると、空気の綺麗 な場所もありますし、ポイントを選べば、食料の差し入れなども決して不可能ではありません」  そういえば、学園で過ごしている時にも、幾つかこういった地下に繋がっていると思われる 小さな排水溝を見た覚えがある。  そういったポイントに近い場所であれば、確かにこの場所ほどひどくは匂わないだろうし、 ある程度のサイズの物なら手渡しする事も可能かもしれない。 「とりあえず、最寄の地上と繋がっているポイントまで案内します。もし余裕があれば、その 場所を拠点に出来るだけ地下の情報を集めて下さい。それらの情報と照らし合わせて、一刻も 早く外部への脱出ルートを割り出しますので――」  倫のそんな説明を聞きながら、オレ達はこの地下でしばらく過ごさねばならないかもしれな いという事実に嘆息した。


 倫に指示された通りのポイントにたどり着くと、天井にある小さな鉄格子の向こう側に、確 かに見慣れた学園の風景が広がっているのが目に入った。  既に学園の空は赤く染まり、そこには夕方の景色が広がっている。  確かにここを拠点に体を休めるなら、思っていたよりは悪くない環境であるかもしれない。  ここの地下通路の床は乾いていて、どうやら腰を下ろしても大丈夫そうだ。念の為にハンカ チを引いてから、私はその上に静かに座り込んだ。  如月くんは何も敷かずにそのまま地面の上に腰を下ろす。  こういう所はやっぱり男の子なんだなあと、そう思う。  外からは見えない位置に座りながら、そこで予定時間まで待っていると、鉄格子の向こうに 誰かが姿を現したのが目に入った。  じっと息を殺しながら、私達はその影を見守る。  その影は鉄格子をコンコンコンと三回、間を空けて一回、ノックする。 「瓜川か?」  相手の正体を確かめるよりも前に、如月くんは影に向かってそんな質問を投げ掛けた。  私が驚いて硬直していると、今度は天井からスルスルと、紐で結わえられたノートのような ものが降りてくる。  一冊、二冊……、三冊。  そして最後に、どうやら日本語らしい文字で書かれたメモが一枚。 (がんばれよ)  少なくとも私には、そう読めた。  如月君が三冊のノートを受け取ると、再びスルスルと紐は天井に戻って行く。  コツコツと足音を立てながら、そうしてその影は去っていった。 「……如月くん。今のが、どうして瓜川くんだって分かったの?」 「ん?どうしてって……。合図が今日のショップ瓜川のと同じ物だったからな」  そうだったのか。  如月くんが瓜川くんから預かったノートを開くと、中には平べったくなったパン、チューブ 入りのジュース、そして地下探索に必要だと思われるペンライトやその他諸々の道具が挟まっ ていた。 「……パン、これ、綺麗に潰れちゃってるわね」 「まあ、あの格子の間を抜けなきゃならない訳だからな。多少はガマンしないといけないだろ。 円城寺はどっちを食べる?」  如月くんからパンとジュースを受け取ると、私は出来るだけ綺麗な空気を吸えるよう心掛け ながら、いつもとほぼ同じ時間の、しかし明らかに異質な場所での夕食を取る。 「……そういえば」  如月くんに、一つ聞いておきたい事があったのだ。 「この前の保健室での事なんだけど、如月くんは、どうしてあの時」  まるで恐怖を感じていなかったのか。  それは、私のとって心の底からの疑問だった。 「ああ、昔ちょっと頭を打って、それで感情が麻痺してるんだって医者が言ってた」  如月くんは当たり前のようにあっさりと答える。  あまりにも簡単に答えられてしまったので、私は二の句が告げないでいた。 「そういえば円城寺は、どうして内臓になんて興味を持つようになったんだ?」  如月くんは、私の問いに呼応するかのように、あっさりとその質問を口にする。 「それは……」  私はその問いに答えようとして、しかしすぐに口を閉じた。  如月君の問いに対する私の答え。それは私にとって非常に重い物なのだ。  けれども。  私は彼の中身を知りたがっている。それなのに自分の中身を見せられないなんて、そんな道 理がまかり通る筈もない。  私は心の中で覚悟を決めると、少しずつ、ぽつりぽつりとその出来事について語り始めた。    私の祖母が死んだ時の事だ。  当時の祖母は年齢の割には元気そのもので、死ぬ数ヶ月前までは、老人とは思えない程に非 常に健康的な生活を送っていた。  だが、ある日病院での健康診断を受けた時に、その病気は発覚したのだ。  慢性肝炎の悪化による肝硬変。  それを原因に、幾つかの合併症を併発していた。  祖母は確かにアルコールをよく摂取していたが、それでも私は、それは何かの間違いだと 疑わずにはいられなかった。  祖母は、今、誰が見てもこんなに元気な体なのだ。こんなに健康な顔をしているのだ。  病気だなんて事が、ある筈がない。  だが私のそんな思いとは裏腹に、祖母は病院でどんどんと痩せ衰え、そしてある日。あっけ なく天国に旅立った。  私が学校で数学の授業を受けている、まさにその時だったらしい。  後から聞いた話によると、幾つかの症状の内から死亡原因を特定する為、遺体は病理解剖さ れる事になっていたのだそうだ。  だが、祖母の死亡を知らせを受けた私は、そんな事は知らずにただ思慕の情の赴くままに祖 母の下に駆けつけ、そして、周りの制止を振り切って手術室に飛び込み。  そこで、見た。  祖母の中身は、あの健康だった祖母の物とは思えない程に醜悪で、そして無残な姿を晒して いた。  私はその場で倒れこんで意識を失ってしまったが、しかしその記憶だけは決して忘れる事は なかった。  それがどんなに大切な人であったとしても、どんなに元気な人であったとしても――その中 身までが、見掛け通りの物だとは限らない。  だから私は、それが大事な人間であればある程に、確かめずには居られなくなってしまった のだ。  その見た目だけでなく、その心を、そしてその中身を。  ……内臓を。  家族や当時の友人達には、当然の事ながら拒否された。  それは、至極当然の反応だったと思う。  けれども、私の中でその思いが降り積もり、いつしか自分でも制御出来なくなった、あの日。 あの瞬間に。  悲劇が、起きた。 「……それはとても長い時間の事だったかもしれないし、とても短い時間の事だったかもしれ ない。気が付いた時には、私は、両親の前で」 「……分かった。もういい、円城寺」  如月くんは、そんな言葉で私の独白を遮った。  やはり、聞くに堪えない話だったのだろうか。当然と言えば当然の反応かもしれない。  ……せめて、もう少し後になってから話すべきだったのかもしれない。  私がそんな思考の渦に巻き込まれていると、如月くんはこちらを向いて。 「今、ここに居るお前を差し置いて、昔の話も何もないもんな。お前はお前だよ――円城寺」  そんな一言を、口に出した。  私は私?  何を言っているのだろう。  そんな事、当たり前の事じゃないか。  私は私。  過去は今の私を形作る一要素であって、今の私を語る全てではない。  そんな事、当たり前の事じゃないか。  その通りだ。  どうして、そんな事を忘れていたのだろう。  ――私は。  いや。  私が、か。 「……如月君は、私の過去とか、私が何を考えているかとか、内臓とか――そんな事に、興味 はないの?」 「いや、全く興味がない訳じゃないんだがな。でも、別にこだわる所でもないとは思ってる。 隠してる部分も、隠してない部分も、全部ひっくるめて円城寺良華という個人だろう?……あ と、まあ、内臓には別に興味はない」  随分と正直に言ってくれる。  ああ、でも。  ……どうして彼の内面を知りたがったのか、その中身を知ろうと思ったのか、少しだけ分か ったような気がする。  恐怖を感じるとか、感じないとか、そういった事では多分ない。  彼は――如月くんは、多分、人間の外とか内とかそういった概念にはあまりこだわっていな いのだ。  外は外、内は内。まるで別物のような顔を見せるが、それぞれがまるきり無関係という訳で はない。外には外の、内には内の、それぞれの良さが確かにあるのだ。  ならば――どちらかが本物でどちらかが偽物という事は間違っても有り得ない。  あの時の祖母の健康的な笑顔も本物。その内に秘められた、病の影もまた――本物。  あの時、祖母が見せたかった物が、病でなく笑顔だったというだけの話だ。  そんな事に――そんな事に今頃、私は。  ぽつりと。  気が付くと、私は涙を流していた。  あれ……何だろう、止まらない。  今、私が見せているこの感情は外か内か、それすらも判断が付かなくなっている。  でも、そんな事にこだわるのはどうでも良かった。  私はただ、泣いた。  泣いて泣いて、泣きまくった。  如月くんは別にそれを止めるでもなく、かといって無視する訳でもなく、ただ静かに、私が 泣き続けるのを見守っていた。


 円城寺が泣き止むのを待ってから、オレは念の為の鉄格子の外の様子を確認する。  既に外は暗くなり、学園内での生徒の活動時間はとうに過ぎ去ってしまっている。  妙な泣き声が聞こえたと、教師が怪しんで見回りに来る可能性も否定出来ない。まあ、この 位置なら外からオレ達を確認する事は不可能なんだが。  とりあえず円城寺にハンカチを貸してやる。しまった、ヨレヨレのハンカチだ。  円城寺は丁寧にそれを断ると、自分のハンカチを取り出して涙を拭く。  あれ、何だろう。見せ場を思い切り潰した気がする。  僅かな間、辺りが完全な静寂を見せた。  コツ……、コツ……。  地上から聞こえてきたそんな足音に、オレ達二人は緊張の色を見せる。  おそらくは見回りの教師だろう。オレ達は外からは見えない位置で、しかし念には念を入れ て壁の向こう側に身を隠す。  鉄格子から影が伸びている。僅かに見える服装から判断すると、やはり学園の教師のようだ。 特にこちらに気が付いている様子はない。  コツ……、コツ……と足音が遠ざかって行く。だが、教師の周りだけが妙に明るくなってい るのが少し気になった。懐中電灯とはまた違った、妙にぼんやりと、全体に広がるような明る さだ。  いや、待て。明るさだけじゃなく、どこからか僅かな機械音が聞こえていないか?  妙な胸騒ぎがした。  オレは円城寺にその場に居るように耳打ちしてから、そっと鉄格子の方に近付いて行く。  教師の動きは妙にゆっくりだ。まだ後姿を確認する事が出来る。やはり、何か……、何かが おかしい。  次の瞬間、教師が突然横を振り向いた。一瞬、見つかったのかと思い身を隠そうと考えたが、 それよりも先に、オレの体はたった今見た光景の衝撃で固まった。  教師が振り向いたのは、どうやら同様に校内を見回っていた風紀委員の呼び止めによるもの であったらしい。  だが、そんな事はどうでも良かった。  その時見えた教師の顔は……、いや、教師だと思っていたそれの頭部は。  ショーウインドウでよく見るマネキンがある。そのマネキンに映像を投影して、表情を作る 装置という物がある。  その物体の頭部がまさにそれだった。  ただ、それにカツラを被せて人間らしく見せていただけだ。  その、たった今までオレが教師だと思い込んでいた物体は、今日この日まで学園の教師だと 思い込んでいたその物体は――人ではない、自動で動く物言わぬ人形。  ロボットだった。

そして、その翌日

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