◇二◇  翌朝、いつものように学園に登校すると、オレの席の隣に知らない大柄な男子生徒が 居座っていた。  時々、他のクラスで見かけた顔のような気はするが、さりとて知り合いという訳でも ない。誰か、他のヤツに何らかの用があるのだろう。  ていうか、他人の机の上に座り込むなよ。  とりあえずカバンを置こうと席に近付くと、そいつはオレの前に立ち上がるなり一言。 「二年A組の如月夕夜っていうのはお前か?」 「人違いです」  速攻で否定した。 「なら、どうして如月夕夜の席にカバンを置くんだ。他人の席に勝手にカバンを置くのは おかしいじゃないか」 「ああ、そうですね。うっかり席を間違えました。オレの席は、この一つ前なんですよ。 いやいや、失敬失敬」  そう言って、オレは一つ前の席――小倉瑞希の机にカバンを置こうとする。  あいつは普段からよく学校をサボるし、定時に登校してくるという事も滅多にない。  だからまあ、てっきり誤魔化しが効くと思っていたのだが。  ガラリと教室の扉が開くと、普段は見慣れているが今は絶対に見たくない顔がオレの 前に姿を現すなり、一言。 「あれ、どうして私の席に座ってるの?夕夜ちゃん」  間が悪いとしか言いようがない。 「いやいや人違いです。オレは夕夜ちゃんじゃなくて、ここは貴方の席ではないです。 頼むからそういう事にしておいてくれ」  今度は流石に否定出来なかった。 「……お前が如月夕夜なんだな?」  先程の男子生徒はユラリと立ち上がると、あからさまに敵意の篭もった目でオレを睨 んでくる。 「確かに世間的には如月夕夜と呼ばれる個人なのかもしれませんけど、貴方の探してい る如月夕夜とはきっと多分別人です」  頼むからそうであってほしい。 「昨日の昼休みに円城寺良華の告白を断った、その如月夕夜、だな?」  泣きたくなるくらいにオレの事だった。 「何それ……告白って、どういう事?」  頼むからこれ以上話をややこしくしないでくれ。  とりあえず瑞希をなだめすかして何とか教室の外に追い出し、そのまま自分も雲隠れ したかったのだが流石にそこまで上手くは行かなかった。  大男の眼光に睨まれ仕方なくオレが席に戻ると、先程の会話が続けられる。 「昨日の夕方に円城寺から聞いた。……お前、何故、あいつの告白を断った?」  いや、何故断ったって言われても。  内臓フェチだと告白されたんだぞ?  それでもって、腹を掻っ捌いて内臓見せろと言われたんだぞ?  まともな人間なら、断らない方がどうかしている。  だからそう相手の男子生徒にも告げてみた。 「男なら内臓の一つや二つ、快く見せてやるのが男気ってモンだろうが!」  いや、そんな男気は要らない。  その後も何とか説得しようとするも、どうにも相手とのまともな会話が成り立たない。  相手の言い分はこうだ。  オレは円城寺良華にホレている。  だが円城寺良華はお前を気にしている。  だからオレは涙を呑んでこの恋をあきらめる。  何故ならそれが男気だからだ!  だがお前は円城寺良華の告白を断った。  己の内臓惜しさ故に、だ。  そんな物は男気でも何でもない。  制裁だ! 「よって、オレは独自の判断でお前に罰を下そうと思う」  アハハハハハハハ。  泣きたくなるくらいに短絡的思考だった。 「とにかく、お前に言える事はたった一つだ」  何でしょうか。 「歯を食いしばれ」  冗談じゃない。  冗談じゃない勢いの鉄拳が、オレの左頬を掠めて飛んで行った。  何とか避けられはしたものの、直接当たったら多分物凄く痛いだろうなと思っていると。  ベキリ。  え、何。今の音。  振り返ると、相手の鉄拳が命中した壁に、何故か蜘蛛の巣状の大きなひび割れが出来て いる。  だが、それ以上に相手の鉄拳が折れ曲がり、そこから大量の血が噴き出している。 「ちょ…!な、何だよそれ!」  本当に何なんだろう。  相手は不敵にニヤリと笑うと、壁の蜘蛛の巣から拳を外し、再びこちらに狙いを定める。  い…、痛くはないのか?  そういえば、たった今思い出した話なのだが。  人間というのは、普段は肉体の力をある程度セーブして使っているのだそうだ。  何故なら、常に全力で使っていると体がその負担に耐え切れず、自ら肉体を破壊してし まう事になるから。  自動車のスピードメーターが、実際にその速度で走る事はないにも関わらず、百何十キ ロもの速度まで設定されているのと同じ理屈だ。  だからもし。  何らかの精神的理由でその肉体のブレーキが外される事になってしまったなら。  自分の肉体を破壊してしまう代わりに、デタラメな怪力を使う事が出来るようになる。  多分、目の前にいる相手はそんな精神的理由を持ったヤツなのだ。  つまり、それが男気なのか。  …………………………。  やっぱりそんな男気は要らない。  ここまでの思考にかかった時間は、大体0.5秒程だろうか。  その間にも、相手の拳は容赦なくオレの顔目掛けて突っ込んでくる。  何とかギリギリで避けてはみたが、今度はオレの右頬を僅かに掠めて飛んでいく。痛い。  そのまま相手はバランスを崩し、教室の机の固まりに向かって倒れこんだ。  大量生産の机と椅子が、嫌な音を立ててあちらこちらに散乱する。  さすがにこの事態に驚いたのか、滅多な事では他人に反応を示さないクラスメイトの何 人かが、慌てふためいて教室の外に飛び出していく。  だがまるきり無視して自分の机に張り付いたまま、己の日常を守り続けているヤツも居る。  根性である。  ……あ、もしかしてこれが男気というヤツなのか?  オレが妙な事に感心していると、その間に相手は起き上がり再びこちらを向いて立ち上が ってくる。  鉄拳はますます血まみれである。  さて、どうしようか。  おそらく、あと数分もしない間に騒ぎを聞きつけた教師達が現れ、この騒ぎは幕を閉じる 事になるだろう。  問題は、それまでオレが生きていられるかどうかというただ一点だけである。  その場で泣いて謝る案、死んだフリをする案、クラスメイトの誰かを人質にする案など幾 つかの案が瞬時に検討されたが、全て却下。  どうしてオレの頭はこう、ろくでもないアイデアばかり浮かぶんだ。  そうしている間に、気が付くとオレは教室の隅に追い詰められていたようで、あれ、もし かしてこれは相手の攻撃を避けられない物凄くヤバい位置なのではあるまいか?  何かの間違いではないかと思い、改めて確認してはみたが。  やっぱり物凄くヤバい位置だった。  その間にも相手は最後の攻撃の準備を進め、嬉々とした表情で血まみれの拳を構えてくる。  オレがどうやって全力で土下座しようか考えていると。  鉄拳男はゆっくりと。  拳を構えたまま、教室の床に倒れこんだ。  あれ?  もしかして先程却下した中の、超能力で相手を気絶させる案が効いたのだろうか。  などと不思議に思っていると。  ああ…、成る程。  よく見たらおびただしい量の血が相手の腕から流れていた。  出血多量だ。  気が付くと、そこは保健室のベッドの上だった。  窓から入ってくる日差しが随分と眩しい。  はて、相手のパンチは全部避けたつもりだったが、もしかして少しは命中して、それで保 健室に運ばれたのだろうかなどと考えていると。  思い出した。  あの後すぐ、教室に入ってきた教師達によってオレ達は二人とも取り押さえられ、麻酔を かがされて眠らされたのだ。  僅かに残る記憶を手繰ると、どうやら瑞希が呼んで来てくれたらしかった。  それは良いのだが、どうしてオレまで麻酔をかがされなきゃならんのだ。  ケンカ両成敗というよりは、問題を起こした者全てを排除しようとするこの学園らしいやり 方である。  ……待てよ。  まさかあの鉄拳男が、隣のベッドで眠っていたりしないだろうな。  恐る恐るそちらの方を向いてみると、ベッドは空だったが、代わりにその前の椅子に座って いる女子生徒――いや、正確にはその胸元にある十字架が目に留まる。  ていうかこいつは。 「……ようやく気が付いた?如月くん」  昨日の昼休みに会った内臓マニアじゃないか。 「良華」 「え?」 「円城寺良華。私のフルネームよ、覚えておいて」 「……どうしてこんな所に居るんだ」  と言った後で、ああ、そもそもはこいつが原因であんな事になったのだと思い出す。 「心配だったから」  ほう。  そもそもの原因であるとはいえ、なかなかに殊勝な心掛けである。 「良かった、内臓が潰れてなくて」  そっちの心配かよ。 「郷原くんは思い込んだら一直線な所があるから、嫌な予感はしていたんだけど」  郷原……?  ああ、あの鉄拳男の事か。 「昨日の夕方に偶然会って、告白の事を話したの。まさか、こんな事になるだなんて思わなか った」  そりゃまあ、告白を断った相手を殺しかねない勢いで暴れ出すなんて、流石に予想はしない だろう。 「せいぜい、軽いパンチ一発くらいで終わる物だと思っていたのに」  ちょっと待て。  オレが殴られるのは前提だったのかよ。 「まあそれはそれとして」  オレの非難の目を誤魔化すように、内臓女はさりげなく話題を変える。 「私と、ええと……小倉さんだったかしら。二人で状況を説明して、先生達にはきちんと分か って貰えたから。その点については心配しないで」  この上オレが犯人扱いされていたら、オレはこの女を絞め殺していたかもしれない。 「郷原くんの方は、今、職員エリアの反省室に閉じ込められているわ。事が事だけに、当分の 間はあそこから出て来られないでしょうね」  まあ、それはそうだろう。  あれだけ派手に教室を破壊されたのだ、流石に教師達も黙ってはいまい。  とはいえ、永遠に閉じ込められている訳でもないだろうが。  …………………………。  一拍ほど考えてみて、嫌な未来が頭を掠めたので気付かなかった事にする。 「多分、彼が出て来たら今度こそ貴方に止めを刺しに来ると思う」  気付かなかった事にした努力が水の泡だった。 「でも、安心して」  そう言って、円城寺良華は手を重ねてくると。 「その前に、貴方の内臓を見せてくれればそれで良いから」  きっぱりとお断りした。 「最初はね……、誰が綺麗な内臓の持ち主で、誰がそうでないのかは見た目だけでは分からな かったの」  内臓女は、聞いてもいない自分語りをぽつぽつと始める。  一方のオレは、まだ麻酔が効いているのか、目は覚めているものの体を動かそうという気力 がまるで湧かない。  従って、嫌でもイヤな感じのエピソードがとくとくと耳に入ってくる事となる。 「普通は、容姿が美しければ内臓も美しいんじゃないかって考えるじゃない?……でもね、外 側の美しさと、中身の美しさとはまた別の物で、見た目は綺麗でも中身はボロボロっていう人 が、決して少なくはなかったの。でもね、私気付いたのよ。中身が美しい人っていうのは、つ まり体の構造自体が健全で、そしてその情報は、自然とその人間の動きの中に現れてくるのだ っていう事に」  あまり相槌を打ちたい訳ではないが。  ふむ。  まあ、それはそうかもしれない。 「見た目がどんなに綺麗な人でも、体の中に何かしら問題を抱えていれば、それは身体能力と は関係なしに肉体の動きの中に現れる。そしてその微妙なバランスの崩れは、どこに、どんな 問題があるのかを観察者に知らせてくれる。それに気付いてからは、無闇矢鱈と人の中身を確 認するのは止めにしたの」  円城寺良華は胸元の十字架をいじりながら、さりげないようでとんでもない話を淡々と語る。 「そして、ようやく見つけたの。……多分、私がこれまで見てきた中で最も綺麗な内臓の持ち 主。それが貴方」  そう言うと、内臓女は椅子から腰を上げて、オレが寝ているすぐ側にまで迫ってくる。  何故か手元がキラリと光っているので、確認してみると右手に医療用のメスを持っていた。  ちょっと待て。  流石にこの期に及んで体を動かす気力がないなどとは言ってられない。  次の瞬間、オレは布団を跳ね飛ばしてその勢いで保健室の出口に突っ走った。  ……つもりだった。  あれ。  気力がないというよりは……、これは。 「体が動かないでしょう?」  全くもってその通りだった。 「貴方がまだ眠っている間に、私が麻酔薬とはまた別の薬品を嗅がせておいたの」 「……どうしてまた、そんな事を」  答えの分かり切った質問だった。 「いずれにせよ……」  話しながら内臓女はスリッパを脱いで、ベッドの上に膝を揃えてオレを見下ろす。  頭を膝の上に乗せない膝枕が、丁度こんな形だろうか。 「貴方の内臓を見るのに、これ以上の機会はないわね」  勘弁してくれ。  そんなオレの祈りとは裏腹に、彼女はオレの制服のボタンを一つ一つ、外し始める。  傍目で見ていれば、なかなか羨ましい光景に見えるかもしれないが。  魚が料理人に鱗を剥がされる時の気分が、多分こんな感じではないだろうか。 「……男の子の服のボタンを外すのって、なかなかに恥ずかしい気分ね」 「いや、アンタにそんな事を言われてもリアクションに困る」 「それもそうね」  内臓女はオレの言葉に簡単に納得すると、制服の上着を脱がせて、続いてカッターシャツの ボタンを外し始める。  流石にここまで来ると、オレもちょっと恥ずかしい気分になってきた。  いや、恥ずかしいとか言ってる場合ではないのだが。  カッターシャツのボタンが外し終わるとそれも脱がされ、Tシャツは簡単にそのまま下から 捲り上げられた。  当然お腹は丸出しである。 「……綺麗なおへそ」  いや、だからアンタにそんな事を言われてもリアクションに困るんだってば。 「……私だって、凄く反応に困ってるわよ?」  そんな事オレに言われても。  会話の雰囲気が場にそぐわない物になっているのでいまいち緊張感が足りないような気もす るが、ここで今一度状況を整理しておこう。  一・この女はオレの内臓を見たがっている。  二・オレは自由の効かない状態で、その女の前に無防備な腹を曝け出している。  結論・絶体絶命。  よし把握した。  そんな事を考えている間に、腹の辺りにヒヤリとした金属の感触が伝わってくる。  ああ、これはまずい、まずいぞ。  だが体が動かない事にはどうしようもない。  声はどうにか出るには出るが、とても助けを呼べる程の大声は出ない。  何か良い方法はないものかと、必死で思案していると。  ブツリと。  肉を切る嫌な感触がお腹の辺りから伝わってきた。  ぎゃあ。  ついに切られた、痛い。  ああ…、これから腹を一文字に割かれて、内臓を引っ張り出されるのだろうな。流石にそう なったら、ちょっと生きているのは難しいだろうな、などと様々な想像を巡らせていると。  何故か。  メスの動きが止まった。 「……やっぱり」  そんな風に、内臓女がぽつりと呟く。 「貴方は、やっぱり恐怖を感じていない」  そんな一言を、口に出した。  あれは、ほんの僅かな不注意が原因の事故だったと思う。  オレがまだ小学生だった頃。  友達と神社で遊んでいた時に、階段から足を滑らせて頭から転げ落ちたのだ。  かなり面白い落ち方ではあったが、石段とはいえ、田舎の名もない小さな神社であったから そう大した高さではなかったと思う。  実際、大したケガもなく単なる打ち身で済ませられたのだから、その点については問題なか った。  問題があったのは、その時に打った頭の方だ。  最初は、成長期だったので単に自分の精神が逞しくなったのだろうと、そんな風に思ってい た。  だが、生死に関わる状況でさえ、全く恐怖を感じないとなれば話は別だ。  医者によると、階段から落ちて頭を打った時に脳の一部に麻痺が生じ、それが原因で感情が 上手く働いていないのだろうという事だった。  何が危機であるか、そうでないかという事はある程度自力で判断できるし、焦りや不安とい った感情も、多少は持ち合わせる事が出来る。  だがしかし。  人間であれば、誰しもが感じるであろう決定的な恐怖心。  それだけが、オレの頭からすっぽりと抜け落ちてしまったという訳だ。  …………………………。  どこか遠くから、聞いたような覚えのある声が聞こえてくる。 「内臓が病に冒される原因は色々あるわ。遺伝的な物もあれば、過度の食物の摂取や、運動不 足、睡眠不足などによって引き起こされる物もある。でも、それらだけでなく精神に与えられ る過剰なストレスも、内臓に悪影響を与える主要因の一つなの」  透き通った声が、先を続ける。 「人間の持つストレスというのは、現状に対する様々な心理的圧迫感が元となって現れる。だ から、もし一部であっても、そういった精神的な圧力をほとんど感じない人間が居るとしたら」  その声の持ち主は、こちらの方に視線を向けながら。 「……その人の内臓は、とても美しくなる可能性を秘めている筈。そう、丁度、貴方のように ……」  そう言うと見覚えのある影は立ち上がり、扉を開けてこの部屋から姿を消そうとする。  胸元の十字架が印象的だった。  オレが朦朧とした意識を覚醒させると、そこにはあの内臓女は居なかった。  …………………………。  夢?  ……だった、のか?  もしかして、最初から全てが思春期の妄想だったのかもしれない。  少しだけそんな風に疑ってみたが、つい先程まで、ここにあの女が座っていたのはどうやら 事実のようだった。  何故ならベッドが生暖かい。  夢うつつに聞いていたセリフも、あるいは実際に喋っていた物かもしれない。  という事は、腹を割いている途中でその行為を中断し、この保健室を後にしたという事だろ うか。  とりあえず上着を捲って自分の腹部を確かめてみると、おそらくはメスで切られたのであろ うその箇所に、可愛いウサギ柄のバンドエイドが貼ってあった。  少々血が滲んでいるものの、どうやら腹を割かれた様子はない。  そうなると、事態はますます奇妙である。  途中で誰かが保健室にやって来て、それで作業を中断せざるを得なかった可能性も考えたが、 少なくとも自分の知る限りそういう気配はなかったと思う。  だとすれば、一体、どうして自分は助かったのか。 「……分からん」 とりあえずベッドから体を起こしてみると、今度は意識した通りにちゃんと体を動かす事が 出来た。  ふと気付くと、廊下の方からバタバタと走る音と、馴染みのある甲高い声が聞こえてくる。  雰囲気からして、瑞希と、あとはおそらく事件の聴取にやってきた教師達だろう。  このままもう少し寝かせておいて貰いたい所だが、流石にそういう訳にも行かないか。  午後の授業が潰れるのだけが、ちょっとした救いかもしれない。  オレはまだ少しばかり回転の鈍い頭の中で、教師達と、あと瑞希に対して話すべき事柄の内 容を整理し始めた。  この保健室でたった今起こった出来事については、とりあえずだが、除いておいた。

数日経った日

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