迫害のはじまり
 1587年(天正15)、切支丹の結束力を脅威に感じた秀吉は、突然、伴天連追放令を発布し、これを機会に長崎、茂木、浦上を没収、自らの直轄領としました。
 しかし、1597年(慶長元年)には二十六聖人が西坂で処刑された年を過ぎても、5万の信徒と10の教会があったということは、まだ、禁教令がそれほど厳しくなかったことを意味しています。

 時が過ぎ、秀吉死後の1614年(慶長19)、豊臣氏との決戦に踏み切った徳州家康は秀吉と同様、禁教令の布告と同時にもっと苛酷な追放令を宣告しました。これらは、一般信徒だけではなく、元大名にさえも容赦なく適用され、高山右近や内藤徳庵らの切支丹元大名は長崎に護送された後マニラへ追放され、宣教師たちもマカオやマニラへと追放されたのでした。

 10にのぼる長崎の教会もその年の冬のはじめから次々と破壊されていきました。この時、皮肉なことに有馬直純や大村純頼や細川ガラシャの夫である細川忠興のように切支丹の一族をもった大名が5万の長崎切支丹の反抗を怖れて警備に当ったのでした。ポルトガルの船が長崎入港の目印していたサンタ・マリア教会も岬の教会もサン・ジョアン・パプチスタ教会も次々と壊されていきました。そして五万の切支丹たちはそれをただじっと見るだけで、何の反抗もみせなかったのでした。
 これが迫害のはじまりだったのです。以後、長崎西坂公園付近だけでも六百人以上の信徒が次々と殺されました。
 1597(慶長元年)の26聖人以後、1671年(寛文11)の75年に渡って、ほとんど毎年、ここでは火刑や斬首が行われました。最も多かったのは明暦4年(1658年)の日本人109名、殉教者のなかには日本人のほかポルトガル、メキシコ、イタリア、スペイン、ポーランドの西欧宣教師のほか、中国、朝鮮の人たちもまじっていました。


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