自 分 さ が し (3)
眼 横 鼻 直
道元禅師
曹洞宗の本山である永平寺を開かれた道元禅師もまた、
人間とは何か、人生とは、どこから来てどこに在ってどこに向かっていくのかを
生涯をかけてお示し下さったお方であります。
禅師は24才のときに中国に留学され、如浄禅師に学ばれて一大事を悟ったいわれています。
そして28才で帰国されたとき仰有ったお言葉が
「
眼横鼻直空手還郷
(がんのうびちょくくうしゅかんごう)
」です。
経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ一つ
「
目は横に、鼻は縦についていることがわかって、空手で帰ってきた
」
目は横に、鼻は縦についている
「あたりまえのこと」じゃないかとわたしたちは思います。
道元禅師のようなお方が命がけで宋にまで渡り4年もの間、法を求め修行をされて、わかったことが、
眼横鼻直
ただひとつだと・・・
それほど「あたりまえのこと」の有り難さを分からないのが私たちではないかとお示し下さったのがこの言葉です。
源左さんという念仏者が「急な雨が降っても鼻を下に向けてつけておいてもらったいるので有り難い」と仰有ったという話を聞いても、同じように有り難いと思える方がどれほどおられるでしょうか?
米沢先生が心臓の鼓動や呼吸の話をされて
「生かされて生きているのだ」と耳にタコができるほど繰り返されましたが、
私は、頭ではそのとおりだ・・と分かっても、心底有り難いなどとは思えませんでした。
そして信仰をもっている人は「あたりまえのことの有り難さ」がわかるのにちがいないと思ったものです。
それで、有り難く思おう、思わなければ、と努力しましたが、
やっぱり「あたりまえのこと」は「あたりまえのこと」でした。
そんな私にも、ひとつだけ気付かされたことがありました。
この「あたりまえのこと」だけは、私が何と思おうと、
どう考えようが決して動くことがないということです。
私が有り難がろうが、なかろうが、決して動きません。
そして、もし他の人が、それを「違う、鼻は横だ」といっても、私は疑うこともありません。
「そのとおりだ」と認めてくれた人がいるからといって喜ぶこともありません。
私の思いに関係なく「ありのまま そのままの事実」です。
それと同様に、その「ありのまま そのままの事実」を有り難いとも、不思議だとも思えない自分が「今ここにいる」というのも「ありのまま そのままの事実」です。
「ありのまま そのままの事実」に落ち着けたとき・・・
「
あたりまえのことの有り難さ」がわからないままに生かされていることの不思議さに気付かせしめられました。
その時初めて「
眼横鼻直
」のお言葉が心に落ちたようなような気がします。
それを教えて下さったのが安田先生の下のお言葉でした。
思いを超えた「ありのまま そのままの事実」に生かされて生きている私たちではないでしょうか?
安田理深「感の教学」より
(文明堂「下総たより2号」)
現に与えられている存在の事実が不思議だ、
不思議を対象的に向こうにおけば不思議にならぬ。向こうにおけば不思議を思議したことになる。
不思議はどこまでも此方になければならん。向こうにおいたならば不思議という「思い」に他ならぬ。
不思議とは主観の表象を突破して存在の事実そのものにふれて事実的自己になったことである。
存在が自己の思いを破って自己となったものであって、自己の思いによって存在をとらえたのではない。
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