人 生


不条理
 
神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、
ある山の頂まで運びあげるというものだったが、
ひとたび山頂にまで達すると、
岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてし まうのであった。
無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、
確かにいくらかはもっともなことであった。
  

アルベール・カミュ『シジフォスの神話』


シジフォスの絵

10代の終わりに、初めて描いた油絵がこんな絵でした。
山頂に岩を運ぶシジフォスに自分の人生を重ねて描いたつもりでした。
ふっと懐かしく思い出したのですが、親鸞聖人のみ教えに出会わされる原
点がこのシジフォスの人生だったような気がします。
 
シジフォスは神の世界よりも人間の世界に留まることを希みました。
その彼に人間の世界を選んだ罰として与えられたのが
先の尖った山へ岩を運び続ける「不条理」といわれる人生でした。
    


「不条理」という言葉を広辞苑でひいてみました。
 
「実存主義的な用語として、人生に意義を見出す望みがないことをいい、
限界状況的、絶望的状況を指すのに用いられる。
フランスの作家カミュの不条理の哲学によって知られる。」
 

 
先の尖った山へ岩を運ぶ人生とは「生きる意義ない人生」でしょうか?
先の尖った山へ岩を運ぶ人生とは「無益で希望のない人生」でしょうか?
「神々から与えられた怖しい懲罰」がこの私の人生でしょうか?
 

 
「限界」「絶望」とは理知の世界の言葉です。
哲学は理知の学問です。
理知は必ず行き詰まります。
 

 
人生は理知で割切れないと教えて下さったのが親鸞聖人です。
理知のあてにならないことを知らされ、
それでも、どこまでも理知に固執する私に出会わされ、
そこで初めて、
先の尖った山へ岩を運ぶ人生だからこそ「生きる意義ある人生」であり
先の尖った山へ岩を運ぶ人生だからこそ「浄土につながる希望の人生」であり
「仏から与えられた尊い賜り物」としての人生をいただける道が開かれました。
    
      

  
今月の言葉へ 内容案内所へ