「声が何処にあるか」考えたことありますか?ご存じですか?


声は 耳にある   (安田理深


この安田先生のお言葉に出会ったのは、「信仰的実在」(文明堂発行)という本の中です。

そこでは、このようにお話しされています。

初めて安田先生のお話に触れる方には少し取っつきにくいかも知れませんが、まず、ザッと目を通して下さいね。

 ※金蔵寺仏教講習会での講話を編集したもので、仮名遣いは本の通りに、また傍点箇所を【】に括って入力しました

  

    

 南無阿弥陀仏も、それ自身言葉ですけれども、又、言葉というものは<呼びかける>意味がある。この呼びかけというものは、呼びかけてるけど、聞かんということはないんで、【呼びかけたことはきいたことになる】。きいたところに呼びかけというものがある。やっぱり教法を観ずるのだけれども、教法を観ずるという意味は只自己を離れた教法じゃない。教法をうけた心を観ずるんですね。止観というのはそういう意味です。大無量寿経の教法をうけた自己を観ずるという意味です。教法はどこにあるかといへば、教えはどこにあるかといへば、教えられた心にあるものです。それ以外に教えというものをみればそれは Book です。本ですね。だからこの、善導大師も、教法というものは何であるか、といえば声だと。こういわれています。 Book なら文字です。文字は死んだものです。死んだ文字の中に生きた言葉をきく。声をきく。そこに教法というものがある訳です。だから教法を語るというけれど、語るということは、語る言葉はどこにあるかといえば、聞いたところにある。語るということは同時に答えたところにある。語ることは、むしろ語る言葉に対する応答の中に語る言葉がある訳です。だから、語る言葉としては名号でしょうけど、聞いたは各人各人に語りかけておるんですから、その答えるものが、言葉によって、語りかけられる言葉によって答える、という。【その答えた言葉というものが、教法というものの本質だろうと思うのです。】

  

  

私はこの本を、思い出しては一年に何回か、もう20年近く読み続けています。

そのたびに去年は聞こえなかった先生の声が今年は聞こえたり、また去年まで聞こえていた声が聞こえない日があったりの繰り返しです。

安田先生のお話は難しいと言われる方もおられますが、安田先生の語られている声を通した「真実の声」は、こんな形でも、私に伝わってきました。

先生のお話が私の耳では、こんな風にも聞こえる・・というだけですが、間違っていたら、お教え下さいね。


「声」は目では見えません。あなたの口から出た声は何処にあるか、ちょっと一緒に考えてみませんか?

安田先生は「声は耳にある」と仰有ってます。私はこの言葉からこんな事に気付かされました。どうして今までこんな「当たり前のこと」に気付かなかったのだろうと思い、生きることがすごく楽になりました。

私が気付いたことはこんなつまらないこと事です。

  
まず、「バカじゃない」って発声してみます。
「ば〜かじゃな〜い?」「バッ!カッ!じゃない!!」「ばかじゃない(・・モンッ)」
    
それを、ある人がある人のの耳できくと
「冗談ばっかり」「ワッ!怒ってる」「あ〜悲しんでる」
    
それをその人が他の人に伝えます。
「〜さんが”ば〜かじゃな〜い?”って笑って言ってたよ」
「〜さんが”バッ!カッ!じゃない!!”と怒って言ってたよ」
「〜さんが”ばかじゃない”ってしんみりと言ってたよ」
  
その声を聞いた他の人は
「〜さんはバカにして”ば〜かじゃな〜い?”といってた」
「〜さんはものすごく怒って”バッ!カッ!じゃない!!”と怒鳴っていた」
「〜さんは”ばかじゃない”と抗議している」
  
わたしのの声は、たった2人の耳へ届くまでに全く違う言葉になってしまいます。
ということは、声は口にあるのではなく耳にあると思われませんか?
   
次に、何かに熱中していて人が呼んでいるのに気付かない・・
それから、同じお話を聞いてもそれぞれ印象に残っている言葉がちがう・・
それに、目だけでわかる、表情だけで伝わる言葉もある・・
  
そんなことからも声は耳にあるのだと私は納得できました。
  
そうすると、誰かに「○○さんがこう言っていたよ」という言葉を以前より冷静に受け止める事ができるようになりました
人に自分の言葉を誤解されても、少し謙虚な気持ちで流せるようになり、生きることが楽になりました。
  

  

安田先生は「教法」や「名号」を教えて下さるために「声は耳にある」と仰有って下さいました。

それなのにこんな話をしていたのでは叱られるかも知れませんが、どうか、あなたは、あなたの耳で直接、安田先生のお話を聞いて下さいますよう・・心からお願い申し上げます。

誤解がないように、先生の次のお言葉を「言にたまわる信」(文明堂)より抜粋させて戴いて今月の言葉「声は耳にある」の解説を終わらせていただきます。

  
『聞は手がかりである。然し、さきにも言ったように耳が聞くわけにはゆかぬ。
 耳において聞くものは言葉、語にすぎない。
 教えは耳が聞くのではない。教えは声であらわされる。
 言葉は文字、声は生きたもの、文字は物質である。
 教えはしたがって出値うものである。
 「二河譬」でも教えは声で表してある。
 教えは【あるもの】ではない。【あるもの】ならば本である。
 ものに【あう】とはいわない。だから値うのはものではない。
 教えは誰にもない。教えは教えられるものにあるので、教える人よりも教えられることが大事なのである。
 教えを聞いて信を得るのではない。
 信心に与えられるもの、耳が見いだすものでない。信を得たから聞くのである。』
    

さらに、先生のお話の中から「名号」の呼び声を聞かせていただけますよう、これからも、安田先生のお言葉をこのページからご紹介させて戴きたいと願います。

  

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