親鸞聖人御消息「 自 然 法 爾 の 事」(じねんほうにのこと)

本願寺出版発行 浄土真宗聖典注釈版 p.768

( )内は本文中茶色文字の脚注


自然法爾の事

 「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて。ことさらに)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。

 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏(このうえなくすぐれた仏。ここは、無色無形の真如そのものをいう)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

 弥陀仏は自然のやうをしらせん(ため)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

  正嘉二年(1258年)十二月十五日