最近よく「身調べ」とか「内観」が浄土真宗の修行の一つにある。と見聞きしますが
浄土真宗には修行はないとも聞くのですが、いかがでしょうか。
たしかに「身調べ」というのは浄土真宗の異安心(異なった見解解釈で親鸞聖人の安心から逸脱している)
といわれる一派から出てきたもので、和16年頃に吉本伊信というお方が、この「身調べ」から内観療法のもととなるようなも
のを考案され、それが今日盛んに行われている「内観療法」のもととなったと聞いてますが、「浄土真宗の修行の一つ」ではありません。
真宗は修行どころか何一つ自分の力では出来ない「わたし」を指し示して下さる教えです。 そして仏教一般でいう「内観」「止観」という修行をも「自力の行」としてを否定されたのが親鸞聖人です。 拙HPではバカの一つ覚えで 「生かされて生きているのに、自分の力で生きていると思い込んでいるわたし」 「懸けられた願いを忘れて、自分の願いを追いかけ回しているわたし」 そんな自分に出会うことのみを訴えているのですが、このページをお訪ね下さった かたのほとんどが、自分の力で生きているのではないと頭では分かってくださり、 懸けられた願いを思い出しては下さるのです。だけど だけど、です、殆どの方は 「これからは、自分の願いばかりを追いかけず、おかげさまを思い、謙虚に生きて いきます」と「分かってしまう」 そうじゃない!! 「分かるはずない自分」に出会わされるのが浄土真宗です。 「分かってしまう」のなら内観療法です。 「生かされて生きている」縁起の理法など、どこまでも分からない私だと指し示してく れるのが南無阿弥陀仏、「「懸けられた願いを忘れて、自分の願いを追いかけ回しているわたし」だということにすら気づけない私なんです。 それを「気づける」と疑わないところに身調べや内観療法があるのだと思います。 「身調べ」が異安心の一派から出てきたというのもそこを「気づける」という浅い人間認識、自力が廃らない、絶対他力に徹底できない、浄土真宗の他力というものが誤解曲解され、なかなかお腹に落ちないのも、同じ ところに根があるのだろうと思います。 親鸞聖人は「信」すら人間の側にはないとお教え下さった方です。 「不疑の信」すら末通らない人間の信に対して、「無疑の信」をお教え下さったのが 親鸞聖人です。 「真宗では大行という本願の行が与えられ大信という如来の信が与えられている」と教えられても、自分の信、自分の行を問わないかぎり自覚することは難しいのではないでしょうか。 安田先生のお言葉に「みるというのは見、また現という字はあらわれる、みると いうことをおしていけば現れる。 視るという場合は環境の相、現れるという場合 は浄土論に説かれる観、観が観自身にかえった」というご教示がありますが、 まさに「存在が自己を公開してくる、存在をして存在を語らしめるというのが観。」 というのが浄土真宗です。 自力無効のところに初めて如来廻向の信行が現れてくれるのではないでしょうか。 真宗の行が「大行」であると教えられ、そう信じなければと思うのではなく、行が大行であることは確かに確かに実感できる事実です。生かされて生きている自分に気づけないと気づかされるとき初めて、それを気づかしめてくれたもの、如来の信行として賜ったお念仏を実感できます。 |
「で、赤字なんだぁ〜、ワンパターンだよね」
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