”救い”とは何ですか?いま救われるのですか?
あなたは、「救い」というと、現在「私がある状態」よりも、より、よい状態へ、
あるいは、より高い状態へ移っていくことを「救われる」ことだと思ってはいませんか?
仏教の「救い」はそうではありません。
仏教の救いとは”転迷開悟”です。
迷いを転じて悟りを開く
「迷いとは何か」「悟りとはなにか」
自分の願い通りになると、幸せに浮かれ、
思い通りにならないと、不幸だとどん底に沈み
浮きつ沈みつしている人生を、「迷い」と教えるのが仏教です。
「悟り」の世界とは、幸も不幸も、公平に平等に受け取っていける世界をいいます。
その世界「浄土」をあたえられるのが仏教の救いではないでしょうか
「浄土」という世界に行くのが救いではなく
今ある状態より、よいところへ行くのが救いではなく
「今私がある」
このあるがままの私に満足であるという場を「浄土」が与えてくれるのです。
だからこそ、未来だけでなく、過去も未来をも包んだ現在、
三世が確かに確かに救われていくのです。
あるがままの私にというものが明らかになって
このあるがままの私に満足できるというのが
親鸞聖人が教えて下さる「救い」です。
回答いろいろ
浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」回答
同 出版部刊
山本仏骨先生著 「あなたの問いに答える」回答
ゴシンのQ&A
「”救い”というと、"現在私がある状態よりも、よい状態とか、
より高い状態へ移っていくこと"だと私も思っていた。
今苦しいのなら苦しくなくなる、今悪い事ばかりしているけど
善いしかしないようになるとか・・そういうのが救いだと思っていた」
- 私も同じ、長い間、「楽になること」「善くなること」が「救われる」ことだと思っていた。
- 「よりよい状態になる」こと、それから、
- 「より高い状態になる」というのか、いわゆる「神仏のような人」になるのが救われるということだと思っていた。
-
「そうそう、私も。怒らないようになるとか、
どんな苦しくても苦しみを感じなくなるとか、
心から人の身になることが出来るとか・・・
う〜ん・・・要するにエゴがなくなると思っていた」
- 私なんか、痛みとかも感じなくなるのだろうか・・とか、お洒落したり着飾ったりする気持ちもなくなるのだろうか?
- とか、そんなふうに考えたこともあったよ。
-
「私、今過去形で話しているけど、「宗教の目指すものはみんな同じ?」ってところで
聞いたから言ってるだけで、じゃ、そうじゃない「救いって何?」っていわれても分からないよ。」
- 「救い」とは何か?という問いについて、その前に、ちょっと質問に答えてくれる?
-
「いいよ、何でも答えてあげる(^o^)」
- 「宗教が人間を救う」というとき、「宗教」「人間」「救う」の3つのうち、
- あなたがわからないのは「宗教」か?「人間」か?「救い」か?
-
- って聞かれたら、どう答える?
-
「ええっ?”救いとは何か”が分からないのだから、当然”救い”が分からないから聞いてるんでしょ。」
-
- 「人間」は「自分」であるから疑問はない、
- 「宗教」は「自分の向こうにあるもの」だから、ちょっと勉強すればわかるだろう、
- で、自分が宗教に救われるというがホントに救われるのか?どういうふうに救われるのか?
- そこのところを知りたいわけでしょ?
-
「ま、そういうことかな、宗教もわかんないけど・・」
- それって「救い」が分からないというより、
- 「救い」ということにその「宗教があてはまるかどうか」がわからないっていうことじゃないの?
-
「う〜〜っ・・・よくわかんないけど・・・そういうことかな
ホントに救ってくれるかどうかは重大な問題だよ」
- つまり、私が感じるのは
- 「救いって何?」って質問は、さも「救い」ということが分からないように見えるけど
- 「自分」が予定概念としてもっている「救い」がその「宗教」にあてはまるかどうかを問うているんじゃないの?
- 「救い」が「宗教」に実現可能かどうかがが分からないという事じゃないのかなと感じるのよね。
-
「あ、私の場合はそうかも知れない、どっか楽になるというか善くなるというか安らかになるというか・・
そういうふうなものを求めてるけど、ホントにそうなれるかどうかが疑わしいと思っている」
- 私もそうだった。そういうのって、分からないのは「救い」だけじゃなくて、
- 「宗教が人間を救う」のすべてが分かっていないんだよね。
-
- 実際は「宗教」も「人間」もわかっていない。
-
- それを明らかにするのが宗教なんだよ。
- 自分は「人間」であると疑いもしない・・そんな自分が明らかになる。
- 「救い」は「思い通り願い通りになること」あるいは「幸せになること」だと疑うこともない自分
- そんな世界を「迷い」というんだよ。
-
「今日は上手く赤字にもって行けそうよね(^o^)今回は短くていいよね。
やっぱり、ディスプレーでささっと読める長さがいいよね。本じゃないいんだから」
- 悪いけど、まだまだ終わらないのよね・・・なるべく端的に、とは思ってるのだけど・・思ってるだけで・・
-
「まだ”迷い”についてだけで”悟り”について聞いてないもんね。ここで
”人生は自分を見つける旅。このページは自分さがしのページ。
「問い」から見つけるのは「答え」ではなく「自分」
自分の問いの中に自分こそが問われる。
自分の問いの中で本当の自分に出会わされる。”
なんて言い出して終わったら、詐欺よねッ」
- このコーナーを「仏教Q&A」と名付けていること自体が詐欺行為だと自覚しています(^^ゞ
-
- 仏教の救いとは”転迷開悟”、迷いを転じて悟りを開く・・
- 「迷い」とは自分の願い通りになると幸せに浮かれ、思う通りにならないと不幸だとどん底に沈み
- 浮きつ沈みつしているのが「迷い」。
-
- そんな私たちに「幸も不幸も、公平に平等に受け取っていける」世界を与えてくれるのが仏教の
- 救い。
-
「”迷い”は分かるような気がする。でもそれが人間じゃないの。
誰だって幸せが良いに決まってるじゃないの、誰だって不幸はいやでしょ。
”悟り”って”幸も不幸も、公平に平等に受け取っていける”ってこと?
それが”救い”ってこと?
そんなら、不幸でもそのままガマンしなさいってこと?ガマンできるってこと?」
- 例えばいま、病気で苦しんでいるとするでしょ、その苦しみから逃れたい、
- 救われたいと思うのは当然だよね。
- でも仏教は病気を治してはくれない。
- 仏教の救いは今病気で苦しんでいるそのままの状態に満足せしめられること。
-
- 「今私がある」このあるがままの私というものが明らかになって、このあるがままの私に満足できること
-
- それはガマンしなさいってことじゃない。ガマンできるようになるって事とも違う。
- ガマンできない自分に満足できるようになるってことかな
-
「でも、ずっと苦しいままってことでしょ、そんなの救いっていえないよ」
- そうかな・・今私がある、このあるがままの自分に満足出来るってことは、苦しいままってこととは
- 全く違うでしょ。苦しいままに満足させてもらえる・・苦しみを苦しみのまま超えることが出来るのよ
- 苦しいままとは絶対に違うと思うけど・・どう説明すれば分かってもらえるのかな〜
-
「どうしても”忍耐”と”あきらめ”にしか思えない」
- そうかな・・全く違うのに。かえって苦しみに立ち向かう力を与えられると思うけど・・
- これを読んで下さってる皆さんもそのように思われるのでしょうか?
-
- どんなに幸せな人でも苦悩は免れない、どんな善人でも罪の心を離れることは出来ない・・
- それは人間が迷いの世界に在るためであり、
- 迷いの世界から離れて悟りの世界に入るのが救いだとするのが仏教よね
-
「それはよ〜くわかった、でも、迷いの世界にいるのは分かったけど、
苦しいままに満足できるはずないから救いを求めているのに・・
苦しいままに満足できるのが救いなんていわれると、ああ永遠に救われないな〜って思う」
- 苦しいままに満足できない自分がある
- そのありのままの自分がそのまま生かされている
- そのことは絶対に疑えないでしょ?
-
「うん、そうよね」
- 苦しみたくなくても苦しいことも悲しいことも人生にはいっぱいあるし
- たとえ、今幸せの絶頂にあると浮かれていてもそれが失われたら・・という不安はある
- ということも・・疑えないでしょ?
-
「うん、まあ、お釈迦様も”人生は苦である”って教えてくれるけど
そこまで考えてたら暗〜くなっちゃうじゃないの」
- そうかな、反対に、そこを考えないと明るく生き抜くことは出来ないんじゃないの
- いい加減なところで自分の問いを誤魔化していると思うよ
-
「だっていくら言われたって苦しいままで満足できるはずないもの」
- 苦しいままで満足出来ないのよ、苦しいままで満足しなさいっていってるんじゃない。
- 苦しいままで満足できない自分が、そのままでいい。
- 満足出来ない自分をどうこうする必要がない。
- あるがままままの私にというものが明らかになって
- 「その私に満足であるという場」を「浄土」が与えてくれる。
- だからこそ、未来だけでなく、過去も未来をも包んだ現在、
- 三世が確かに救われていく。
-
- あるがままの私にというものが明らかになって
- このあるがままの私に満足できるというのが
- 親鸞聖人が教えて下さる「救い」。
「なんか、わかんな〜い、やっぱり苦しいままじゃない〜」
- ああ〜どう説明したら良いんだろ〜(^^ゞ
- HELP ME !! H**E−ME !?
- 苦しいのがいや、楽しいことがいい、そうやって一喜一憂している私たちの世界が「迷い」
- それが「迷い」だと気付くのと気付かないのでは全く違うと思うよ。
- 「迷い」だと知れば、幸せに浮かれ不幸に沈むことも「迷い」だと知らされる。
-
- 「悟るといっても迷っていることを悟るのだ」って言葉があるけど、
- わたしはその言葉がありがたいなあ〜って思う。
-
- 私も苦しみや悲しみから逃れたいとばかり思ってきたけど、
- 親鸞聖人のみ教えに出会って、苦しみや悲しみを大切に思わざる得なくさせられたような気がする
-
「わかんないけど、苦しみや悲しみから逃げなくてもよくなるわけだよね」
-
- あるがままままの私にというものが明らかになって
- 「今の私に満足であるという場」を「浄土」が与えてくれる。
- だからこそ、未来だけでなく、過去も未来をも包んだ現在、
- 三世が確かに救われていく。
-
「わかんな〜い〜」
- ごめんね、また分からないところ少しずつ一緒に考えていってね
「『今の私に満足であるという場」を「浄土」が与えてくれる。だからこそ、未来だけでなく、過去も・・・』
って、これで3回目のコピー&ペーストでしょ。こんど赤字をこれに変えるの(^o^?」
- ううん、赤字はやっぱり「自分さがし」
-
- ”人生は自分を見つける旅。このページは自分さがしのページ。
- 「問い」から見つけるのは「答え」ではなく「自分」
- 自分の問いの中に自分こそが問われる。
- 自分の問いの中で本当の自分に出会わされる。”
-
- だらだらと長くなって、要領を得ない文章で御免なさい。
- これに懲りずに、何をいってるのか分からないところなどを、どうかご指摘下さい。
- 少しずつ直していきます。