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エスペラント・ことばなどに関する文章

福地俊夫


目次


日本は国連で言語的平等を訴えよ(「週刊金曜日」掲載)(→目次へ)

 本誌401号の「論争」に関して、反論を述べてみたい。

 ^又忠コ氏は、「日本語を母語とする」「インターネット人口」は「英語に次いで最大である」ことと、「日本国民が国際公共政策網に参加し、世界の世論形成から取り残されない」ようにすることを根拠に、「日本語を国連の言葉に」せよ、と主張する。ここには2つの問題がある。まず、公用語を単純に「数」の問題で決めていいのか、それから「日本国民」のため、つまり「国益」とは何か、という問題である。

 まず「数」の問題を考えてみたい。「数」だけを根拠に安易に公用語を決めて問題はないのだろうか。世界人権宣言第2条1項には「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」とある。極端な例を考えてみよう。ある国の議会が多数決によりある人種を虐殺する法案を通したとしよう。もちろん、こんな法律を国際社会は認めない。その国民すべてが賛成してもだ。なぜか。多数決によっても、侵害されてはならない基本的人権があるからだ。この条文には「言語」も明記されている。つまり、言語によって差別されないことも基本的人権なのだ。なぜなら、言語も「人種」や「皮膚の色」や「性」とほぼ同様に、先天性が極めて高く、容易に変えられないものだからだ。

 それでは、言語による差別とは具体的にどんなことか。簡単に言うと、自分の言語が特に公的な場所で使えず、他の言語を使わなければならない状況を指す。したがって、一部の言語のみを公用語とした国連は、言語差別的状況にあると言える。公用語話者と非公用語話者とを比べれば、前者は自分の言葉を自由に使え、後者は自分の言葉以外の言葉を使うか、通訳・翻訳者の費用を負担しなければならない点で、前者のほうがはるかに有利だ。これを差別と言わず何と言おう。つまり、公用語に日本語を加えたところで、この差別的状況は何も変わらない。

 次に、「国益」の問題を考えたい。猪又氏は、「日本国民」のために「日本語を国連の言葉に」と主張なさる。確かに日本語が国連の公用語になれば、日本語を話す「日本国民」のためには、大きな利益である。しかし、ハンガリー語を話すハンガリー国民、ベトナム語を話すベトナム国民、トルコ語を話すトルコ国民などにとっては、国連の言語差別的状況は何も変らないし、逆に、国連全体の通訳・翻訳費が増大し、負担を被るばかりだ。つまり、日本語を話す「日本国民」だけが有利になるわけだ。文字通り自国だけが得をする「国益」を主張しても、世界の人々を説得できるわけないし、逆に笑われるだけだろう。少なくとも、「国益」を主張する以上は、基本的人権や民主主義という普遍的理念に反するものであってはならない。

 すでに述べているように、「日本語を国連の言葉に」することは、日本が他の非公用語国より有利になるだけで、明らかに基本的人権に反する。このような主張は、逆に日本の「国益」を損なうと言ってもいいだろう。

 では、日本は「国益」のために何をすべきか。普遍的理念である基本的人権や民主主義を世界中で実現できるように訴えることではないか。国連の公用語問題に限って言えば、現在の国連の言語差別的状況を、他の非公用語国や少数言語話者とともに世界に訴え、変革することである。確かに、具体策を提案することは難しい。しかし、エスペラントのような中立言語の使用、新たな中立言語の提案、民族英語ではない真の意味での「国際英語」(本誌261号「論争」参照)の使用などの可能性がある。

注:以上の文章は「週刊金曜日」(2002年3月29日(bS05)号)に掲載されたものです。ただ、一部加筆があります。「週刊金曜日」の購読申込・問い合わせなどは03-3221-8521まで。



第二公用語論争の前に日本の第一公用語を問う(→目次へ)

 「21世紀日本の構想」懇談会は英語の第二公用語化を提案し、その後、マスメディアにおいて、賛否両論の議論が展開された。新しい提案に関して、国民的な議論が起ることは大変望ましく、民主主義にとっても大事なことである。しかし、私には一つの疑問がわきあがった。第二公用語の議論もいいのだが、そもそも日本の第一公用語は何語なのか。

 ほとんどの人は日本語と考えているのだろうか。そしてそれは自明のことなのか。例えば、裁判所法74条には「裁判所では、日本語を用いる。」と明記されているが、立法や行政の分野で使う言語については何の決まりもない。確かに、細かい規定(公証人が用いる言語など)はあるが、包括的に使用言語を定めたものはない。もちろん憲法にも公用語についての規定はない。日本語が第一公用語であることはあまりにも自明すぎて、慣用になっているから、議論にならないのであろうか。しかし、少なくとも日本国内に様々な言語を話す人たちがいるのは事実だ。かなり前からいるアイヌ、在日の人たち、また、ニューカマーといわれる最近入国してきている人たちなど、国内で使われている言語は決して日本語だけではない。

 アメリカにおいては英語公用語化をめぐる激しい議論がおこっている。どの言語を公用語にするかは、国の根幹にかかわる政策であり、国民の政治参加に直接かかわるものであるからだ。

 英語の第二公用語化を議論することも確かに大事だ。しかし、その前に第一公用語について議論することのほうがはるかに大事なことではなかろうか。

注:以上の文章は「週刊金曜日」(2000年4月21日(bR12)号)に掲載されたものです。ただ、一部加筆があります。「週刊金曜日」の購読申込・問い合わせなどは03-3221-8521まで。



エスペラントは「ヨーロッパ語」か(→目次へ)

 まず、エスペラントの言語の内的構造から考えてみます。実は「ヨーロッパ語」というものは実際には定義できません。ヨーロッパに存在する言語は様々であり、それらすべての共通点をみつけるのは不可能だからです。ただ、ヨーロッパ的な要素を多く含んでいるのは事実でしょう。例えば、表記がローマ字であること、ラテン・ゲルマン系の語根が多いこと、文体や統語法にスラブ語的特徴が多いことなどです。したがって、以上のような特徴をもつ言語の母語話者は、それ以外の母語話者よりも一般的にエスペラントの学習が容易かもしれません。ただ、ヨーロッパにある多くの言語が屈折語と言われるのに対して、エスペラントは孤立語的であると考えられています。

 次にエスペラント共同体という観点から、エスペラントのヨーロッパ性を考えみます。すでにみたように、エスペラントの内的構造はヨーロッパ性が高いわけですが、だからヨーロッパ人のためのものだと言うことができるでしょうか。またアジア人などを無視していると言えるのでしょうか。エスペラント共同体の歴史をみると決してそうではありません。例えば、当初は「antau~nomo」(「前の名前」「ファーストネーム」)という言葉が使われていました。しかし、アジア人エスペランチストの影響により、「individua nomo」(「個人の名前」)を使うことが多くなりました。日本語や中国語では「前の名前」は「個人の名前」ではなく「家族の名前」になって、全く意味が違ってしまうからです。このようにエスペラントはヨーロッパ的な視点だけではなく、アジアや他の文化の視点も加え、修正しながら発展してきました。つまり、エスペラント共同体内では、常に言語表現・言語コミュニケーションにおいて平等・中立を目指す力学が働いているのです。これは他の言語共同体には見られないエスペラント固有の文化と言ってもいいでしょう。さらに、ヨーロッパの言語を含めた他の言語には決してないエスペラント固有の語彙や表現も生み出してきました。つまり、ヨーロッパ以外の人たちもそれなりにエスペラント共同体に参加して、エスペラントをより国際的・多文化的にするとともに、独特の「エスペラント文化」を生み出してきたということです。これからも「エスペラント文化」に、より様々な文化の観点を含めるようにし、豊かにしていくことが必要でしょう。

 最後に、確かにエスペラントは言語の内的構造に限れば、ヨーロッパ性が高いと言えます。しかし、エスペラントが生まれた時代、つまり飛行機・ラジオ・電話がなく世界の情報が流通していなかった時代に、様々な文化・言語の要素をとりいれ、中立な言語を作れというのは無理な要求でしょう。また、様々な言語の要素を取り入れることで、統一性のないむしろ複雑な言語になったかもしれませんし、そもそも、どの言語話者にとっても等距離の完全中立言語は作成不可能なことです。しかしエスペラントよりも中立な言語をつくるべきだという主張を決して否定すべきではないでしょう。なぜならエスペラントのヨーロッパ性が高いのは事実であり、その事実を認めることは、原理的により中立な言語を目指すことになるからです。つまり、現段階ではエスペラントは内的構造において完全に中立ではないが、エスペラント以外のより中立な人工言語が存在しないために、エスペラントの存在意義があるということです。

(1998年6月)



言語権とは何か(→目次へ)

1 言語権の定義

 言語権はSkutnabb-Kangas("Linguistic Human Rights"1994)が1983年に以下のように定義している。この定義は特にどこかの法律条文に決まっているものではなく、言語権を一般的に定義しようと試みたものである。ただ、今のところ多くの場合、言語権を議論する際の出発点として取り上げられている。

@すべての社会集団は、一つまたは複数の言語に肯定的帰属意識を持つ権利、およびその帰属意識を他者から認められ尊重される権利を有する。

Aすべての児童は、自集団の言語を十分に習得する権利を有する。

Bすべての人は、あらゆる公式の場で自集団の言語を使用する権利を有する。

Cすべての人は、自身の選択にしたがって、居住国の公用語のうち少なくとも一言語を十分に習得する権利を有する。

○補足(番号は上記に対応)

A母語によって少なくとも6年間の初等教育を受ける権利、また母語を一つの教科として全教育課程で学ぶ権利。

C全教育課程で公用語を第二言語としてバイリンガルの教師から教わる権利

2 言語をめぐる問題点

 言語権に関しては多くの問題点があり、様々な観点から議論することができるが、ここではポイントを絞って幾つか問題提起を行いたい。

 まず、言語権が主張される時の「言語」の問題がある。定義によれば「自集団の言語」となっているが、「集団」というのは曖昧である。「民族」か、「自分が住む地域」(いわゆる「方言」)か、なんらかの「社会集団」(「女性語」など)かはっきりしない。一般的には「母語」の使用権利とも言われることがおおいが、実はこの「母語」という言葉も厳密に考えだすと、曖昧であることがわかる。バイリンガリズムの研究によれば「母語」を「起源」「帰属意識」「能力」「機能」の四つに分けて考えようとしている。多くの人はこの四つの「言語」が同じだろうが、異なる人、つまり二つ以上の「言語」を話せる人も当然存在する。そのような人にとっては、言語権を主張するときにどの「言語」を選ぶのか、簡単には決められない。また、その「言語」を誰が決めるのか、という問題がある。外から客観的に決めてよいのか、また本人の意思によって主観的に決めてよいのか。私は今のところ、具体的な場面で言語権が主張された場合、本人の意思を原則にし(つまり自分が使いたい言語)、それを基に客観的な観点(上記の四つ)から絞りを加えて(つまり単なる自分勝手な権利の濫用を防ぐために)、「言語」を決めることがいいように思う。

 第二に言語権の社会権性の強さが挙げられる。人権を国家権力との関わりの中で考えた場合に、自由権、社会権、参政権と分けられる。参政権はここでは詳しく触れられないが、自由権と社会権の相違は重要である。すなわち、自由権が私的な領域に対する国家からの過度な介入を防ぐ権利であるのに対して、社会権は国家に対して最低限の生活がおくれるように請求する権利である。言語権に関して言えば、私的な領域で自由に言語を使うことを侵害されない権利(主に定義@)ということになる。現実に国家が私的な言語使用を侵害することはないとは言えないが、自由権の必要性、重要性から理念的には現在では当然否定される。社会権的な言語権(定義ABCと補足)は、他の社会権同様に国家にコストがかかる。そのため国家の公用語なり多数者側の言語を話せない人が、言語権に基き自分の言語使用を公的な領域で主張しても、実際には実現可能性は極めて低い。もちろんだからと言って、言語権が否定される根拠にはならないが、コストの問題は避けては通れない。つまり、言語権保障の実現には社会権的な側面が強いということだ。

 第三に権利主体の問題が上げられる。言語権は普遍的な人権の一つであると考えるなら、当然すべての人が権利主体になるはずだが、実際の言語権侵害が起こるのはいわゆる少数者に対してと考えてよい。さらにその少数者の中でも現実には言語権が認められやすい人たち、認められにくい人たちというのが存在する。だいたい、国家のある多数者、国家内の少数民族・先住民族、移民・難民、旅行者の順で認められやすいと思われる。単純化して言えば、その国家の定住度が高い順といってよかろう。したがって、すべての人に言語権があるといっても、すでに述べた社会権性の強さから、短期滞在の外国人にも認められるとは言い難いだろう。もちろん認めることは歓迎すべきことであるが、国家の義務とまでは言えないのではないだろうか。

 第四に正当化根拠の問題がある。一般的に@言語本質主義(言語は各個人にとって本質的なもので簡単には変えられない)の観点から言語権を正当化することが多いと考えられるが、A言語道具主義(言語は単なる道具で自分の言語でも簡単に変えられる)、B言語エコロジーの観点(それぞれの言語は人類にとっての遺産であるから保存すべき)も考えられる。実は@Bの立場からは、言語「権」ではなく「義務」に転じてしまう可能性がある。なぜなら、自分の言語を換えたい、捨てたいという人の自由を@Bの立場は認めないということにもなりかねないからだ。言語「権」という以上は、本人の意思によって行使できる自由がなければならない。原理的には母語を使わない自由もあるといってもよかろう。@Bの立場はその点を十分に注意しなければならない。

3 エスペラントと言語権

 このテーマに関しては、合宿後にあらたに考えことを述べておきたい。こちらのほうがより重要と思われるからだ。シンポジウムの参加者から「エスペラント母語話者の存在はエスペラントの中立性を脅かさないか」という質問があった。この質問に対する私の答えは省略するが、後でこの質問に触発されて考えたことがある。仮にエスペラントの価値を「中立言語・橋渡し言語」(あくまで異言語話者間のコミュニケーション手段であり、民族語を抑圧するものではない)と規定した場合(こう考える人は結構おおいし、私自身も一つの価値と考えている)、エスペラント母語話者や、ただ自分の趣味・利益のためエスペラントを使っている人に対する圧力にはならないだろうか。つまり、エスペラントを何の価値観とも結び付けず単に使いたい・大事だ(定義@)という人の、まさに自由権的な言語権への圧力になりはしないかということだ。エスペラント(運動)によかれと思って、エスペラントに一定の意味や価値を付与する行為がエスペラントの自由使用という根源的・最重要の言語権への圧力になる、なんと矛盾したことか。つくづくエスペラント(運動)は矛盾をはらんだ存在なのだなあと考え込んでしまった。

4 裁判規範性を目指した言語権への疑問

 私は、言語権を裁判規範性をもった具体的な権利にすることで、本当に言語権を侵害されている人たちが守られるのか疑問を持ちはじめている。例えば、かなり詳細に成文化された「世界言語権宣言」というものがあるが、それはすぐにでもその内容を根拠に裁判所に訴えられるようなものだ。まず、当たり前のことだが、裁判所がすべての問題を解決できるわけではない。また、各国や各地域によって言語状況が様々で一律には考えられない。したがって、まず現段階では最初に述べた基本的な定義とともに言語権の思想、そして言語権が人権の中にあるということを確認することが先決だろう。その上で各国・各地域に合せた形で、法律化していくのが望ましいのではないだろうか。また、単に法律化することだけを目標とせず、日本の場合、例えば裁判を通じて憲法(人権)の中から、プライバシー権、人格権などが徐々に認められたように、憲法の理念の中から言語権を発見することも可能ではなかろうか。

参考図書

Skutnabb-Kangas, Tove(1994) and Phillipson, Robert "Linguistic human rights, past and present", Linguistic Human Rights. Overcoming Linguistic Discimination, Tove Skutnabb-Kangas and Robert Phillipson(eds.). Berlin and New York: Mouton de Gruyter.

注:以上の文章は日本エスペラント学会発行「エスペラント」誌(1999年8月号)に掲載されました。ただ、一部加筆・訂正があります。



社会的言語階層化理論の再考(→目次へ)

1.はじめに(→目次へ)

 日本エスペラント学会発行「エスペラント」誌97年8月号「多言語性の克服か、多言語性の擁護か」(以下@)・98年2月号「エスペランチスト世代論」(以下A)および「Riveroj n-ro19,"Venki au^ kunteni" 」(以下B)と臼井裕之氏の興味深い考察が発表された。その中で氏はラペンナ(世代)の考えを取り上げ、どちらかというと批判的に述べている。私は逆にラペンナが主張したと言われている社会的言語階層化理論を軸に、臼井氏の考えに批判を加え、さらにこの理論の現代的意義を考えたい。

 おそらく私の考えは過去のラペンナ世代の「最終勝利主義(finvenkismo)」に近いと思われるが、私にはこの考えがなぜダメなのかまったく結論が出せないでいる。確かに運動の考え方は「時代に合わせて変化すべき」(A)である。しかし、ある時代の考え方がなぜダメなのかを徹底的に考察・批判してからではないと、新しい考えを出したところで意味がないと思う。

 ラペンナは「国際レベルでは国際語(エスペラント)を、国家レベルでは国家語を、地域レベルでは地域語を」と主張し、言語問題を解決しようとしたと言われている。ただ、ここではラペンナの主張をいちいち取り上げることはしない。なぜなら、私にとってラペンナに関する情報が少なすぎるからだ。単に言語の社会的問題を3つの階層に分けて考える理論として捉え、私なりに解釈することとする。ちなみに「社会的言語階層化理論」は私が便宜上つけた名称である。

2.多言語状況は「障害」か?(→目次へ)

 臼井氏はラペンナの「多言語状況は「最大の障害の一つ」とする表現」を取り上げ、「エスペランチストの理念のなかで、民族語は普遍言語のかたわらにその存在が許容されていたにすぎない」と結論づける。さらに「言語の多様性」を疎外する「普遍言語の抑圧」を問題にしている(@B)。一般的な「普遍言語の抑圧」の問題は考察に値するが、エスペラントが本当に「普遍言語」として多言語状況に抑圧的に働いていた(いる)のであろうか。また、単に「障害」という言葉から、当時のエスペラント運動の主流に民族語を抑圧するような意図があったと断言できるのか。私はここに疑問を感じる。もし臼井氏を含めご存知の方がいたら具体例など呈示していただけるとありがたい。

 私も多言語状況は「国際協力の進展を阻む最大の障害」(@B)であると思う。なぜなら、異言語話者間において自分の言語だけ話していたら、コミュニケーションができないからだ。この困った状況は「障害」と言ってもよかろう。「国際協力」が必要になり異言語話者間のコミュニケーションが始まった時から、多言語状況は「障害」になったのだ。しかし、だからと言って、短絡的に世界を普遍言語一つに統一せよ、民族語はいらないなどという考えにはいたらないはずだ。むしろ、この多言語状況は「障害」であるけれども、それぞれの民族語はそれぞれの民族にとって貴重なものなのだから(言語相対主義・多言語性の擁護)、ある特定の民族語を国際語として使わずに中立な共通語をつかったらどうか、というのがエスペラントの思想であり、ラペンナがわざわざ3階層に分けた本意ではないか。全人類がエスペラントだけで十分なら3階層に分ける必要はあるまい。3階層に分ける意義は、それらの役割や機能が違い、区別が必要であるという意味であろう。むしろ、国際レベルの言語が国家語・地域語に抑圧的に働くことを抑制するために3階層化したと私は考えたい。また、国際語が必要な時は異言語話者間でコミュニケーションする時なのであって、同言語話者間では自分たちの言語を使えばそれでいい。そもそも全人類が同じ言語を話さなければならない必然性はない。さらにザメンホフ自身もエスペラントが民族語に対して抑圧的に働くことを警戒している(「国際語思想の本質と将来」)のは周知のことだ。確かにエスペラント運動史の中ではランティなどの「無民族性」を目指す考えもあったようだが、それらはエスペラント運動の主流であったのだろうか。

3.「多言語性の擁護」はエスペラント固有の価値か?(→目次へ)

 プラハ宣言には「言語の多様性は尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉である」とある。臼井氏によれば、これはプラハ宣言の「最も重要なポイント」であり、かつての「多言語状況」を「障害」と考えていたのと「対立」するという(@B)。私はこれに異議を唱えたい。まず言語の多様性、すなわち文化の多様性の尊重・擁護、これは文化人類学の成果である言語・文化相対主義とあまり変わらない。つまり言語や文化には優劣はつけられず、それぞれの人間集団にとって意味があるものだというものだ。だから安易に言語・文化を差別したり、弾圧したりしてはいけなという考えが生じ、さらにお互いに認め合うことでお互いが豊かになれるということにつながる。これはすくなくともエスペラント固有の考えではないのではないか。言語相対主義の考えに私は賛成するが、それをわざわざエスペラント固有の価値と強調することに疑問を感じる。すくなくともエスペラント運動においてはエスペラント固有の価値を訴えることが何より大事だと思うからだ。

 確かに、ある国家語・地域語が他の言語を抑圧した場合に、「言語の多様性は尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉である」という言語相対主義の視点から、その抑圧を批判することはできる。しかし、それは3階層化理論の国家語・地域語レベルの話であって、国際レベルでは通用しない。そのような文言は、異言語間コミュニケーションにおいて共通語がなくコミュニケーションができずに「多言語性」を「障害」と感じている人にとっては何の慰めにもならない。「障害」を「豊かさの源泉」と言い換えて、価値の逆転をはかった点は評価するが、しかし「障害」を「障害」として認めて、その「障害」を越えたところに生まれたがエスペラントであり、それこそエスペラント固有の価値と言えないか。その価値を重視せず「言語の多様性は豊かさの源泉である」などといったところで何の解決にはならない。

 そもそもザメンホフは多言語性の「障害」から、すべての言語を平等に擁護するためにエスペラントを生み出したのではないか。つまり、その「障害」を「克服」するために、民族語とは全く次元の違う新しい言語・人工語を生み出した。3階層内の国際レベルのことを問題にしていたために、全く次元の違う言語を生み出さざるを得なかったと言える。現在でも多くの地域で言語紛争と呼ばれるものが起こっている。多言語状況という「障害」から起こっていると言えないか。もちろん言語や民族の違いだけから紛争が起るのではないだろう。また同言語話者間においても紛争が起こることをみれば、同じ言語を話すようになれば争いがなくなるといのは幻想にすぎない。しかし、言語が違っていたらコミュニケーションができない、これは当事者にとって「障害」であり、その「障害」は「多言語性」が生んだものだ。言語以外のコミュニケーションがある、と主張する人は言語抜きで環境問題や南北問題を説明してみてほしい。言語を過大評価することは危険だが、言語抜きで地球規模の問題を議論できないことは明らかなことだ。このような国際レベルの言語問題に関係することこそがエスペラント固有の価値ではないか。

4.エスペラントは他言語に対して排他的な位置を占めるか?(→目次へ)

 さらに臼井氏は、以上の「多言語性の擁護」を根拠にし、エスペラントを含めたすべての言語は、他の言語に対して専一的・排他的な位置を占めるべきではないと言う(@B)。私はこのようにエスペラントを他の言語と同列に論ずることには反対である。エスペラントの問題は3階層化理論の国際レベルの問題なのである。問題は常に異言語間コミュニケーションのレベルであって、国家語や地域語レベルで機能する他の言語と混ぜてしまってはエスペラントの意味がなくなってしまう。ここに3階層化理論の区別が生きてくる。どの言語にも優劣をつけられない言語相対主義の価値が認められた現在、異言語間コミュニケーションの際、どの言語でコミュニケーションですればいいかという切実な問題は、きちんと問題として取り上げるべきである。特に国際協力をしなければ解決しない問題(環境問題、人権侵害、南北問題)が山積みされている状況に対して、エスペラントは解決策になりうるとエスペラント運動は主張すべきである。そのためにはエスペラント運動は、3階層内の国際レベル(エスペラント)と国家・地域レベル(民族語)の区別を明確にし、なぜエスペラントが国際レベルで有効であるのか答えなくてはならない。

5.エスペラント固有の価値は?(→目次へ)

 私見ではエスペラントの固有の価値は、それが異言語間コミュニケーションにおいて極めて中立に近い手段であり、さらにエスペラント運動がそれを実用化したという点である。エスペラントと他の民族語との違いは原則的に母語話者がいないということである。つまり誰でも第2言語として学ばなければならないという中立性・平等性がある。確かに母語のように自然にエスペラントを習得したという人も世界中にいるが、それでもエスペラントのみで日常生活を送っている人がいないということは民族語との決定的な違いを示している。例えばエスペラントを生まれた時から自然に憶えた母語話者と言える人で、エスペラントだけで生活している人がいるだろうか。必ず地域言語なり、居住国家の公用語なりを習得しているはずである。また、民族語に比べれば母語としてエスペラントを習得した人が極めて少ないという点で、母語話者信仰、つまり母語話者の話す規範を絶対的なものとみなすことからも自由である。

 ただ、現段階で考える必要はないかもしれないが、将来エスペラントのみで生活する言語共同体が現れたら、エスペラントの第2言語としての中立性は失われると言わざるを得ないだろう。それに関する具体的解決策を考えることはは極めて困難である(後藤文彦氏のホームページ参照)。

 エスペラント運動は民族語は国際語には向いていないと主張すべきだ。なぜなら原理的には母語話者いる言語が国際語になれば、それ以外の言語を母語とする人たちは不利になり言語差別が生まれるからだ。また、実際に現在ではエスペラントはすべての人の第2言語として、つまり異言語間コミュニケーションの道具として機能している。したがって国際レベルにおいては民族語とは全く異なるエスペラントが専一的・排他的な位置を占めるよう主張しなければならない。それはあくまで3階層内の国際レベルの話であり、そこにエスペラントを限定することにより国家語・地域語への抑圧は防げるのではないか。また、階層の全く違う国家語・地域語であるはずの英語が国際レベルで幅を利かせているというのはおかしな話であり、だからこそ民族語・英語の国際語化に反対できるのだ。

6.階層化理論における国家語と地域語(→目次へ)

 以上は主に国際語と、国家語・地域語との関係を考えたが、国家語と地域語の問題もラペンナの3階層化理論から考えることができる。近代国家成立の後、多くの国家は政治・文化の中心地の地域語を国家語とし、できるだけ一言語主義政策をとってきた。もちろん言語共同体が国家と同一であれば、何も問題は起らないが、そんな例はまれであり、多くの国家がその中に様々な言語共同体を抱えている。そして、カナダのケベック州などのように言語問題が独立闘争まで発展してしまう場合もある。ここで、問題なのは国家語と地域語の関係である。国家を運営していくには、どうしても公的空間における何らかの共通語が必要になってくる。そして、その共通語は少なければ少ないほど合理的で効率がいい。しかし、言語相対主義の観点から国家内に存在する様々な言語共同体の言語を無視したり、弾圧したりすることは許されない時代になった。歴史的にみれば近代国家が成立する時は、ほとんどの場合国家語以外の言語が弾圧されたという。したがって、国家語と地域語を分けて考える必要がでてくるのだ。一つの国家内で国家語と地域語が同じ人たちは問題はないが、違う人たちに関しては、できるだけ地域語を尊重すると同時に、国家語も学べる環境を最大限に作って、国家の公的活動に参加してもらう他はあるまい。たしかに、国家語と地域語が同じ人と違う人では、国内において言語的に平等ではないと言えるが、国家の存在を否定できない現在では、今のところ解決できないことだろう。

 ただ究極的な言語の民主主義を目指した場合、国家(語)主権を相対化し最終的に国家(語)の廃絶まで考えることも可能だろう。究極の理想の一つとして世界政府で使う言語と地域語との2階層化が考えられるかもしれない。しかし、この状態にいたる前提として、現在の国家語中心主義を相対化するために、まずは国際レベルと地域レベルの言語問題も意識的に考察しなければならないだろう。このように考えると現段階で3階層化を考えることは極めて重要なことと思われる。

 国家語・地域語の区別に関連して最近では言語権という概念が現れているが、そこでも少数話者の言語(地域語)と国家語ということを常に意識して説明されている。それは言語共同体の言語上の権利は、国家語をおしつけやすい国家側の義務を抜きに語れないということだ。その点で言語権概念は評価できるが、残念ながら国家を越えた国際レベルのコミュニケーションにおける共通語の問題は言語権概念に含まれていない(外国語の学習には触れられているが、それが国際レベルの中立手段によるコミュニケーションに関係しているとは言い難い)。そう考えると、国際語まで含めたラペンナの3階層化理論は現在でも十分に通用するものであり、むしろ今こそ必要なものだと私は思うのである。したがって、言語の問題を考える時は、常にこの3つの区別、そしてそれぞれの役割・機能は忘れてはならないと思う。もちろん、この理論ですべての言語問題が解決するわけではないが、一つの考え方の軸として大変有効であると考える。

7.「ラウミスモ」はどう考えるか?(→目次へ)

 以上では「ラウミスモ」の観点、つまりエスペラント共同体を他の少数言語の共同体のように考えることは全くとりあげなかったが、特に私はこの考えを否定するものではない。ただエスペラント運動は国際レベルにおける言語問題をエスペラントによって解決することを目指すものと私は基本的に考えているので、以上のように述べるにとどまった。しかし、エスペラント運動とエスペラント共同体の存在(または「運動」)は決して対立するものではない。なぜなら3階層化理論に従えば、前者は国際レベルの言語運動であり、後者は地域レベル(正確には「地域」という言葉は適していないが、国家をもたない少数話者言語共同体という点は同じことだ)の問題であるからである。言語としての実体は同じだが、運動の質はまったく違ったものになるだろう。UEAの会長によれぱ(「Esperanto」1998 Jan.)「運動も共同体も」大事であるということだが、一つの組織内で、どのように2つの立場が共存できるのか私にはわからない。

 すくなくとも「運動」は「人類」の問題、「共同体」は「彼ら」の問題と言える。つまり、前者は国際レベルの問題であり、地球規模の問題を話し合うための中立手段に関わり、後者は共同体にいる人たちの自己決定権に関わる。例えばある共同体の人たちが、自分たちの言語を習得するのをやめ、他の言語に同化することを決意した場合、その共同体以外の人たちは何も言うことはできまい。もちろん、彼らに同化を決意させた国家などの国家語強制行為は批判されねばならないし、人類の犯した野蛮な行為と歴史に刻まれるべきだろう。しかし、例えば現在同化を決意した在日韓国・朝鮮人に対して朝鮮語を学べと言うことはできない。すなわち彼らが決める問題なのである。「人類」の問題が「彼ら」の問題に優先されるということではなく、前者は人類が存続する限り半永久的に続くのに対し、後者は「彼ら」の決定によってはなくなってしまうものなのである。いずれにしても両者の質差を明確にしておかないと議論が混乱してしまう。

8.エスペラントは唯一の解決策か?(→目次へ)

 最後に、私は国際レベルにおいてエスペラントの専一性を主張せよと述べたが、これは実は消去法によって得た答えである。つまり、エスペラント以外に国際レベルにおいて適した手段はいまのところないということだ。将来エスペラントより中立な言語や機械翻訳などの手段が現れたら、それでも構わないと思っている。また、現在主張されている国際英語論などもあたまから否定することもしない。ただ、その場合はもちろん国際英語(国際レベル)と民族英語(国家・地域レベル)の区別をきちんとつけることだ(鈴木孝夫「武器としてのことば」など)。実体としての区別は困難でも、すくなくとも理念上は区別しなければならない。なぜなら民族英語がそのまま国際語になれば、他の民族語を抑圧することになってしまうからだ。また理念上、区別することにより新たな「国際英語」が生まれるかもしれない。このように、国際レベルのコミュニケーション手段を何にするにしても、社会的言語階層化理論の視点が常に必要であり、有用であることがわかっていただけると思う。

 さて、ここからは私の推測であるが、エスペラントの普遍性・絶対性を相対化したい、という点では、臼井氏も私も実は似ているのかもしれない。ただ、その相対化の仕方がまったく違うことは明白である。その違いは臼井氏はエスペラントを国際レベルから地域レベルに引きずりおろし、他の民族語と同列にし相対化したのに対して、私はエスペラントを国際レベルに留まらせ、他の中立手段と同列にし相対化したところだ。もしラペンナ世代がエスペラントを唯一の解決策と考えていたのなら、現段階では「唯一の解決策」だが原理的には「解決策の一つ」と考えている私とは決定的に違う。またラペンナ世代が「みんなエスペラントをやろう」(A)と考えていたなら、これも私の立場とは違う。国際レベルには「みんな」参加する必要も義務もないからだ。だからと言ってエスペラントはエリートだけのものではないことは、エスペランチスト自身がよく知っていることだろう。

追記:「エスペラント」誌97年8月号(「異言語間コミュニケーションにおける「言語差別」とエスペラントの可能性」)において、私は「エスペラント運動はすべての国際機関、国際団体に対して公用語の一つとしてエスペラントを積極的に提唱すべき」と述べたが、当時はまだ自分の考えが明確になっていなかったので、以下のように訂正する。「公用語の一つ」→「唯一の公用語」

(1998年8月)



異言語間コミュニケーションにおける「言語差別」とエスペラントの可能性(→目次へ)

 最初に言語相対主義の考えを説明したいと思います。

 文化人類学の成果の一つに文化相対主義という考えがあります。簡単に言うと、どの文化もそれぞれ価値があり、優劣をつけられないというものです。以前はヨーロッパ文化が他の文化に比べ進んでいるという考えがありましたが、文化人類学はいわゆる「未開」といわれる民族、部族などを現地調査し、文化に優劣はないと論証しました。言語も文化の一部で、関係が深いものですから、同じことが言えます。言語に関しては言語相対主義と言うことができます。つまり、世界中のどの言語にもそれぞれ価値があり、優劣をつけられないというものです。例えば、英語、フランス語などのいわゆる「大言語」も、また母語の話し手がかなり少なくなってしまったアイヌ語なども同じように価値があるということです。これはすこし考えれば分かることですが、話し手の数やその言語の話されている国の政治力、経済力、またはその言語の発音や文法構造で、言語の価値を決めることなどできないはずです。なぜなら、言語はその文化、その社会とともに独自に発展し、その社会にとっては必要不可欠であり十分に機能しているものだからです。もちろん語彙がすくなかったり、文体が十分に定まっていないという理由から学問や政治を語るには充分ではないという言語もあります。しかし、これは話し手や国家が意識的に努力すれば可能なことです。ですから本質的に「劣った」言語は存在しないと言えます。

 以上、言語相対主義について述べました。言語に優劣はつけられない、これはいいでしょう。しかし、ここで問題が起こります。それでは言語の違う人たちがコミュニケーションする時、どうすればいいのでしょうか。言語相対主義の観点からいけば、それぞれの言語が大事なわけで、誰かの言語だけを優遇して共通語とすることはできません。だれかの言語を優遇することは、その人間を優遇することになります。

 以上の問題を考える前に、具体的に国際社会の場、異言語間コミュニケーションの場を考えてみましょう。ここでは、便宜的に五つにわけてみました。

1.国連などの国際機関

2.一般社会の多国間交渉の場

3.自分の母語が話されていない地域に住む人(長期滞在者)とその地域の人

4.自分の母語が話されていない地域に行った人(短期滞在者)とその地域の人

5.書き言葉のみの文通やインターネットなどの異言語間コミュニケーション

 これら五つの場ではコミュニケーションをする人たちの母語が違います。したがって何らかの言語を共通語にしなければなりません。しかし、このような場でコミュニケーションの参加者のうち誰かの母語が共通語になったらどうでしょうか。母語以外の言語を話す時は誰でもうまく表現できないし、間違いを恐れるなどという心理的負担もあります。そのためその共通語を母語とする人たちだけが有利になってしまい不平等が生まれます。これは外国語を話す時、多くの人が経験することでしょう。また母語というのは本人の選択や努力によって変えることが極めて難しいもので、皮膚の色や性別に近く、それらによって有利な人と不利な人が出てくるのは一つの差別と言えましょう。したがって、これを言語による差別、「言語差別」としておきます。

 以上の五場面を大きくみると、「法的」な言語差別と「社会的」な言語差別にわけられます。すなわち、1は法的な差別、2、3、4、5は社会的な差別と言えるでしょう。なぜなら、1のような国際機関、例えば国連の総会においては国連決議(守らなくても罰則はありませんが国際的非難を浴びる可能性はあります)として六つの公用語が決められていて、それに従わざるを得ません。つまり1の場合は公用語について国際機関にある決まりが存在し、参加者はほとんど強制的にその公用語を使わなければならないということです。それに比べて、2、3、4、5の場合、何語を使わなければならないという具体的な決まりはありませんし、作ることも無理でしょう。したがって「社会的」な言語差別としました。

 それでは1から5の場合をそれぞれにみていきましょう。

 1の場合は、典型的な例は国連です。現在、総会などの主要な会議では、中国語、フランス語、ロシア語、英語、スペイン語、アラビア語の六つが公用語、作業語として定められています。つまり、この6つの言語のいずれかで発言できるし、また同時通訳によって六つの言語で聞けるというわけです。これは「法的」な言語差別と言ってもいいでしょう。なぜなら、六つの公用語が話されている国の代表は通訳など準備せず、自由に自分の母(国)語で発言し、また他の人の発言を聞けるのに対して、公用語以外の言語を母(国)語とする代表たちは苦労して外国語を話すか、自前でわざわざ経費をかけて通訳を準備しなければならないからです。

 2の場合を考えてみましょう。この場合、言葉はコミュニケーション上の重要な手段であり、自分の母語を使って発表したり交渉したりするのと、そうでないのとでは大違いです。もし、参加者のうちの誰かの母語が共通語になれば、それ以外の人は不利になります。

 3の場合はどうでしょうか。1や2と比べると少し違う見方ができます。言語相対主義の観点、つまりそれぞの母語が大事と考えれば、ある地域に住む外国人は、その地域の言語に敬意を示し、できればそこの言語を学ぶことが望ましいでしょう。もちろん完璧に話せる必要はなく話そうと努力することが大事ですし、実際、生活していくためにはある程度必要でしょう。逆に現地の人が外国人滞在者の言語をしゃべらなくてはいけない状況は差別的と言えます。例えば英語母語話者が日本で英語をいきなりべらべらしゃべることは差別的です。ただ「日本なのだから日本語をしゃべれ」と高圧的な態度はすべきではありませんし、日本語非母語話者であってもやむを得ず日本国内で生活しなければならない人もいるわけですから注意が必要です。

 4の場合は、3の場合と違い、現地の言語を学ぶ時間がありませんし、例えば一日しか滞在しないのに、現地の言葉を学べとは言えません。しかし現地の言葉を使わず、他の言葉を使ってコミュニケーションしたい場合、少なくとも、できれば現地の言葉で「すいません、他の言葉で話してもいいですか」ということぐらいはできるでしょう。これは「最小限の礼儀」だと本多勝一氏(「言語帝国主義」『殺される側の論理』)が述べています。

 5の場合はどうでしょうか。書き言葉のみのコミュニケーションでも同じことです。話すことに比べれば心理的な負担は少なくなるかもしれませんが、コミュニケーションの参加者の誰かの言葉が共通語になればそれ以外の人たちはもちろん不利になります。

 以上十分ではありませんが、異言語間コミュニケーションの場とそこで起こる言語差別について考えてみました。ではエスペラントはいったいどの場で力を発揮できるのでしょうか。私見では3以外の場合に特に有効ではないかと考えています。3の場合はやはり現地の言語を学ぶことが望ましいと考えるからです。もちろんエスペラントを学んではいけないということではありませんが、日本に住む外国人に対して、日本語とエスペラントのどちらを勧めるかと考えた場合に、とりあえずは日本語だと思うからです。1の場合ですが、多くの国際機関や国際団体に決まりとして公用語が存在し、公用語以外を母語とする人たちが言語差別をうけています。この差別を解消するには誰にとっても母語ではないエスペラントを使うことが望ましいです。エスペラント運動はすべての国際機関、国際団体に対して公用語の一つとしてエスペラントを積極的に提唱すべきです。一部の民族語の公用語化は「法的」言語差別であり、その決まりを変えることですから、最もわかりやすい目標の一つに成りうるはずです。ただ、すべての参加国の言語が公用語として、または(おそらく有り得ないと思いますが)すべての参加国の言語以外が公用語として認められている場合は、原理的には言語差別は存在しません。しかし、通訳・翻訳の経費が莫大なものであることを考えれば、合理性、効率の観点からエスペラントを勧めることも可能でしょう。2、4、5も言語差別解消という点で誰にとっても母語ではないエスペラントは有効でしょう。ただ、「社会的」言語差別であるという点で、具体的な運動方法が定まりにくく、社会に対する啓蒙運動が精一杯というところでしょうか。また、コミュニケーション参加者の母語以外の言語を共通語にした場合は、国際機関の公用語と同様にここでも原理的には言語差別は存在しなくなります。国際機関の場合、参加国の言語以外が公用語になることは有り得ないと思いますが、普通の異言語間コミュニケーションではよくあることです。例えば、日本語人と朝鮮語人が英語で話す場合などです。でも、この場合でもエスペラントは相対的に最もやさしい言語であるという点、世界中で共通語はできれば一つですました方がいいという合理的な観点からエスペラントを勧められます。エスペラントとは直接関係ない問題ですが、異言語間コミュニケーションにおいては少なくとも共通言語について参加者の同意を得るという考え方を広く一般に知らせることなども大事なことでしょう。

 もちろんエスペラントの宣伝には理屈だけでは効果がありませんから、すでにエスペラントを使える人たちが様々な分野でエスペラントをより実用化していくことも説得する一つの材料になると思います。エスペラントがもっと様々な分野で実用化されれば、より多くの人が学び始めるにちがいありません。

注:以上の文章は日本エスペラント学会発行「エスペラント」誌(1997年8月号)に掲載されました。ただ、一部加筆・訂正があります。



英語とウィンドウズ、どちらも"使いやすい"道具か?(→目次へ)

 英語の国際語化に賛成する立場(英語国際語論)をみると、言語道具観を根拠としている場合が多い。言語道具観とは、言語は単なるコミュニケーションをするための道具であり、道具のように簡単に取り替えられるものだ、という見方だ。したがって、国際語としてみんなが英語を選び、使うことは何の問題もないということだ。これに対して言語の文化性や話者のアイデンティティを強調するのは言語文化観と言える。たいてい言語文化観から言語道具観を批判し、その上で英語国際語論に反対することが多いが、ここでは、英語国際語論がよって立つ言語道具観の立場そのものから、英語国際語論を批判する。そのために、もっとも道具らしく、世界標準と言われているウィンドウズの例をひいてみたい。

 ウィンドウズがオペレーション・システム(OS)の事実上の世界標準となっているのは周知の通りだが、専門家によると多数のバグが存在し、大変不安定なソフトだそうだ。それは内容を非公開にして、マイクロソフト社だけで作成しているからだと言われている。このウィンドウズに対して、リナックスというOSが多くの人に使われて始めているという。このソフトは、内容がすべて公開され、無料配布されているため、誰でも改良、訂正ができるという。つまりリナックスについて誰でも自由に意見が言え、使いやすいようにみんなで改良していけるというわけだ。

 ウィンドウズとリナックスの比較をしてみたが、世界標準の道具としてどちらが優れているかは一目瞭然だろう。道具はみんなが使うものだ。みんなにとって使いやすいものでなければならない。使いやすくするためには情報を開示して、みんなで意見を出し合って、みんなで改良していくのが一番だ。

 さて、言語の問題にもどるが、英語はもはや言語道具観に立っても、国際語として認めるのは難しいだろう。なぜなら、英語を話す共同体はリナックス的共同体ではないからだ。例えば、英語を話す共同体は、英語の冠詞が難しいという日本人の主張を受け入れるだろうか。もちろん、冠詞をなくすことがより国際語に適した言語になるかはわからない。大事なことは冠詞について意見を言ったその行為を受け入れ、対等に議論をすることだ。言語も道具であるというなら、どう改良すればよりよいみんなのための道具になるのか、意見を出し合うべきだ。

 最後に、エスペラント共同体はどうであろうか。歴史的にみると「リナックス」的共同体と言ってよかろう。例えば、「lasta nomo」(「あとの名前」ヨーロッパでは大体家族の名前を指すが、日本では個人の名前になってしまう)を「familia nomo」(家族の名前)に変えたように、共同体の参加者が意見を出して、議論して、よりよいものにするという雰囲気がある。エスペラントがヨーロッパ性を多く含んでいるから平等ではない、という批判がある。ここでは詳しく触れられないが、仮にそうであっても、エスペラント共同体がもつリナックス的思想は、エスペラントのもつ極めて重要な、そして民族語がもたない独自な思想であり、その思想をもってヨーロッパ性を克服しようとしてきたことは評価に価する。

 道具を使う参加者たちの共同体における自由さ・柔軟さ・民主性という観点から見た場合、英語はウィンドウズに、エスペラントはリナックスにたとえられるのではないかと思う。そして、後者のほうがみんなで改良を重ね、より優れた道具を生み出す可能性があるのではないだろうか。

注:以上の文章は「週刊金曜日」(1999年4月2日(bQ61)号)に掲載されたものです。ただ、一部加筆があります。「週刊金曜日」の購読申込・問い合わせなどは03-3221-8521まで。



エスペラントは文化がないから言語ではないのか(→目次へ)

 エスペラントに対する批判の中で、文化がないから言語ではない、またはいわゆる民族言語より劣っているというのがあります。私自身も自分なりに考えてきたテーマですので、現在わかっていることを簡単にまとめてみようと思います。また私の思いこみや一人よがりなところもあると思いますので、多くの人から批判を仰ぎたいと考えています。

 まず、ここで言う「文化」とは何か、考えてみます。エスペラントには文化がない、という時に使われる「文化」とは何でしょうか。もし、あまりエスペラントについて知らない人だったら「言語文化、芸術」(文学)のことを指しているかもしれません。しかし、エスペラントは立派な小説、詩、演劇がありますから、上記の批判はあたらなくなります。百歩譲って、それらの文学が「立派」ではないとしても、エスペラントのオリジナル文学はありますから、「(言語)文化」はあると言えます。

 次に広い意味での「文化」について考えてみましょう。ここで考えられる「文化」はある共同体が持っている習慣、宗教、生活様式、芸術、などです。民族文化と言ってもいいかもしれません。例えば日本文化と言えば日本人、日本民族固有の「文化」ということになります。言語が文化の下位分類に含まれるか否かに関しては議論が別れるところでしょうが、ある共同体(民族)の文化と言語は極めて密接な関係にあることは確かでしょう。言語が文化をもっている、文化が言語をもっている、両方言えると思います。

 では、エスペラントと「文化」について考えてみます。エスペラントと民族言語が決定的に違うところは民族言語は共同体とともに(または共同体が先に)生まれた可能性が強いのに対して、エスペラントは言語(の基本的な決まり)が先に作られたということです。したがって、民族文化がもっているようなエスペラント固有の習慣、宗教、生活様式、芸術などはありません。そういう点ではエスペラントには「文化」はありません。民族固有の「文化」とは共同体とともに生まれ、変化、発展していくものだからです。しかし、エスペラントは作られた後にエスペラントを話す共同体が生まれました。その共同体は特定の地域で生活しているわけでありませんが、すくなくとも共通の言語を話すあるグループであると言えましょう。言語があって、それを話すグループがいるという点では他の民族語となんの違いもありません。共同体とともに言語が生まれ、変化、発展してきたか、ある一人の人間が言語の決まりをつくり、その後共同体ができ、変化、発展してきたか、その違いだけです。その違いだけでエスペラントは言語ではないと結論づけることは早急すぎると思います。

 ところで、広辞苑によると言語とは「音声または文字を手段として、人の思想・感情・意志を表現・伝達し、また理解する行為。またその記号体系」とあります。この定義から考えるとエスペラントは言語である、と自信をもって言えます。エスペラントは少なくとも言語として見る限り十分な機能を果たしています。すなわち日本語や、フランス語、中国語で言えることはほとんどすべてエスペラントでも十分に表現できます。それはエスペラントが生まれてから様々な母語を持った人たちが自分の言葉をエスペラントでどう表現するか努力してきたからです。言語としてみるかぎり、民族言語と何のちがいもありません。その点で「文化がないから言語ではない、劣った言語である」という考えに納得できません。というか、エスペラントが言語として十分に機能しているという事実、現状から考えて「エスペラントは言語であるか否か」というテーマは議論の対象になり得ないと思います。

 さらに、極めて大事なことであり、エスペラントの固有性を決定づけることは、エスペラントは国際共通補助語であるという点です。民族語と違う点であり、いくら強調してもしすぎることはありません。つまり民族語は民族語として尊重し、その言語が違う人たちが話をするときに使う言葉です。ですから、平等、中立でなければなりませんし、特定の民族の習慣や生活様式、宗教があってはならないのです。逆説的にいえば、エスペラントは固有の民族「文化」がないから、国際共通補助語としての意味、役割があるのです。

 もう一言いわせてもらえば、エスペラント「文化」は多くのひとが参加して作っていくものなのです。ここでいう「文化」とは民族がもっているような固有の習慣、宗教、生活様式、芸術ではなく、エスペラントの言語表現、国際性、平和主義、言語相対主義などを指します。それは地球に住む人々の共通の文化となるかもしれないものです。そこにエスペラントの固有の「文化」があると私は考えます。エスペラントはともすれば、ヨーロッパ文化に追随する傾向があります。私の考えですが、もっとアジア、アフリカの人が参加してエスペラント「文化」を変化、発展させていくべだと思います。ある意味ではおおくの民族が自由に使える(使わなければならない)エスペラントは民族文化よりも、混沌としていて、豊かで、様々な可能性を秘めているものではないでしょうか。

 最後に、私はこの問題を考えるにあたり自分の勉強不足を痛感しました。というか、言語、文化の問題はあまりにも壮大なテーマであり、私にはまったく手にあまるものであったということを実感しました。しかし、極めて興味深いテーマですので、これからも自分なりに勉強し考えていきたいと思います。(1995年11月)



アジアの共通語は英語で充分か(→目次へ)

 「アジア人同士では現在英語が共通語として使われている。わざわざエスペラントを学ぶ必要はないのではないか。しかもアジアの人たちは全員英語を学ばなければならず、その点で平等である」と考える人がいるかもしれません。その通りです。もう少し一般化して言えば、母語の異なる人同士が言葉を通じてコミュニケーションをする時、お互いの母語ではない第三の言葉を共通言語として使えば、お互いが平等であり問題はありません。両者ともその第三の言葉を意識的に、多少とでも苦労して学んだはずですから。これはアジアに限らず、世界中で通用する言語コミュニケーション上の「法則」と言えるかもしれません。ヨーロッパでフランス人とドイツ人が英語で話せば、お互いは平等で、どちらが有利というわけではありません。それなら、この法則通りのコミュニケーションを行えば、エスペラントはいらないのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。なぜなら、エスペラントは世界的、地球的コミュニケーションために存在する国際共通補助語だからです。ヨーロッパのためだけ、アジアのためだけ、ある地域のためだけに存在するのではありません。様々な言語を話す人のために存在するのです。したがって、英語話者が地球上に存在する限り、英語は国際語としてふさわしくないのです。英語母語話者が地球上にいなくなれば、すべての人が英語を学ばなければならず、平等が保てるでしょうが、そんなことはありえないでしょう。エスペラントはアジアのためだけや、一部の人のためだけに作られたのではありません。究極の理想として、また原則として、すべての人が平等にコミュニケーションができるように、また国際語はエスペラント一つだけで充分なように作られたのです。つまり英語に限らず、特定の民族語は世界的コミュニケーションには 適さないということです。英語は英語母語話者以外の人同士の場面ではコミュニケーションにおける平等を作り出すことができますが、英語母語話者がいる場面では平等ではなくなります。エスペラントのほうが、どんな時でも、世界中の誰に対してでも、コミュニケーション上の平等を保証するという点で、英語を含めたどんな民族語に比べ、国際語、民際語として、はるかに勝っていると言えましょう。(1997年2月)



英語を話すと英語的思考になるか(だから英語は共通語に向かない?)(→目次へ)

 「英語を話すと英語的思考になる」「ある特定の言葉を使うと、その国の文化も付帯してくる」「だから特定の民族語は国際共通語に向いていずエスペラントが向いているのだ」ということについて考えてみます。言語と文化のことを書いたこと(「1 エスペラントは文化がないから言語ではないのか」 )がありますが、極めて大きなテーマです。専門家の間でも様々な意見があると思います。私もまだ勉強中で自信がありませんが、とりあえず現在私の分かっていることを述べてみます。皆さんの反論をお待ちします。

 やや専門的になりますが、言語の相対性と普遍性という問題(「言語学のすすめ」P196)があります。相対性というのは「人間の認識や思考は特定の言語によってそれそれ規定されるという考え」(前掲書 P197)です。例えば、日本語では「米」と「ごはん」は違う意味です。しかし、英語に訳すとどうでしょうか。どちらも「rice」です。簡単に言えば、日本人と英語人では認識の仕方が違うわけです。日本人が英語を話す時、「米」の意味で「rice」と言っても英語人にとって、もしくは英語が使われる場面の中では、「米」と「ごはん」の区別は理解されず、「rice」という英語の意味で理解されます。だから、外国語を学ぶことは難しいし、完全な機械翻訳も不可能なのです。したがって、英語が話される場面では、英語による世界の見方、英語文化による意味の使い方をしないと通じなくなるのです。他の例では「(いまそちらに)いきます」という時、英語では「I am coming」と言います。単純に「いく=go」ではないのです。日本語が使われる場面、英語が使われる場面から、それらの意味を考えなければならないのです。つまり、英語を話す時は、英語としての認識、思考方法が必要なのです。以上のことが言語の相対性と言われています。

 しかし、それぞれの言語によって認識、思考が違うのであれば、言語が違う者同士は通じないではないか、ということも言えます。その反論として言語の普遍性という考えがあります。これは「個別の言語から独立して認識や思考が行われるという考え」(前掲書 P197)です。私たちは外国語の映画を日本語字幕で見たり、文学の翻訳を読んだりするとき、理解し、感動することができます。この事例から世界の認識、思考についての普遍的な何かが存在する可能性があることが分かります。

 結論を言うと、相対性も普遍性も簡単に証明できないものですが、両者とも否定もできません。したがって「英語的思考になる」可能性は充分にありうると私は考えたいと思います。一般的に言われることがある「言葉は単に道具・手段でしかない」というのは言語の普遍性のみを、つまり言語の一面だけを強調した言い方だと思います。(さらに言語の心理的、社会的側面も考えることができるでしょう。例えば、言語とアイデンティティの問題や、言語と国家の威信の問題など。残念ながら、ここでは詳しく述べられませんが。)

 しかし、英語を話せば「英語的思考になる」からといって、エスペラントが英語よりも有効であるというのは、私はあまり説得力がないと思います。それなら、エスペラントはどうなのか、エスペラントの思考法はどうなのか、と考えなければなりません。エスペラントの思考法が普遍的、世界共通であれば、英語よりも有効であると言えますが、それは証明することができないし、かなりあやしいものだと思います。例えば、「出版する」という言葉がありますが、エスペラントでは「eldoni」を使います。日本語の思考で「〜から+与える」で「出版する」という意味になるでしょうか。日本人にはこの思考はできません。簡単に言えば、これはヨーロッパの思考です。ちなみにドイツ語、ロシア語、ハンガリー語では「〜から、外に+与える」で表現するそうです。日本語の米とごはんの違いもエスペラントでは一語であらわせません。エスペラントは一般的にヨーロッパで生まれヨーロッパで発展してきたためヨーロッパの思考であり、普遍性はかなり疑わしいと思います。もちろん「eldoni」は一例であり、一般的にいって、エスペラントは英語などの民族語より、はるかにいわゆる慣用語法が少ないと思います。しかし、これも相対的なものですから、エスペラントの有効性を決定づけることにはならないと考えます。エスペラントが他の民族語と決定的に違うところは「誰にとっても母語ではない」ことです。それはエスペラントの固有性、特徴だと思います。したがってコミュニケーションの平等がどの民族語よりもはるかに保たれるということです。また、エスペラントはすくなくとも基本文法16条を守ればいいのですから、それを基礎にいろいろな民族が自由に使って「アジア的」に、またより普遍的にすることも可能かもしれません。この考えも民族語にはない固有のものです。

 誰にとっても母語ではないという点で、コミュニケーション上の平等が保たれる、これがエスペラントの最大の特徴、固有性であり、最大のセールスポイントだと私は思います。(1997年2月)



朝日新聞「日本語の『英語病』は杞憂(ソーントン不破直子)」(1997年1月16日)に対する意見(→目次へ)

 筆者は以下の2点について論じている。

 1.英語を母語としない者には不利で不平等な状況を生み出しているか。

 2.英語を母語としない文化を軽視、従属させているか。

 第1点については、英語を使って簡単にインターネットで世界中の研究者と情報交換ができる例を挙げて「『英語を母語としない者には不利で不平等』のまさに反対の現象」と述べている。つまり英語を母語としない者にとって、英語ができれば世界中の人と交流ができて大変便利であり、「不利で不平等」ではないと述べている。そのとおりである。「英語を母語としない者」同士のコミュニケーションにおいて限り、そのとおりである。しかし、ここで「英語を母語とする者」が入ってきたらどうであろうか。「英語を母語とする者」は無意識のうちに自然に英語を習得する。したがって、何もせずに世界的コミュニケーションに参加できる。これに対して、「英語を母語としない者」は時間と労力と、そして多くの人は莫大な金を使って、わざわざ英語を勉強して、それから世界的コミュニケーションに参加できる。これは「英語を母語としない者」は「英語を母語とする者」に比べ、はるかに「不利で不平等」な状況ではないか。「英語を母語とする者」がこの地球上からいなくなればいい。そうすれば、すべての人が英語を学ばなければならず、「不利で不平等」な状況はなくなる。でも、そんなことは無理だろう。

 確かに、現在英語を使えば世界中の人々とコミュニケーションができる。本当に便利な言葉だと思う。しかし、今の状況は「英語を母語とする者」に比べ、「英語を母語としない者」は「不利で不平等」な状況である。このことをきちんと認識することがまず大事ではないか。母語というのは肌の色や髪の色と同じように死ぬまで変えられないものである。そうした当人の選択や努力で取り替えることができないものによって、得をする人と損をする人がいるというのは差別と言えよう。だから母語によって差別をうけることは人種差別や男女差別と同質のものと考えられる。どの差別にしても現実には簡単にはなくなるものではない。むしろ不可能に近いものだろう。しかし、人々の理想として、または努力目標として、きちんと認識し、すこしでもよい方向へとすすめるのが大切ではないか。確かにこの言語差別は具体的に解決することが難しい。しかし、一つの策としてエスペラントが挙げられる。エスペラントは誰にとっても母語ではないという点で英語や現存するどの民族語よりも勝っているからだ。具体的な解決策を示している好例と言える。

 第2の点について考えてみよう。筆者は英語を「使ってもよい時と、使わなくてもよい時はだれがきめるのか」「それを協定だの教育だので統制する社会は全体主義社会と変わらない」と述べている。個人が使う言葉を制限して、使ってはいけない言葉使ったら罰金を課すなどということはあってはならないことだ。津田氏も、その他の誰もそんなことを考えていないだろう。津田氏は「文部省、学者、マスコミ、企業」が日本の「英語病」の「主犯格」と述べているように(朝日新聞97年12月27日 「目にあまる日本の『英語病』」)、個人が使う言葉は取り上げていない。問題は社会的な存在である政府、専門家、マスコミ、企業が使う言葉である。そこで使われる言葉は、日本国民すべて(すくなくとも義務教育をうけた人たち)がわからなければいけない言葉である。一部の人しかわからない言葉(特に英語をはじめとする外来語)を使うのは、知識や情報が独占され、「民主主義」にとって危なくなる。ある記事で読んだことだが、老人ホームのパンフレットで、日本語の言葉があるにもかかわらず、お年寄りがわからない言葉(最近の外来語)が多く使われていたという。これなどは日本語を「軽視」している例だと思う。わかりやすい日本語を使わず、わざわざ英語をはじめとする外国語を使うことは自文化を「軽視、従属させている」と言える。規制や統制がどの程度必要か、またはまったく必要ないのか簡単には決められないが、社会的な存在である政府、専門家、マスコミ、企業などは多くの人にわかる言葉を使うよう意識的に努力すべきである。

 以上のほかにも気になる点があったので、すこし付け加えたい。筆者は「英語という、幸運にも非常に意味が細分化された語彙(ごい)をもつ言語も撒き散らした。おかげで、多くの他の言語文化をそれで伝達することが可能であり、エスペラントなどの人工言語が果たせなかった実績をあげたのである。」と書いている。「意味が細分化された語彙」とは何か、よくわからないが、一つ一つの単語がもっている意味が少ないと考えるなら、つまり多義語が少ないという意味で考えるなら、これは間違いである。一般的にエスペラントは自然言語に比べ、はるかに多義語が少ないという統計上の調査がある(「国際共通語の夢」二木紘三著 P95)。また、逆に英語は多義語が多いという意味にとれば、「多くの他の言語文化をそれで伝達することが可能」というところと矛盾する。つまり、多義語が多くなれば、例えばある意味を表す時、他の言語では二つの単語で表すのに、英語では一つの単語になる可能性があるということだ。これは、あいまいになってしまうことであり、その単語の細かいニュアンスが充分に伝えられないことになる。

 以上のことは些細なことで、そもそも多義語が多い、少ないという語彙の問題で他の言語文化を伝えやすくなったり、伝えにくくなったりするものか。語彙の他の問題を考えるなら、近代的な専門語彙(学問や裁判所などで使う語彙)のない言語、たとえば発展途上国などの民族語では、近代語彙をもつ言語を翻訳することはかなり難しいということは考えられる。しかし、これも国家や話し手が努力して新たに語彙を作るなり、借用していけば解決する問題である。ちなみにエスペラントは近代的な語彙がきちんとあるので、他のたいていの言語の翻訳は現在ほとんど問題ない。その証拠に世界の有名文学はエスペラントに翻訳されているし、エスペラントによる時事雑誌や専門雑誌(医学、経済分野など様々)も発行されている。

 筆者は英語が世界に広がったのは他の言語やエスペラントが広がるよりも「幸運」であり、その理由は「意味が細分化された語彙(ごい)を持つ」からだという。これは英語が他の言語よりも優れているという考えであり、まさに英語帝国主義のイデオロギーをいえよう。語彙の問題はすでに述べたが、英語が他の言語(エスペラントを含めた)よりも優れているという根拠は他にもない。

 最後に筆者の「『英語イデオロギー』を非難し日本の現状を『英語病』と呼ぶことは、見方を変えれば、それ自体も危険なイデオロギーではあるまいか」について考えみる。「英語イデオロギー」とは「英語は国際語だから、できて当然、使って当然」(津田氏 前述)という考えのことで、英語だけを他の言語に比べ特別視することを意味する。この状況が言語差別なのである。英語が特別視されるということは英語を話せる人が特別視、優遇されることである。先にも書いたが、自分の努力や選択によってかえられないもので、ある人が得をして、ある人が損をするのは差別的状況である。この差別的な状況を「英語イデオロギー」が生み出しているのである。したがってこの「英語イデオロギー」は批判されなければならない。その批判の根拠は「差別はいけない」というイデオロギーである。この「差別はいけない」というイデオロギーによって「英語イデオロギー」を批判しているのである。このイデオロギーが「危険」であると筆者は考えているのだろうか。私はそうは思わない。現に国連憲章にも世界人権宣言にも「人種、性、言語、又は宗教による差別」はいけないと書いてある。日本も国連に加盟しているし、世界人権宣言にも批准している。もちろん、だからといって簡単に差別がなくなるわけではない。理想として、努力目標としてとらえるものである。とにかく言語差別の現状をまず認識することが大切だと思う。(1997年3月)