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よくある  疑問・質問 ご覧いただきありがとうございます。
毎日「南無阿弥陀仏」を唱えましょう。
浄土宗極楽寺 島根県出雲市平田町287
Tel&Fax 0853-62-3052

仏事の作法は宗派、地域によって異なることが多いものです。 ここでは、あくまで当山の考え方を述べます。
 考え方の基本:お経(お釈迦さまの言葉や浄土三部経に説かれていること)、法然上人のお言葉を第一とします。その根本精神は、「自らを灯明とし、法を灯明とし」(真理の道を自分の道として歩み)、阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を唱えて生きることに尽きます。

 皆さんがいろいろと気になさる事柄のほとんどは習俗(習慣、風習、言い伝え)にかかわるもので、仏教で言うことではありません。正しく生き、お念仏を唱えていれば何ら思い煩う必要のないことです。
法然上人の強い信仰心と合理精神は、「百四十五箇条問答」(浄土宗のホームページ
http://www.jodo.or.jp/
を参照して下さい)からうかがうことができます」



↓問又は質問内容ををクリックしてください。お答えページ欄が出ます。
戒名料はいくらですか?
信士・信女ではカッコ悪い。せめて居士・大姉にしてほしいのですが…。
古くなった仏壇、墓石、塔婆、位牌はどうすればいいでしょうか?
新しい仏壇を、お寺さんに拝んでもらわないうちに拝むといけないとききましたが?
仏壇を拝んでもらうときにフナを用意しなければならないのですか?
焼香は何回するものでしょうか、線香は何本立てるのでしょうか?
「天国」と「極楽」は違うのですか?
後継者が無く、永代供養をしてほしいのですが?
数珠は法事に必要ですか?

初7日を葬儀の後一緒に行いたいのですが・・

49日が三月越しになるといけないと聞きましたが・・・
初盆はどうしたらよいのでしょうか?
浄土宗と浄土真宗(真宗)はどう違うのですか?
供養をしていない霊があり、祟りがあるようで怖いのですが?

 戒名料はいくらですか?

答 極楽寺では不要です。その代わり住職と相談して生前に付けることをお勧めします。

 戒名(法名)は、仏の弟子として生きる証(あかし)として付ける名です。キリスト教でいえば洗礼名ですし、俳句を趣味とする人なら俳号にあたりますので、生きている時に付け、その名にふさわしい生き方をしようとするのが本来のあり方です。浄土宗ではお念仏の信者となる儀式を五重相伝といい、その時住職と相談して付けます。当山では平成7年に五重相伝を行い、二百数十人の方がすでに戒名を持ち、念仏信者として自覚的に生きておられます。

 しかしながら、五重相伝は五日間にわたる儀式で、一流の説教師(勧戒師)を始めとする多くのお寺さんの協力が必要ですから、なかなか開催できません。五重相伝を待てない方、忙しくて受けられない方は住職に相談してください。繰り返していいますが、戒名は生きているうちに付けてこそ意味があります。もちろん、お坊さんは全員戒名を持っています。

 極楽寺では幸いなことに、49日や年回法要の際、「追善供養」として多くの方が自発的に寄付されますので、寺の修繕等の維持が充分にできています。しかしながら、維持していくためやむを得ず戒名料をいただいているお寺もあり、すべての戒名料の授受を否定するものではありません。


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 信士・信女ではカッコ悪い。せめて居士・大姉にしてほしいのですが…。

 カッコ悪いということはありませんが・・・

 確かに戒名には文字数、院号の有無、居士・大師、信士・信女といった違いがあります。そういう差は仏教本来の教えにはありませんが、習俗として存在しており、当山では長い目で見てその方やご家族の重荷にならないことも考えて付けております。

 居士」とはそもそも、出家していない仏教信者のことで、お釈迦さまの高弟たちもかなわないほどの悟りを得たインドの「維摩居士」にちなんで付けられるものです。遺族はとかく「格」の高い戒名を望まれますが、故人が本当に「格」の高い戒名を付けられて喜ばれるでしょうか? 故人のご意思であれば御希望に沿うようにいたしますが、かえって重荷になることもあります。御家族でよく相談なさってお寺に申し込んでいただきたいと思います。

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 古くなった仏壇、墓石、塔婆、位牌はどうすればいいでしょうか?
 古くなった仏壇、墓石、塔婆、位牌等は魂を抜いて供養します。
   
 塔婆、白木の位牌は期間を過ぎれば燃やすことを前提にしていますので、念仏を唱えてから御自身で燃やしてもかまいません。抵抗がある方は、お寺に持ってきてください。

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新しい仏壇を、お寺さんに拝んでもらわないうちに拝むといけないとききましたが?
 お仏壇、墓石などを新たにおまつりする場合、皆さんが心を込めてお祈りされることが一番大切なことです。

 ご先祖様も子孫の供養を一番喜ばれるはずです。ですから、開眼供養をしなければ拝んではいけないということはありません。開眼供養は法事やお盆の棚経に併せて行ってもかまいません。もちろん、そのために特に別開眼供養をなさることはいいことです。

 一番いけないのは、お坊さんにすべてを任せて、日々のお祈り、墓参を怠ることです。

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 仏壇を拝んでもらうときにフナを用意しなければならないのですか?
 やめてください。

 それは、もともと放生(ほうじょう)といって、生き物を助ける仏教行事からきたものです。現代では、生きたフナを売っている店はありませんので、フナを助けることにはなりません。むしろ、フナを苦しめることになります。

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 焼香は何回するものでしょうか、線香は何本立てるのでしょうか?
 1回、2回、3回どれでもかまいません。それぞれにきちんとした理由付けはできます。

 1回は「一心に往生を願う」という意味があり、葬儀の会葬では1回心を込めてなさるのがよいでしょう。ご仏前の線香も初7日までは1本立てます。

 出雲地方では焼香2回、線香も2本立てることが多いので、私も49日以降のご法事の際には線香を2本立てるようにしています。そのときは「仏と衆生(我々)」「戒と定」を心に描いて立てるようにしています。

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 「天国」と「極楽」は違うのですか?

 天上にある国という点では、「天国」も「極楽」も同じです。しかしながら大きな違いもあります。

そもそも仏教は「永遠に不変な霊魂や自我」を認めていません。それが「無我」ということです。私たちの「霊魂」は死後極楽浄土に往生しますが、その「霊魂」が永遠に極楽に存在するのではなく、極楽で悟りを得、輪廻の世界を離れた「命」そのものとなるのです。手塚治虫さんのマンガ「ブッダ」の最後のシーンがそれをイメージしたものです。

「天国」と「極楽」の違いは、「天国」が「永遠の魂が住む場所」であり、「極楽」が「魂が命そのものになるための期間を過ごす場所」ということです。 どうか「永遠に不変な霊魂」という「我」にとらわれず、阿弥陀如来の「命」と「光」を感じ取ってください。

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 後継者が無く、永代供養をしてほしいのですが?

 清心観音への分骨をお勧めします。併せて大阪の一心寺へも納骨されてはいかがでしょう。

理由@「霊魂不滅」ではありません(〈「天国」と「極楽」の違い〉をご覧ください)

理由Aお坊さんの読経と回向よりも、あなたが仏教信者として「生きる」ことが重要です

 永代供養を願う人の中には、「死後読経してもらえなければ、成仏できないかもしれない」といういわれの無い不安をお持ちの方がいらっしゃると思います。しかし、お念仏をした人は必ず阿弥陀如来の力によって極楽へ往生できるというのが浄土宗の教えです。いわれの無い不安をそのままにして、「永代供養」をお約束し安心していただくのは、よくありません。まずは、ご自身が仏壇を拝み、墓参をし、お寺にお参りください。そういう方のご相談にはできるだけ御希望に沿うようにいたします。

 清心観音はお寺にいらっしゃる多くの方がお参りされ、愛宕山を背景に平田の街を望むことのできる、骨を埋めるには絶好の場所です。さらに篤信の方が植え、育てられた桜も大木となってまいりました。後継者の心配のない方も、清心観音への分骨をお勧めいたします。

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 数珠は法事に必要ですか?

 念仏を唱えることが先です。

 数珠は、書いて字のごとく「数を数える」ものです。特に浄土宗の数珠は2連になっており、飾りに見える珠(記子といいます)も動くようになっています。それをうまく使って(使い方は住職にお尋ね下さい)3万回または6万回念仏を数えることができます。

 浄土宗の数珠を持っていることは、できる限りたくさん念仏を唱える気持ちを表したものですから、お念仏をしないで飾りとして持っているべきものではありません。また、おまじないとして擦り合わせることはしません。

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 初7日を葬儀の後一緒に行いたいのですが・・・

答 最近ではご遺族、ご親戚の都合もあって、そうなさる方が多くなりました。それで結構ですが、初7日の前の夜(逮夜)には、ご家族は必ずお念仏をお唱えください。

 「こころ」のこもらない「形式」は、いつか「形式」すらなくなるものです。お寺も遺族も「形式」だけ整えて「こころ」のこもらない儀式をするだけなら、次にやって来るのは「お坊さんを呼ばない葬儀」だと思います。

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 49日が三月越しになるといけないと聞きましたが・・・
答 俗信です。「俗信を使う」ことはかまいませんが、「俗信に使われて」しまってはいけません。

 「清心」56年正月号に24世が書いていることを紹介します。「三月越になるので満中陰をくり上げて」という相談をよく受けます。当地の従来からの風習でありますから、むやみに一笑に付するのもどうかと思いますが、少なくとも仏教の教えの中にはこのようなことは全く存在しませんので、恐らく何かの都合で、誰言うとなく信じこまれるようになったものと思います。根拠を探すのは困難ですが、昔から(とくに江戸時代)地方によってこのようなことが行なわれたふしはあります。もっとも、これは、善意から発生したものといわれております。徒弟制度のきびしかった江戸時代、親方・子方の主従関係にあった子方が、親方に対する欠礼をせめて一回に止め、(三月ごしになると二回は欠礼することになる)三月目には早々と親方に対し挨拶に参上したというものです。親方・子方の従弟制度の存在しない今日では、全く意味のないことといえます。

むしろ、お浄土へ到着される満中陰は、四十九日当日が最もよろしかろうと存じます。他にみ月は「忌月」に通ずるからさけるといった俗説もありますが、信疑の程はさだかでありません。このような種のことがらは、少なくとも仏説ではなく俗説という類のものですが、俗説をどう受けとめるかは自分自身の問題でありますので、他に相談することがらではないようです。俗説があたかも仏説のごとく考えられたりしている例は、これに限らず他にも数多くあるようです。私達にとっては、お念仏の道だけが真実報土の行でありますし、全ての俗説なるものは、念仏一行の仏説によって大きく包んでいくよう心がけていきたいものと思います。

 「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり」

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 初盆はどうしたらよいのでしょうか?

答 暁天念仏(8月9〜15日、朝5:00より)にお出かけ下さい。

  浄土宗徒として大切な順は次の通りです。
  @自分が念仏を唱える。
  A阿弥陀如来と先祖の恩に感謝し、自分が読経し念仏を唱える。
  B先祖の供養のため、僧侶の読経を支えとして自分も読経し念仏する。
  暁天念仏に出かけることで@とAが満たされます。最近は初盆を法事の形で営みたいと希望なさる方が多くなりました。それはBですから、暁天念仏にお出かけいただいた上でなさってください。ただし、8月13日、14日は棚経におじゃまするお宅がそれぞれ80軒ほどあり、ご希望にそえかねる場合があります。

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 浄土宗と浄土真宗(真宗)はどう違うのですか?

 阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏と唱える点ではまったく同じです。

 大切なのは、小さな違いより「南無阿弥陀仏」と唱え、より正しく生きていくことです。
 とはいえ、ちょっとした知識として知っておきたいという方のために、外面的なことのみを以下に示します。
 もっと深く知りたいと思われる方は、簡便に知ろうとなさらず、お寺さんに質問なさったり、本を読んだりなさってください。当山の場合、23世、24世ともに浄土真宗本願寺派の寺の生まれでして、浄土宗のまじめなお坊さんからは「極楽寺さんの阿弥陀如来やお念仏の捉え方はやや真宗的だ」と言われます。

浄土宗 浄土真宗〔真宗〕
組織〔教団〕 知恩院を総本山とする「浄土宗」(末寺7千余)など 西本願寺を本山とする「浄土真宗本願寺派」(末寺1万余)

東本願寺を本山とする「真宗大谷派」(末寺1万弱)など
開祖 法然上人 親鸞聖人
教団確立者 三祖 良忠上人 8世 蓮如上人(本願寺派、大谷派)
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 供養をしていない霊があり、祟りがあるようで怖いのですが?
答 そんなことはありません。

 生前に南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず極楽浄土に行けるというのが浄土宗の教えです。極楽浄土にいるご先祖さまが祟るはずがありません。ですから供養をしなければならないということはありません。しかし、自分がこの世にこうして存在している不思議を考えてみて下さい。阿弥陀如来とご先祖に感謝し、南無阿弥陀仏ととなえる気持ちになるのではないでしょうか。自分ひとりで南無阿弥陀仏ととなえるより、お坊さんととなえるほうがいいと思っていただけるようなご法事を務めさせていただきます。

 「清心」56年正月号に24世が書いていることを紹介します。
仏教とは、元来極めて合理的、理性的な教えでありますから「世にも不思議な」といった領域は仏教信仰の対象ではありません。然し、現に仏教寺院の中にもいわゆる「おがみ屋」があることは事実ですし、それによってお迷いになっている方も数多くありますが、これだけは、理解して頂きたいと存じます。お経の中にも不可思議という語は出てまいりますし、阿弥陀さまを「不可思議如来」とも申し上げます。考えてみますと元来、私たちには、生の確証は全く存しないものであり、生まれ生きていることは全く不思議そのものであります。「不思議なご縁」と喜ばなくてはなりません。これくらい偶然なことはありません。生きていること森羅万象がすべて不思議である、それを特定のことだけ不思議と信ずる不合理さは、すべて「迷信」に属するものであるといわなくてはなりません。

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ご覧いただきありがとうございました。
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