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<FONT size="-1">布教(仏教の解説と法話)</FONT> ご覧いただきありがとうございます。
毎日「南無阿弥陀仏」を唱えましょう。
浄土宗極楽寺 島根県出雲市平田町287
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法話 『彼岸』
『無量寿経』のことば
『観無量寿経』のことば
『阿弥陀経』のことば
善導大師(613〜681)のことば
法然上人(1133〜1212)のことば

彼岸に想う

 「彼岸」とは悟りの境地に至ること

「彼岸」は「到彼岸」を略したもので、悟りの境地に至るという意味のサンスクリット語パーラミター(波羅蜜多)を訳したものです。煩悩に満ちたこちら側の岸「此(し)岸(がん)」から、悟りの境地である向う側の岸「彼岸」に渡ることを意味しています。

六波羅蜜(はらみつ)(布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の完成)によって悟りの世界へ

その彼岸(悟り)に至るためには、六つの波羅蜜を実践するという考え方があります。六つの波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。「般若心経」の正式な呼び方は「摩訶般若波羅蜜多心経」で、「大いなる智慧の完成の真髄のお経」という意味でが、まさに六番目の「智慧の波羅蜜」を讃えたお経です。それはさておき、一番目に出てくる「布施」についてお話します。

 無財の七施(思いやりの心も布施)

布施というとお坊さんに渡す「お布施」だけを連想される方が多いと思いますが、それは布施の中でも「財施」と言われるものです。布施にはその他に「法施」もあります。法話も「法施」の一つです。法事の後、法話をしないお坊さんもいるようです。好意的に考えれば読経によって「法施」をしていると言えますが、「財施」に対しては法話をしてこそ「法施」と言えるのではないでしょうか。

 財施、法施以外にも無財の七施というものがあります。それは次のようなものです

1  眼(がん) 施(せ):優しいまなざしで接すること

2 和顔施(わげんせ):笑顔で接すること

3 愛語施(あいごせ):優しい言葉、思いやりのある言葉を交わすこと

4 身(しん) 施(せ):自分の身体を使って奉仕をすること

  5 心(しん) 施(せ):他人のために心をくばること

6 牀座施(しょうざせ):たとえば電車の中で喜んで席を譲る行為。

7 房舎施(ぼうしゃせ):風や雨露をしのぐ所を与えること

 すべて、「他人を思いやる心」を表情や、ことばや行いで実行することです。

簡単そうで難しい和願施

 無財の七施については他のホームページの法話欄にもいろいろと載っていますので、詳しくはそちらも参考になさってください。無財の七施の中で私が好きなものは「和顔施」です。笑顔で人に接するという簡単なことが他人への贈り物であるというのは、深い智恵に裏付けられたことばだと思います。

しかしながら、私たちはともすると笑顔で接するとしても、「相手(の出方)次第」と考えてはいないでしょうか。「きのうけんかをしたので、向こうが謝ったら笑顔で挨拶しよう」とか、「難しそうな顔をしている人だから、とりあえず挨拶だけしておこう」とか「笑顔で接したのに、その甲斐がなかったらどうしようか」などと考えないでしょうか。私は、恥ずかしながらそう考えてしまうことがあります。「施して報いを求めず」ということは「笑顔」一つとっても簡単なようで難しいことです。

三歳の子供でも分かるが、八十歳の人間でもできない ― 簡単なようで難しいこと

「諸悪莫作(しょあくまくさ)  衆(しゅ)善(ぜん)奉行(ぶぎょう)  自淨(じじょう)其(ご)意(い)  是(ぜ)諸仏教(しょぶっきょう)」 (法句経) 

 諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し、自らのこころを浄める、これ諸仏の教えなり

悪いことをせず、良いことを行ない、自分の心を清らかにしていく。これが諸仏の教えておられる仏教の真髄です。とはいえ、このことばも当たり前すぎて、深遠な教えを期待する者には意外な感がします。白楽天という有名な唐の詩人が、「仏法の大意とはどういうものでしょうか」と道林禅師という人に聞いたところ、「諸悪莫作 衆善奉行」と答えでした。そこで白楽天が「そんなことなら、三歳の童子でもそう言うでしょう」と言うと、道林禅師は「三歳の童子でも言えるが、八十歳の老翁も実践することはむつかしい」と答えたというものです。

「笑顔で人に接する」ことがいいことは誰でもわかりますが、そのとおりに実践することは極めて難しいものです。

「彼岸」は西方極楽浄土

浄土宗では念仏が「彼岸」=極楽浄土に到る一番大切な行いです。彼岸の期間は皆さんの墓参りをなさると思いますが、いつも以上に「笑顔」を心がけ、念仏を唱えましょう。特に彼岸の中日は太陽が真東から昇り真西に沈みますので、沈む太陽を拝み、その先にある極楽浄土に思いをはせ、自己の往生と先祖をしのぶ一日にしたいものです。

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『無量寿経』のことば

○法蔵菩薩(後の阿弥陀如来)は、世(せ)自(じ)在(ざい)王(おう)如来を見て、自分も修行して仏になりたいと願う。(『歎仏頌』) 

 「(世自在王)如(にょ)来(らい)の容(よう)顔(げん)は世(よ)に超(こ)えたまいて、倫(たぐい)無(な)し。正(しょう)覚(がく)の大(だい)音(おん)(悟りの言葉)響(ひびき)、十(じっ)方(ぽう)に流(わた)る。」    

 「仮令(たとい)、身(み)は諸(もろもろ)の苦毒(くどく)の中(なか)に止(とど)まるとも、我(わ)が行(ぎょう)は精進(しょうじん)にして、忍(しの)んで終(つい)に悔(く)いざらん。」

(たとえ私は苦難の中に身をおくことがあっても、悟りを得て人々を救う願いの実現のために精進をつづけ、耐え忍んで悔いることはないでしょう。)

○法蔵菩薩が、世自在王如来に仏となって人々を救いたいという願いを述べる。(四十八願)

 「設(も)し我(われ) 仏(ほとけ)を得(え)たらんに、十(じっ)方(ぽう)の衆(しゅ)生(じょう)、至(し)心(しん)に信(しん)楽(ぎょう)して、我(わ)が国(くに)に生(しょう)ぜんと欲(ほっ)し、乃(ない)至(し)十(じゅう)念(ねん)せんに、若(も)し生(しょう)ぜずんば、正覚(しょうがく)を取(と)らじ。」

(もし私が仏になったときに、人々がこころから信じ願って、私の国に生まれたいと思い、十声ないし一声念仏を称えても浄土に生まれることができないなら、悟りを得て仏になることはしません。)

○法蔵菩薩が、四十八願の心を詩の形で述べる。(『四誓偈』、真宗では『三誓偈』または『重誓偈』)

 「我(われ)無(む)量(りょう)劫(こう)に於(お)いて、大(だい)施(せ)主(しゅ)と為(な)って、普(あまね)く諸(もろもろ)の貧(びん)苦(ぐ)を済(すく)わずんば、誓(ちか)って正(しょう)覚(がく)を成(じょう)ぜじ。」

(私は未来永遠に人々に施しをする者となって、貧しく苦しむ人々を救わなければ、仏にはなりません。)

○釈迦如来が、阿難に浄土の様子を説明する。

 「其(そ)れ衆(しゅ)生(じょう)有(あ)りて、斯(こ)の光(ひかり)に遇(あ)う者(もの)は、三(さん)苦(く)消(しょう)滅(めつ)して身(しん)意(に)柔(にゅう)軟(なん)なり。歓(かん)喜(ぎ)・勇(ゆ)躍(やく)して善(ぜん)心(しん)生(しょう)ず。」

(阿弥陀如来の光に会う者は、苦しみが消え、身も心も癒される。喜びの中に善心が生まれてくる。)

「若(も)し三(さんず)塗(餓鬼、畜生、地獄)の勤(ごんく)苦の処(ところ)に在(あ)りて此(こ)の光(こう)明(みょう)を見(み)奉(たてまつ)れば、皆(みな)休(く)息(そく)を得(え)て、解(げ)脱(だつ)を蒙(こうむ)る。」

○釈迦如来が、阿難に浄土への往生の方法を説く。

「其(そ)れ至(し)心(しん)に彼(か)の国(くに)に生(う)まれんと欲(ほっ)するもの有(あ)らんに、仮使(たとい) 諸(もろもろ)の功徳(くどく)を作(つく)ること能(あた)わずとも、当(まさ)に 無(む)上(じょう)菩(ぼ)提(だい)の心(こころ)を発(おこ)して、一(いっ)向(こう)に意(い)を専(もっぱ)らにして、乃(ない)至(し) 十(じゅう)念(ねん)に、無(む)量(りょう)寿(じゅ)仏(ぶつ)を念(ねん)じて、其(そ)の国(くに)に生(う)まれんと願(ねご)うべし。…此(こ)の人(ひと)終(お)わる時(とき)に臨(のぞ)んで、夢(ゆめ)のごとくに彼(か)の仏(ほとけ)を見(み)たてまつりて、亦(また)往(おう)生(じょう)を得(う)。」

○すべての仏が、阿弥陀如来の浄土をほめたたえる。(『讃重偈』、浄土真宗では『東方偈』)

「其(そ)の仏(ほとけ)の本(ほん)願(がん)力(りき)によりて、名(みな)(阿弥陀仏の名)を聞(き)きて往(おう)生(じょう)せんと欲(ほっ)せば、皆(みな)悉(ことごと)く彼(か)の国(くに)(阿弥陀仏の浄土)に到(いた)りて、自(おのずか)ら不(ふ)退(たい)転(てん)(浄土から迷いの世界に戻ることがない位)に致(いた)らん。」

○釈迦如来が、五悪の世の中を説く。

「此(こ)れ(悪に充ちたこの世界)に於(お)いて善(ぜん)を修(しゅ)すること十日十夜(じゅうにちじゅうや)なれば、他方(たほう)の諸仏(しょぶつ)の国土(こくど)に於(お)いて善(ぜん)を為(な)すこと千歳(せんざい)するに勝(すぐ)れり。」(十夜の根拠)

○釈迦如来が、阿弥陀如来とこの教えに出会うことで世界が良くなることを述べる。

 「天(てん)下(げ)和(わ)順(じゅん)(天下太平)日(にち)月(がつ)清(しょう)明(みょう) 風(ふう)雨(う)時(とき)を以(もっ)てし、災(さい)��(れい)(災害や疫病)起(お)きず、国(くに)富(と)み民(たみ)安(やす)らけく、兵(ひょう)戈(が)(武器)用(もち)いることなく、(人々は)徳(とく)を崇(あが)め仁(じん)を興(おこ)し、務(つと)めて礼譲(らいじょう)を修(おさ)む。」

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『観無量寿経』のことば

『観無量寿経』の前提となっている物語

頻婆娑羅(ビンビサーラ)王と王妃韋提希(イダイケ)には子がありませんでした。占い師に見てもらうと、二人の間に生まれる子は、ある仙人の生まれ変わりとして授かるということでした。一日も早く子を欲しい王は、その仙人を殺し、待望の子=阿闍世(アジャセ)が生まれます。生まれてきた阿闍世を見た占い師は、その子が将来父を殺すであろうと予言します。恐れた王は塔の上から阿闍世をつき落として殺そうとしますが、一命をとりとめます。

青年に成長した阿闍世は、出生の秘密を知り、父王を殺そうとし、父王を助けようとした母も幽閉してしまいます。呪われた運命を嘆き悲しむ

韋提希(イダイケ)に釈迦如来は、極楽浄土を見せ、極楽浄土に往生する方法を説きます。

浄土宗でよくお称えする「真身観文」は、釈迦如来が弟子の阿難と韋提希夫人に阿弥陀如来のお姿を思い浮かべる方法を説く部分です。

○韋提希は、すべての浄土を見せてほしいとお釈迦さまにお願いする。

「世(せ)尊(そん)(お釈迦さま)、我(わ)が為(ため)に広(ひろ)く(く)憂(う)悩(のう)なき処(ところ)(苦悩のない世界=浄土)を説(と)きたまえ。我(われ)当(まさ)に往(おう)生(じょう)すべし。」

○すべての浄土を見た韋提希は、多くの仏の浄土の中から阿弥陀如来の極楽浄土を選ぶ。

「世(せ)尊(そん)、是(こ)の諸(もろもろ)の仏(ぶつ)土(ど)、亦(また)清(しょう)浄(じょう)にして皆(みな)光 (こう)明(みょう)有(あ)りと雖(いえど)も、我(われ)今(いま)、極(ごく)楽(らく)世(せ)界(かい)の阿(あ)弥 (み)陀(だ)仏(ぶつ)の所(ところ)に生(う)まれんと楽(ねが)う。」

○韋提希は、釈迦如来入滅後の人々のために、極楽浄土を見る方法をたずねる。

「世(せ)尊(そん)、我(わ)が如(ごと)きは今(いま)仏(ふつ)力(りき)を以(も)っての故(ゆえ)に彼(か)  の国(こく)土(ど)を見(み)つ。若(も)し仏(ぶつ)滅(めつ)の後(のち)の諸(しょ)衆(しゅ)生(じょう)等(    とう)、濁(じょく)悪(あく)不(ふ)善(ぜん)にして五(ご)苦(く)に逼(せ)められん。いかにしてか  当(まさ)に阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)の極(ごく)楽(らく)世(せ)界(かい)を見(み)るべき。」

○釈迦如来は、阿難と韋提希に阿弥陀如来を心に描き往生する方法を教える。(第九観「真身観文」)

「(阿弥陀如来の)一(いち)々(いち)の光(こう)明(みょう)、?(あまね)く十(じっ)方(ぽう)世(せ)界(かい)を照(て  )らして、念(ねん)仏(ぶつ)の衆(しゅ)生(じょう)を摂(せっ) 取(しゅ)(すくい取る)して捨(す)てたま  わず。」

「仏(ほとけ)の身(み)を観(み)たてまつるを以(もっ)ての故(ゆえ)に、亦(ま)た仏(ほとけ)の心(こころ )を見(み)たてまつる。仏(ほとけ)の心(こころ)とは大(だい)慈(じ)悲(ひ) 是(こ)れなり。無(む) 縁(えん)の(人にも差別しない)慈(じ)(慈悲)を以(もっ)て諸(もろもろ)の衆(しゅ)生(じょう)を摂(せっ)し たまう。此(こ)の観(かん)(阿弥陀如来の姿を見ること)を作(な)す者(もの)は、身(み)を他(た)世(せ) に捨(す)てて(現世で自分を犠牲にして来世で)諸(しょ)仏(ぶつ)の前(みまえ)に生(しょう)じて無(む)生(しょ う)忍(にん)(不生不滅の真理を悟ること)を得(え)ん。」

「声(こえ)をして絶(た)えざらしめて、十(じゅう)念(ねん)を具(ぐ)足(そく)して、南(な)無(む)阿 (あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)と称(しょう)せば、仏(ほとけ)の名(みな)を称(しょう)するが故(ゆえ)に、 念(ねん)念(ねん)の中(なか)に於(お)いて八(はち)十(じゅう)億(おく)劫(こう)の生(しょう)死(じ)の罪( つみ)を除(のぞ)く。」(第十六観「下輩観」)

     ○釈迦如来は、阿難に『観無量寿経』の要点=阿弥陀如来の名を唱えること、を教える。

「若(も)し善(ぜん)男(なん)子(し)善(ぜん)女(にょ)人(にん)、但(た)だ仏(ほとけ)の名(みな)(阿弥陀如来の名)、二(に)菩(ぼ)薩(さつ)(観音・勢至)の名(な)を聞(き)くに無(む)量(りょう)劫(こう)の生(しょう)死(じ)の罪(つみ)を除(のぞ)く。…若(も)し念(ねん)仏(ぶつ)する者(もの)は、当(まさ)に知(し)るべし、此(こ)の人(ひと)は是(こ)れ人(にん)中(ぢゅう)の分(ふん)陀(だ)利(り)華(け)(泥の中で美しく咲く白い蓮)なり。観(かん)世(ぜ)音(おん)菩(ぼ)薩(さつ)、大(だい)勢(せい)至(し)菩(ぼ)薩(さつ)其(そ)の勝(しょう)友(う)と為(な)りたまう。…汝(なんじ)好(よ)く是(こ)の語(ご)を持(たも)て。是(こ)の語(ご)を持(たも)てと曰(い)うは、即(すなわ)ち是(これ)無(む)量(りょう)寿(じゅ)仏(ぶつ)の名(な)を持(たも)てとなり。」

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『阿弥陀経』のことば

○釈迦如来が、舎利弗に極楽浄土を説明する。(なぜ「極楽」と呼ぶのか、「阿弥陀」というのか)

 「是(これ)より西(さい)方(ほう)十(じゅう)万(まん)億(のく)の仏(ぶつ)土(ど)を過(す)ぎて世(せ)界(かい)有(あ)り、名(な)づけて極(ごく)楽(らく)と曰(い)う。其(そ)の土(ど)に仏(ほとけ)まします、阿(あ)弥(み)陀(だ)と号(ごう)す。今(いま)現(げん)に在(ま)しまして説(せっ)法(ぽう)したまう。舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、彼(か)の土(ど)を何(なん)が故(ゆえ)ぞ(どうして)名(な)づけて極(ごく)楽(らく)とする。其(そ)の国(くに)の衆(しゅ)生(じょう)、衆(もろもろ)の苦(く)有(あ)ることなく、但(た)だ諸(もろもろ)の楽(らく)のみを受(う)く。故(ゆえ)に極(ごく)楽(らく)と名(な)づく。」

 「彼(か)の仏(ほとけ)の光(こう)明(みょう)無(む)量(りょう)にして、十(じっ)方(ぽう)の国(くに)を照(て)らすに障(しょう)礙(げ)する(さえぎる)所(ところ)無(な)し、是(こ)の故(ゆえ)に号(なづ)けて阿(あ)弥(み)陀(だ)(=無量光)とす。又(また)舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、彼(か)の仏(ほとけ)の寿(じゅ)命(みょう)及(およ)び其(そ)の人(にん)民(みん)(の寿命も)、無(む)量(りょう)無(む)辺(へん)阿(あ)僧(そう)祗(ぎ)劫(こう)(永遠)なり。故(ゆえ)に阿(あ)弥(み)陀(だ)(=無量寿)と名(な)づく。」

○釈迦如来が、極楽往生を勧め、極楽往生のために念仏することを説く。

「舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、衆(しゅ)生(じょう)聞(き)かん者(もの)は、当(まさ)に(に)発(ほつ)願(がん)して彼(か)の国(くに)に生(しょう)ぜんと願(がん)ずべし。」

「舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、(念仏以外の)少(しょう  )善(ぜん)根(ごん)福(ふく)徳(とく)の因           (いん)縁(ねん)を以(もっ)ては、彼(か)の国( くに)に生(しょう)ずることを得(う)べからず。」

「若(も)し善(ぜん)男(なん)子(し)善(ぜん)女(にょ)人(にん)有(あ)りて、阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)を説(と)くを聞(き)きて名(みょう)号(ごう)を執(しゅう)持(じ)する(念仏する)こと、若(も)しは一(いち)日(にち)、若(も)しは二(に)日(にち)、若(も)しは三(さん)日(にち)、若(も)しは四(し)日(にち)、若(も)しは五(ご)日(にち)、若(も)しは六(ろく)日(にち)、若(も)しは七(しち)日(にち)、一(いっ)心(しん)不(ふ)乱(らん)なれば、其(そ)の人(ひと)命(みょう)終(じゅう)の時(とき)に臨(のぞ)んで、阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)、(観音菩薩等の)諸(もろもろ)の聖(しょう)衆(じゅ)と与(とも)に現(げん)に其(そ)の前(まえ)に在(まし)ます。是(こ)の人(ひと)終(お)わる時(とき)、心(こころ)顛(てん)倒(どう)せず、即(すなわ)ち阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)の極(ごく)楽(らく)国(こく)土(ど)に往(おう)生(じょう)することを得(う)。」(お盆の七日の念仏の根拠)

○念仏によって往生できることを六方の諸仏が証明する。(六方段)

「汝(なん)等(だち)衆(しゅ)生(じょう)、当(まさ)に是(こ)の称(しょう)讃(さん) 不(ふ)可(か)思(し)議(ぎ)  功(く)徳(どく) 一(いっ)切(さい)諸(しょ)仏(ぶつ) 所(しょ)護(ご)念(ねん)経(ぎょう)を信(しん)ずべし  。」

(お前たち、阿弥陀仏の不思議な功徳を称讃し、一切の仏によって護念されているこの経の教えを信じなさい。)

○阿弥陀仏の名、阿弥陀経の名を聞く者は悟りを得ることができる。

「是(こ)の諸(しょ)仏(ぶつ)諸(しょ)説(せつ)の名(みな)(阿弥陀仏のこと)及(およ)び経(きょう)(阿弥陀経のこと)の名(な)を聞(き)かん者(もの)は、…皆(みな)一(いっ)切(さい)諸(しょ)仏(ぶつ)の為(ため)に共(とも)に護(ご)

念(ねん)せられて、皆(みな)阿(あ)耨(のく)多(た)羅(ら)三(さん)藐(みゃく)三(さん)菩(ぼ)提(だい)(最高の悟り)を退(たい)転(てん)せざること(浄土から迷いの世界に戻ることがない位)を得(う)。」

「舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、若(も)し人(ひと)有(あ)りて、已(すで)に発(ほつ)願(がん)し今(いま)発(ほつ)願(がん)し当(まさ)に(に)発(ほつ)願(がん)して、阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)の国(くに)に生(しょう)ぜんと欲(ほっ)さん者(もの)は是(こ)の諸(しょ)人(にん)等(とう)、皆(みな)阿(あ)耨(のく)多(た)羅(ら)三(さん)藐(みゃく)三(さん)菩(ぼ)提(だい)を退(たい)転(てん)せざることを得(え)て、彼(か)の国(こく)土(ど)に於(お)いて若(も)しは已(すで)に生(しょう)じ、若(も)しは今(いま)生(しょう)じ、若(も)しは当(まさ)に生(しょう)ぜん。」

○釈迦如来が、人々の往生のためにこの阿弥陀経を説いたことを述べる。

舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、当(まさ)に知( し)るべし、我(われ)五(ご)濁(じょく)悪(あく )世(せ)に   於(お)いて、此(こ)の難(なん)事 (じ)を行(ぎょう)じて、阿(あ)耨(のく)多( た)羅(ら)三(さん)  藐(みゃく)三(さん)菩 (ぼ)提(だい)を得(え)て、一(いっ)切(さい )世(せ)間(けん)の為(ため)に、  此(こ)の難 (なん)信(しん)の法(ほう)(念仏一つで救われるという信じがたい教え) を説(と)く。」

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善導大師(六一三〜六八一)のことば


○願(ねが)わくは此(こ)の(浄土の教えを明らかにした)功(く)徳(どく)を以(も)って、 平(びょう)等(どう)に一(いっ)切(さい)に施(ほどこ)し、同(おな)じく菩(ぼ)提(だい)心(しん)を発(おこ)して、安(あん)楽(らっ)国(こく)(極楽浄土)に往(おう)生(じょう)せん。(『観無量寿経疏』玄義分)


○釈(しゃ)迦(か)は此(こ)の方(ほう)(この世)より、発(はっ)遣(けん)し(送り出し)、弥(み)陀(だ)は即(すなわ)ち彼(か)の国(くに)より来(らい)迎(こう)したまう。 彼(かしこ)に喚(よ)ばい此(ここ)に遣(つか)わす、豈(あ)に去(ゆ)かざるべけんや(絶対に行かなくてはいかない)。(『観無量寿経疏』玄義分)


○衆(しゅ)生(じょう)、行(ぎょう)を起(お)こして、口(くち)に常(つね)に仏(ほとけ)を称(しょう)すれば、仏(ほとけ)即(すなわ)ち之(これ)を聞(き)こしめす。…衆(しゅ)生(じょう)、仏(ほとけ)を憶(おく)念(ねん)すれば、仏(ほとけ)も亦(また)、衆(しゅ)生(じょう)を憶(おく)念(ねん)したまう。(『観無量寿経疏』定善義)


○一(いっ)心(しん)に専(もっぱ)ら弥(み)陀(だ)の名(みょう)号(ごう)を念(ねん)じて、行(ぎょう)住(じゅう)坐(ざ)臥(が)、時(じ)節(せつ)の久(く)近(ごん)(時間の長短)を問(と)わず、念(ねん)念(ねん)に捨(す)てざるは、是(これ)を正(しょう)定(じょう)の業(ごう)(往生の正しい行)と名(な)づく。彼(か)の仏(ほとけ)の願(がん)に順(じゅん)ずるが故(ゆえ)に。(『観無量寿経疏』散善義)


○「(火と水の)中(ちゅう)間(げん)の(にある)白(びゃく)道(どう) 四(し)五(ご)寸(すん)」 と言(い)うは、 即(すなわ)ち衆(しゅ)生(じょう)の貪(とん)瞋(じん)煩(ぼん)悩(のう)の中(なか)に、 能(よ)く清(しょう)浄(じょう)の願(がん)往(おう)生(じょう)心(しん)を生(しょう)ずるに喩(たと)う。 乃(すなわ)ち貪(とん)瞋(じん) 強(こわ)きによるが故(ゆえ)に、 即(すなわ)ち水(すい)火(か)の如(ごと)しと喩(たと)う。 善(ぜん)心(しん)微(み)なるが故(ゆえ)に、 白(びゃく)道(どう)の如(ごと)しと喩(たと)う。(『観無量寿経疏』散善義)


○彼(か)の国(くに)に到(いた)り已(お)わりて、六(ろく)神(じん)通(ずう)を得(え)て十(じっ)方(ぽう)界(かい)に入(かえ)りて、苦(く)の衆(しゅ)生(じょう)を救(く)摂(しょう)せん。(『往生礼讃』日没)

○自(みずか)ら信(しん)じ人(ひと)を教(おし)えて信(しん)ぜしむること、難(かた)きが中(なか)に転(うたた)更(さら)に難(かた)し。大(だい)悲(ひ)をもつて伝(つた)えて普(あまね)く化(け)するは、真(まこと)に仏(ぶつ)恩(おん)を報(ほう)ずるに成(な)る。(『往生礼讃』初夜)


○無(む)始(し)より已(この)来(かた)(生まれるずっと以前から)乃(すなわ)ち今(こん)身(じん)に至(いた)るまで、一(いっ)切(さい)の三(さん)宝(ぼう)・師(し)僧(そう)・父(ぶ)母(も)・六(ろく)親(しん)眷(けん)属(ぞく)・善(ぜん)知(ち)識(しき)・法(ほう)界(かい)の衆(しゅ)生(じょう)を…殺(せつ)害(がい)せること数(かず)を知(し)るべからず。…偸(ちゅう)盗(とう)せること数(かず)を知(し)るべからず。…邪(じゃ)心(しん)を起(おこ)せること数(かず)を知(し)るべからず。…欺(ご)誑(おう)せる(たぶらかす)こと数(かず)を知(し)るべからず。…罵(め)辱(にく)し、誹(ひ)謗(ほう)し、毀(き)呰(し)せる(そしる)こと数(かず)を知(し)るべからず。…一(いっ)切(さい)の戒(かい)及(およ)び一(いっ)切(さい)威(い)儀(ぎ)戒(かい)等(とう)を破(やぶ)り、自(みずか)ら作(な)し他(た)を教(おし)へ、作(な)すを見(み)て随(ずい)喜(き)せること数(かず)を知(し)るべからず。…我(われ)等(ら)が作(つく)れる罪(つみ)も亦(ま)た復(ま)た無(む)数(すう)なり。(『往生礼讃』初夜 広懺悔)


○当(まさ)に知(し)るべし、本(ほん)誓(ぜい)の重(じゅう)願(がん)(南無阿弥陀仏と称える者をすくい取ろうという阿弥陀如来の誓い)虚(むな)しからず、衆(しゅ)生(じょう)称(しょう)念(ねん)すれば、必(かなら)ず往(おう)生(じょう)することを得(う)。(『往生礼讃』)



○願(ねが)わくは我(わ)が身(み)浄(きよ)きこと香(こう)爐(ろ)の如(ごと)く、願(ねが)わくは我(わ)が心(こころ)智(ち)慧(え)の火(ひ)の如(ごと)くして、念(ねん)々(ねん)に戒(かい)定(じょう)の香(こう)を焚(ぼん)焼(じょう)して、十(じっ)方(ぽう)三(さん)世(ぜ)の仏(ほとけ)を供(く)養(よう)したてまつらん。(『法事讃』)


○請(しょう)じたてまつる仏(ほとけ)縁(えん)随(したが)いて本(ほん)国(ごく)に還(かえ)りたまえ普(あまね)く香(こう)華(け)を散(さん)じて心(こころ)に仏(ほとけ)を送(おく)りたてまつる願(ねが)わくは仏(ほとけ)の慈(じ)心(しん)遥(はる)かに護(ご)念(ねん)したまへ同(どう)生(しょう)相(あい)勧(すす)む須(す)べからく尽(ことごと)く来(きた)るべし(『法事讃』)

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法然上人(1133〜1212)のことば

○我(われ)らごときは、すでに戒(かい)定(じょう)慧(え)の三(さん)学(がく)(戒律を守り、精神統一をし、智慧を完成させる仏道修行の三本柱)
の器(うつわもの)(修行する才覚のある者)に非(あら)ず。

○浄(じょう)土(ど)門(もん)の修(しゅ)行(ぎょう)は、愚(ぐ)痴(ち)(愚か)に帰(かえ)りて、極(ごく)楽(らく)に生(う)まると知(し)るべし。

○十(じゅう)悪(あく)(殺生などの悪や迷い)の法(ほう)然(ねん)房(ぼう)、愚(ぐ)痴(ち)の法(ほう)然(ねん)房(ぼう)が念(ねん)仏(ぶつ)して往(おう)生(じょう)せんと言(い)うなり。

○わが身(み)は煩(ぼん)悩(のう)罪(ざい)悪(あく)の凡(ぼん)夫(ぶ)なり。出(しゅっ)離(り)(悟りを得て輪廻を離れる)の縁(えん)なし。
○たとい一(いち)代(だい)の法(ほう)をよくよく学(がく)すとも、一(いち)文(もん)不(ふ)知(ち)(無学な)の愚(ぐ)鈍(どん)の身(み)になして…

智(ち)者(しゃ)のふるまいをせずして、ただ一(いっ)向(こう)に念(ねん)仏(ぶつ)すべし。

○罪(つみ)は十(じゅう)悪(あく)五(ご)逆(ぎゃく)の者(もの)も(極楽浄土に)生(う)まると信(しん)じて、小(しょう)罪(ざい)をも犯(おか)さじと思(おも)うべし。

○罪(つみ)は五(ご)逆(ぎゃく)も障(さわ)りなしと知(し)るとも、かまえて小(しょう)罪(ざい)をも作(つく)らじと思うべし。往(おう)生(じょう)は一(いち)念(ねん)に足(た)りぬと存(ぞん)ずとも、多(た)念(ねん)を重(かさ)ねんと思(おも)うべし。信(しん)をば一(いち)念(ねん)に往(おう)生(じょう)すと取(と)りて、行(ぎょう)をば多(た)念(ねん)に励(はげ)むべし。

○信(しん)をば、一(いち)念(ねん)に生(う)まると信(しん)じ、行(ぎょう)をば、一(いち)形(ぎょう)に励(はげ)むべし。

(信心では一遍の念仏で往生できると固く信じ、行では生涯を通じて念仏を称えるように励まなければいけません。)

○仏(ほとけ)は一(いっ)切(さい)衆(しゅ)生(じょう)を哀(あわ)れみて、良(よ)きをも悪(あ)しきをも渡(わた)し(浄土へ救いとる)給(たま)えども、善(ぜん)人(にん)を見(み)ては喜(よろこ)び、悪(あく)人(にん)を見(み)ては悲(かな)しみ給(たま)えるなり。

○現(げん)世(せ)を過(す)ぐべきようは、念(ねん)仏(ぶつ)の申(もう)されんかたによりて過(す)ぐべし。

一(ひと)人(り)籠(こ)もり居(い)て申(もう)さずば、同(どう)行(ぎょう)と共(ぐ)行(こう)して申(もう)すされずば、一(ひと)人(り)籠(こ)もり居(い)て申(もう)すべし。
    (人生の過ごし方は、念仏を第一に考えて過ごすべきです。一人で籠って念仏をすることが難しければ、人と一緒に念仏をし、人と一緒    に念仏をすることがかえって念仏の妨げになれば、一人で籠って念仏すればよいのです。)

○時(とき)々(どき)別(べつ)時(じ)の念(ねん)仏(ぶつ)を修(しゅ)して、心(こころ)をも励(はげ)まし、ととのへ、勧(すす)むべきなり。

○念(ねん)仏(ぶつ)を修(しゅ)せん所(ところ)(念仏する人のいる場所)は、貴(き)賤(せん)を論(ろん)ぜず、海(あ)人(ま)魚(ぎょ)人(にん)が苫(とま)屋(や)(小屋)までも、

皆(みな)これ予(わ)が遺(ゆい)跡(せき)なるべし
○念(ねん)仏(ぶつ)に心(こころ)をかけ候(そうら)わん人(ひと)をば、いよいよ御(おん)勧(すす)め候(そうろ)うべし。

これも彌(み)陀(だ)如(にょ)来(らい)の本(ほん)願(がん)の宮(みや)使(づか)い(奉公)と思(おぼ)し食(め)し(し)候(そうろ)うべし。
      (人に念仏を勧めることは阿弥陀如来に奉公することです)

○ただ彌(み)陀(だ)の本(ほん)願(がん)の船(ふね)に乗(の)りて、生(しょう)死(じ)の海(うみ)を渡(わた)り、極(ごく)楽(らく)の岸(きし)に着(つ)くべきなり。

○月(つき)かげの いたらぬ里(さと)は なけれども ながむる人(ひと)の 心(こころ)にぞすむ
      (月の光はどこにも平等に降り注いでいるが、その美しさに気づくか気づかないかは、その人次第である。
       阿弥陀仏の救いの光明も全世界をあまねく照らしているが、それに気づき、受け止めるかはその人の心次第である。)

○露(つゆ)の身(み)は ここかしこにて 消(き)えぬとも 心(こころ)は同(おな)じ 花(ばな)の台(うてな)ぞ
      (私たちのはかない命は別々に消えていきますが、極楽浄土の蓮の台で再会いたしましょう)


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