2004年 5月

 2004年5月29日  昨年夏のアメリカ北東部の大停電について
 2003年8月4日午後4時10分頃アメリカ北東部からカナダにかけて発生した停電につ いて。
 影響範囲はアメリカ8州、カナダオンタリオ州の5,000万人。停電電力は 6,180kW、復旧には 2日を要した地域もあった。停電電力は日本の東京電力の規模に匹敵する。影響地域の面積は日本全土よりも広い。停電電力はアメリカ全体で見ると約8%、ニューヨークが含まれる。

 アメリカの電力系統の運用体制について。
 アメリカの電力系統の運用体制は全米で140ある制御区域(control  area)を単位になされている。制御区域は直接の系統運用が行われる地域単位であり、日本では個々の電力会社が系統運用をおこなう供給地域に相当する。アメ リカでは電力自由化によって系統運用は非営利の独立系統運用者(ISO: Independent System Operator)が実施する形になっていて、一つの制御区域がそのままISOとなっていたり複数の制御区域で一つのISOとなっているところもある。
 広域的な信頼度監視の必要性から、信頼度コーディネータ (Reliability Coordinator)が組織されている。信頼度コーディネータは全米で18あり、地域的に関連する複数の制御区域をまとめてひとつ設置される形になっている。しかし信頼度コーディネータの管轄する制御区域は米北東部では特に複雑に入り組んでおり、これは制御区域の各社がどのISOに属するかによって将来の自由化構想とも絡んだ複雑な利害関係にあることが背景にあるとも考えられる。停電の発端となった地域のMISO、PJMという二つの信頼度コーディ ネータの管轄範囲についてはそれぞれ広域的な信頼度監視を行うという点では機能しにくい状態となっている。

 今回の停電事故の経緯について
 オンタリオ湖畔のFE(First Energy)社のEast Lake5号機(60万kW石炭火力)が停止、DPL社のStuart Atlanta送電線の事故が間接的な原因。 MISOの系統状態監視とセキュリティチェックの重要な役割を果たしている状態推定装置(SE:State Estimator)にPJM管轄下にある上記送電線の故障が入力され ず、正常な計算ができなかった。このためMISOは系統の状態把握ができなくなった。FE社の34.5万Vの送電線の停止は樹木接触から始まった。この理由は単なる樹木管理上の問題による。このため重潮流の発熱により電線がたるみ、その後他の二つの送電線が樹木接触によって停止した。この間30分に対策が可能であったが、FE社では系統監視装置の故障により送電線の停止が認識されていな かった。これらの送電線の停止によって下位計(13.8万V)の送電線が重負荷となり連鎖的な停止が進んでいった。この後は人が介在できる余地はなかった。

 対策
 日本では問題系統を自動的に分離する事故波及防止システムを導入している。 アメリカが波及を防止ないし局限化できなかった理由は、アメリカの事情がある。アメリカ北東部では電源の立地に比較的自由度があり需要地点 が分散して存在する。したがって送電線は密度が高いメッシュ状となっている。メッシュ系統ではその中での多少の撹乱は全体が協力する形で吸収されてしまいある程度の撹乱までは強い。だが、そのレベルを超えると一気に全体が弱くなる。メッシュ系統では様々な事故に対して適切な箇所で系統を分離することが容易でない。現地の担当者の話では、事故波及防止システムについては良い結論を生むとの評価に至っていないとのことである。事故直後は送電線の老朽化や設備投資不足がいわれたが、直接の原因ではないとされている。問題はルールが正しく守られなかったと言う点であり、従来自主的であったものを今後強制力のある基準としていくことの必要性が高いとしている。

 ここからあと、ようやくコメント。
 雑誌OHMより。アメリカ調査委員会の中間報告の紹介を要約して掲載。報告者は電力中央研究所の研究員。報告には本人の見解がほとんど含まれない。昨夏、アメリカ北東部で日本の総面積を超える範囲の大停電があったが、その対策は送電線に接触する可能性のある樹木を剪定する、ということだけが報告の具体的な内容だ。この夏提出されるアメリカの委員会報告の対策に関する部分は、信頼度コーディネータの信頼度を向上させるとか、状態推定装置の改良が提案されることと思う。根本的には送電系統の問題だと思うが。つまりエリア内の送電系統をブロック化してブロック間の幹線を管理するということではないかと思う。日本の樹枝状の送電システムとメッシュ状の送電システムの長所を組み合わせるのだ。
 それで、問題はアメリカがどうやら本気で送電系統の信頼性を高める気がなさそうなことである。ニューヨーク大停電はまたまた起こる。では、なぜ送電系統の信頼性を高める気がないのか。送電系統はインフラであり発電事業者や電力の需要家のどちらの所有物でもなく責任もない。なお、電力が停止してもそのことによって生じた責任をだれも賠償する必要がないのだ。この点は日本の電力や水と同様である。送電設備は独占的な機能であるから、電力を自由化したとき維持管理費程度の格段に安価な使用料を払えば誰でも使用できるように解放した。したがって送電線そのものに新規投資する動機が無く、また送電線の機能向上のためのコストに競争が働かない以上、コストそのものを認められないという自由化の反面の不自由さがある。
 この話は素人の憶測ですので、補足的なコメントを求む。OHMの記事がお粗末と思ったので書いてみた。関連GABS=2003年8月のGABS


2004.5.27(木)  民俗学の旅 宮本常一 講談社学術文庫
 本を読んでいるときはこの欄に書こうと思うのだが、次の本を読み始めると次第に面倒になり、さらに時間がたつと結局書く熱意を無くしてしまうことが多い。というわけでもうすぐ明日になろうかという平日の、夜なべ仕事になった。

 同じ著者の本で「塩の道」というのがある。昔の日本人がどのようにして塩を手に入れたかという話である。海から遠くに住む山の民は、山の木を切り出して自分の印を付けて川へ流す。河口に綱を張っておいて自分が流した木を海岸へ引き上げて塩を焼く。それが次第に、海の民に余分な木を与えて、塩焼きを任せるようになる。その後は、交易によって海の塩が山の集落に届けられた。こうして海から山里へ塩を運んだ道が、最初に発達した道だという。

 塩や食べ物は人が生きていく上で欠かせないものだから、塩がどのように交易されたか、どのような作物がどのように広まっていったかということは、当時の人の生活を知るうえで欠かせない。昔の日本のことや食べ物の事を知りたいと思って手にした本だが、昔の普通の人々の毎年ずっと同じ事を繰り返しながら少しずつ変わってゆく暮らしと、徐々に失われてゆく地域の習慣や祭り、その中で暮らす人の喜びや悲しみが感じられた。

 それで同じ作者の「民俗学の旅」を読むことにした。農民出身の作者が昭和初期から戦後にかけて日本中をくまなく歩き、農村や漁村、離島の人の暮らしを聞き歩き記録し、また暮らしぶりを向上させるために尽力した記録である。この本は自伝であるから、客観的でない部分がある。やりっぱなしで完結していない事が多々ある。だから本当に読むべきは民俗学の数々の著書だろうが、私には読めそうにない。

 それで、なにが言いたいかというと、農山村、漁村、離島の暮らしを知り、考えるということは、現在の都市化の対極にある地方の問題を考えるということに他ならぬ。そして人の暮らしに必要なものは何か、ということを考えるためには、昔の暮らしを知り、幸せだったことと不幸せだったことを知る必要がある。宮本も、「何が進歩なのかがわからない」という。昔の方が幸せだったこととは、地域やひとのつながりのようなものだ。地域を特徴付けたりひとを結びつける、祭りや習慣やきまりごとだ。

 だが、暮らしが多様化し個人の属する集団が増えると、昔のような地域の緊密なつながりを保てなくなる。だから今に伝えられる習慣を大切にし、その土地の美しい自然や昔ながらの仕事や特徴ある産物を残し、地域で暮らすことの価値を高めることが必要だ。住民が共通の守るべきものを持つことだ。地方行政の役割は、そこに住む人々の暮らしを丁寧に見つめ、地域性を大切にしながら暮らしを向上させることだ。宮本の頃、昭和30年代は、離島に水がなかった。山村に道がなかった。そういうものが地方に必要だということを行政が認識していなかった。今の行政は不要なものばかりを地方に押しつけて、一方大切なものを奪っている。

 というわけで、公共事業や地方自治のことを考えさせられたのだが、この本を読む前には思ってもいなかったということだ。
2004.5.22(土)  三菱自動車の欠陥隠蔽について
 組織犯罪であり、業務上過失致死というより故意による殺人に近い。経営者のモラルの低さ、組織の隠蔽体質、リスク管理の欠如、経営や技術のグループ他企業への依存体質が指摘されている。

 ダイムラークライスラーは三菱自動車(株)に37%、03年1月にトラックバス部門を分社した三菱ふそうトラック・バス(株)に65%出資しているが、三菱自動車への追加支援を中止すると表明した。このため三菱自動車へはグループの銀行、商事、重工、電機が1400億円の支援をするほか、銀行、信託が計1300億円の債務の株式化に応じる。企業再生ファンドのフェニックスファンド、JPモルガン、台湾の中華汽車が合わせて1800億円の増資を引き受ける。三菱自動車はこれら総額4500億円の資金支援と、主力の岡崎工場での乗用車生産打ち切り、米豪の生産を削減し全世界で17%生産調整、老朽設備の更新、5万人の社員を1万人削減、本社移転、経営陣の刷新などの再建計画を発表した。

 三菱自動車の再建は困難と思う。世界的なメーカー再編の中で、日本で独立したメーカーとして生き残れるのはトヨタのみかトヨタとホンダの2社と言われていた。三菱自動車はトラック・バス部門を手放した時からダイムラークライスラーの傘下企業として生き残る道も狭めた。また三菱自動車の売り上げは、軽自動車23万台を含む36万台だがその約半数が三菱グループ関連の需要とのことだ。

 三菱自動車が生き残る方法は、仮にも引き受け手があるとは思いにくいが、最終的には世界で5、6社といわれるフルラインの自動車メーカーのどこかに買収され、三菱の名も企業文化も全て失う以外に無いのではあるまいか。身売り前提の再建策であろうが、これまで売れなかった三菱の車が危険なクルマというイメージが浸透した後、少々の時間をかけても以前以上に売れるとは考えられないから再建は困難と思う。三菱グループは、まず三菱自動車という名を捨てる決断をすべきだったのではないか。

2004.5.16(日) 「明治日本美術紀行」 フリーダ・フィッシャー 講談社学術文庫
 フリーダ・フィッシャーというのはドイツ人の女性美術史家。明治期に東洋美術、とりわけ日本と日本美術に惹かれ1898年(明治31)年から1912年(明治45年)まで5度、足かけ10年以上にわたる訪日の際の日記を、本人が1938年に出版したものである。フィッシャー夫妻は日本の美術品を多数収集し、1913年に(旧)ケルン東洋美術館を開館した。
 この本には当時の日本画門流の徒弟制度の実態、正月や祭りの風俗や旧家の家中行事が詳細に記述され、美術家だけでなく著名人が多く登場する。彼らの言動がそのまま記録されている。作者は日本人の自然への感受性の高さと、庶民や子供の礼儀正しさを賞賛している。そして、日本の美術を深く理解し愛した。

 20代前半で結婚し新婚旅行で3年間、初めて日本に滞在したドイツ人女性の異文化体験は、むしろ現在の日本人に近い感覚であっただろう。そして明治期の日本には、目に見える日本があったような気がする。日本の美術がそれまでは寺社や旧家に私蔵されてきたものが初めて姿を現し、そのころ西洋美術が日本に入ってきたがゆえに、日本の美術として初めて捉えられた瞬間でもあったと思う。

 「日本人とは、日本人とは何かという問いを、頻りに発して倦むことのない国民である」、「人間(日本人)の行為の規範は自然に超越する権威に由来するのではなく、自然に内在する権威に由来する。」、「寛容と不寛容との区別のない一種の経験主義を通じて、『より高い生活程度』ではなく、『より幸福な生活』を目指す道があるかもしれない。(中略)そこにはキリスト教と個人主義の作らなかった、一種の文化、決して断絶していないわれわれの伝統、日本にとっての創造の希望がある。」(いずれも「日本人とは何か」加藤周一)

 中国の漢以前の美術について。「儒教は芸術の自由を制限するものであった。倫理への奉仕に縛られて芸術は、自然、工芸的なものとなった。(中略)たとえそれが装飾的なものにとどまっていたにしても、それは決してブルジョワ的低俗の次元にまで落ちることはしなかったであろう。何となれば、アジアの芸術は、それが持つ普遍的没個我なるものの宏大な生命によって、そうした共感の欠如というようなもっとも縁遠い危険からは、永遠に救われているからである。(「東洋の理想」岡倉天心)

 日本の美術を西洋美術から守ろうとした岡倉の中国美術への評からもわかるように、明治期以前の美術は、「日本人とはなにか」という問いに一定の見方を与えるものだ。高価な美術品は当時の庶民には縁遠いものであっただろうが、その美術品を生み出したり賞賛したのは日本人多くの感受性だ。そしてこの本のころの日本には、今や失われた明治の日本の田舎や町の風景があった。人は因習と封建的な家族制から脱していなかったかもしれぬが繊細な美意識があった。

 「明治日本美術紀行」は、私が親近感を抱くドイツの町ケルンにゆかりのある作者という点もあったが、この本は美術好きでなくとも楽しめるいわば日本人論である。詳細な注釈と訳者の解説というより研究論文が付属している。白黒の図版が小さいが多数挿入されている。文庫本なのにこのシリーズはやや高価なのが難。
 というわけで、希望者にはお貸ししますよ。

2004.5.4 (火) UA(ううあ)とか
 NHKの子供向け番組「ドレミノテレビ」を見た。UA(ううあ、またはウーア)というのが、昔風に言うと「歌のおねえさん」である。歌がとてもソウルフルだ。ちょっとアフリカンぽい風貌と長い手足が、こまっしゃくれた日本人にはないパワーを感じる。にこにこしないところが、押し付けがましくない、ということがNHKにしたら革命的。ウタを「聞かせてあげる」という、視聴者をいわば聴衆扱いせずに、「楽しかったらいっしょに楽しめよ」というスタンスが斬新。長い手足をもてあましているような不思議な踊りというより「振り」が良い。極彩色の衣装や画面つくりもユニークだ。こんな個性に子供が触れること自体がとても良い。番組のホームページ。

 2日夜は、30年前に放送されたKISSの特番を見た。あらためてエンタの王者だと思った。当時既にハードロックを反社会的音楽風エンタにした、という点でKISSは十分に新しかった。それは緻密なプロデュースと観客サービスに徹したアトラクションだった。当時の録音が良くないが、もちろん演奏は十分に水準以上だ。番組最後に、最近のオーケストラと共演するシーンがつけたされていたが、彼らの音楽のポジションを象徴する体制内的シーンだ。ファミリーで楽しむハードロック。既にベンチャーズよりもはるかに体制的だ。私も時代は変わったなあ、と思う世代である。

2004.5.2 (日) 地上波デジタル放送の予測
 欧州ですでに失敗し、アメリカでもほぼ失敗が明白になりつつある地上波デジタル放送だが、困難と言われていた携帯端末へのデジタル放送開始が急遽決定したのは、放送業界の危機感の現れだ。日本人のほぼ半数に普及した携帯電話だが、今後個人認証やICカード機能を備えることが確実だ。携帯の機能の一つとなるTV放送受信機能は、果たして家庭のTVのように利用されるだろうか。
 携帯の画面がもう少し大きくなるとしても、手持ちでイヤホンだと15分以上の番組は視聴してくれないだろう。そして、見たい時に見られるオンデマンドでないと成立しない、つまり放送ではなく通信なのだ。携帯には携帯向けの短時間のコマーシャル入りの番組が制作され、視聴者が任意に選択した番組が都度ダウンロードされる。ビッグニュースのみリアルタイムの膨大なデマンドが発生するだろう。
 家庭でのTV放送はどうなるか。2日付けの朝日新聞では、視聴率30%を超える番組が激減したと報じられていた。たとえば我が家ではテレビを見るのはほとんど私だけである。TV放送は約40年前、私が小学生の頃普及し始め、数年後にはテレビが無いと生きて行けない世代も生み出したが、いまやようやく、テレビはテレビにふさわしい位置に据えられつつあるのかもしれない。
 朝、朝食を取りながら、天気と電車の運行状況などをBGMならぬBGVとして見るような場合はともかく、本当に見たい番組はビデオ録画で見る人が多いと思う。後者はCM入りの通信で供給され、放送はBGV的な番組だけになるというのが現時点の私の予想。時期はアナログ放送打ちきりの2011年としよう。

2004.5.2 (日)  映画館の復権
 映画館が復権しつつある。最近のシアターは小さ目の部屋が複数あって、人気のムービーは複数の部屋で時間をずらして放映される。いろいろなムービーを観客数に応じて部屋数を調節するというシステムである。そして、DVDが三ヶ月程度で発売されても映画館へ行く人が結構多いという現象。
 一方フラットディスプレイが普及し始めて、家庭でも50インチ大画面プラス5.1チャンネルサラウンドが楽しめるという時代だ。だが、TV放送ではそんなに気合を入れて見る番組は無かろう。したがってDVDの映画やコンサート録画を楽しむことになるのだろうが、余程好きでなければ週末見る程度だろう。将来はVR的なゲームを楽しむようになるかもしれないが。
 家庭より、迫力や臨場感があることや没頭できるという理由で、映画館やライブに出かける人は増えている様だ。チケットの割安感もあると思う。映画やライブなどは、DVDが売れTV放送にも売れる。今後安価なオンライン配信が主流になるだろうから、セカンドマーケットも含めて益々有望ということだ。

END