1989年11月

2番目の追加モジュール「クヴント2」打ち上げ。
この追加モジュールクヴント2も、クヴントと同様ドッキング時に接近作業がうまくいかず、しかも打ち上げ直後には太陽電池パネルの1つが完全に開ききらないというアクシデントもありました。
しかし、ロシアの高い宇宙技術でこれらの問題も次々とクリアし、ドッキングポートを挟んだ基幹モジュールの反対側へとドッキングしました。
2日後には付属のマニュピレーターによって自動的にミール前方からドッキングポート上部へと移動、宇宙ステーションは直線構造からL字形の構造へ・・・。






1990年5月

第3のモジュール「クリスタル」が6月にドッキングし宇宙ステーションは「L」字から「T」字の構造へ。
この頃には、ミールはソユーズ宇宙船2基がドッキングした状態で総重量が90tを超えており、人類が宇宙空間に打ち上げた構造物としては最大のモノとなっていました。



1990年12月2日

「これ、本番ですか?」

日本人初の宇宙飛行士がバイコヌール宇宙基地からミールへと旅立った日。
ロケットから分離したソユーズからTVに届いたのはそんな言葉でした。
モスクワ郊外にある宇宙飛行士とその家族だけが住む事のゆるされている宇宙飛行士訓練センター・・・通称・星の町
ここで約1年間の間、宇宙飛行士としての訓練とロシア語の勉強をしていた元TBS社員「秋山豊寛」氏。
テレビ局で使用している高性能カメラをミールへと持ち込み、たくさんの美しい地球の映像を地上へと送ってきました。

ミールの秋山氏と、当時NASAで訓練をしていて後にスペースシャトルの搭乗員として宇宙に旅立つ「毛利衛」氏の2人によって、日本人の宇宙飛行士への関心度が高まったのもちょうどこの頃です。




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