W.文化の優劣
 それでは、以上のように定義した文化の概念によって、アフリカ諸国の文化と他の地域の文
化との優劣の問題について考えてみたい。ただし、アフリカ諸国といっても様々であるので、い
わゆるブラック・アフリカ諸国に一般的に共通するような思考・行動様式と、それによって形成
されてきた慣習や制度を中心に観察することとする。
 1.快適さの点検
 上記V.の1.の生活の文化で述べたように、生活の文化は国により、民族により、地域に
よりそれぞれ異なっており、なかには快適さを妨げる要素を少なからず含んでいるものもあ
る。従って、生活の文化が、日常生活をより快適にしたいという個々人の意欲を動機として発
展してきたものである以上、その中に快適さをもたらす要素が多いか少ないか、あるいは快適
さを妨げる要素が多いか少ないかは、それぞれの社会の生活の文化の質の高低を判定する
有力な基準になり得るはずである。
 とは言え、快適さというのは必ずしも自明な概念ではなく、かなり主観的な部分がある。哲学
史ないし思想史をたどれば、ベンサムが創始した功利主義哲学で使用されてきた「快楽」と重
なる部分が多いが、筆者の快適さの概念は、精神的充実感が果たす役割をかなり重視してい
るので、むしろ実体面の比重が大きいような印象を与える可能性がある快楽という言葉ではな
く、快適さという言葉を使用している。
 ベンサムは、人間の行為を根底で動機づけているのは、苦痛を避け、快楽(または利益ある
いは幸福)を求めようとする意欲であると主張し、社会の利益(幸福)を最大にするためには、
社会を構成する個々人の利益(幸福)の総計を最大にしなければならないと説いた。これがベ
ンサムの功利性の原理ないし最大多数の最大幸福の原理の核心である。
 これまでに人類が考え出した制度の中で、最大多数の最大幸福の原理のうちの「最大多数」
を保障する観点から比較的に最も有効なものは、民主主義体制であろう。民主主義度が高い
方が権力や富の過度の集中に歯止めがかかり易く、その分、多数を占める一般市民が、自由
権や経済力に基づく快適な生活を享受し易いということになる。
 ただし、民主主義の実現のためには、複数政党制や選挙制度などの民主的制度の整備だ
けでは足りず、社会の構成員のひとりひとりが、自分自身の快適さを獲得するためにはどうす
ればよいか、どのような社会であるべきかについての、個々人の考え方と判断力を確立しなけ
ればならないという前提条件がある。
 今日の国際社会では、民主主義の原理は、すべての人種や民族に共通する人類全体の理
念としての普遍性を持っていると考えられており、従ってその実現度は、ある社会で獲得され
る快適さの程度を判定する効果的なメルクマールとなるはずである。
 「最大幸福」の方は、必ずしも自明ではなく、人類はこれまで、目に見える身の回りの快適さ
(幸福)の追求には熱心ではあったが、真の快適さとは何かを洞察し、それを獲得する能力を
十分には開発してきていない。そのため、快適さの追求に際してしばしば計算や見通しを誤
り、快適さを手に入れるつもりの行為が、逆に苦痛の種を蒔いただけに過ぎないような、例え
ば、快適な生活に必要な物やお金を手に入れようとして強盗や殺人を犯した結果、刑罰を受
けて自由も、時には生命までも失うようなことになる事例は枚挙にいとまがない。
 ベンサムは、基本的には経済の視点から、個別の快楽を量的に計算して、それぞれのあい
だに優劣をつけることが可能であると考えた。すなわち強さ、持続性、確実性、遠近性、多産
性、純粋性および範囲の七つの基準によって快楽の大小が計算でき、すべての人々が最も大
きい快楽を選択すれば、社会全体の快楽も最大になるはずであると考えたのである。ただ、実
際にはベンサムは、具体的な計算法を示さなかったし、その後、今日に至るまで、人類が真の
快適さを洞察し、獲得する能力を格段に発展させることができたと考えるべき根拠も見当たら
ない。
 またベンサムは、社会の快楽は個人の快楽の総計と考えて敢えて両者を区別することはし
ていないが、現代社会では、個人的快適さと社会的快適さとのズレの問題を看過することはで
きない。すなわち、一般的に、科学・技術の進歩や衣・食・住をはじめとする物質面での豊かさ
の向上が、日常生活の快適さや便利さをもたらすことは否定し得ないところであるが、例えば
クーラーや自動車などの使用により獲得される快適さには、半面として、熱気やガスの排出に
より社会一般に不快適さをもたらす必然性があることも無視できない。このため、科学・技術
の進歩や物質的繁栄を快適さを計る唯一の指標とすることに、現代社会では疑問符がつき始
めている。
 実際、つい最近まで、科学・技術の発展度と経済的繁栄度によって国や社会の優劣が測ら
れ、開発途上国にとって、これらを向上させて先進国に追いつくことが、進歩への唯一の道筋
であるとみなされてきた。ところが、文化人類学者によって、地球上の多くのいわゆる未開社
会の研究が進むにつれて、これらの社会が決して原始社会の化石ではなく、それぞれが与え
られた環境条件のもとで極限まで発達した社会であることが明らかにされ、経済的要因だけで
はなく人間生活のあらゆる要素を包含する文化、すなわちある社会の思考様式や生活様式に
優劣をつけるのは無意味であり、地球上のすべての文化はそれぞれ固有の価値を持ってい
て、等しく尊重されるべきであるという「文化相対主義」理論に到達したことは周知の通りであ
る。
 2.文化相対主義  
  ただ、この文化相対主義については、そうは言っても、いろいろな文化を比較してみると、実
感として、やはり何らかの優劣があるのではないかという疑問を、完全にぬぐい去ることはな
かなかむずかしい。音楽、美術あるいは芸能等の「感性の文化」に属するものについては、確
かに各地の文化がそれぞれ固有の価値をもっており、これに優劣をつけるのが困難であるこ
とは、それこそ実感として納得できる。しかし、「生活の文化」の特に経済力や技術力で支えら
れる部分には、ある程度客観的な優劣の存在を認めざるを得ないのではないであろうか。
 それを認めずに、ある未開あるいは開発途上社会のあるがままの生活様式が、環境に適応
して可能な限り独自の向上を遂げたものであり、先進国の生活様式と同等の価値を持つ以
上、先進国の生活様式に近づける必要はないと認識する場合には、先進国による経済・技術
協力の必要性はどのように理論づけられることになるのであろうか。やはり、ある開発途上国
の生活様式が、いかに環境に適応して最大限まで磨き上げられてきたものであると言っても、
本当は更に先進社会のレベルにまで向上させたいのに、「貧困」のゆえに現在のレベルにとど
まらざるを得ないというのが実態なのではないであろうか。
 多くの開発途上国が経済・技術協力を求めるのは、まさに貧困から脱却して、現状よりもより
快適な生活環境を得たいからであり、経済開発に成功して貧困から脱却した国が作り上げる
のは、結局、先進国的な生活環境であり生活様式である。そして、交通、通信、運輸の手段が
発達した今日の人類社会で人間の経済発展がたどる道筋は、それに使用される技術、資材、
施設あるいは製品等がほとんど共通してきているところから、ほぼ決まっていると考えられる。
そうであれば、生活の文化の経済・技術に依存する大きな部分には、経済発展の段階によっ
て優劣があると考えざるを得ず、従って、先進国社会と開発途上国社会の生活の文化の比較
に文化相対主義を適用することには疑問が残るのである。
 文化相対主義が社会進化論の有力なアンチテーゼの役割を果たしたことは否定できない
し、経済発展や社会の進化は時代、地域、社会、自然環境など様々な要因によって抜きつ抜
かれつの歴史があるにもかかわらず、社会進化論が近代ないし現代の発展段階だけを見て
人種間の優劣に結びつけるという短絡的なミスを犯したことは致命的であった。しかし他方で、
文化相対主義一辺倒になって、ある文化に対するいかなる批判も封じてしまうことは理論を切
磋琢磨する機会を奪い、一種の思考停止を招くことにもなりかねない。ある社会の文化が、与
えられた環境や状況に適応して洗練された文化を作り出してきたのだとしても、環境が変われ
ば、あるいは変えれば、それまでの文化はもはや環境に適応しているとは言えなくなる。変化
した環境や状況への適応が遅れた文化に対しては、遅れている分野を率直に指摘して改善を
促すことこそ、遅れたために劣ることになった文化を向上させるために必要なことではないで
あろうか。アフリカの文化の場合も、アフリカの歴史と環境の中でそれなりに極限まで洗練され
てきた文化だから良いに決まっていると擁護し過ぎると、ひいきの引き倒しにとどまらず、ウル
トラ保守主義を押しつけることになって、改良も進歩もますます遅れてしまうことになるであろ
う。それにフィールドワークの経験からアフリカの文化については特別な思い入れがあって擁
護したくなるとしても、目をアフリカの外に転ずれば、自国を含め地球上のあちこちに根強く残
る男尊女卑、個人崇拝、社会的地位の世襲、ネポティズム、贈収賄などの前近代的な諸文化
までも、全て環境に適応し極限まで洗練された文化であると主張するほど文化相対主義を信
奉する文化人類学者は多くないはずである。
 3.文化の優劣の基準
 それでは、ある文化が優れているか劣っているかは、何を基準にして判定すればよいのであ
ろうか。
 文化の形成の動機が快適さの追求であるならば、社会の構成員が感得する快適さが大きけ
れば大きいほど、文化も優れていると考えることができる。ここから、独裁・専制社会や因習社
会のように快適さが一部の限られたグループに独占されている社会の文化よりも、民主主義
社会の文化の方が優れていると結論づけても必ずしも短絡ではないであろう。
 それでは、劣っているないし遅れていると見られる文化の中で、その社会の多くの構成員た
ちが必ずしも不満を持たないように見え、人生はこんなものだと諦観し、日々の営みの中にさ
さやかな楽しみを見つけて生きているとも見られる、本稿執筆の動機となった女性割礼の当事
者にも該当するのではないかと思われるケースはどう解釈すればよいのであろうか。
 実は人類の歴史を通じて、圧倒的に多数の社会での人々の思考・行動様式はそのようなも
のであったと考えられる。それを揺さぶって、より大きな快適さ獲得の可能性に人々を気づか
せたのは、戦争や交易を通じての外の世界との接触による刺激や、知性の文化を作り出した
知識人たちによる知的な刺激であった。従って、今日でも閉鎖的な社会に閉じこめられて、よ
り一層の快適さの追求の意思がないように見える人々でも、外部との接触を通じてより大きな
快適さの存在を知り、知性の文化からの啓蒙によってその獲得の可能性が視野に入ってくる
ようになれば、快適さの追求という人間本来の欲求を取り戻し、より優れた文化の中で生活し
たいと考えるようになるはずであって、それは全人類の共通の祖先イブの遺伝子を受け継ぐ
全ての人に当てはまるであろう。実際、女性割礼を肯定する根拠は「昔からそうしている」とい
うことだけで、現代もそうしなければならない合理的な理由は皆無である一方、当事者の苦痛
は明白である。従来多くの女性が割礼を受容しているように見えたのは、不条理な文化に抵
抗する知的能力と社会的な力を欠いていたからに過ぎない。快適さと苦痛をある程度まで選
別できるだけの知的判断力を身につけた女性が自由な立場で判断できれば、割礼など受容す
るわけがないのである。
 そこで、以上を踏まえて現下のアフリカの文化の構成要素に目を向けてみよう。
 感性の文化については、前述のとおり、他の地域の文化と優劣をつけがたい独自性と魅力
を発揮している部分が多く、文化相対主義の面目躍如たる分野である。
 生活の文化についても、確かに知恵を最大限に活用して環境に適応する工夫がそこここに
凝らされてはいる。しかし水や食糧の確保、住環境、教育、医療事情等、低開発と貧困によっ
て制約されている基本的な生活条件の部分で、快適さの点で先進諸国の文化に大きく遅れを
とっていることは否定できない。21世紀の地球で生活し先進社会との交流もますます増大す
る以上、こうした人類共通の基本的な生活条件の改善は、人並みの快適さの獲得のためにア
フリカ人にとっても不可欠である。もっとも、経済開発と豊かさを遮二無二追求すればそれに比
例して快適さも増大するかどうかは、環境問題から人間関係まで問題山積の先進社会の例か
ら見ても疑問であるので、先進社会の先例から学んで、開発も豊かさもほどほどのところに収
めておくのが賢明なのかもしれない。 実際、相当な低開発と貧困という制約の中にあっても、
日常生活の少なからぬ側面で、外部の物差しでは計り切れない独自の満足感を得ているらし
いことは、多くの文化人類学者のフィールドワークを通じて広く観察されている。 適度な開発と
発展で悲惨ないし劣悪な生活状態が克服でき、その結果として住民の多数が、気候風土に合
った健康的な食事、衣服、住居など一定レベル以上の基礎的生活環境を享受できるようにな
れば、日常生活の文化の他地域の文化との違いは、優劣ではなく生き方や好みの問題として
文化相対主義的な視点から評価されるべきなのであろう。
 なお、今後の開発と発展によって適度に快適な生活の文化が確保された場合、これまでアフ
リカ全域に広く観察されてきた相互扶助の精神や仕組み、あるいは外部の人へのホスピタリテ
ィや素朴さなどの好ましい側面が破壊されずに、新しい生活条件に適応しながら保持されれ
ば、アフリカの文化にとって大きな財産として残るものと思われるが、近代化や都市化の進行
と伝統文化の保存との兼ね合いは、アフリカ人にとっても難題であろう 。
 知性の文化については、文字が使用されなかったアフリカの文化の最大の弱点であると言っ
て過言ではなく、いかに口頭伝承文化が守られてきたとはいえ、それだけでは到底カバーし切
れない遅れを知性の文化にもたらした。低開発や貧困の大きな原因も知性の文化の欠如に
求めることができるほか、生活の文化に紛れ込んだ女性割礼のような当事者の快適さを損な
う風俗・習慣に加えて、権力の行使や社会的関係の側面でしばしば観察される人権問題も、そ
の是非を知性の文化の視点から論理的に検討されることなく温存されて、アフリカ文化の質に
疑問を抱かせる要因となっている。
 しかし、アフリカでも識字教育が漸く根を張り始め、知性の文化の基盤である個々人の知性
の一層の向上が期待されると共に、文字を通じてそれら個々の知性が連携し知性の文化が構
築されて行くであろうことは、文化的に先進した他地域での歴史からも当然予測されるところで
ある。しかし、他地域の前例や蓄積を参考にできるという利点はあるとしても、数世代にわたる
時間は必要であろう。
 かくて、アフリカの文化には知性の文化の欠如に由来する、生活の知恵だけでは対処しきれ
ない基本的な生活条件の遅れと、合理的な存在理由のない因習が残存していることは明らか
である。アフリカ人が他地域並の快適な生活を求めるのであれば、こうした遅れや不条理の存
在に目を瞑らずに克服して行かなければならないし、アフリカ文化の研究者も「文化だから」と
価値判断を避けたり理論的考察を怠ったりすることなく、問題点と原因を個々に探求し改善策
を提示することが、アフリカ文化の向上に貢献する所以である。
 
X.結び
 文化は環境条件の変化に応じて向上するか、遅滞するか、衰退するかのいずれかであるの
で、個々の文化の実態の研究と並んで、特に文化の向上の条件を探ることが文化学の重要な
課題である。本稿では紙数の制約から、文化の向上とは何か、文化の向上の担い手は誰か、
国際関係と文化は如何に関連するか等の興味深い問題まで論ずることはできなかったが、こ
うした問題にご関心のある向きは拙著「文化とは何か」(1997、近代文芸社)をご参照願いた
い。

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