文 化 の 優 劣  
 
T 女性器切除の文化             

1.はじめに
 1) 2006年6月4日付けの朝日新聞朝刊は、「アフリカや中東の一部で伝統的に続いている 
 女性器切除(FGM)は出産時の大量出血や死産といった母子の命の危険につながっている、
 との調査報告を世界保健機関(WHO)が2日まとめた。『文化や伝統に深く浸透した慣習とは
 いえすぐにやめるべきだ』と警告している。」と報道している。
 この女性器切除(割礼)の問題は、その実体(毎年200万人以上と推測される)が特に欧米
で広く知られるようになった20世紀後半以降、女性に対する虐待としてその是非が論じられて
いるのであるが、未だに根強く行われている慣習である。
 一般に、ある慣習が根強く維持されるための最も強い動機の一つは宗教であるが、この女
性の割礼が行われるようになった背景に宗教的理由はほとんどないと考えられている。それに
もかかわらず、宗教に負けないほどの力強さでこの慣習を支えていると見られる根拠として
は、次のような要因があげられる。
  
  @) 女性の外性器の一部を切除することで性的感覚を失わせ、夫以外の男性に性的関
心を持たせないようにすることができると考えられている。
  A) 上記@)の理由や、性交自体を困難にする処置(縫合など)によって、結婚まで純潔・
処女性を維持させることができると考えられている。
  B) 上のふたつの効果を確保するために、集団的・社会的に作り上げられてきた、女性
の成長過程で欠かすことのできない通過儀礼と考えられている。

 2) この慣習は、一部のアフリカや中東の国々で受け継がれている思考・行動の様式とし
て、確かにその国々の歴史の中で作り上げられてきた文化であり伝統である。
 そのため、この文化の外にいる欧米等の国々からの批判や非難に対しては、ある国や民族
の歴史の中で作り上げられてきた文化や伝統は、その国や民族にとって、他の国の文化や伝
統に劣らぬ価値があるのであるから、外部からとやかく非難されたり否定されたりすべきでは
ないという反論がしばしば提示される。この種の反論を根底で支えているのは、文化人類学的
思考の中から生まれてきた文化相対主義理論である。(「文化相対主義」の詳細については、
本ホームページ所載の拙著「文化とは何か」第四章「文化相対主義」をご参照願いたい)

 この理論によれば、先進社会からは未開・後進とみなされるような社会といえども、長い歴史
を通じてその気候風土に十分に順応して作り上げられた生活様式や、独自の伝統芸能および
美術・工芸品、あるいは固有の宗教観や思考様式に基づく社会秩序は、他人がどう思おうと、
そこで現に生きている人々にとっては最も暮らしやすく、最も心が休まる文化の形態なのかも
しれないと考えられる。
 そうであるとすれば、ある社会の思考様式や生活様式を、外部の見方で批判したり非難した
りするのは無意味であり、地球上のすべての文化はそれぞれ固有の価値を持っていて、等しく
尊重されるべきであるという文化相対主義的考え方に到達するわけである。  
 そのような文化相対主義的な考え方に立って、女性の割礼の問題についても、当事国や当
事者側からは、自分たちの文化であり伝統なのであるから、外部からとやかく非難されたり否
定されたりすべきではないという趣旨の上記のような反論が提示されるのである。
 
 3) 日本のアフリカ関係の学術会議でもしばしば、一方で相互扶助の精神をはじめ現代の
アフリカに顕著に見られる思考・行動様式に着目し、これらの長所を持つアフリカ文化を全体と
して肯定的に評価する研究者と、他方では、基本的にはアフリカに好意を持つ研究者ではあっ
ても、女性割礼などのある種の思考・行動様式については肯定的な意味づけに疑問を抱く研
究者とのあいだに激しい質疑応答が展開される。
 しかし、問題の核心は実は単純で、「文化なのだから尊重されるべきだ」という文化相対主義
に立った主張と、「文化ならば全て良いものなのか、中には悪い文化もあるのではないか」とい
う、文化相対主義的思考への疑問のぶつかり合いである。ところが、女性にとっての快適さの
観点からは否定される以外の結論はありえないことが明白なこの問題についてさえ、議論はな
かなか噛み合わず、深まらないまま終わってしまうことが多い。
議論が深まらないのはなぜかというと、文化人類学の研究者でありながら、驚いたことに、研究
者のあいだで、文化についての概念や定義が定まっていないからであるように思われる。同じ
「文化」という言葉を使いながら、その意味するところが異なっているとしたら、議論が噛み合う
わけがないのである。
 とは言え、東西の文化人類学の碩学たちもそれぞれの流儀で文化を定義しているが、いず
れも未だに定説にはなっていないようであり、事実、文化人類学の研究者たちに聞いても定義
は人により一定していない。 従って、女性割礼の問題にせよ何にせよ、文化を旗印にして論
じるからには、先ずは論者が自分自身の文化の定義を提示することから始めないと議論が噛
み合わないのは当然なのである。

 2.文化の定義
  私自身の「文化」の定義は、拙著「文化とは何か」第二章「文化とは何か」で詳述したつもり
であるので、ご一読願えれば幸甚であるが、重複を恐れずできる限り簡略に要点を記せば以
下の通りである(本項および次項「3.文化形成の動機」は、既に拙著をご一読頂いている方に
は、斜めに目を通して頂くだけで十分である)。
 私自身もユネスコで文化の問題に自分の仕事として取り組むまでは、文化というと芸術的な
ものや学術的なものあるいは美的ないし洗練された風俗習慣などを思い浮かべたように、世
間には、文化の概念をそのように狭義に限定し、従って文化は「良きもの」を体現しているとす
る受け止め方がむしろ一般的なようである。これらの文化的なものを敢えて定義するとすれ
ば、「人と社会が作り出したものの内の良きもの」とでも表現するか、あるいは頭に浮かぶ具体
的な事柄を例示的に羅列してみたりするかであろう。しかし、何が「良きもの」かは人によって
千差万別であるし、従って、羅列によって良き文化と思われる事柄を網羅することも不可能で
あるので、こうした表現による定義や、具体的な事柄の羅列は、文化の理解を深めるために
あまり意味があるとは思えない。  
 これに対して、文化人類学の研究者が取り扱っている研究対象の文化は、良きものも悪しき
ものも区別せずに網羅しているので、この視点からは、文化とは「人と社会の思考と行動の様
式」と定義しても、あながち的はずれではないであろう。人と社会が作り出したものの内から良
きものを文化として取り出すのは、客観性の観点から問題が多すぎて、情緒的な主張には使
えても学問的な議論には耐え難いと思われるので、私は、価値観からは中立の「文化とは人と
社会の思考と行動の様式」とする定義をとることとした。
  なお、世間にはこれらの狭義と広義の文化の概念をまぜこぜにして、(狭義の)「文化」が良
きものである以上、(その他の)広く「文化」と呼ばれるものも全て良きものであるはずとの思い
込みが広く見受けられる。文化相対主義の影響もあってか、アフリカ研究者も時に、上記1.
3)のように、アフリカの文化にも長所があるから良い文化であると結論づけたい誘惑に駆られ
るようである。しかし、ここには部分と全体の関係に関する論理の欠如ないし論理の飛躍があ
り、独りよがりの主張になりがちである。文化関係の研究や議論に当たっても、他の学問分野
の場合と同様に、研究対象である文化の概念や構成要素を常に明確に意識しながら論理を
組み立てて行く必要があるであろう。
 
 3. 文化形成の動機
 文化を人と社会の思考と行動の様式と定義し、次いで、そのような思考と行動の様式が何の
ために、どのようにして形成されてきたのかを考察することによって、文化の概念の大枠が確
定する。
 文化形成の動機についての研究に当たっては、高度に発達した現代の人と社会の思考と行
動の千差万別の様式を個々に取り上げて、それぞれ具体的な様式が形成された動機を追求
すること自体、それなりに興味深い研究課題であるかもしれない。しかし、総体としての文化を
考えるためには、そうした研究を通じて得られた個々の様式の形成の動機に共通する根元的
な動機を探し出すことが不可欠である。
 そこで、個々の思考と行動の様式が形成された動機を根源までさかのぼって行くと、すべて
の思考と行動の共通の動機として「快適さの追求」に到達する。人間が人間と呼ばれるにふさ
わしい発展段階(原人)に到達した時点では、いかに原始人といえども、狩猟や採集を中心と
する活動や人間関係で、かなり多彩な知的行動様式を持っていたものと考えられる。しかし、
形に表れた行動様式が如何に多彩であったとしても、その行動の根元的な目的はただひと
つ、生活における快適さ(便利さも含む)の追求であったはずである。
 すなわち、より快適に生活するために、「知恵」と呼ばれる能力を使って行動する様式が「文
化」の始まりなのである。人類の祖先たちは、食料を得るための狩猟や採集を少しでもやり易
くするという、あるいは猛獣や厳しい気候などから身を守るという、最も基本的な快適さを求め
て文化を形作り始めたのであり、従って、人類最初の文化は、まさに、日常生活を快適にする
ための原始的な技術や道具を使って形成された「生活の文化」であったと言ってよいと思われ
る。当初は物的・技術的な快適さの獲得に向けられていた知恵の働きは、のちに人間関係の
あらゆる局面での利害計算のためにも動員されてそれぞれの集団に独特の思考・行動様式
すなわち文化を作り上げて行くことになるので、生活の文化を規定するキーワードは「知恵の
働き」と言ってよいであろう。
 他方、生活の文化の形成と並行して、精神的な思考・行動様式も発展し始めたはずであり、
それは恐らく、雷や山火事、洪水といった人間の力をはるかに超えた自然の力に対する恐
れ、あるいは肉親や仲間の死という人生最大の衝撃に直面して心の内部から沸きあがってく
る、人間の運命を左右する目に見えない力に対する畏敬の念をきっかけにして芽生えたもの、
すなわち原始的な宗教心と言ってよいであろう。そのようにして発生した原始的宗教心は、精
神的な思考・行動様式の面で、ふたつの大きな流れを作り出して行くことになる。ひとつは、宗
教的儀式に際しての音楽あるいは壁画等の美術で代表され、感性に訴える部分が大きい思
考・行動様式、いわば「感性の文化」であり、キーワードは「美醜の判別」である。
 他のひとつは、集団的動物としての人間関係の中で、暴力的な強制力や宗教的儀式を通じ
ながら支配者の権威が形作られ、さらに支配力を強化していくための統治技術すなわち、のち
の政治や思想につながって行く思考・行動様式である。
 こうした文化に見られる人間関係での利害計算に働く知恵は、目先の利害にとらわれた短期
的、実用的な快適さを求めるものが圧倒的に多く、支配者や支配階級による統治にもその傾
向が強い。しかし、その中から中・長期的に安定した統治による快適な生活を求めようとする
思考・行動様式も生まれてくる。政治や思想につながる思考・行動様式は、約6000年前頃に
発明されたものと考えられる文字の使用によって知的活動の蓄積・伝達および進化が急速に
進み、大きな発展を見ることとなった。その最も発展し洗練された形態が哲学をはじめとする
学問の領域であり、「知性の文化」はこうした論理的な思考を主たる要因として形成された文
化なのである。
 論理的思考のもうひとつの流れである自然科学分野の学問も、文字の使用によって飛躍的
に発展することになるが、人類の歴史の長さから考えると、社会科学と自然科学あるいは人文
科学等の分野を問わず、「論理的思考」をキーワードとする知性の文化は、人類にとって、ごく
新しい文化の領域であると言うことができるであろう。
 なお、文化の質を規定する要因として、もうひとつ「思いやり」をキーワードとする「品性」を挙
げることができるが、人類社会は未だ「品性の文化」を形成するまでには至っていないと考えら
れる。
 このように、人間の文化は、まず基盤としての生活の文化があり、そこから派生した感性の
文化とも知性の文化とも相互に影響を及ぼし合いながら発展してきたわけで、われわれが文
化について語る場合には、最小限これらの中のどの文化を念頭に置いているのかを明確にし
ておかないと、話はなかなか噛み合わないことになる。たとえば、日本国憲法の「健康で文化
的な最低限度の生活」という一節の「文化的」という言葉が意味するのは、恐らく主として「生活
の文化」であり、生活の基礎である衣・食・住が、その時代およびその地域での平均的な水準
に達しているということではないかと思われる。従って、こういう意味の文化を語っているとき
に、芸術や哲学の話を持ち出すと焦点が定まらなくなってしまうのである。

 4.女性の割礼は優れた文化か?
 文化を以上2.および3.のように定義、理解した上で、本題に戻り、アフリカや中東で文化と
して実施されてきた女性の割礼が、文化であるという理由だけでこれからも守り続けられるべ
き伝統、風習なのかどうか考えてみたい。
 女性の割礼が風習となったのは、誰かが上記1.の@)、A)、B)の効果を考えついて始め
たものが、誰かにとって一種の快適さをもたらすと認識されて代々継続されてきた結果であ
る。
 動機から見て、考えついたのは呪術師のような権力ないし権威を持つ男性であろう。
 誰に快適さをもたらすかと言えば、割礼を施される女性では決してなく、上記1.の@)、A)、
B)のような効果を期待する男性たちに、である。






愛国婦人会、国防婦人会、大日本婦人会






V. 文化の構造
 1. 生活の文化
 人間の文化の基盤である「生活の文化」には、われわれの日常生活のほとんどの思考様式
や行動様式が含まれている。いわゆる食文化をはじめとして、衣服、住居のような最も基本的
な物質的生活の手段は勿論、言語や宗教のように内面的、精神的生活を規定するものや、冠
婚葬祭のように生活に彩りを添えるもの、更には生産、販売、消費等の物的あるいは金銭的
な経済活動や経済制度、教育、通信、運輸、厚生、法務等の社会活動や社会制度、および国
民生活のあり方の枠組みを作り方向づけをするものとしての政治活動や政治制度まで、われ
われの日常生活の全てが生活の文化の構成要素となっている。そして、この生活の文化は、
既に述べたように、日常生活をより快適にしたいという欲求を主たる動機として発展してきたも
のであるが、動機はともかくとして、発展してきた結果を個々にとりあげて検討してみると、日
常生活をより快適にしたと言えるかどうか疑問が生じるものも少なくない。
 極端な例をあげると、人類の歴史の中で、幼い子供(たとえば、最初に生まれた子供)の命
を神に捧げる生けにえにした社会があった。しかし、いかに宗教心を満足させるためとはい
え、このような思考・行動様式が、少なくとも母親を始めとする肉親たちの日常生活、特に精神
生活を快適にしたとは考えられない。それであるからこそ、他の社会に広まることなく、人類の
歴史の途上に出現した種々の特殊な事例と同じように、いつしか消えていってしまったのであ
る。これほど極端な事例でなくても、われわれの日常生活を規定している社会制度や習慣の
中に、われわれの日常生活や、あるいは社会全体を、快適どころか不快にしている事例はい
くらでも挙げることができる。
 そのような事例が出現する根本的原因は、端的に言ってしまえば、われわれ個々人が、真
の快適さが何かを洞察し、獲得するために必要な能力を、十分に開発していないことにある。
この結果、個々人レベルでその能力不足の程度に応じてもたらされる快適さの欠如は自業自
得と言えないこともない。しかし、社会的次元では、個々人が、「自分だけの」快適さを追求して
努力するだけではどうしても乗り越えられない苦痛が存在する。それは、次のような原因によ
るものである。
 第一に、人類の歴史上のいつごろかはわからないが、宗教的試練や、個人的な修行や苦行
の中などに、特に心理的、精神的な快楽ないし快適さを求める人々が現れてきたことである。
もっとも、それらが反社会的な行為につながらず、個人の信仰や主義や信念にとどまっている
限りは、社会全体に及ぼす影響は限られたものであろう。
 ところが、これらの人々が権力を持っていたり、あるいは権力者に対する影響力を持ってい
たりすると、時に、特異な思考・行動様式が優勢になって、生けにえの例のような宗教的ある
いは社会的思い込みのために、社会全体がとんでもない方向に突っ走ってしまうことがある。
この現象は、他の社会との接触が少なく孤立した社会に起きることが多いようであるので、あ
まりにも特異な思考・行動様式は、他の社会の別な文化との交流が深まれば、いつまでも継
続することは困難になってくる可能性が大きい。
 しかし、なかには、女性の割礼のように弱者が抵抗できないのをよいことに、しぶとく生き延
びている思考・行動様式も少なくないので、民族の独自の伝統や文化といっても、永年伝えら
れてきたという理由だけで、今後も保存してゆくべきであるとは断定できないものもあることが
わかる。文化にも、良いものだけではなく、迷走したものや、人類や社会にとって有害なものも
あるのである。
 第二は、ある制度や習慣ができた当時は、その当時の人々の感覚に根差す社会的快適性
の観点からそれなりの存在理由があったものが、時がたち、社会全体が変わったのに、制度
や習慣だけ残っているために不都合が生じている場合であり、たとえば封建制度に由来する
生活習慣などが考えられる。たとえ多くの人々に不都合が生じていても、その社会で政治的、
経済的あるいは社会的な影響力を持っているグループが、その制度や習慣が存続しているこ
とで利益を得ている場合には、それを変えるのは必ずしも簡単ではない。
 第三は、その社会で政治的、経済的あるいは社会的な影響力を持っているグループが、自
らの利益を守るのに都合の良い制度(封建制や税制など)を、その影響力を通じて作り上げて
いる場合である。この場合、利益を受けるグループが小さければ小さいほど、そしてその力が
大きければ大きいほど、残りの大多数の人々は、制度によって不当に拡大された不利益を押
しつけられることになる。この社会的な強者と弱者とのあいだの利益の配分の問題こそ、人類
がその永い歴史を通じて取り組んできながら、いまだ最終的な解答を得られないでいる重要問
題なのである。
 2.感性の文化
 感性というのは、人間の五感に入ってくる印象を受け止める能力、もっと端的に言えば、美し
いものを美しいもの、心地よいものを心地よいもの、あるいは醜いものを醜いものとして認識
し、判定する能力である。このような感性に訴える文化の中心に位置するのは、言うまでもなく
音楽や美術をはじめとする、いわゆる芸術である。オペラや歌舞伎などの舞台芸術ももちろん
芸術の範疇に入るし、詩も知的な要素が少なくないとはいえ、感性の文化に属するであろう。
ただし、小説となると、ものによっては知性の文化とかなり重なる部分が出てくるし、建築の場
合には生活の文化および知性の文化とも関わり合ってくる。すなわち、感性の文化、知性の文
化、生活の文化と分類しても、ひとつひとつの知的思考様式や行動様式がこの三つに常に明
瞭に分類できるわけではなく、この三つの分野に重なり合うものも少なくない。しかし、文化の
構造を理解するためには、それぞれの知的思考・行動様式の構成要素を勘案して分類してお
くことが必要である。
 なお、感性を、右のような五感で感じとれる実体の美醜を判定する能力と、人間性のような精
神的存在の美醜を判定する能力に分類して考えることも、感性の文化の働きを理解するに当
たって役立つことがある。その場合には、前者を対物的感性、後者を対人的感性と呼んでもよ
いかもしれない。このように分類する理由は、美術や音楽などの鑑賞能力すなわち対物的感
性を磨いても、当然に対人的感性も平行して磨かれるわけではないことを認識しておく必要が
あるからである。
 一般的に言って、美醜が比較的にはっきりしている芸術的基準によってその能力を判定し易
く、経済的価値につながり得ることもあって社会的にもそれなりに評価される対物的感性と比
べて、これといった判定の基準がなく、経済的価値も生み出さない対人的感性は社会的評価
も低く、人々に、これを身につけようと努力させる動機づけに乏しい。しかし、社会の構成員の
対人的感性の高さが、その社会生活の快適さを大きく左右することを考慮すれば、対人的感
性に対する社会的な評価が低ければ低いほど、その社会の感性の文化はバランスを欠いて
いると言わざるを得ないであろう。
 いずれにしても、このような感性を主体にして形成される文化は、人間に感動や快感をもた
らし、生活の文化にうるおいを与えてくれるものである。もともと生活の文化から派生した感性
の文化は、生活の文化が高まることによって生じるゆとりにより更に洗練される性格を持って
いる一方、洗練された感性の文化により育まれる個々人の感性を、今度は生活の文化に反映
させることによって、生活の文化をより洗練させ豊かにすることができる。ただし、生活の文化
にゆとりが出ても、感性の文化が自動的に発達するというわけではない。生活のゆとりを感性
の文化に反映させるためには、それなりの意識ないしは努力を必要とする一方、感性の文化
が発達しても、それを生活の文化に反映させるためには、やはり意識的な努力が同じように必
要なのである。そのような意識が欠けていると、せっかく生活の文化が向上して物質的には豊
かになっても、感性の文化は停滞したままで、従って、感性の文化から生活の文化への再反
映も期待し得ず、生活の文化の物質的な繁栄の中で、何か索漠とした心の渇きが癒されない
という社会的な状況が生じることになりがちである。
 3.知性の文化
 感性が物事の美醜を直感的に感じ取る能力であるとすれば、知性は物事を論理的に考える
能力であると言うことができる。従って、知性の文化の中核をなすのは、論理的な思考を体系
づけ、深めてゆく知的な活動である。人間は、200万年ないし150万年前頃までには直立歩
行の体型ができあがり、自由になった両手で道具を使えるようになって以来、快適な生活を求
めて、知恵と呼ばれる能力を駆使した知的活動を展開してきた。しかし、知性という、論理的な
思考を体系づけ、深める能力に基づく知的な活動を開始したのは、人間の歴史から見ればご
く最近のせいぜい3〜4000年前くらいからではないかと思われる。なぜならば、記録に残る
最初の哲学者たちが古代ギリシャに現れたのは、今から約2600年前の紀元前6世紀頃であ
る。ほぼ同時代に中国には孔子が、そしてインドには釈迦が現れている。もちろん、こうした哲
学者や宗教家たちは突発的に現れたわけではなく、それ以前の、人間の精神生活のなかで神
話と現実が渾然一体となっていた世界から、哲学に代表される論理的思考が精神生活に重要
な位置を占める世界に移行し始めるまでには、名前こそ残っていないが多数の人々による知
的活動の、何世紀にもわたる積み重ねがあったに違いない。
 それでは、なぜ、3〜4000年 ないし2600年ほど前に、お互いに遠く離れた世界の各地
で、時を同じくしてこのような知的な移行が開始されたのであろうか。原人から新人への進化
が完成したのが10万年ないし5万年前だとしたら、歴史に残る偉大な哲学者や思想家あるい
は宗教家たちは、なぜ、ある地域には1万年前に、別の地域には7000年前にそしてまた別
の地域には5000年前にというようにバラバラに現れず、東洋でも西洋でも、紀元前600年前
後を境にして輩出し始めたのであろうか。
 知性と呼ばれる、論理的な思考を体系づけ、深めてゆく能力の開発を可能にしたのは、文字
の発達であった。最初はメソポタミアで5〜6000年前頃に、そしてその後次々に、世界の主
要な文化発生地あるいはその近辺で発明された文字は、永い時間をかけながら整理・統合・
洗練され、その過程でいくつかの文字言語を形成していった。こうして形成された文字言語
は、抽象的な言葉も含めて飛躍的に増大した語彙によって、人間が論理的に考え、それを体
形づけ、深めることを、そして更に、それを記録し、他の人々や次の世代に伝達して洗練して
行くことを可能にする。逆に言えば、文字言語なしには、哲学をはじめとする学問や、アニミズ
ムを超えた宗教思想の発展は不可能なのであり、これが、1万年前にも7000年前にも、ある
いは5000年前にさえ、歴史の評価に耐え得るような哲学者や宗教家が生まれなかった理由
である。
 約200万年前から100万年前にかけての直立歩行の完成による、人類の、サルの仲間か
ら人間への質的転換に次いで、20〜15万年前に獲得した音声言語能力を駆使し、知恵を飛
躍的に増大させた新人(現世人類)が5〜6000年前から形成し始めた文字言語は、3〜400
0年前からの、精神的人間への再度の質的転換をもたらした、または、もたらしつつある、ある
いは、もたらし始めた、と言うことができるかもしれない。
 ただし、文字のない文化から文字の文化への移行に伴う、精神的人間への移行が終了した
のかどうかは、はなはだ疑問である。精神的人間とは、欲望の物質的ないし体感的充足の追
求だけでは満ち足りず、人生や社会の事柄やあり方を、より広い視点からより深く考え、その
結果を現実の人生や社会に少しでも反映させるための努力に、精神的充実感を覚える人間で
ある。そうであるとすれば、精神的人間への移行は、むしろ、まだ始まったばかりなのかもしれ
ない。なぜならば、自分自身を振り返ってみても、われわれの多くは、読み書きができるにもか
かわらず、論理的思考という知性の本質を第二の天性として身につけるには至らず、物質的
に豊かになったことを除けば、文字のない文化の、生活の知恵主体の人生と基本的にあまり
差のないように見える精神生活を、相変わらず送っているように思えるからである。
 文字を使用することによって、人間の知的活動は飛躍的な拡大、深化が可能になったので
あるが、他方、文字の文化の中で生きているからといって、論理的思考という知性の本質を、
自然に身につけるわけではない。読み書きの能力を身につけさえすれば、自然に知性が発達
するわけではないのである。この点、知性は、直立歩行するようになった人間が、手を使える
ようになったことによって、食欲や性欲といった本能的欲望や、それを軸にして更に社会生活
の中で多様化された物欲、金銭欲、出世欲、支配欲といった諸々の欲望を満たすために自然
に身につけてきた、(悪知恵も含めた)生活の知恵とは異なっている。また、五感という肉体的
な感覚や、喜怒哀楽という生まれつき持っている感情の働きを通じて、生きているだけで自然
に、多少なりとも育まれてくる感性とも異なっている。人間であれば、社会集団の中で成長する
過程で、程度の差こそあれ、誰にでも身についてくる生活の知恵やある種の感性と異なり、知
性は、読み書きの能力の上に、論理的思考能力を積極的に開発する努力をしないと身につか
ない特性を持っているのである。したがって、心身に特別な障害がない限り、知恵も感性もな
い人間というのは考えられないのであるが、読み書きもでき、活発に活動していながら知性の
ひとかけらもないという人間は、いくらでも存在しうるのである。この場合、知性がないからと言
っても、知的活動がないということではない。広く、深く、かつ長期的視野に立った論理的思考
がなくても、状況対処能力という知恵を駆使した知的活動は妨げられないからである。むしろ、
われわれの日常の知的活動の大部分は、知性よりも知恵の要素が圧倒的に大きい活動であ
ると言っても言い過ぎではないであろう。
 自然に身についた知恵だけで楽しい人生を送ることができるのであれば、なにも知性などい
らないではないかという考え方があるかもしれない。しかし、ここ3〜4000年の間に、人間に
は、知性の働きを借りないと、一時的にはともかく継続的な安心感や充実感を得られないよう
な精神構造の基本的な変化が、文字の文化によってもたらされてしまったのである。人生のい
ずれかの時点で、「この生き方でよいのであろうか」という疑問や迷いを一瞬たりとも抱いたこ
とのない人はいるであろうか。その解答を宗教のような外部の力に求める人も少なくないし、根
本的な解決にはならないのであるが、仕事や娯楽に没頭して、疑問や迷いなど、できるだけ忘
れてしまおうとする人も多い。そのなかで、自分自身で考えて何とか答えを探し求めようとする
人々に、考え方の筋道なりとも示してくれるのは、知恵ではなく知性なのである。
 なお、知性の本質が筋道の通った論理的思考であるといっても、ある事柄に関する論理が
常にひとつしか成立しないというわけではない。同じ事柄に関しても異なる視点から始まる筋道
をたどって、例えば強者に都合のよい論理や弱者の側に立った論理、金持ちに有利な論理や
貧乏人を擁護する論理などいくつかの論理が組み立てられる状況は、いくらでも考えられる。
人間関係や社会問題に関わる視点や論理に生じる違いは、それらの論理を組み立てる知性
の背後にある感性、特に対人的感性の働きに負うところが大きい。そして、こうした対人的感
性が、良質の知性や知恵と交わり合いながら質的に高められると、品性と呼ばれる特性に昇
華することになる。
 4.品性の文化
 「品性」とか「品位」あるいは「上品」といった言葉は、日常生活でもよく使われるわりに、具体
的なイメージとしてはなかなか描き出しにくい概念である。しかし、それが実際に存在すること
も、大多数の人々が実感しているところである。実際、ただ美しいというのとは異なる上品な顔
というのは、確かに存在するのであるが、どこがどうだから上品なのだと分析するのは、かなり
むずかしい。
 一般に、品位の有無を最も判定し易いのは、人の挙措動作からであろう。すなわち、時と場
所と状況にふさわしい礼儀作法ないしマナーを心得て優雅に振る舞う人からは、確かに品位
が感じられる。これは、知性の文化と感性の文化の(実生活に関係の深い)下部構造と、生活
の文化の上部構造とが重なり合う部分での、洗練された日常生活の中で育まれる教養を通じ
て身につけられるものである。一般的には、成長過程の家庭教育あるいは躾によって修得さ
れるものであるが、その機会に恵まれなかった人でも、その後の人生のどの段階ででも身に
つけることは可能であるし、その気になって努力すれば、それほどむずかしいことでもない。し
かし、一見優雅な挙措動作で品位を感じさせるその同じ人が、目下の人に傲慢な態度をとった
りすると、品性に疑問が生じてくる。そのうえ、目上の人にはへつらっているのを目撃したりす
ると、むしろ品性低劣と感じたりする。してみると、「優雅な立居振る舞い」は、品性の必要条件
ではあっても、十分条件ではないようである。 右の例から類推すると、身分制度が厳しかった
過去はともかく、現代の文化環境の中では、相手によって露骨に態度を変えるようなことをしな
いことが、品性が保たれるための要件ということになる。もっとも、この場合の態度とは、見下
したりへつらったりという種類の態度であって、相手の立場や能力等を考慮して、善意で態度
を変えるのはこれには当たらず、場合によっては必要ですらある。要は、相手の地位や財力
や能力すら劣っている場合でも、人間の基本的な部分、すなわち人間としての尊厳は平等で
あるという意識と、相手も自分と同じように、一度だけのかけがえのない大切な人生を生きて
いるのであり、その近親者たちにとってもかけがえのない大切な存在なのだという想像力とい
たわりの気持ちを、知性部分だけではなく感性部分でも身につけ、それが対人関係ににじみ
出てくる時に、品性が感じられるのであろう。すなわち、品性の二番目の必要条件は、くだけた
言葉で言えば、相手に「思いやり」を持って向かい合えることである。
 品性を感じさせる三番目の条件は、適度の自制心である。金銭欲、物欲、権力欲、支配欲、
性欲さらには食欲ですら、ギラギラと度を越すと貪欲となり、品性とは反対の卑しさを感じさせ
る。そのほかにも、妬み、恨み、憎しみなどの敵対的感情も、あまりにもあからさまになると醜
さが目についてくる。どれだけ度が過ぎると卑しさや醜さを感じるかは、見る人の感性や社会
の許容度すなわち文化によっても異なる。ある社会では、覇気の表れとして評価される欲求の
強さが、別の社会では、貪欲として軽蔑の対象となることも珍しくない。そのように、文化による
違いはあるとはいえ、個人や社会に、過度の欲望や敵対的感情に接して多少なりとも卑しさや
醜さを感じとる感性がある限り、適度に抑制された欲求や感情は好ましいものとして受けとめ
られ、卑しさや醜さの対極にある品性の構成要件となるのである。
 更に、品性の第四の構成要件は、高い知性と豊かな感性に裏づけられた確固たる価値観す
なわちアイデンティティに支えられて、目先の利害で右顧左眄しない毅然とした姿勢である。そ
れは、知性が生みだす論理を世俗的な損得勘定に優先させる知的誠実さが作り出す姿勢で
ある。
 このように、品性とは、人間性に関わる高い知性と深い感性が互いに支え合って醸し出す、
ひとつの人間的な価値である。そして、この価値は、これに接する人にほとんど例外なく好まし
い印象を与え、人間の尊厳を実感させてくれるという意味で、社会的にも高く評価され、大切に
されるべきものであろう。もっとも、個人的レベルでは、品性のある人や品性それ自体に対して
反感を示す人が存在することも、否定できない。ひとつには、自分に欠けているものを持って
いる人に対する妬みと反発によるものかもしれないし、他方では、品性が無制限の欲望の追
求を制約するものであることを直感的に感じとり、無意識に抵抗しているのかもしれない。実
際、このような人たちにとっては、自分たちがやりたい放題できて、しかも周囲の人たちは紳士
的あるいは淑女的に振る舞ってくれれば、これほど快適なことはないであろう。しかし、その周
囲の人たちも、自分たちがやりたい放題のことをしたいと考えている場合には、話が違ってく
る。品性のある人や品性それ自体に反発している人でも、他人が品性を欠いたり身勝手な振
る舞いをしているのを見ると、癇に障るものである。そこで、こうしてやりたい放題している人た
ち同士が接触すると、争いが発生することになるが、これでは、ホッブスの言う「万人の万人に
対する戦い」が展開される原始的自然状態への逆戻りである。このような事態を防ぎ、できる
限り多くの人々の快適さを確保するためには、社会が個々人の品性を高く評価して、品性を否
定する人々を包み込み抵抗できなくしてしまう、質の高い文化を作り上げることが必要であろ
う。
 品性は、個人だけでなく、社会自体も備えることのできる価値である。社会の構成員たる
個々人が、教養に裏打ちされたマナーと、高い知性、豊かな感性に育まれた思いやりや自制
心をもって行動する社会からは、個人の場合と同様に、心地よい品性を感じとることができる
のである。
 このように品性は、知性の文化と感性の文化のなかでも特に人間性に関わる部分と、生活
の文化の中で教養によって洗練された部分との重なり合いの中から育まれてくるものであり、
個人および社会に品性の有る無しによって、生活の文化の質は大きく左右されることになる。
生活の文化は、科学・技術の進歩によって物的に繁栄し向上するが、その中で質的に快適に
生活できるかどうかは、個々人の人間性および社会の人間関係の成熟度、ひいては全体とし
ての品性の高低によって制約されてしまうのである。
 これまで見てきたように、知恵と感性は、快適な生活の獲得という明快かつ強い欲求に駆り
立てられ、人類全てがそれぞれの能力と嗜好に準じて体得してきた資質である。これに対して
知性は、ものごとを論理的に探究・考察することに精神的な充実感という特殊な快適さを感得
する性向と、それを可能にする一定の水準以上の思考能力を持つ人々によって育まれてきた
資質であるので、必然的に少数派にならざるを得ない。それでも、歴史の流れの中で知性の
価値は社会的に認知され、知性を備えることで学者、教育者、研究者などをはじめとする社会
的評価の高い職業に就くことができるという実利にも励まされて、知識人を中心とする知性の
文化の担い手は人類の文化の発展に大きな役割を果たしてきた。ところが品性となると、個人
がいくら努力して身に付けても社会的に評価されるわけでも、出世や商売に実利をもたらすわ
けでもない。他者への思いやりという心のゆとりを持ち、粗野を恥じ、過度の欲望に対する適
度な自制心を備えた特定の個々人によって辛うじて育まれているに過ぎず、知性を軸にして連
帯する知識人の集団のような、品性を支えて連携し合う集団も存在しない。品性には、知性や
感性あるいは知恵と比較して、時空を超えてメッセージを発信して影響力を構築する力が不足
しているのである。
 品性がそのようなものであるとすると、現実の社会で、知恵や感性や知性と並んで品性も文
化の形成に貢献しているかどうかは、甚だ疑問である。知性の文化でさえ漸く進歩の途につい
たばかりであり、品性となると、特定の個々人の属性として確かにあちこちに散在しているとは
いえ、それらが集積、連帯して人類社会に「品性の文化」を形成しつつあるとは到底考えがた
い状況である。かくして、品性の文化は未だ幻想の文化と言った方がよいのかもしれず、従っ
て総体としての文化は、今後とも進むべき方向を指し示す品性の文化を欠いたまま、生活、感
性および知性の各文化によって構成され、それらの要素の質と強弱からなる相互作用を通じ
て性格づけられて行くことになるのであろう。
 
W.文化の優劣
 それでは、以上のように定義した文化の概念によって、アフリカ諸国の文化と他の地域の文
化との優劣の問題について考えてみたい。ただし、アフリカ諸国といっても様々であるので、い
わゆるブラック・アフリカ諸国に一般的に共通するような思考・行動様式と、それによって形成
されてきた慣習や制度を中心に観察することとする。
 1.快適さの点検
 上記V.の1.の生活の文化で述べたように、生活の文化は国により、民族により、地域に
よりそれぞれ異なっており、なかには快適さを妨げる要素を少なからず含んでいるものもあ
る。従って、生活の文化が、日常生活をより快適にしたいという個々人の意欲を動機として発
展してきたものである以上、その中に快適さをもたらす要素が多いか少ないか、あるいは快適
さを妨げる要素が多いか少ないかは、それぞれの社会の生活の文化の質の高低を判定する
有力な基準になり得るはずである。
 とは言え、快適さというのは必ずしも自明な概念ではなく、かなり主観的な部分がある。哲学
史ないし思想史をたどれば、ベンサムが創始した功利主義哲学で使用されてきた「快楽」と重
なる部分が多いが、筆者の快適さの概念は、精神的充実感が果たす役割をかなり重視してい
るので、むしろ実体面の比重が大きいような印象を与える可能性がある快楽という言葉ではな
く、快適さという言葉を使用している。
 ベンサムは、人間の行為を根底で動機づけているのは、苦痛を避け、快楽(または利益ある
いは幸福)を求めようとする意欲であると主張し、社会の利益(幸福)を最大にするためには、
社会を構成する個々人の利益(幸福)の総計を最大にしなければならないと説いた。これがベ
ンサムの功利性の原理ないし最大多数の最大幸福の原理の核心である。
 これまでに人類が考え出した制度の中で、最大多数の最大幸福の原理のうちの「最大多数」
を保障する観点から比較的に最も有効なものは、民主主義体制であろう。民主主義度が高い
方が権力や富の過度の集中に歯止めがかかり易く、その分、多数を占める一般市民が、自由
権や経済力に基づく快適な生活を享受し易いということになる。
 ただし、民主主義の実現のためには、複数政党制や選挙制度などの民主的制度の整備だ
けでは足りず、社会の構成員のひとりひとりが、自分自身の快適さを獲得するためにはどうす
ればよいか、どのような社会であるべきかについての、個々人の考え方と判断力を確立しなけ
ればならないという前提条件がある。
 今日の国際社会では、民主主義の原理は、すべての人種や民族に共通する人類全体の理
念としての普遍性を持っていると考えられており、従ってその実現度は、ある社会で獲得され
る快適さの程度を判定する効果的なメルクマールとなるはずである。
 「最大幸福」の方は、必ずしも自明ではなく、人類はこれまで、目に見える身の回りの快適さ
(幸福)の追求には熱心ではあったが、真の快適さとは何かを洞察し、それを獲得する能力を
十分には開発してきていない。そのため、快適さの追求に際してしばしば計算や見通しを誤
り、快適さを手に入れるつもりの行為が、逆に苦痛の種を蒔いただけに過ぎないような、例え
ば、快適な生活に必要な物やお金を手に入れようとして強盗や殺人を犯した結果、刑罰を受
けて自由も、時には生命までも失うようなことになる事例は枚挙にいとまがない。
 ベンサムは、基本的には経済の視点から、個別の快楽を量的に計算して、それぞれのあい
だに優劣をつけることが可能であると考えた。すなわち強さ、持続性、確実性、遠近性、多産
性、純粋性および範囲の七つの基準によって快楽の大小が計算でき、すべての人々が最も大
きい快楽を選択すれば、社会全体の快楽も最大になるはずであると考えたのである。ただ、実
際にはベンサムは、具体的な計算法を示さなかったし、その後、今日に至るまで、人類が真の
快適さを洞察し、獲得する能力を格段に発展させることができたと考えるべき根拠も見当たら
ない。
 またベンサムは、社会の快楽は個人の快楽の総計と考えて敢えて両者を区別することはし
ていないが、現代社会では、個人的快適さと社会的快適さとのズレの問題を看過することはで
きない。すなわち、一般的に、科学・技術の進歩や衣・食・住をはじめとする物質面での豊かさ
の向上が、日常生活の快適さや便利さをもたらすことは否定し得ないところであるが、例えば
クーラーや自動車などの使用により獲得される快適さには、半面として、熱気やガスの排出に
より社会一般に不快適さをもたらす必然性があることも無視できない。このため、科学・技術
の進歩や物質的繁栄を快適さを計る唯一の指標とすることに、現代社会では疑問符がつき始
めている。
 実際、つい最近まで、科学・技術の発展度と経済的繁栄度によって国や社会の優劣が測ら
れ、開発途上国にとって、これらを向上させて先進国に追いつくことが、進歩への唯一の道筋
であるとみなされてきた。ところが、文化人類学者によって、地球上の多くのいわゆる未開社
会の研究が進むにつれて、これらの社会が決して原始社会の化石ではなく、それぞれが与え
られた環境条件のもとで極限まで発達した社会であることが明らかにされ、経済的要因だけで
はなく人間生活のあらゆる要素を包含する文化、すなわちある社会の思考様式や生活様式に
優劣をつけるのは無意味であり、地球上のすべての文化はそれぞれ固有の価値を持ってい
て、等しく尊重されるべきであるという「文化相対主義」理論に到達したことは周知の通りであ
る。
 2.文化相対主義  
  ただ、この文化相対主義については、そうは言っても、いろいろな文化を比較してみると、実
感として、やはり何らかの優劣があるのではないかという疑問を、完全にぬぐい去ることはな
かなかむずかしい。音楽、美術あるいは芸能等の「感性の文化」に属するものについては、確
かに各地の文化がそれぞれ固有の価値をもっており、これに優劣をつけるのが困難であるこ
とは、それこそ実感として納得できる。しかし、「生活の文化」の特に経済力や技術力で支えら
れる部分には、ある程度客観的な優劣の存在を認めざるを得ないのではないであろうか。
 それを認めずに、ある未開あるいは開発途上社会のあるがままの生活様式が、環境に適応
して可能な限り独自の向上を遂げたものであり、先進国の生活様式と同等の価値を持つ以
上、先進国の生活様式に近づける必要はないと認識する場合には、先進国による経済・技術
協力の必要性はどのように理論づけられることになるのであろうか。やはり、ある開発途上国
の生活様式が、いかに環境に適応して最大限まで磨き上げられてきたものであると言っても、
本当は更に先進社会のレベルにまで向上させたいのに、「貧困」のゆえに現在のレベルにとど
まらざるを得ないというのが実態なのではないであろうか。
 多くの開発途上国が経済・技術協力を求めるのは、まさに貧困から脱却して、現状よりもより
快適な生活環境を得たいからであり、経済開発に成功して貧困から脱却した国が作り上げる
のは、結局、先進国的な生活環境であり生活様式である。そして、交通、通信、運輸の手段が
発達した今日の人類社会で人間の経済発展がたどる道筋は、それに使用される技術、資材、
施設あるいは製品等がほとんど共通してきているところから、ほぼ決まっていると考えられる。
そうであれば、生活の文化の経済・技術に依存する大きな部分には、経済発展の段階によっ
て優劣があると考えざるを得ず、従って、先進国社会と開発途上国社会の生活の文化の比較
に文化相対主義を適用することには疑問が残るのである。
 文化相対主義が社会進化論の有力なアンチテーゼの役割を果たしたことは否定できない
し、経済発展や社会の進化は時代、地域、社会、自然環境など様々な要因によって抜きつ抜
かれつの歴史があるにもかかわらず、社会進化論が近代ないし現代の発展段階だけを見て
人種間の優劣に結びつけるという短絡的なミスを犯したことは致命的であった。しかし他方で、
文化相対主義一辺倒になって、ある文化に対するいかなる批判も封じてしまうことは理論を切
磋琢磨する機会を奪い、一種の思考停止を招くことにもなりかねない。ある社会の文化が、与
えられた環境や状況に適応して洗練された文化を作り出してきたのだとしても、環境が変われ
ば、あるいは変えれば、それまでの文化はもはや環境に適応しているとは言えなくなる。変化
した環境や状況への適応が遅れた文化に対しては、遅れている分野を率直に指摘して改善を
促すことこそ、遅れたために劣ることになった文化を向上させるために必要なことではないで
あろうか。アフリカの文化の場合も、アフリカの歴史と環境の中でそれなりに極限まで洗練され
てきた文化だから良いに決まっていると擁護し過ぎると、ひいきの引き倒しにとどまらず、ウル
トラ保守主義を押しつけることになって、改良も進歩もますます遅れてしまうことになるであろ
う。それにフィールドワークの経験からアフリカの文化については特別な思い入れがあって擁
護したくなるとしても、目をアフリカの外に転ずれば、自国を含め地球上のあちこちに根強く残
る男尊女卑、個人崇拝、社会的地位の世襲、ネポティズム、贈収賄などの前近代的な諸文化
までも、全て環境に適応し極限まで洗練された文化であると主張するほど文化相対主義を信
奉する文化人類学者は多くないはずである。
 3.文化の優劣の基準
 それでは、ある文化が優れているか劣っているかは、何を基準にして判定すればよいのであ
ろうか。
 文化の形成の動機が快適さの追求であるならば、社会の構成員が感得する快適さが大きけ
れば大きいほど、文化も優れていると考えることができる。ここから、独裁・専制社会や因習社
会のように快適さが一部の限られたグループに独占されている社会の文化よりも、民主主義
社会の文化の方が優れていると結論づけても必ずしも短絡ではないであろう。
 それでは、劣っているないし遅れていると見られる文化の中で、その社会の多くの構成員た
ちが必ずしも不満を持たないように見え、人生はこんなものだと諦観し、日々の営みの中にさ
さやかな楽しみを見つけて生きているとも見られる、本稿執筆の動機となった女性割礼の当事
者にも該当するのではないかと思われるケースはどう解釈すればよいのであろうか。
 実は人類の歴史を通じて、圧倒的に多数の社会での人々の思考・行動様式はそのようなも
のであったと考えられる。それを揺さぶって、より大きな快適さ獲得の可能性に人々を気づか
せたのは、戦争や交易を通じての外の世界との接触による刺激や、知性の文化を作り出した
知識人たちによる知的な刺激であった。従って、今日でも閉鎖的な社会に閉じこめられて、よ
り一層の快適さの追求の意思がないように見える人々でも、外部との接触を通じてより大きな
快適さの存在を知り、知性の文化からの啓蒙によってその獲得の可能性が視野に入ってくる
ようになれば、快適さの追求という人間本来の欲求を取り戻し、より優れた文化の中で生活し
たいと考えるようになるはずであって、それは全人類の共通の祖先イブの遺伝子を受け継ぐ
全ての人に当てはまるであろう。実際、女性割礼を肯定する根拠は「昔からそうしている」とい
うことだけで、現代もそうしなければならない合理的な理由は皆無である一方、当事者の苦痛
は明白である。従来多くの女性が割礼を受容しているように見えたのは、不条理な文化に抵
抗する知的能力と社会的な力を欠いていたからに過ぎない。快適さと苦痛をある程度まで選
別できるだけの知的判断力を身につけた女性が自由な立場で判断できれば、割礼など受容す
るわけがないのである。
 そこで、以上を踏まえて現下のアフリカの文化の構成要素に目を向けてみよう。
 感性の文化については、前述のとおり、他の地域の文化と優劣をつけがたい独自性と魅力
を発揮している部分が多く、文化相対主義の面目躍如たる分野である。
 生活の文化についても、確かに知恵を最大限に活用して環境に適応する工夫がそこここに
凝らされてはいる。しかし水や食糧の確保、住環境、教育、医療事情等、低開発と貧困によっ
て制約されている基本的な生活条件の部分で、快適さの点で先進諸国の文化に大きく遅れを
とっていることは否定できない。21世紀の地球で生活し先進社会との交流もますます増大す
る以上、こうした人類共通の基本的な生活条件の改善は、人並みの快適さの獲得のためにア
フリカ人にとっても不可欠である。もっとも、経済開発と豊かさを遮二無二追求すればそれに比
例して快適さも増大するかどうかは、環境問題から人間関係まで問題山積の先進社会の例か
ら見ても疑問であるので、先進社会の先例から学んで、開発も豊かさもほどほどのところに収
めておくのが賢明なのかもしれない。 実際、相当な低開発と貧困という制約の中にあっても、
日常生活の少なからぬ側面で、外部の物差しでは計り切れない独自の満足感を得ているらし
いことは、多くの文化人類学者のフィールドワークを通じて広く観察されている。 適度な開発と
発展で悲惨ないし劣悪な生活状態が克服でき、その結果として住民の多数が、気候風土に合
った健康的な食事、衣服、住居など一定レベル以上の基礎的生活環境を享受できるようにな
れば、日常生活の文化の他地域の文化との違いは、優劣ではなく生き方や好みの問題として
文化相対主義的な視点から評価されるべきなのであろう。
 なお、今後の開発と発展によって適度に快適な生活の文化が確保された場合、これまでアフ
リカ全域に広く観察されてきた相互扶助の精神や仕組み、あるいは外部の人へのホスピタリテ
ィや素朴さなどの好ましい側面が破壊されずに、新しい生活条件に適応しながら保持されれ
ば、アフリカの文化にとって大きな財産として残るものと思われるが、近代化や都市化の進行
と伝統文化の保存との兼ね合いは、アフリカ人にとっても難題であろう 。
 知性の文化については、文字が使用されなかったアフリカの文化の最大の弱点であると言っ
て過言ではなく、いかに口頭伝承文化が守られてきたとはいえ、それだけでは到底カバーし切
れない遅れを知性の文化にもたらした。低開発や貧困の大きな原因も知性の文化の欠如に
求めることができるほか、生活の文化に紛れ込んだ女性割礼のような当事者の快適さを損な
う風俗・習慣に加えて、権力の行使や社会的関係の側面でしばしば観察される人権問題も、そ
の是非を知性の文化の視点から論理的に検討されることなく温存されて、アフリカ文化の質に
疑問を抱かせる要因となっている。
 しかし、アフリカでも識字教育が漸く根を張り始め、知性の文化の基盤である個々人の知性
の一層の向上が期待されると共に、文字を通じてそれら個々の知性が連携し知性の文化が構
築されて行くであろうことは、文化的に先進した他地域での歴史からも当然予測されるところで
ある。しかし、他地域の前例や蓄積を参考にできるという利点はあるとしても、数世代にわたる
時間は必要であろう。
 かくて、アフリカの文化には知性の文化の欠如に由来する、生活の知恵だけでは対処しきれ
ない基本的な生活条件の遅れと、合理的な存在理由のない因習が残存していることは明らか
である。アフリカ人が他地域並の快適な生活を求めるのであれば、こうした遅れや不条理の存
在に目を瞑らずに克服して行かなければならないし、アフリカ文化の研究者も「文化だから」と
価値判断を避けたり理論的考察を怠ったりすることなく、問題点と原因を個々に探求し改善策
を提示することが、アフリカ文化の向上に貢献する所以である。
 
X.結び
 文化は環境条件の変化に応じて向上するか、遅滞するか、衰退するかのいずれかであるの
で、個々の文化の実態の研究と並んで、特に文化の向上の条件を探ることが文化学の重要な
課題である。本稿では紙数の制約から、文化の向上とは何か、文化の向上の担い手は誰か、
国際関係と文化は如何に関連するか等の興味深い問題まで論ずることはできなかったが、こ
うした問題にご関心のある向きは拙著「文化とは何か」(1997、近代文芸社)をご参照願いた
い。
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