法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室



現代日本社会論/戦中・戦後史

『岩波書店と文藝春秋』 『「家族」と「幸福」の戦後史』 『可能性としての「戦後」』
『空虚な楽園』 『原色の戦後史』 『思想としての全共闘世代』
『自由に生きるとはどういうことか』 『1960年5月19日』 『日中戦争下の日本』
『「民都」大阪対「帝都」東京』

井上寿一(2007)『日中戦争下の日本』講談社選書メチエ
 日中戦争に対する国民の圧倒的支持はいったいどのような背景のもとで生じたのか。本書では、帰還兵の問題や政党政治の展開、思想家やジャーナリストの動向、さらには農民や労働者たちの運動から、翼賛体制がどのように生み出され、いかなる帰結を生じさせたのかを論じています。知らなかったことが多く記述されており、大変に勉強になる一冊でした。
 とりわけ興味深かったのは、日中戦争の目的をめぐる民政党斎藤隆夫議員の「反軍演説」のくだりで、賠償金や領土といった具体的な利益の獲得を戦争の目的とすることを政府が否定し、「東亜新秩序」というより抽象的な目的を掲げたという点です。
 また、「八紘一宇」というスローガンについての以下の記述も印象的です(p.166)。

「『八紘一宇』は誰もが賛成した。しかし誰もその内容を説明することができなかった。誰も何もわからない『八紘一宇』が日本の新しい体制原理となった。」

これはまさに「八紘一宇」が政治シンボルとしての役割を担っていたからにほかならず、実際には様々に意見の異なっている人びとをとりあえずまとめるという機能を果たしていたということなのでしょう。小熊英二さんの『単一民族神話の起源』によれば、様々な政治的含意のために戦争中には「日本民族」がその内実を欠き、どんどん抽象的なスローガンと化していったそうですが、それと極めて類似した現象が「八紘一宇」に関しても生じていたのではないでしょうか。
 「八紘一宇」にせよ、「日本民族」にせよ、抽象的なスローガンが濫用されるほど、その内容はどんどん曖昧になり、それに基づく政策は論理性を欠いた、粗雑なものになっていくわけです。無論、そうした現象は現在においてもなくなるどころか、ワンフレーズ・ポリティクスといった形で至るところで観察することができるわけで、その意味でも現代人が学ぶべき点が本書にはあるのではないでしょうか。
 これ以外にも、戦時下における社会主義の役割など、興味深い点は数多くあり、お勧めの一冊です。(2007年11月)


大島幸夫(1986)『原色の戦後史』 講談社文庫
 英国留学中にブライトンの日本食料品店(古本とかも売っている)で偶然見つけた一冊。たいして期待せずに読み始めたのですが、これが面白かった。終戦直後の混乱のなかで人々がどのように生きたのかを、様々な角度から、様々なエピソードを通して描き出しています。皇居に突入して、天皇家の台所事情をチェックしようとした世田谷区民、住宅難から小学校の校舎を占拠した引揚者、政府の言葉に踊らされて北海道に移住した農民…、など人々が必死に生きるさまが浮き彫りにされていきます。今日の満ち足りた日本社会にあっては、ついつい忘れがちになるのですが、食べ物をめぐって人々が死に物狂いだった時代が日本にもつい50年ほど前にあったのだ、ということを改めて痛感させる一冊です。今でも手に入るのかどうかはわかりませんが、機会があれば是非一読を薦めたい本です。(2000年11月)

小阪修平(2006)『思想としての全共闘世代』ちくま新書
 1960年代後半から1970年代初頭にかけて、大学紛争の中心的な役割を担った「全共闘」。しかし、激しい路線対立や内部抗争などにより、いったい何が問題とされ、何と闘っていたのかが現在ではさっぱりわからないというのが実情ではないでしょうか。本書は、私のような全共闘に関する知識が全く欠けている者でも、全共闘の運動の展開をわかりやすく解説してくれています。たとえば、全共闘の「わかりにくさ」の要因は、おそらく次のような要因に起因するものと考えられます。(pp.49-50)

「全共闘には指導者が明確なかたちでは存在しない。・・・(明確な指導者が存在する連合赤軍とは異なり:引用者)全共闘には闘争目標や連絡会議・実行委員会があるだけで、規約もなく、だれが構成メンバーであるかさえも明確ではない。自分が全共闘だと思い、行動に参加すればそれで全共闘なのだ。」

当時の学生はこのような全共闘に固定化された組織の硬直性や権力性からの解放を期待したのでしょうが、このような曖昧さが過激な内ゲバの一因になったことには皮肉を感じざるをえません。
 そもそも、この著作を読む限り、全共闘の運動の目標はきわめて抽象的であり、具体的な政策の実現というようなレベルでは全くないように思われます。たとえば、「全共闘運動が『個人的』な闘争だったということが、逆に闘争に参加するかどうかを通してその人自身の生き方が問われるという特徴をつくっていった」(p.82)という記述があります。ここからは、全共闘による運動を、何らかの社会的な目標の実現を目指す運動としてよりもむしろ、大衆社会化が進むなかで浮上してきた、個々人のアイデンティティをどのように獲得していくのかという問題が集合的な形をとって現れた現象と見なすべきではないかとの感想も浮かびます。
 いずれにせよ、著者個人の経験も交えて、当時の運動の様子がわかりやすく伝わってくる著作ですので、この時代に興味のある方にはお勧めですね。なお、この著作については、ブログのほうでも触れていますので、関心のある方はそちらのほうも参照してください。(2007年11月)

桜井哲夫(1994)『可能性としての「戦後」』 講談社選書メチエ
 いわゆる戦後民主主義の清算が叫ばれて久しいですが、そうした主張のうち、戦後民主主義ときちんと向き合っているものがどれだけあるでしょうか? 戦後民主主義とは一体何か、その問題点や受け継ぐべき点は何か、そのような極めて重要な問題を、「マルクス主義的―」とか「進歩的―」とかいった言葉で片づけてしまい、いたずらに戦前を美化している論のいかに多いことか。結局のところ、それは敗戦の事実ときちんと向き合うことなく民主主義を構築しようとした人々と何ら変わるところがないのではないでしょうか?前置きが長くなりましたが、本書は戦後民主主義の思想とはいかなるものだったのかという観点から、花森安治や松田道雄といった今日ではあまり取り上げられることのない人々の思想を取り上げ、戦後民主主義の可能性について論じています。戦後民主主義の問題点を克服しようとするのであれば、こうした研究がもっとなされるべきだと思う今日このごろです。 (1999年)

橋本務(2007)『自由に生きるとはどういうことか』ちくま新書
一言で「自由」といっても、時代や社会が変わればその意味もまた変わってきます。本書はそうした観点から戦後の日本社会において「自由」の意味がどのように変化してきたのかを分析しています。分析の素材となるのは、「あしたのジョー」や尾崎豊、はたまたエヴァンゲリオンなどのサブカルチャーが多く、親しみやすい内容になっていると言えるでしょう。僕としては、とりわけ本書の尾崎豊論を楽しく読むことができました。尾崎豊のライフヒストリーのなかで彼が追い求める「自由」がいかに変化していったのかがうまく論じられています。
全体としてはなかなか面白いのですが、最終章の2000年代の分析になるとアメリカでの話がそのまま日本の文脈に持ち込まれてしまい、やや説得力を欠く気がしました。やはり同時代の分析というのは、それだけ難しいということなのでしょうか。(2007年12月)

原武史(1998)『「民都」大阪対「帝都」東京』 講談社選書メチエ
 1930年代において、人口や経済において東京を圧倒していた大阪。国鉄が中心となった東京とは異なり、大阪では私鉄が中心となって発展を遂げていきました。本書では、国家の網をかいくぐりながら発展を遂げていった関西私鉄の歴史をさかのぼるとともに、日本の軍国主義化によって「帝国の秩序」が大阪を蝕んでいく過程が論じられています。大阪出身の僕としては、JR大阪駅と阪急の梅田駅との間には、なぜ屋根つき通路がないのか、などの記述がとても面白く読めました。(2000年5月)

日高六郎編(1960)『1960年5月19日』 岩波新書
 本書は1960年の安保闘争の意味を政府に批判的な立場から考察した本です。安保改定に反対し、冷戦構造下において中立的立場を主張するという、今という時点から見ればやや楽観的すぎる立場を本書は標榜しています。その後の歴史は彼らが望んだのとは全く異なる方向を示し、日本はアメリカの忠実なパートナーとして現在に至り、また、民衆の政治的関心は安保闘争をピークとしてどんどんと低下していきました。そういうことを踏まえれば、彼らを批判するのはたやすいですし、本書をいまさら読む価値など無いのかもしれません。しかし、戦後民主主義がまだ若かったころの記録として、安保に反対した人々が何を考えていたのか、何について悩んでいたのかということの記録として、本書を読む価値は十分にあると思います。また、最近の保守派論客によれば、戦後左翼は一貫して「民族」や「国民」ということを回避してきたということらしいですが、本書を読めばそうした主張がいかに出鱈目かがよくわかるでしょう。(2000年10月)

毎日新聞社編(1996)『岩波書店と文藝春秋』 毎日新聞社
 戦後日本の言論界をリードした岩波書店と文藝春秋。この本では、この二つの出版社の雑誌である『世界』と『文藝春秋』の記事とその当時の時代背景とを重ね合わせながら、戦後日本の思想がどのように時代と向かい合ってきたのかを明らかにしています。企画自体が面白い上に、取り上げられているテーマも刺激的であり、戦後日本を考える上でとても役に立つ本だと思います。僕個人としては、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」が当時の人々にどれほど大きな衝撃を与えたのか、というところが興味深かったです。戦前の日本に対する批判を「後知恵によるものだ」と批判する人たちが、戦後の思想家を後知恵で批判する姿はなかなか滑稽なのですが、丸山の思想も時代のコンテクストに合わせて読んでいかないと、それこそ「後知恵」による批判になってしまうのだろうなぁとつくづく思いました。(1999年)

マコーマック・ガバン、松居弘道ほか訳(1996=1998)『空虚な楽園』 みすず書房
 外国人の研究者による日本社会論というと、K・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』などが思い出されますが、ウォルフレンの分析は、システムという側面を強調しすぎて、分析全体に歪みが生じているのではないかと思われます。それに対して本書は、日本の「特殊性」を強調しすぎたり、分析枠に縛られすぎたりすることなく、非常にバランスのとれた日本社会論となっているのではないでしょうか。本書は、土建国家、レジャー国家、地域国家、平和国家、などの側面から日本社会を分析し、その問題点を明らかにしていますが、中でも興味深いのは、日本の過去と現在についての分析です。第二次大戦中の日本軍の行為に関しては、かなり厳しい分析がなされていますので、歴史修正主義者の人は読まないほうが精神衛生上よろしいのではないかと思いますが、過去と現在の両方の側面からアジアとの関係を捉え直すためにも参考になるのではないでしょうか。(1998年)

三浦展(1999)『「家族」と「幸福」の戦後史』 講談社現代新書
 かつて豊かさの象徴であった「郊外」。ごみごみした都市を脱し、健康で文化的な生活を営むのに最適と考えられた「郊外」が発達していく過程を論じているのが本書です。「郊外」で暮らす「家族」、そしてその「幸せな生活」。筆者によれば、それらは大量生産され、大量消費されるものに他ならず、一元的な価値観によって支配される傾向にあります。そのため、多様な生き方が許容されないことになってしまい、過剰な息苦しさと逸脱とが生み出されるというわけです。うーん、こう書くと結構よくある現代社会論だなぁ。まぁ、ときどきややありきたりな主張があったりもするわけですが、それでも戦後における核家族化やコミュニティの変遷などを考えるうえでは結構参考になる本なのではないでしょうか。(2000年5月)