法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室



現代日本社会論/文化

『「おたく」の精神史』 『教養主義の没落』 『虚構の時代の果て』
『紅一点論』 『コミュニケーション不全症候群』 『Jポップとは何か』
『動物化するポストモダン』
『日本人はなぜ無宗教なのか』 『日本という身体』
『「日本文化論」の変容』 『敗戦国民の精神史』

青木保(1990)『「日本文化論」の変容』 中央公論社
 「日本人とは日本人論が好きな人たちだ」という下らないジョークがあるのですが、それほど数多くの日本文化論がこれまで出版されてきました。本書は、そうした日本文化論が戦後を通じて、どのように変化してきたのかを論じています。本書によれば、日本文化論は、日本が経済的に復興してくるにつれて、日本文化を肯定するものへと変化してゆき、またその肯定の仕方も日本文化の特殊性を強調するものから普遍性を強調するものへと変化していきました。もっとも、バブルが崩壊し、いわゆる日本的経営が克服されるべき対象として見られるようになった今日ではまた状況も変わっているかもしれませんが(「ジャパニメーション」の世界進出が喜んで語られるのだから、やはり日本文化の普遍性の強調は続いているとは思うけれど)。戦後日本の自画像がどのように変化していったのかを知る上で参考になる本だと思います。あと、この本は確か、中公文庫からも出ているように思います。 (1999年)

東浩紀(2001)『動物化するポストモダン』 講談社現代新書
 「動物化」や「データベース消費」といったキーワードによって大きな話題を呼んだ、オタク文化を語るうえでは必読と言える一冊です。まず、「動物化」とは、「人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない」(p.97)という観点から、消費社会化が進行するなかでそうした「自然との闘争」を行う契機が失われてきたがゆえに生じる現象だというわけです。この点について、著者は次のように述べています。(p.127)

「マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。」

このように即座に欲求が満たされる現在社会においては、与えられた環境との闘争など生じうるはずもなく、ただそれを受け止める「動物」か、もしくは本来は批判する理由などないにもかかわらず、形式的な理由に基づいて批判を行う「スノッブ」になるしかないという状況が現れることになるというのです。
 次に、「データベース消費」とは、(『機動戦士ガンダム』のような)ストーリーの背後に壮大な物語が存在し、愛好者にはその物語の断片から全体を構築していくことが求められるような「物語消費」とは異なり、(『新世紀エヴァンゲリオン』のような)背景となる物語は破綻しているにもかかわらず、物語の基盤となっている「萌え要素」のデータベースを愛好者が発見していくような形での消費を意味します。たとえば、複数のアニメに登場する「青い髪の美少女」などがそうした「萌え要素」に該当するわけです。
 ただし、他方において、物語への欲求が全くなくなったわけでもなく、ゲームに存在する複数のシナリオのうちの一つに感動したりするような「小さな物語」のニーズも存在していると作者は述べています。そして、自然との葛藤もないまま、データベース消費を好む一方で、「小さな物語」への欲求を保持しているような人びとを、作者は「データベース的動物」という新しい人間類型として提示しています。
 以上のように、サブカルチャーの極北とも言いうるようなオタクアニメや美少女ゲームと、ヘーゲルやボードリヤールの思想を援用したヘビーな分析枠組みとの組み合わせが、本書の妙と言えるかと思います。もっとも、それを受け付けない人には全く面白くない可能性もあるわけですが。ただ、僕としては結構面白く読めたので、その手の話が好きな人にはお勧めです。(2006年9月)


阿満利麿(1996)『日本人はなぜ無宗教なのか』 ちくま新書
 日本人の7割が自らを「無宗教」だと考える一方、同じ日本人の7割が「信仰心は大切だ」と答えているという矛盾。さらには、無宗教を標榜しながら、初詣や墓参りに精を出す日本人。このような矛盾は一体どこから生まれているのか?そうした疑問に答えようとしているのが本書です。筆者は、古来からの日本人の宗教に対する思想、あるいは、明治以降の政府による宗教政策などを見ながら、日本人の宗教心がいかにねじれを起こしていったのかを論じてゆきます。「日本列島の住人に内在する様々な多様性を『日本文化』あるいは『日本人』というレッテルのもとで覆い隠してしまう」という批判が、いわゆる日本人論には向けられているわけですが、そうした批判を考慮してなお、刺激的な著作であると言えるでしょう。(1999年)

石田健夫(1998)『敗戦国民の精神史』 藤原書店
 本書は、文学作品や社会風俗の観点から戦後日本社会を考察しています。著者が新聞の文芸記者ということもあって、著名な作家との個人的な交流なども描かれ、戦後日本の作家たちが何を考え、何を悩んでいたのかが論じられています。また、著者個人の生活の変貌も織り込まれ、いかに戦後の豊かさの到来が急なものであったのかが分かります。読みやすくて、面白いのですが、不満が残るところもあります。筆者は、戦前の日本の帝国主義を非難し、戦後民主主義の荒廃、性的なモラルの消失を糾弾します。今の日本人ときたら、政治的には全く無関心で、興味と言えば、ブランド品とセックス…。まぁ、確かにそうと言えばそうなんですけれども、僕としては「それでは、あなたはどこにいるの?」と聞いてみたくなります。筆者は「普遍的な人間の価値」というようなことを書くわけですが、そういう立場に立ってしまったならば、そこから紡ぎだされる言葉は全て「お説教」でしかなく、言葉は決してそれを本当に必要としている所には届かないのではないか…、と僕は思うわけです。(2000年)

烏賀陽弘道(2005)『Jポップとは何か』 岩波新書
 J・ポップと呼ばれる音楽ジャンルについての解説…と思いきや、むしろ音楽という観点から見た日本社会論とも呼びうる一冊です。音楽には疎い僕にとっても非常に興味深い話が満載されており、お勧めの一冊です。たとえば、最近ではCMとのタイアップのためにサビだけがまず作曲され、売り込みがかけられることが増えてきたそうですが、そのせいでイントロやサビだけが盛り上がって、あとの部分が平凡だったりつながりの悪い曲が増えているという話には、非常に納得させられました。とりわけ本書で興味深いのは、J・ポップが実質的には日本国内でのみ受け入れられているにもかかわらず、「世界に通じる日本の音楽」というイメージを付与されてきたとの指摘です。実際には、J・ポップにはそれほど良い印象を持っていない人が多いようですが、それでもそうしたJ・ポップのイメージ戦略には近年のオタク・ナショナリズムに通じるものがあるように思いました。これ以外にも、J・ポップ業界と政治との結びつきなど、考えさせられるテーマが扱われており、J・ポップに興味のない人でも楽しめる内容になっていると思います。(2006年7月)

大澤真幸(1996)『虚構の時代の果て』 ちくま新書
 とりあえず、こんなの新書で書く内容じゃねーよ、というのが第一印象です。それぐらい、複雑・難解な議論が展開されています。が、非常に面白いんですね、これが。マックス・ウェーバーから「風の谷のナウシカ」、果ては「セーラームーン」までも飛び出す分析で、オウム真理教が、なぜサリンを用いた無差別殺人を行ったか、という疑問に正面から答えてゆきます。が、それにしても難解なこの本。私は、第5章の「虚構=現実」の章が結局、理解できませんでした。なぜ、科学的合理性を徹底的に追求すると、<超越的>な存在を認めることになるのか?命題が面白いだけに是非理解したいこの議論、誰か分かりやすく教えてくださーーーーい。 (1997年)


大塚英志(2004)『「おたく」の精神史』 講談社現代新書
 本書は「おたく」という、一般には社会の周縁に位置づけられることの多い人々をテーマとしています。が、実際には本書で論じられているのは1980年代における社会の大きな潮流であり、当時において戦後民主主義社会が落ち込んでいった一種の隘路を実に巧妙に描き出しているように思います。もちろん、本書は作者の大塚英志さんの「自分史」としての性格を強く持っていますから、「客観的な」歴史記述であるとは言えません(著者自身もそんなものは目指していません)。また、雑誌の連載をまとめた本であることから、記述のスタイルが散漫になっていることも否めないように思います。しかしそれでも、本書には1980年代から現在に至って日本社会が引きずっている様々な諸問題を考えるためのヒントが詰まっているように思います。漫画やアニメのみならず、アイデンティティ、消費、ナショナリズム、宗教、ジャーナリズム、フェミニズムといったテーマに関心を持つ人に是非とも読んでもらいたい一冊です。ひさびさに夢中になって読んだ本ですね(2004年4月)。

加藤典洋(1994)『日本という身体』 講談社選書メチエ
 明治・大正・昭和の膨大な文学書や思想書などから、近代日本社会の精神のありようを論じているのが本書です。著者の加藤さんは近代日本が「大」「新」「高」というイメージによって特徴づけられるとし、様々な事件や小説の分析を縦横に行っています。脚注を見れば、その読書量の凄さにため息をつくほど。また、内容的にも極めて面白く、読ませる内容です。ただ、わかったようなわからないような、という箇所も多く、社会科学的な論理構成とは違ったものを感じるのも確かです。 (1999年)

斎藤美奈子(2001)『紅一点論』 ちくま文庫
 僕が賞賛して止まないフェミニスト、斎藤美奈子さんの傑作エッセイ。ドラえもんの静香ちゃん、宇宙戦艦ヤマトの森雪、ゴレンジャーのピンクレンジャーと、なぜか野郎どものなかに咲く一輪の花。果たして、この女性たちはどのような役割を果たしているのであろうか、というのが本書のメインテーマです。そこから出発して、アニメや特撮もの、はたまた伝記においてヒロインがいかに描かれてきたのかというより大きなテーマへと分析は移っていきます。正直、アカデミックとは言い難い分析ですが、これが非常に面白い。というか、もう滅茶苦茶に笑えるのです。僕は電車のなかで読んでいて、笑いを堪えるのに死にそうになりました。近頃は、保守系オヤジを中心に袋叩きの感があるフェミニズムですが、この本はそういうバッシングを軽く笑い飛ばすぐらいのパワーを持っています。超オススメの本ですね。(2001年8月)

竹内洋(2003)『教養主義の没落』中公新書
 今日、いわゆる「デカンショ」(デカルト、カント、ショーペンハウアー)やマルクスに代表されるような西洋思想を積極的に吸収し、『世界』や『中央公論』などの総合雑誌の購読を当たり前とする学生文化は、大学ではほぼ死に絶えたと言っても過言ではないでしょう。しかし、かつての大学ではそうした教養主義が輝いていました。本書は、そうした教養主義がどのような背景のもとで誕生し、それがどのように没落し、消滅していったのかを分析しています。
 本書においてとりわけ興味深いのは、そうした教養主義と実は努力や勤勉を是とする農村文化との相性がよく、実際に農村出身の学生の多くが文学部でそうした教養を身に付けていたという点です。この点については、以下のような指摘が行われています(p.174)。

「こうした(東京と地方との文化的格差が大きな:引用者)時代の農村の若者にとって、高等教育に進学して、『インテリ』になるというのは、単に高級な学問や知識の持ち主になるというだけではない。垢抜けた洋風生活人に成りあがるということでもあった。」

しかし、実際にはこうした教養主義の文化と都市のブルジョワ階級のより享楽的な文化との間には大きな断絶があり、そのことが教養主義が対抗文化として機能する素地を生んでいくことになるのです。
 本書の最後では、教養主義が没落していく過程が論じられており、「(現代では:引用者)高級文化からの逸脱である『野卑』や『無教養』からよりも、大衆平均人文化からの逸脱である『変人』『おたく』ラベルから生じる象徴的暴力と困惑のほうが大きい」との指摘が行われていますが、真面目に勉強している学生がやや「変わり者」扱いされかねない現在の大学キャンパスの状況を見ると、残念ながらこの指摘の妥当性を認めないわけにはいきませんね。(2007年11月)

中島梓(1995)『コミュニケーション不全症候群』 ちくま文庫
 アニメやコンピューターとの関わりのみで生きるオタク少年、ダイエットに日夜励む少女、女性が排除された男性同士の恋愛を描く小説にハマる少女。筆者はそれらを手がかりに現代日本に蔓延するコミュニケーション不全症候群の病理を明らかにしていきます。ただし、筆者自身がそうしたコミュニケーション不全症候群であるという自覚から、そうした存在を一方的に断罪するような内容ではないのに共感が持てます。著者によれば、人々がコミュニケーション不全に陥るのは、時代そのものが病んでいるからなのであり、むしろまともでいられることの方が異常なのです。そして、コミュニケーション不全を克服した人たちは、自分自身を見つめ、コミュニケーション不全の苦しさを自覚出来るがゆえに、時代を切り開いていくことが出来るのではないか、と論じるわけです。僕個人としてはオタク少年の扱いにやや疑問が残るものの、身につまされる部分も多く、非常に面白く読む事が出来ました。 (1999年)