冬のカムチャッカ(その2)
  1999.12.23--12.30
 

12月24日(金)
 5時半と6時半に目が覚めたが、まだ早いのでもう一度寝て、次に7時半に
目が覚めた時には起きて、8時10分に下のロビーに降りていった。「昨日タ
クシーを頼んだんだけど」と下のフロントでパスポートを受け取り、女の子に
言ったが、どうも自分で電話せよということらしく、それが分かるまでしばら
くかかった。タクシーが来るものと思い込んでロビーのソファーに腰を下ろし
ていると、毛皮のコートを着た40歳過ぎのやや小太りな女性がタクシーが必
要なのかと聞いて来たが、もう頼んであると断ったが、8時半を回ってもタク
シーが来ないのでもう一度フロントの女性に聞いたら、タクシーの電話番号を
書いた札を出して、カウンターの上に置いた。やはり自分で電話して頼まなけ
ればならなかったのだということに気がついた。さっきのおばさんがまだいた
ので、空港まで送ってほしいと頼んだ。400ルーブル(2000円)だと言う。め
ちゃくちゃ安いじゃないか。昨日は日本から予約して1800ルーブル(9000円)
も払った。車を持ってくるから待っていてくれと言って車をとりに行った。
夫と12才くらいの男の子もいて、私が助手席に乗って出発した。子どもはす
ぐ近くで車を降りた。ダンス学校に通っているそうで、夏には韓国や日本にも
公演で行ったと言っていた。空港までの1時間、いろんな話をして退屈しなか
った。年金は400ルーブルで空港への1回のタクシー代と同じだと言っていた。
彼女の娘さんは大学で英語と日本語を勉強していたとか、ウラジオストクの消
費税は5%で一番高いとか、ロシアでは11年生まで行った後、専門学校に入
ったり、リツェイに入り、その後大学に行くと言っていた。ウラジオストクで
も仕事を見つけるのは難しいようで、彼女の娘さんも大学を卒業しても仕事が
ないと言っていた。日本で高い給料をもらっているのは医者と弁護士と政治家
だと言ったら、ロシアでは医者の給料はとても安いと言っていた。

 空港と町の間は47km。8時40分にホテルを出て、9時30分に空港に着
いた。さてどこでどういう手続きをするのか分からないでいると、フライトナ
ンバーの電光掲示板がついた入り口に行列ができていたので並んで待っていた
ら、自分の番が来た時にまず搭乗受付に行けと言われ、そこへ行ってスーツケ
ースを預けると、空港税30ルーブルを向こうの会計で払ってくるようにと言
われ、すぐ横にある会計で払い、領収書を持って行き、やっとまた最初に並ん
でいたところに戻った。ここではセキュリティチェックをしており、ここを出
るともう待合室になっていた。10時20分発の飛行機なのだが10時05分
でもまだ飛行機には乗せてもらえない。待合室の外にバスが来ると3分の1く
らいの人が出ていったが、バスは誰も乗せずに行ってしまった。更に5分程待
つとバスが来て、待合室からも人がゾロゾロと出て来て乗った。1台では乗り
切れず次のを待つことになった。と言っても1台のバスが飛行機のそばで乗客
を下ろして帰ってくるのを待つ。バスを待っている間飛行機の写真を撮ってい
た。ソ連時代だったらスパイ容疑でたちまち逮捕されていただろう。

  
アエロフロート色の機体         これがウラジオストクエアーラインの機体の色

 乗客はロシア人がほとんどで、中国人が2人いた。ウラジオストク空港は待
合室と飛行機をつなぐ施設はなく、全て駐機スポットに止まっている飛行機ま
でバスで行くことになる。飛行機はツポレフ154で機体にはマガダンエアー
ラインと書いてあったので、思わずタラップの前で並んでいる時にそばのおじ
さんにペトロパーブロフスク・カムチャツキー行きかどうか聞いてしまった。
座席は自由席。一応切符には座席番号が書いてあるが「ご自由に」というスチ
ュアーデスの言葉だった。なぜかおばさんが通路側にひとり座っているところ
で「空いてますか?」と声をかけてしまった。窓際に座り、まん中の席には誰
も来なかったので、コートを置いておいた。

 10時45分飛行機が動きだし、長い滑走路を端までゆっくりと移動し、1
0時52分離陸した。曇り空の上に出ると日がさんさんと輝きまぶしかった。
15時45分カムチャッカ到着予定だが、30分遅れで出発したので16時1
5分頃の到着か。(ペトロパーブロフスク・カムチャツキーとウラジオストク
の時差は+2時間、日本とは+3時間)ウラジオストクからペトロパーブロフ
スク・カムチャツキーまでの所要時間は3時間10分。朝食を食べていないし、
機内食が出ることを期待して、ウラジオストク空港の待合室に食べるものを売
っていたが買わずにがまんしていたが、もし出なかったら夕方まで何も食べら
れないと心配していたが、11時20分頃、ジュースかミネラルウォータかと
聞きながら飲み物を配りに来た。もしや、飲み物だけ?と心配したが、しばら
くして食事が出てきた。食事の内容はパン半切れ、丸パン、ハム、サラミ、オ
リーブの実2個、赤ピーマンの千切り、アーモンド味のチーズ、ピーナッツの
のったクッキー、チョコレート、はちみつ、コーヒーまたは紅茶。なんとか空
腹もおさまり、後はカムチャッカに着くのを待つだけだ。15時40分、もう
すぐカムチャッカに着くとの放送があり、気温はマイナス5度と伝えられた。 
窓の外には、雪におおわれたカムチャッカの陸地が見えてきた。しばらくする
と富士山のような形の雪におおわれた火山が見えてきた。カリャークスキー火
山とアヴァチャ火山だ。

  
飛行機から見たカリャークスキー火山

 16時05分、ペトロパーブロフスク・カムチャツキー空港に着陸。しばら
くして警察が乗り込んできた。制服姿の男の警察官が一人と、私服の女性警察
官が二人。全員パスポートを見せろということで(ロシア人も国内パスポート
の携帯を義務付けられている)、ロシア人のパスポートはパラパラと見るだけ
で、私もすぐに終わると思っていたら、もう一度席に座らされ、女性警察官が
パスポート番号や名前をメモしてペトロパーブロフスク・カムチャツキーでは
どこに泊まるのか聞かれ、ホテルのバウチャー(宿泊クーポン券)まで見せな
ければならなかった。

 ようやく飛行機から出て、外を見ると小さな古びた2階建てのターミナルビ
ルがちょこんと建っているだけである。しかもそのビルに入るわけでもなく、
いきなりそのまま門の外へ出される。門の外にはたくさんの迎えの人達が群が
っていて、スヴェトラーナをすぐに見つけられるだろうかと心配していたが、
ロシア語で私の名前を書いた紙を掲げて持っていたのですぐにわかった。スヴ
ェトラーナの美しさは変わらなかったが、目の周りに小じわができ、年をとっ
たなあと思ったが、向こうも同じように思っていただろう。夫のアンドレイは
あまり変わっていなかった。子ども達も一緒に迎えに来てくれていたが、アー
ニャ(15才)は私よりも背が高く驚いた。弟のサーシャは12才だがまだ子
供らしさをたっぷり残していた。スーツケースが出てくるまでしばらく待たさ
れた。荷物は門のそばにある木造の小屋みたいなところで受け取る。小屋の中
にベルトコンベアが一つ設置してあり、空港側から荷物が送られてくる。回る
ようにはなっていないので取らないで端までいくとそこでどすんと下に落ちる
ようになっている。ようやく自分のスーツケースを見つけ、出口で荷物札と照
合するおじさんに見せて外へ出た。アンドレイの車はロシア製のジグリ。5人
乗りだが、後ろに3人乗ると窮屈だ。私は助手席に乗り、町まで小1時間か
かった。雪が30cmくらい積もっていたが道路には雪はなく、車も少ないので
80〜90kmぐらいののスピードで走っていた。カムチャッカでは雪が解ける
のは5月か6月だと言っていた。7〜9月が春、夏、秋でそれ以外は冬で、夏
でも気温は20度くらいで涼しいので、ぜひ夏にも来るようにとのことだった。

 まず、ホテルにチェックインし、帰りの飛行機の予約再確認をアンドレイが
やってくれた。カギは1階のフロントでもらい、ロシアの一般的なホテルで各
階にいるジェジュールナヤという鍵番のおばさんはいない。3階の私の部屋に
入るとピンク一色で女の子の部屋みたいだ。ピンクのカーテン、ピンクのベッ
ドカバー、トイレ、バスの壁のタイルの色もピンク。テレビ、冷蔵庫、電話、
ソファー、椅子、机があり、なかなか快適な部屋だ。スーツケース開け、お土
産を出し、アンドレイの家に行った。

   
ピンク一色のアヴァチャホテルの部屋

 5階建てのアパートの3階に住んでいて、部屋は4つ。子供達の部屋が二つ
と夫婦の寝室と居間、それにキッチン、トイレ、バスがある。キッチンには小
さなテーブルがあり、そこでも食べられる。ペトロパーブロフスク・カムチャ
ツキーにはガスはなく、台所の調理器具はすべて電気だと言う。部屋の中はお
湯の暖房で20度くらいに暖められており、全く寒さを感じない。建物すべて
が暖房されているので、日本のようにトイレが寒いとか廊下が寒いということ
はない。アパート形式の建物には給湯されるが一戸建ての家には給湯されない
ので、そこの家の人は石炭や薪でペチカを焚かなければならないということだ。
ケーシュカという名前のおとなしい猫がいた。ロシアではアパートでも犬や猫
を飼うことができるそうで、どうして日本では飼えないのかと不思議がってい
た。夕食はまずシャンパンの乾杯に始まり、私の持っていった梅酒、ウォッカ
で「再会を祝って」とか「お互いの友情のために」などと言いながら乾杯を重
ね、あっという間にウォッカを1本空け、2本目に。驚いたのはアーニャもサ
ーシャもシャンパンを一緒に飲んでいたことである。一応ロシアでは18歳未
満はアルコールは禁止されているそうだが。さて、夕食のメニューだがハム、
きゅうりの酢漬け、オークニという魚の塩漬け、イクラ、魚の肝、じゃがいも
と牛肉を焼いた料理等々。途中で持っていったお土産を出したが、布製の龍の
絵のついたカレンダーはとても気に入ったようで、すぐに壁に釘を打って掛け
ていた。サーシャへのおみやげのエアーガンは、持っていたエアーガンが壊れ
てしまっていたのでちょうど良かったと喜んでもらえた。アーニャにはピアス
やブレスレット、ペンダントを買っていったが大喜びでさっそく次の日に会っ
た時ピアスをつけていたが、驚いたことに片方の耳に二つ穴があけてあり、両
耳で4個のピアスをしていたことである。スヴェトラーナにはストッキングを
渡した。ロシアではとても高くてなかなか買えないと言っていた。(1足100
ルーブル=500円前後)

  
この3階にアンドレイの家がある    壁のじゅうたんには新年の飾り付けが

  
猫のケーシュカ              イクラ、豚の脂身の薫製、サラダ

  
ハム、チーズ、キュウリの酢漬け   オークニという魚の塩漬け
 

  
      魚の肝

 夕食の後、温泉に行って、更に夜のペトロパーブロフスク・カムチャツキー
を見ようということで出かけた。アンドレイはもうウォッカを飲んでいたので、
スヴェトラーナの職場の友人アリョーシャの車(日本の日産サニー)で彼の子
どものビーチャ、アンドレイ、スヴェトラーナ、サーシャ、私の6人で出かけ
た。車で1時間程でパラトゥンカ温泉のひとつスプートニクに着いた。サナト
リウム(保養所)みたいなところで、部屋が空いていないと言われていたが、
交渉して何とか図書室を貸してもらって着替えをした。ロシアでは水着を着て
温泉に入るので、男女混浴?である。外は寒くてマイナス5度くらいで雪景色
が眺められる場所に25メートルプールくらいの大きさの温泉があり、夜10
時過ぎだというのに10数人の人が入っていた。屋根はなく露天風呂なので、
温泉で温まった後、雪の上に寝て、体を冷やし、また温泉に入ると全身針で刺
されているようにヒリヒリすると言ってやっているロシア人の真似をして私も
やってみたが、これがなかなかの快感で病みつきになりそうである。1時間程
温泉に入った後着替えて外に出て、持ってきたオープンサンドをつまみながら、
ウォッカやジュースを飲み、良い気分で帰って行った。

 温泉の後、ウォッカで乾杯

 途中12時に道路の端に車を止めて、25日だからクリスマスのお祝に花火
をしようと言って持ってきた花火に火をつけた。花火といっても、1つ目は照
明弾みたいなもので、その後2発のロケット花火を打ち上げておしまいだった。

 照明弾を持つアンドレイ

 ロシアのクリスマスは12月25日ではなく、1月7日であるが、日本では
12月25日にクリスマスをやるからということで花火も用意してくれたらし
い。車はペトロパーブロフスク・カムチャツキーの町に戻り町の中心部を取り
囲んでいる3つの小さな丘の一つに車でのぼり、そこから町の夜景を眺めた。
まるで宝石をちりばめたように、いろんな色で鮮やかに輝いている町が見え、
感動の景色だった。町のあちこちには日本ほど派手ではないがヨールカ(日本
のクリスマスツリーのようなものだが、ロシアでは新年用に飾られている)を
形どったイルミネーションや赤、青、緑の電飾が並んでいてなかなか美しかっ
た。1時過ぎにホテルまで送ってもらい、すぐに寝る。

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