岩村城跡
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2024年5月18日

岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城で(財)日本城郭協会により『日本100名城』に選定された。
城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ヶ城」ともよばれている。

この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなくその永い歴史に由来している。
1185(文治元)年、源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸期の300年間に亙り城と城主が受け継がれていき、明治に至り廃城令で廃城されるまで、連綿と存続した。
700年間に及ぶ城の歴史は、日本の城史にも例を見ないものなのだそうである。

また岩村城には17箇所もの井戸があり、籠城の際にも飲み水に困ることがなかった。。なかでも八幡曲輪にある霧ヶ井は、城主専用の霊泉である。
「巌邑府誌」という書物には、敵が攻めてきた際、城内秘蔵の大蛇の骨をこの井戸に投じると、たちまちにして雲霧が湧き出て城を覆い尽くし、城を守ったと記してある。



<女城主の物語>

天正元年、武田信玄に仕えた秋山信友は、城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として守っていた岩村城を攻撃。
なかなか陥落しそうもないため、秋山は計を巡らし、密使を城中に送った。
「結婚して無事に城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか」などとひそかに夫人を説得した。 夫人も到底最後まで城を守ることができないと悟り、この提案を承諾。

家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選ぶこととした。
しかし、信友は信長の叔母と結婚したことを信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまった。御坊丸は七歳の時だった。

これを聞いた信長は大いに怒ったが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので、そのまま放任せざるを得なかった。
しかし、信長は、岩村城を信友に奪われたのを無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、ひそかに岩村城の奪還の期をうかがうこととした。
天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。
信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に送り込んだ。
信忠の大軍は数日間激しく攻め立てたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦したため、容易に攻略はならず、信忠は戦法を変更し持久戦をとることとした。
6月から10月まで数ヶ月の時が経ったころ、さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、ついに岩村城は陥落した。
信長は、秋山信友をはじめ修理夫人(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを岩村城外の大将陣において、逆磔(さかさはりつけ)にして殺害。
この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ、
「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。

信長が本能寺で殺される、七年前の出来事だった。
着くまでの林道は対向車が来たらどうしよう、と思うほど 狭い道だった。
本当は下から歩けばいいのだがついたところは本丸に近かった。
見渡す景色が一望でき、少し上に来たことを感じた。
バイクが3台止まっていた。
私達は石垣に沿って歩き始めた。
そして本丸の入り口の階段で転けそうになった。
階段が高すぎた。とにかく転けはしなかったが、しばし大きな石に腰掛け体制を整えた。

この後息子は車を出発点に回送し私達は降りるだけにした。
この石段は年代別に構築方法が違いこの城が長いこと生き抜いてきたことが分かる。
ここを見ながら下っていく。


兎に角、あちこちに井戸が多かった。
これが籠城を支えていたのだろう。
ブラブラしながら降りたので30分程かかって下の駐車場に着いた。

この辺の偉人のブロンズ像が3体あった。知らない人ばかりだったが幕末・明治維新・昭和初期にかけて活躍した人達であった。
下には江戸時代の岩村藩の博物館なども併設されていて、太鼓門櫓など復元されている。
キセキレイが電線でさえずっていた。
<三好学>
1861年(文久元年)〜1939年(昭和14年)
我が国の植物学の礎を築いた、桜と菖蒲(しょうぶ)の研究の世界的第一人者である。景観と云う言葉をわが国で最初に使用した人物としても知られる。誰よりも自然のすばらしさを感得していた。
大正8年、「史跡及び天然記念物保存法」が公布施行された。亡くなる直前まで天然記念物の保護に力を注いだ。
又、1922年(大正11年)にアインシュタイン博士が来日した際に、博士は接待役として小石川植物園を案内している。
わずか18歳で、光迪小学校(現瑞浪市土岐小学校)校長に就任した。その後、東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続けた。在学中ドイツ留学を命ぜられ、帰国後35歳の若さで東大教授に就任、理学博士の学位を受けた。 

<下田歌子>
1854年(安政元年)〜1936年(昭和11年)
実践女子学園などを創設した、女子教育の先駆者。幼名は平尾銘(せき)。代々学者の平尾家に生まれた銘は、幼い頃から学問に触れ、和歌や漢詩を詠んだ。
1872年(明治4年)、18歳で江戸の儒学者・東条琴台を訪ね、宮内省に出仕した。
同年、皇后陛下に詩歌を献上したところ、その文才を認められ、歌子の名を賜った。
その後、歌子は女子教育の道に進み、実践女子学園、女子工芸学校を創設し、校長となるなど、明治・大正時代を代表する女子教育者の名をほしいままにした。 ,

<佐藤一斎>
1772年(安永元年)〜1859年(安政6年)
「この人物が居なかったら、日本の夜明けは無かったかも知れない」と言われ、幕末から明治維新にかけて、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えた儒学者。
門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがおり、一斉の著書である「言志四録」は幕末の西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えたと言われている。
岩村藩の家老・佐藤信由(のぶより)の次男として、江戸浜町の下屋敷(現東京都中央区日本橋浜町)で生まれ、幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身に付けていた。
34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい=岩村藩主・松平乗蘊<のりもり>の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。
55歳の時、岩村藩主となった松平乗美(のりよし)の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。
1841年(天保12年)、述斎が没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。
1854年( 安政元年)、83歳の時、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎(ふくさい=述斎の六男)を助け、外交文書の作成などに尽力した。

この岩室城趾もさることながら町並みも面白い。
昔のままのたたずまいがいい。見飽きない。
道も無電柱化をしている。もっと人が来てもいいところである。
日本人はこうしたところをもっと知って勉強すべきである。
岩村城をみて、街を見て感じたことである。

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