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着くまでの林道は対向車が来たらどうしよう、と思うほど 狭い道だった。11.jpg)
本当は下から歩けばいいのだがついたところは本丸に近かった。
見渡す景色が一望でき、少し上に来たことを感じた。
バイクが3台止まっていた。
私達は石垣に沿って歩き始めた。
そして本丸の入り口の階段で転けそうになった。
階段が高すぎた。とにかく転けはしなかったが、しばし大きな石に腰掛け体制を整えた。
この後息子は車を出発点に回送し私達は降りるだけにした。
この石段は年代別に構築方法が違いこの城が長いこと生き抜いてきたことが分かる。
ここを見ながら下っていく。
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兎に角、あちこちに井戸が多かった。
これが籠城を支えていたのだろう。
ブラブラしながら降りたので30分程かかって下の駐車場に着いた。
この辺の偉人のブロンズ像が3体あった。知らない人ばかりだったが幕末・明治維新・昭和初期にかけて活躍した人達であった。
下には江戸時代の岩村藩の博物館なども併設されていて、太鼓門櫓など復元されている。
キセキレイが電線でさえずっていた。
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<三好学>
1861年(文久元年)〜1939年(昭和14年)
我が国の植物学の礎を築いた、桜と菖蒲(しょうぶ)の研究の世界的第一人者である。景観と云う言葉をわが国で最初に使用した人物としても知られる。誰よりも自然のすばらしさを感得していた。
大正8年、「史跡及び天然記念物保存法」が公布施行された。亡くなる直前まで天然記念物の保護に力を注いだ。
又、1922年(大正11年)にアインシュタイン博士が来日した際に、博士は接待役として小石川植物園を案内している。
わずか18歳で、光迪小学校(現瑞浪市土岐小学校)校長に就任した。その後、東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続けた。在学中ドイツ留学を命ぜられ、帰国後35歳の若さで東大教授に就任、理学博士の学位を受けた。
<下田歌子>
1854年(安政元年)〜1936年(昭和11年)
実践女子学園などを創設した、女子教育の先駆者。幼名は平尾銘(せき)。代々学者の平尾家に生まれた銘は、幼い頃から学問に触れ、和歌や漢詩を詠んだ。
1872年(明治4年)、18歳で江戸の儒学者・東条琴台を訪ね、宮内省に出仕した。
同年、皇后陛下に詩歌を献上したところ、その文才を認められ、歌子の名を賜った。
その後、歌子は女子教育の道に進み、実践女子学園、女子工芸学校を創設し、校長となるなど、明治・大正時代を代表する女子教育者の名をほしいままにした。
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<佐藤一斎>
1772年(安永元年)〜1859年(安政6年)
「この人物が居なかったら、日本の夜明けは無かったかも知れない」と言われ、幕末から明治維新にかけて、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えた儒学者。
門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがおり、一斉の著書である「言志四録」は幕末の西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えたと言われている。
岩村藩の家老・佐藤信由(のぶより)の次男として、江戸浜町の下屋敷(現東京都中央区日本橋浜町)で生まれ、幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身に付けていた。
34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい=岩村藩主・松平乗蘊<のりもり>の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。
55歳の時、岩村藩主となった松平乗美(のりよし)の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。
1841年(天保12年)、述斎が没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。
1854年( 安政元年)、83歳の時、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎(ふくさい=述斎の六男)を助け、外交文書の作成などに尽力した。
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この岩室城趾もさることながら町並みも面白い。
昔のままのたたずまいがいい。見飽きない。
道も無電柱化をしている。もっと人が来てもいいところである。
日本人はこうしたところをもっと知って勉強すべきである。
岩村城をみて、街を見て感じたことである。
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