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2015年10月12日 | |||||||||||||||||||||||||
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いつものようにボチボチと登って、本丸入り口に着いた。 11時43分であった。いきなり山の石を巧みに利用した高石垣が目に入った。 戦国時代なら目の前の矢狭から矢で射られるだろう。うまく作られている。 それぞれの時代で黒川さんや安藤さんのような卓越した建築家が、たぶんいたと思う。 大手門遺構がまず迎えてくれるが、ここは是非復元してほしいところ。 国立競技場の霧と消えた69億のすこしでも使えばすぐできる。 足軽の詰め所など各建物の礎石をみながら本丸前の広場にあがった。 広場はいくつかのテーブルがあり、観光客が思い思いにくつろいでいた。
本丸には11時55分についた。 本丸は小振りだが、威厳があり乱世を生き抜いた貫禄がある。 二層天守で、要所要所に築かれた櫓の中で二重櫓が現存し、また平櫓も復元されている。 なかなかの雰囲気を維持している。 ウキペディアによると、 「城のあった臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500m、1時間ほどの道のりの山道を経て至る」とある。 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。御根小屋の跡地には岡山県立高梁高等学校がある。 この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240年)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。 その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化し、天正二年(1574)に起こった 「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っている。 本丸に地形図もあったが、臥牛山そのものが大要塞となっていたことがうかがえる。 当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中 国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がされ、備中の要衝としての役割を担っていた。 水谷氏が3代勝美の死後、嗣子なく改易された。この時、城受取りの任に当たったのが、播州赤穂藩家老大石内蔵助である。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えた。 現存する天守などは天和三年(1683年)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。 城内の案内看板にはその辺りのことがかなり詳しく書かれていた。 小堀遠州や大石内蔵助などが出てくる面白い城である。 |
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13時20分に本丸前の広場のベンチで食事をした。 城内散策の後、本丸入り口のチケットブースのおじさんに、「いい城ですね」と声をかけるとうれしそうに、 「いいでしょう。何事も壊してはだめですね。残したからこうして観光客も来てくれます」 まさにそのとおりで、もし明治初期まで残っていた大和高取城が壊されていなかったらこうしてたくさんの人が呼べたのに、と残念に思う。何よりも日本の建築技術のすばらしさを後世に伝えることができる。 この備中松山城は、小松山城とも言われており、水の手門から先の大松山城へと遊歩道があり歩きかけたが時間がなくなってきたのでパスした。礎石などの遺構だけが残っているという。 全て見終わり帰途につき、ヨチヨチと下って峠のシャトルバス乗り場に着いた。 少しバスを待ち乗って、もとの駐車場の停留所についたのは2時であった。 ●NHKの大河ドラマ「真田丸」のオープニングのシーンは、この城をベースにCG処理されていると言うことである。 |
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