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▼琵琶湖 2011年1月 冬景色
▼長浜曳山祭
琵琶湖一周 青春18切符  
琵琶湖 2011年1月 冬景色

2011年正月に琵琶湖を訪れた。
神照寺や向源寺を訪れた後、余呉湖や琵琶湖畔をウォッチングした。
鳥もたくさんいた。
折から夕暮れが迫り、湖国の美しさが際だった。

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長浜市 長浜曳山祭2007年4月15日

西国33所の観音正寺に参詣したあと、長浜に向かった。
ちょうど曳山祭が行われる日であった。以前から行きたいと思っていた祭である。

長浜曳山祭は、長浜八幡宮を中心に行われる日本三大山車祭りのひとつである。まつりは、古く豊臣秀吉公が長浜を治めたときから始まったという。長浜八幡宮は、社伝によると1069年(延久元年)、源義家の要請により、後三条天皇が命じて石清水八幡宮を分祀勧請したといわれている。
由来書によると、秀吉が源義家の後三年の合戦の凱旋の様子をあらわした「太刀渡り」を町年寄十人衆に行わせたのが八幡宮の祭礼の始まりと記されている。
その後、秀吉が男子誕生の祝いに町人へ若干の砂金を贈り、これを原資に町人たちが曳山を造営し、八幡宮の祭礼に曳いたのが「長浜曳山まつり」の始まりといわれている。

山車は絢爛豪華である。「動く美術館」といわれる理由がわかる。
クライマックスは「子供歌舞伎」で5歳から12歳くらいの男の子が様々な衣装に身を包み、歌舞伎を演じる。
子供たちはそれぞれのパートを演技するが、楽しい。惜しみない声援と演技が終わるとおひねりが飛んだ。

山車は八幡宮に集合する。
いかにも歴史がある感じのする山車が一斉に並ぶが、壮観である。
たくさんの人出がある。最近の祭はちゃらい感じのものが多いが、こうした重厚で歴史を感じる祭を見ると、日本人であることを誇りに思う。いい祭であった。

長浜曳山祭り 長浜曳山祭り 長浜曳山祭り 長浜曳山祭り
長浜曳山祭り 長浜曳山祭り 長浜曳山祭り 長浜曳山祭り
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長浜曳山祭り 長浜曳山祭り
 長浜曳山祭り  長浜曳山祭り   長浜曳山祭り
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琵琶湖一周 青春18切符

ここ数年青春18切符を使って時々小旅行をする。4月の初めの倉敷に引き続き、残りの1回分で琵琶湖一周することにした。長浜の旧駅舎も見たかった。

4月7日、8時49分に日根野駅から快速に乗った。9時45分に大阪駅に着き、10時の長浜行きに乗った。
便利なもので、そのまま乗っていれば連れて行ってくれる。少し前だといくつか乗り換えなければいけなかったが、新快速ができて便利になった。
途中の景色を楽しみながら電車に揺られたが、沿線の桜は少し早く咲きかけの感じであった。

伊吹山はきれいに冠雪していた。
長浜には11時39分についた。
ちょうど4月13日から始まる長浜曳山祭の練習がある日だったためか、大勢の観光客でにぎわっていた。長浜旧駅舎は、駅西に出口からすぐであった。
駅舎の前のベンチで持ってきていた弁当を食べた。お客さんがひっきりなしに来ていた。この施設は成功している部類であろう。
館内もうまく展示物を配列して見やすくしていた。私は、広重の東海道53次の絵と鉄道開業当時の写真とを対比して見せているのが面白かった。特に名古屋駅周辺が、開業当時は全く何もない畑で駅舎がぽつんとあったのには驚いた。

鉄道のことをいえば、紀勢線はかなり遅くまで蒸気機関車が走ったのだが、その写真を撮っていなかったことが今にして思えば残念である。
橋杭岩当たりを走っている蒸気機関車は絵になった。  
旧駅舎の道向かいに、慶雲館という庭のきれいな建物があった。明治天皇の休憩所として、明治20年の建設されたという。
庭には唐突に双葉山の石像や菅原道真の説明板、そして芭蕉の句碑があった。
もっとじっくり見れば新しい発見があったのかも知れないが、琵琶湖一周のためには時間がおしていたので長浜駅に向かった。近江塩津初めの計画通り、2時12分の近江塩津行きに乗った。列車を待つ間特急がいくつか走り去った。
いくつかの駅を過ぎ、近江塩津に着いた。駅では姫路方面に行く若い人がグループでいた。
そう言えばこのあたりは雪が多い。ホームでなく少し下に降りたところで待つようになっている。
納得した。座布団もありがたいだろう。改札には地下道を行く。これも面白い。
駅舎はクラシックな建物である。中に「一福」といううどんやさんがある。帰ってから食べようと、入らずにいた。
改札で自転車を借りた。
「4時半まで絶対帰ってきてくださいね」と何度も念を押された。電車は4時5分発である。少し時間が足りない。
緩やかな下り坂を線路に沿って下った。湖西線に続く線路はかなり高架で続いていた。道は国道8号線である。かなり交通量が多い。坂を下りきったところで左手に分岐する旧道がある。分岐点に塩津海道を示す碑が建っていた。集落の入り口には、お稲荷さんらしき建物があった。

国道には道の駅があったが、時間がないので寄らずに旧道を走った。道の両側はベンガラで塗られた立派な家が続いている。ここ塩津浜は、琵琶湖が最も北に入り組んだところで、かつては「湖北三湊」の一つに数えられという。丸子船が湖上を行き交ったということである。ずっと昔、敦賀に行くときここに立ち寄り、そのとき漁船がたくさんのエビを水揚げしているのを見た記憶がある。もう40年ほど前のことで定かでないが、たぶんここではなかったかと思う。琵琶湖の水運を活かし、日本海と畿内を結んだここ塩津海道筋は、旅人たちを迎えたかつての宿場町の面影が残されている。
集落のはずれには、立派な常夜灯がある。
道の途中で畑仕事をしていた人から、「塩津神社に行くのなら左にある社務所に行けば重要文化財を見せてくれるから是非見て行きなさい」といわれた。
途中で浄光寺というお寺があった。綺麗に整備された境内と威風堂々たるお寺であった。目指す塩津神社はそこからまもなくであった。
塩津神社は、その本殿が、滋賀県指定有形文化財である。案内板には、
「近くの池の水で塩をつくつていた人たちが、塩土老翁神を祀ったのが始まりと伝えられる。江戸時代の中期には伏見稲荷を勧請し稲荷大明神と称していたが、明治の初期に社名を塩津神社に復した。本殿は、棟札などから元禄7年(1694)に長浜の大工藤岡甚兵衛光守により建立された小規模な一間社流造で、屋根はこけら葺とし、身舎の組物間と妻飾の小壁には植物、板支輪は雲(波)の精緻な彫刻が施されている。また正面は稲荷神の使いとされる狐の彫刻を用いている。
塩津神社本殿は、湖北地方で活躍した藤岡家の代表的な神社建築で、良質の檜材を用い精緻な彫刻を多用した斬新な意匠とし、材料加工ともに極めて優れている。
また藤岡家が関係した建造物で、建立年代が知られる最も古いものとしても貴重である」と書かれていた。

神社をあとにして、湖岸へ向かった。自転車野郎が何人か走り去った。国道8号線は交通が多くなかなか渡れなかった。湖岸に着くと春の柔らかくなり出した陽射しに湖面が光って綺麗であった。鴨が土手でなにやら食べていた。 
ここは元々湖だったという。埋め立てられて、そしてもうすぐ国道8号線がここを走るという。国道が走れば周囲に店も建ち、湖北の景色も変わったものになるだろう。大坪川に沿って走ると「大坪川船溜まり跡」や、「蓮如上人上陸御跡地」の案内板があるが、その跡らしい施設を見つけることは出来なかった。カヌーを下ろすのにいい場所もあった。

4時20分頃に近江塩津駅に戻り、自転車を返した。うどんかコーヒーでもと思ったが、一福はすでに閉まっていた。きけば4時までだという。塩津神社の前を走っていた自転車野郎も電車を待っていた。きけば栗東から100kmあまりを走ってきたという。4時半の姫路行き新快速電車に乗り、大阪6時28分、関空快速6時42分に乗り。
日根野に着いたのは7時25分であった。
少し駆け足だったが、残りの青春18切符で一度やりたかった琵琶湖一周が出来た。


(車窓から伊吹山が冠雪している)

(仏さんが見える。正月にのぼった)

(案内板)
     
(雰囲気のある窓
近江塩津 近江塩津 近江塩津 近江塩津
近江塩津 近江塩津 近江塩津 近江塩津
近江塩津 近江塩津 近江塩津 近江塩津
近江塩津 近江塩津 近江塩津 近江塩津
近江塩津 近江塩津 近江塩津 近江塩津

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