33b(2004年1月1日)

防災活動 公助から自助、自助から共助へ
大災害時『一人ではできない火事とお葬式』第1回

防災アドバイザー・都市防災研究会幹事 佐藤 栄一

はじめに

 このところ東海地震、東南海地震、南海地震およびこれらの複合地震が懸念され、いやがうえにも防災意識が高まりつつある。しかし多くの人たちの意識は、見かけ上高まったといえるが十分ではない。意識の隙間や裏側は大丈夫か?『予想もしてなかったとか、想定外だとか頭の中が真っ白になった』とか、と体験者は語っている。拙稿は、そのようなことが起きないようにするために、想定外になりがちなことをまとめてみたい。

 タイトルは、穏やかならぬ表現であるが、昔、村八分が社会規範として容認されていた時代であっても、残りの二分つまり『火事』『葬式』は仲間はずれにしてはならないとの定めが、今、現実味を帯びて大災害時には最も大切で、なおかつ思いがけないこととして浮上してくることに気づいてもらいたく、タイトルにした。

阪神・淡路大震災でおきたこと(街区火災:大火)

 阪神・淡路大震災において、関東地域でのニュース映像では、火炎の立ち上る煙や町全体が燃える火災を遠見に映す映像が多かったと感じた。また、避難所の避難者への取材では、飲食物や毛布の不足などを訴えるシーンが多く見られた。

 阪神の人たちは、そのような報道のシーンに対して「私たち多くの者は、避難所で泣いたりウジウジしていなかった。あの美しくも見える火の下で、翌日まで飲食を忘れて救助や消火のため戦っていた」と不快感を示した。
また「『水・飯、そんなもの要らん。火が来たぞ、ハヨウ助けよ』『挟まれ、生きながら焼かれた妻を助けられなかった』こんな状況があちらこちらであったんだよ」とも言っている。

火事 火事が広がっては助ける時間が大幅に少なくなる。特に街区火災といわれる大火になると人命危険も大幅に増加する。

 通常、木造建物の火事では、3分くらいで屋内は火の海、窓ガラスを破って隣の家に燃え移るのは8分くらいである。つまり、隣家の火事は、10分あまりで延焼をし始め、自分の家の火事になる。

 ここで『大災害って何?』と、考えてみてください。

 一般的に、全体で何千人の死者が出たから大災害と判断するのだろうが、家族にとっては、一人死んでも大災害なのである。『死んではいけない、死なせてはいけない』これが市民防災の原点である。そのためには大地震発生時、火災を出さないこと、拡大・延焼させないことが阪神・淡路大震災や関東大震災から得られた重要な教訓であろう。

今回のまとめ

『水・米、3日分を備える』
常識的な答えだが、優先すべきは、
『地域で火事を出さない、発生した火事を皆ですばやく消し止める』
これが地震の備えで最も大切なことである。



『大森房吉』対『今村明恒』の地震予言論争

建築基礎防災研究所所長・都市防災研究会幹事 川崎 浩司

なまず 明治の末から大正の末までの18年間、大森教授今村助教授の地震予言論争が行われたことを知ったのは、吉村昭のノンフィクション『関東大震災』を読んでからである。「事実は小説よりも奇なり」との言葉通り、正に息づまるようなドラマがそこに展開されていた。さて、本年は関東大震災より80年で数々のイベントが行われている。しかし、そこには何か緊迫したものが不足しているように思われるので、この論争を30年ぶりに調べてみたいという気持になった。

  1. 今村明恒百年周期説:1905年(明治38年)に、当時東京帝国大学理学部地震学科の今村助教授は、雑誌『太陽』9月号に「市街地における地震の損害を軽減する簡法」と題する論文を発表した。その中で「最も激烈なりしもの、即ち、多数の壊家及び死人を生ぜしめしものは、慶安地震(1649年、慶安2年)、元禄地震(1703年、元禄16年)、安政地震(1855年、安政2年)の三つで、平均百年に一回の割合で発生している。なお、最後の安政地震から既に50年が経過しているので、今後50年以内にこのような大地震に東京が襲われることを覚悟しなくてはなるまい。明治の文明開化以後30数年たち、石油ランプなどの新しい火器が普及しているが、これを可及的速かに電灯に変え、地震で壊れやすい水道管を補強しなければ、東京は木造家屋が多いのでその死者は10万人から20万人に及ぶであろう。そして、その被害度は、地震力に弱い、地質の柔かい下町に激しからん」と予言した。

  2. 論文発表前後の状況:茂木清夫の『地震のはなし』(朝倉書店、2001年)によれば、東京付近で活発な地震活動があり、このような地震論争があっても不思議ではない状況であったとのことである。その詳細は、筆者の『21世紀の都市防災はいかにあるべきか』(本研究会、第3回研究発表会)を参照されたい。
     この論文発表直後の1906年(明治39年)と1915年(大正4年)に群発地震が東京地方を襲う。特に、1915年11月には、一日に3回ものかなりの地震が記録された。このことが、大地震の前兆ではないかとの不安が全都に広がり株式相場まで下落した。そして、1923年(大正12年)に茂木氏がドーナツ・パターンと呼ぶ空白域に関東大震災が発生した。

  3. 大森対今村地震予言論争:1915年の状況を憂慮した、東京帝国大学地震学科の主任教授で地震学第一人者の大森教授はパニック的状況を鎮めるために次のような発言をした。「今村百年周期説は全く根拠なき浮説である」と痛罵し、「東京が非常の災害をこうむるのは平均数百年に一回とみてさしつかえない」
     しかし、大森教授の発言、もしくは説得に一歩もひかない今村助教授は、上記の大地震予言を固く信じ、妻に向かって「東京大地震は50年以内に必ず起きる。それまでに自分が死んだら、大地震の起こったことを墓前で報告してくれ」と言っていたそうである。また、陰と陽で性格の合わない強情なこの二人は自説に固執して譲らなかったので、今村助教授は、大森教授の来ない土曜日の午後しか大学へ来れなかったとも言われている。また、この二人は二歳しかちがわなかったこともあるいは論争の一つの原因であろうか。
     この地震予言論争は、今村助教授の論文発表から18年後、1923年の関東大地震の発生により決着がついた。その時、大森教授は汎太平洋学術会議に出席していて、オーストラリア・シドニー近郊のリバビュー天文台の地震計の前でその異常な動きによって、大地震の発生を知った。すぐに、船で帰国の途につき、約一ヶ月後の10月4日に横浜港に到着したが、脳腫瘍が船中で悪化していたので直ちに病院へ運ばれ、遂に11月8日、享年55歳で不帰の客となった。その間、見舞に訪れた今村助教授に対して、大森教授は長年の暴言を詫びて後事を託したと言われている。大森地震学はその後、多くの良き弟子に受け継がれて進展していくのであるが、万感をこめて直弟子に虚心に謝罪したその態度に大学者の片鱗を見る思いがするのは筆者だけではないだろう。

 以上が、大森対今村地震予言論争のあらましである。しかし、この小文をまとめてつくづくと考えたことがある。それは、人間の運というか、業というか宿命みたいなものである。どちらが勝ったとか負けたとかそんな問題ではない。今村百年周期説は、その弟子の河角69年説よりずっとおおまかで、科学的、統計的根拠もあいまいである。それにもかかわらず、今村説は、人命災害の数、火災の発生、そして下町の被害の甚大などまるで神の如く適中させている。これをどう考えたらよいかよくわからないが、今村氏は強運の持主であり、大森氏は弱運だったのであろうか。それとも、今村氏は霊感のある超能力者だったのであろうか。この論争の今日的意義については筆者はよくわからないことを記してこの小論を終える。
(2003年11月記)



レンズを通して参加した
横浜市民活動共同オフィス成果発表会

都市防災研究会幹事 大瀬 陽之

 太い円柱に白いテープを幾重にも巻き付けて作った仕切り板を背(?)に、中央にマイクと椅子、それを取り囲むように放射状に置かれた30脚位の椅子、さらにその外側にはカラフルなクロスをかけたテーブル、これが旧富士銀行1階ホールの会場の全景。なかなか凝った演出です。これは、多摩美術大学の学生達の協力で2日がかりで巻いた即席のスクリーンだったのにはびっくりしました。これから都市防災研究会が開催する各種イベントの会場設営にあたり、おおいに参考になると思われます。

 申し遅れましたが、私、当日写真とビデオを担当させてもらった大瀬です。

 横浜市市民活動共同オフィス誕生1周年を祝うお祭り。このイベントは、共同オフィスの入居団体で組織する町内会が、都市防災研究会の高嶋町内会長を中心に、何回もの会議を重ねて実現したもので、10月3日と4日の2日間開催されました。
 ここに、4日(土)の内容をお示しします。

第1部 ジャズ&トークセッション………よこはま市民メセナ協会主催
第2部 健康危機管理講演と防災紙芝居…都市防 災研究会主催
第3部 横浜市民活動共同オフィス交流会

 講演を中心に、ジャズあり、紙芝居あり、フォークソングあり、詩の朗読あり、合唱あり、パネル展示ありと各団体の趣向をこらした成果発表が続き、おまけに、コーヒータイムには、ありがたいことに、ワインまでふるまわれました。都市防災研究会では、師岡孝次先生の「健康の危機管理」と題する講演及び国崎信江氏の防災紙芝居「地震になんかまけないよ」が行なわれました。

 横浜市民活動共同オフィスは、市民活動の場として人気が高く、入居しても1年で交代せざるをえない現状にあり、第3部では、新旧の団体の紹介がありました。都市防災研究会もわずか1年ではありましたが、活動の拠点として、十二分に機能を発揮することができたと思います。志を同じくする市民団体とのさらなる友好、協力が必要であることを痛感しました。

集合写真
1階ホールで記念写真に納まる参加者のみなさん



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