両国駅付近に大災害の歴史の現場を見る!
 
一第2回現地ルポ一
大瀬 陽之
    1657年の明暦の大火,1703年の元禄地震,1巷55年の安政江戸地震,1923年の関東大震災,1945年の東京大空襲。
     このような江戸東京を襲った数々の惨事の傷跡とその復興の歴史を調査するため,都市
    防災研究会の事務局負4人が,12月3日の正午に両国駅に集まりました。
     大上役に構えた目的とは裏腹に,本心は江戸下町の散策とその後の楽しみの一杯。
     まずは相撲料理屋でお寿司で腹ごしらえし,最初に回向院を見学しました。

     明暦の大火は,江戸の町の約60%が被害にあい,死者は10万人を超えたといわれています。
     回向院は,この明暦の大火の死者の遺骸を幕府が埋葬して塚を立て,建立した寺で,多くの供養塔が当時の被害の大きさを示しています。
     次に向かったのは,関東大震災で多くの犠牲者がでた被服廠跡地の一角にある墨田区横網町公園で,この公園の中央には巨大な慰霊堂が建てられています。
     慰霊堂の中には,関東大震災の写真,絵画が展示してあり,特に焼け野原に山積みされた骸骨を前に僧侶が読経している絵が印象的で,被害の生々しい記録に驚いたり怖くなったりしました。
     公園の片隅に東京都復興記念館があり,この中には震災の被害を証言する多くの遺品が展示してあり,さらに復興計画の内容が説明されています。
     続いて平成5年3月に開館した江戸東京博物館を見学しました。
     ここではいくつか用意されている常設見学コースの中から,火事・地震・空襲60分コースを選び見学しました。
     広大な展示場の中で,最新の技術を駆使して,いかに分かりやすく,かつ快適に見学できるよう配慮された多くの展示物を短時間でみることができました。
     こうして,3か所を見てまわりましたが,あまりにも整然ときれいに展示されている江戸東京博物館に比べ,東京都復興記念館慰霊堂に展示されているものは,古ぼけていたり,うす汚れていたりで,快適に見学することは出来ませんでしたが,それだけにかえって強烈な印象を受けたように思います。
     最後は,両国駅に隣接してつくられたステーションビヤホール。
     いつもはおいしくいただけるビールもなぜか苦く感じられました。

     日本の災害史上10万人以上の人が死亡した現場は広島を除けば,その中心は両国駅を挟んで僅か数分の距離に位置しています。また回向院は大相撲興行発祥の地であり,国技館のある理由も首肯けるものがあります。皆様も一度尋ねられることを薦めします。



第8回地震と防災の旅
静岡県地震防災センター見学と戸田に安政東海地震痕跡を探る
中川 泰介
     「静岡防災センターでの津波シミュレーションを見学し,伊豆戸田に安政東海地震の跡を尋ねる旅」は11月11日〜12日の週末に実施された。参加者は直前キャンセルがあったが,大間知、高嶋、深沢(一般元サントリー勤務),中川の4名である。

     当日は好天に恵まれ,静岡駅へ集合した4名はタクシーで静岡県地震防災センターに乗りつけた。当日は土曜日でもあり,家族連れの参加者や団体客で賑わっていた。見学コースは地震のメカニズムに始まり,東海地震を意識して県民向けによく出来ている。特に津波の実験装置は1Fスペースの半分近くを占有音響効果が抜群で,かなりの迫力で見学者に迫ってくる。日本でも唯−のセンターの津波シミュレーションは一見の価値がある。

     昼食後JRで沼津駅へ向かい,そこから沼津港へ向かった。港から高速フェリーで戸田港に到着,徒歩で宿舎の「魚住荘」へ到着。
     夕食には時間があるので,近代造船発生の地に建立きれた石碑を尋ねた。長文の漢文には当時の関係者の事績が辞しく記され,夕闇の迫る中大要をなんとか理解することができた。この後戸田村直営の戸田温泉に旅の疲れをいやし,夜は談論風発楽しい−時となった。

     翌朝は恒例の勉強会を宿舎で開催した。資料に川路聖謨著『上長崎・下田日記』(東洋文庫)等を使用した。
     幕末アメリカのペリー艦隊が「日米和親条約」を締結したあと,前年長崎,安政元年には下田で日露交渉が行なわれており,歴史の流れは安政東海地震発生と同時に進行していく。
     ロシア全権プチヤーチン,幕府副全権川路聖謨両者が最終交渉に入った頃安政東海地震が発生し,31時間後には南海地震が発生。下田港に碇泊中のディアナ号は大津汲に飲み込まれ大破,戸田村へ修理のため曳航中強風に合い田子ノ浦沖で難破,近辺漁民の協力により搭載の荷物は殆ど無事,乗組員約500名も無事に脱出した。プチヤーチン以下全員が戸田村に移住,提督の申し入れを受けて帰国のための造船が開始された。
     幕府は江川太郎左衛門を責任者として,ロシア造船技術者達の設計指導により,戸田村近在の船大工を動員し,図らずも近代造船技術の真髄に触れることとなり「へダ号」の完成を見る。プチヤーチン,川路聖謨副全権は秀れた外交官であり,川路は幕末期ににありながら近代的感覚で交渉にあたった一流の官僚であった。(勉強会より)

     勉強会の後岬の突端に向かい,そこに建てられた「造船郷土資料博物館」を訪問し,ヘダ号の模型や、ディアナ号でプチヤーチンが使用した生活用品の数々,後年プチヤーチンの愛娘オリガ・プチヤーチンがお礼に戸田村に金一封を持参した時に使用していた服装品等も眼にすることができた。また戸田村とロシアの交渉は今も継続し、「造船郷土資料博物館」建設にも当時ソ連から寄付のあったこと,プ≠ヤーチン曾孫の来村等も知ることができた。

     今回の地震と防災の旅は,下田市の津波対策を勉強を平成11年2月に実施したことの総括であり,プチヤーチン・川路の国境交渉の過程を検証すると同時に,近代造船技術の習得歴史を学ぶ楽しい旅であった。また宿舎からは江戸時代文化・天保年間の古文事の鑑定も依頼される場面にも遭遇した。



堀切二丁目公園(防災拠点)の見学から
高嶋 三郎

 東京都葛飾区の防災公園を見学してきました。
 その概要は下図の通りで,狭い土地に数多くの防災機能を詰め込んだという印象でした。区職員の方の説明では「近くの小学校を避難所として使用し,防災公園は,家は倒壊しなかったが,水道,電気,ガス,下水等が使用できない人達のために整備した」といっていました。


 プロジェクト費を伺うと,土地の買収費以外に整備費6300万円,防災倉庫建築費600万円(防災資器材は含まず)と聞いて,高すぎると思いました。
 しかし区の防災職員の方は非常に熱心で,我々横浜市民に対しても駅まで出迎えて案内される等,このプロジェクトに対する意気込みが感じられ、これが防災公園を実現させたと考えられます。
 今後これを皮切りとして,区内に30カ所整備する方針だそうなので、次々と改良されて行くことでしょう。「何処を改良したのか見るのも、参考になるな」と思いました。





井上真六さん(94歳翁)が都市防災研究会に期待のメッセージ

 11月中旬井上真六さんから大間知事務局長に電話があり,私は94才で耳が遠いので大きな声で話してほしいと,注釈があったうえで,「東大新報」「今,防災について」「大地動乱の時代第二段階へ突入」の記事を読み,都市防災研究会の存在を知ったのでぜひ一言申し上げたいので,住所を教えてほしいと依頼があり,数日後数十ページに及ぶ井上さんの,地震防災に関する政治家への提言書の写しが送られてきました。

 紙数の関係もあり,全部を網羅することは出来ませんが,井上さんは日本は地震帯の上に位置しているにもかかわらず,日本の政治には本質的な地震対策が見られないのは,残念なことであるとされ,戦前内務省が都市計画を担当していたが,戦後内務省消滅により,都市計画もなくなり,自分もそれなりに努力してこられたそうです。

 予想される大地震以前に耐震耐火都市をどう建設すべきか,これに政治的配慮がないとされ,

    1. 世界の大国としての日本の文化性のある首都を建設することであり,
    2. 生活大国としての「住の質的向上と通勤苦の解消」を実施することであり,
    3. 今後数十年に亘る大きな内需創出であると主張されています。

 井上さんは元鹿島建設技術顧問をされ,85才にして宮沢首相の諮問を受けた「経済審議会」「生活大国」への提案をされ,土地の所有形態にも言及されています。明暦大火,ロンドン大火の比較都市建設の問題点を指摘,大都市における土地公有化も主張されています。私たちは大先輩の提言に耳を傾けることが必要かと思われます。




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