風のささやき

海辺にて

波でつま先を洗う僕の背中に
天使のような白い羽が生えたとしたなら
僕はその羽を広げて空に駆け上がるだろう
真っ白な羽は太陽を受けて銀色に輝き

その羽の落ちるところには必ず
幸いが訪れるとしたのなら
請われるがままに僕は
どんな場所にでも訪れることだろう

僕を呼ぶ者が誰もいない幸いの日には
この波の照り返しの上を
静かに瞑想をしながら彷徨もしよう

けれど僕の背中には羽が生えていない
僕は貧相な背中を恥ずかしさに丸め
吹き集う風に晒されているばかりだ

  ○

潮風にいつまでも
吹かれていようと思っていた
顔があの白い雲のように跡形も無く
引きちぎられるほどの長い時間を
だってそれだけが考えつく
僕にできる唯一のことだったから

けれど風はそんな僕のことなど
微塵にも感じてはいない
たとえ羽があったとしても
なかったとしても
そんなことはお構い無しに
行きかうばかりだ

せめて僕の耳に吹きすさぶ理を
教えてくれたらいいのに

  ○

僕の指が砂の上に書き込む文字を
海の方へと持ち去って行く波
まるで小さな蟹が獲物を
挟んで引っ張って行くみたいだ
ごぼごぼと白い泡を吹いて

そうして何も無くなった砂にまたむかう
性懲りも無い僕の指先
それは僕と波とのひそやかな遊び
あるいは波が
気に留めることのない僕の一人遊び

波に運ばれた文字は何処へ行くのだろう
僕の中の美しい文字を確かに
僕は指の上になぞっていたはず
それは海の藻屑となって
潮騒と混ざり合うのか

海を満たす塩っ辛い水は
数知れぬ人の言葉の堆積
折り重なり縺れ合い
僕の言葉もそこから出て
そこに帰っていくものに
他ならない

  ○

僕の背中を包むように
優しく抱きしめてくれる人があれば
羽を望む僕の心もなかったのかも知れない

あなたは羽を持たない弱き者
飛ぶ必要なんて何一つないのだと
諭してくれるその言葉に僕はすがって
空を飛ぶことなど
夢にも思い描こうとはしない

けれどそんな優しい人の姿は
影さえも砂浜に見えずに
僕はまた空と砂浜との間で
張り裂けそうな心を葬る術を捜している

  ○

きっと僕が一匹の
尻尾まで黒い猫だったのなら
時間を気にすることもなく
白い雲の流れを楽しんでいることだろうに
暖かな砂上に横たわって
ごろごろと喉を鳴らし

時折空から降りてくる鴎だけが気になって
その度に小さな足跡を砂浜に残し
尻尾をたて鴎を狙うのだろう

  ○

穴のあいた白い貝殻は
きっと波に鋭い牙を立てられて

その瞬間に命までも
持っていかれてしまったのだ
生を思い返す間も無く一気に

それからその魂は
水平線のむこうから
帰って来る気配はない
白い抜け殻に
いくら僕が呼びかけようとも

  ○

僕の魂が憩うことのできる
まだ見ない島があるとしたのなら
僕はそこを目指したのだろうか

僕の目にはけれど何も映らなかった
陸地の見えない水平線以外には

だからこうして僕は来る日も来る日も
ここに座っているだけだった

時折風に舞い上がる
白い砂にまみれて
魂はすっかりジャリジャリと苦く
噛み締めることも厳しくなって

それは
目を凝らしたこともあったさ
僕だけのための
島が見当たらないかって

  ○

海は大きなオルゴール
高い音も低い音も
優しい音もおおらかな音も
消え入りそうな最弱音も
すべての音色のそろっている

この星が生まれてからの
たくさんの時間の経験の
誰の耳にも心地よい音を奏でる自鳴琴

僕の時間しか知らない
僕は無力だ

  ○

手足を広げた十字の姿で
この身を深く海の真中に放り出そう
海は怖くはない
海は僕を抱きかかえてくれる
苦しい喉の奥の甘い子守唄

僕は泡を吹き上げながら
海の人柱となって
一つの波の歌を歌おう
風の伴奏に併せ

けれど僕に耐えることが出来るのだろうか
それが誰の足元に届くものなのかも
分からないのに

  ○

風よ
乾いた砂を高く高く吹き上げろ
空を白く埋めてしまえ
その激しい風の方向に
僕もまだ誘われて足を向けるだろう
羽を持たない僕の生は
それでもまだ飛翔を求めている