風のささやき

トスリの組曲

 トスリの流れるようなギターの音色と、それを一生懸命追いかける子供の音色とがいっせいに止まりました。
「はい。それでは、今日のレッスンはここまで。だいぶうまくなったね。もう少し練習すればこの曲も完成だね。」
 そう言うトスリの言葉にも子供の生徒は自信がなさそうに応えます。
「そうかな、先生。」
「ほんとうだよ、ポラリ。」
 トスリは優しい目で、生徒のポラリへニッコリ笑いかけました。

 トスリはギター弾きです。もう何年も前から、町外れの小さなレンガ色の家で、町の人たちにギターを教えているのです。トスリの家の玄関には「生徒募集中」という小さな看板がいつでもかかっています。トスリは、自分の好きなギターの音色を、もっとたくさんの人に好きになってもらいたいのです。
 トスリは、どう教えたら生徒さんがうまくなるのかを一生懸命に考えます。ですから、トスリの教え方はとてもわかりやすく楽しいのです。生徒たちに合わせて練習曲を作ったりもします。それで生徒たちは、トスリのことが大好きなのです。

 トスリは月に一回、第三金曜日の夜に、町が開催するコンサートに欠かさずに参加します。
舞台は町の南側にある公園の中。バラの花にまわりをかこまれた小さな建物です。いつでもバラのほのかな香りがする素敵なその会場では、何人ものギター弾きが演奏をして腕をみがきます。
 トスリは、街にいるギター弾きたちのなかでも一番上手なので、いつでもコンサートの最後に演奏をするように頼まれます。
 トスリは舞台の真ん中で一人まぶしいライトを浴びながら、ギターを弾きます。演奏曲は昔の人が作った有名な曲がほとんどです。どこかで耳にしたことのあるメロディーが多いので、聞いている人たちが親しみやすいからです。
 トスリは、明るい舞台の上で一生懸命にギターを弾いていると、自分がその音色と一つになって、客席の方へ流れて行くように思います。それで、一人一人の胸に大切な音を届けられるのです。曲が終わり静かになる舞台は、お客さんたちの拍手で満たされます。
「どうもありがとう。」
 立ち上がりお客さんに深々と頭を下げるトスリは、最後にアンコールの曲をまた熱心に弾いて聞かせるのです。


  トスリはギターを演奏するだけではなく、自分でも曲を作ります。けれどトスリの作った曲は、あまりお客さんに喜ばれないようです。演奏会の時に、自分の曲を弾いてみることがあるのですが、昔の名曲よりも拍手がいつも小さいのです。トスリは、自分ではとても綺麗な曲だなといつでも思うのですが。

 トスリは晴れた青空の日には近くの小さな山にでかけて行きます。そうして山の中腹にある見晴らしのいい場所で、ギターの練習をします。
 ギターを持って、少し坂になった山道を二十分も歩くと、開かれた場所に着きます。小さな舞台に緑の絨毯をしいたようなそこには、大きな木の切り株があって、ちょうどよい椅子の代わりになります。そうしてその場所からは、トスリの住む町が見渡せるのです。トスリの家と同じレンガ色の家が立ち並ぶ落ちついた町並。その真ん中を青い大きな川が流れて、小さな舟がゆっくりと滑って行きます。街の所々にある公園や、家のベランダには赤や黄色の花がたくさん植えられていて、トスリの座る切り株の上にも、その甘い香りは漂ってきます。その匂いを体一杯に吸い込むと、トスリは町のみんなに届くようにと、ギターの演奏を始めるのです。

 ここはトスリの一番お気に入りの舞台なのです。切り株の上のけやきから落ちる木漏れ日は、気持ちのいい照明です。足下に生える色とりどりの野の草は、トスリの小さなお客様。トスリの曲が始まるとゆっくり頭をゆらします。木の上にやってくる小鳥も、花の間を飛び回る蜂も、トスリが曲を弾いている時には、静かにしながら聞いています。そうして風は、トスリのギターの音色を山のかなたまで届けます。その音に誘われて、また新しい小さなお客さんが集まってくるのです。
 トスリがもう何年も弾いているお気に入りのギターも、この舞台の澄んだ空気のせいでしょうか。部屋の中で弾いているときよりも、きれいな歌を奏でるのです。
「ああ、もうこんな時間か。今日は三時過ぎからラルタさんが来るんだ。もうそろそろ帰らないと。」
 そんな気持ちのいい舞台での練習が、トスリのギターが素敵に聞こえる秘密なのです。


  トスリは、練習の合間に時間を見つけては、相変わらず曲を作っていました。トスリの心に触れるたくさんの美しい印象を曲にしたかったからです。トスリは、そうしてできた曲を一度は町の演奏会で弾いてみるのです。けれど、トスリの曲は、やはり町の演奏会ではあまり喜ばれません。それでトスリの机の上には、山のように楽譜が重ねられて行きます。
 トスリは、時々そんな楽譜を持ってあの舞台で練習をするのです。あの舞台に来てくれる小さなお客さんたちは、トスリの曲を気に入っているようで、いつも耳を澄まして聞いてくれるのです。

 そんなある暖かい日のことでした。山道を歩きながらお気に入りの舞台に着いたトスリは、いつものように切り株に腰をおろして、ギターを取り出しました。そうして、自分で作った曲の楽譜を地面において、一生懸命に弾き始めました。それは昨晩遅くまでかかって書き上げた新しい曲でした。

 トスリはその曲を何回か弾くと「フーッ」とため息をつきました。まだ名前もつけていないその曲は、トスリが作った中でもたいへん美しいメロディーのものでした。けれど演奏が難しい曲でしたので、トスリは少し疲れた手を休めようと思ったのです。
 それでトスリが右手をブラブラとさせていると、聞き覚えのあるメロディーが聞こえてくるではありませんか。それは、どこか少し変なのですが、トスリが今まで弾いていた曲に間違いありません。トスリは驚いてあたりを見回しました。けれどまわりには誰もいません。それでもトスリの耳にはまた、あのメロディーが聞こえてくるのです。トスリはもう一度耳をすませてみました。
 するとそれは、トスリの上のけやきの葉や足下の草、小鳥や小さな虫の羽の音、そんないくつもの音が重なりあって、オーケストラのようにトスリの曲を真似していたものだったのです。


 トスリが毎日ここにきて練習をしているうちに、それを聞いていた小さなお客さんたちが、歌い方を覚えたのです。トスリの帰った後には、いつでもみんなで、風のタクトに合わせながら練習をしていたのです。そうして今日は、あまりにも素敵な新しいメロディーを早く覚えたくって、トスリが帰る前に練習を始めてしまったのでしょう。
「アハハハハ。」
 トスリはとても嬉しくなりました。自分の曲がここまで気に入ってもらえたのは初めてだったからです。トスリはそれで、何回もその曲を弾いて上げました。そうしてトスリが手を休めると風たちはその曲を歌い出すのです。トスリは、自分の教室で生徒を教えるように、風のオーケストラに教えます。
「そこをもう少し音をのばして。あと、和音のところはもう少しやわらかく。」
 トスリは、やはり教えるのがうまいようです。風のオーケストラはやがてトスリのその難しい曲をとてもうまく歌えるようになったからです。
「できれば君たちを町の演奏会に連れていきたいぐらいだよ。」
 トスリはそれから前にもまして一生懸命に曲を作るようになりました。


 やがてそれから何十年もの歳月がたちました。ギター弾きのトスリは、ある晴れた日、あの小さなレンガ色の家で静かに息を引き取りました。町の人々はそれはそれは悲しみました。あの素敵な演奏がもう二度と聞けないからです。
 年をおうごとにトスリの演奏は落ちついた優しさを増していきました。ついこの間の町のコンサートでも、みんなから大きな拍手を受けたのです。この町ではトスリの演奏を聞いたことのない者は一人もいないぐらいです。
 それで、トスリのお葬式の日には、たくさんの人々が集まりました。そうしてトスリの生徒だったギター弾きたちはトスリのためのレクイエムを演奏しました。

 トスリが書きためたたくさんの楽譜はどうしたのでしょう。
 トスリの作った曲は結局、あの後も町のみんなからはあまり喜ばれず、机の上に置かれたままでした。それがトスリのお葬式の日、開いていた窓から吹いてきた強い風が、誰も知らない間にどこかへと運び去ってしまったのです。


 トスリがいなくなってから何年かが過ぎたある日のことです。母親と手をつなぎながら買い物に来ていた小さな子供がパン屋の前で耳をすませて言いました。
「ねえ、お母さん。何かとてもきれいな音がしない。」
 その言葉に誘われて、手を引いていた母親が耳をすますと確かにどこからともなく素敵なメロディーが流れて来ます。
「ほんとうにきれいな曲が聞こえてくるわね。誰かが、楽器を練習しているのかしら。」
 そんな親子の様子を見て、パン屋さんの前ではみんながどこからともなく聞こえてくる曲に不思議そうに耳を傾けたのです。

 その日からです。町には晴れた日になるとどこからか素敵な音楽が流れてくるようになりました。それはみんなの胸のなかに柔らかくしみて、みんなを優しい気持ちにしてくれます。けれど町の人々はそれがどこから流れてくるのか、誰がそれを演奏しているのかわからなかったのです。

 その曲はいつもトスリがギターを弾いていた、あの舞台の風や草が歌っていたのです。あの風が指揮者のオーケストラにはいつの間にかたくさんのものが集まり、その大きな歌声がやがて町にまで届くようになったのです。あの日窓の外へ運ばれて行ったたくさんの楽譜は、この風のオーケストラが持っていったのです。

 やがて、この町に住むギター弾きが、晴れた日に流れてくるその音楽を楽譜にうつしとりました。そうしてそれを一つの組曲にしたのです。その名前は「トスリの組曲。」
 風のなかに流れてくるその曲を聞いていると、そのギター弾き「ポラリ」は何故だか、いつも優しくギターを教えてくれたトスリのことを思い出してしまうからです。

「先生。」
 トスリのことを思い出しながら、そのギター弾き、ポラリは街角に出ていって「トスリの組曲」を演奏します。街角でその組曲を弾くと、風が運んでくるメロディーと解け合ってことさら美しく聞こえるからです。

 ポラリが風の中から聞き取った「トスリの組曲」は、大勢の人たちに愛されました。そうして今日もたくさんのギター弾きが、人々にその澄んだ調べを届けているのです。