風のささやき

夏休み

 ひろしが夏休みを利用して田舎のおばあさんの家へ来てから、もう一週間が過ぎようとしていました。その子は毎日夕方ぐらいになると、おばあさんの家の縁側から見える、大きな松の木の下にちょこんと座っていました。ひろしは少し前から、その子が何をしているのか知りたくてたまりません。けれど話しかけるのが恥ずかしくて、ずっと遠くから見ているだけでした。
 そして一週間がたった今日も、その子は松の木の下に座っていました。ひろしは今日はどうしてもその子が何をしているのかを知りたくなって、
「おばあちゃん、外へ行って来るよ。」
 そう言い残して松の木めがけて一直線に走り出しました。もう時刻は夕方になり、太陽はオレンジのように変わっています。野原のススキはその光りを受けて金色に輝き、静かな風に揺れていました。
 ひろしが野原の中の道を一生懸命転ばないように走って松の木に近づくと、透明な音色の笛の音が聞こえます。そっと歩いて松の木のところまで行くと、ひろしと同じぐらいの男の子が一人小さな横笛を吹いていました。男の子は髪の毛が少し茶色くさらさらとしていて、めずらしい模様の古い着物を着ています。あの子だとひろしは思いました。だけどなんて言葉をかければいいのかわからなくって、ひろしはじっと立ったままその子の様子を眺めていました。すると急に笛の音が止まってその子がこちらの方をむきました。ひろしが何もいえずに真っ赤になって、下を向いてもじもじとしていると、その子は白い歯を見せてニッコリと笑います。そして、こっちにおいでよというように手招きをしてみせました。
 ひろしは急に体が軽くなったような気がしてその子の側に行くと、
「ねえ、君はいつも何をしているの。」
 そう聞いてみました。けれど、その子は何も言わずに目で笑うと、また笛を吹き始めました。ひろしは横に座ってその子を見ます。するとその子はもう一生懸命になって、ひろしのいることを忘れてしまっているみたいに笛を吹いていました。
 ひろしは目をつむってじっとその透明な音色に耳を傾けます。笛の音は風に乗って、遠くの空にまで響いていきます。それはひろしのような子供にもどこか寂しげに聞こえました。

 やがて、ひろしが学校では習ったこともない不思議な曲が一曲終わって目を開けてみると、いつのまにかあたりは暗くなりかけていて、太陽はもう山の中に隠れてしまうところでした。ひろしはほんとうはその笛の音をもっと聞いていたかったのですが、おばあさんが心配するといけないので今日はもう帰ることにしました。
「ねえ、また明日も会おうよ。いいでしょう。」
 そうひろしが言うと、その子はまたきれいな目で笑ってうなずきました。ひろしはすっかり嬉しくなって、その子と指切りをして、それから大きく手を振りながらおばあさんの家の方へ向かいます。その子もひろしの方へ大きく手を振って返して見せました。ひろしはそれでまた来たときと同じように一生懸命走り出します。けれど急にあの子はどこへ帰るのだろうと、気になって立ち止まり後ろを眺めると、その子はいつの間にか消えていました。不思議な子だなとひろしは一回首を傾げて、それからまた真っ直ぐにさっき来た道を走り出しました。家の前ではおばあさんが、やはり心配して待っていてくれました。

 次の日から毎日、ひろしは夕方になると笛の音を聞きにその子に会いに行きました。ひろしはそのどこか寂しい笛の音を聞いていると、時間のたつのを忘れてしまうのです。目をつむって耳を澄ませると、自分もまるでその音色に乗って風のように遠くまで行ける様な気がするのです。近頃ではもうその子に会いに行くのが待ち遠しくて待ち遠しくて、何回も時計を見て、おばあさんに何をしているのと笑われたこともありました。


 そうして毎日通っているうちにひろしはふと、その子がいつも何も話さないでいることに気がつきました。ひろしはあまりにも熱心に笛の音を聞いていたので、そのことには今まで気づかなかったのです。
「ねえ、君。」
ひろしはその子の名前も知らなかったことに気がつきました。
「どうしていつも喋らないでいるの。名前は何て言うの。」
 するとその子は少し寂しそうな仕草をして、いつものように笑うだけでした。ひろしは聞きたいことがいっぱいあったけれど、悪いことを言ったような気になって、もう色々とたずねるのは止めようと思いました。それでまたいつものように笛の音に耳を傾けていました。

 そうして毎日楽しく過ごしているうちに、ひろしの田舎での夏休みももう終わりに近づいてきました。いよいよ明日はお母さんが迎えに来て、東京に帰らなければならない日です。だからあの子に会えるのも今日が最後。ひろしは、急に寂しくなって、涙が流れそうだったけれど、おばあさんに笑われるのが恥ずかしかったので、じっと唇を噛んで我慢していました。だけどおばあさんが買い物に出かけて、家の中に独りぼっちになると、急に寂しさがこみ上げてきて少しだけ泣いてしまいました。
 時間はどんどんと過ぎて、ついにあの子に会える最後の夕方です。ひろしは、また来年会えるからと無理に笑いを作って、あの子のいる松の木に向かって全速力で走りました。そうでないと涙がこぼれてきそうだったからです。
 松の木の側にまで来ると、ひろしは自分が泣いていないことを確かめ、ゆっくりと松の木に近づきました。けれど今日は近くに来ても笛の音がしません。どうしたんだろうと松のほうへ行くと、あの子の姿はどこにもありません。心臓が急にどきどきと鳴って、ひろしは心配になってあの子のことを探してみました。
「おーい。おーい。」
 ひろしは大声で叫びます。けれど返事はかえってきません。どうしたんだろうと思って近くを見回してみました。すると松の木の下に、透明な羽の小さな蝉が一匹、仰向けになって死んでいます。
 ひろしはハッとしてもう一度あたりを見回してみました。すると真っ赤になった空には、これも真っ赤になった赤とんぼが、群れをなして悲しそうに飛んでいます。ひろしはそれを見ると何故かおさていた涙が後から後から流れてきて、悲しくて、どうしたらいいのかわからなくなって、大声で泣きながらおばあさんの家の方へ駆け出しました。ひろしは自分でもよくはわからないけれど、心の中であの子とはもう会えない、あの子とはもう会えないんだ、と繰り返し叫んでいました。そうして家の側で仕事をしていたおばあさんを見つけると、その胸の中に飛び込んで、一人で大声で泣き続けました。

 あの子が一体どうしたのかはわかりません。ただ駅へ向かうバスの中で窓から入ってくる風を受けているうちに、もうすぐ短い夏が終わってしまうということだけがわかりました。そうして何故あの子の吹く笛の音が、あんなに寂しく聞こえたのかが、ひろしにも何となくわかるような気がしました。