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インターミッション
藤下真潮 著
小笠原たけし 絵
 
 

 

 
 
 


「なにゆえに、もろもろの国ぐには、かくも互いに怒り狂い、

もろもろの民びとは、むなしきことを想うのか」

旧約聖書 詩篇 第2篇 第1節 

 

 























 叩きつける様な雨が闇の中を降り続ける。足下は既にぬかるみというよりは泥沼に近い。雨はプロテクタを通り抜けすでにフィールド・ジャケットを濡らし、これ以上、水分を吸い込む余地は無さそうだった。昼間は40度を超えていた。今の気温は何度だろう?体は雨で冷たく濡れていたが、肺と頭は燃えるように熱い。ヘルメットの中に吐き出す熱い息でバイザーが曇る。ぬかるみの深さが段々と深くなる。足を抜き出すのに必要な労力が苦痛に変わる。前を歩く人間の背中にぼんやりと蛍の様に光る標識だけを見つめながら、遅れないようについていくのが精一杯だった。バイザー越しに見える明かりが雨でにじむ。ETA(到着予定時刻)まで、あと何分だろう。榴弾を詰めたパイプが左肩に食い込む。痛みを通り越して感覚が無くなりかけていた。持ち替えたかったが、そんな余裕はない。濡れた着衣が体感を奪い、激しい雨音が聴覚を奪う。蛍の光程度の明かりが唯一の得られる情報だ。バイザーの電源を入れたくなる。戦略支援システムがはじき出すわずかな情報すら欲しくなる。今の時間は?自分は何処にいる?何のために?なぜ?どうして?情報だけが自分の存在を保証してくれる様な気がする。このまま闇の中で自分が消えてしまいそうな恐怖感が湧き起こる。何か考えろ!思考だけが自分の存在を支える!考えろ!考え続けろ!

 ――何時だ?

 ETA(到着予定時刻)のおそらく30分位前。午前1時30分前後の筈だ。
 ついでに8月10日。この地域の雨期。晴れ間の日中気温は40度を超える。

 ――ここは何処だ?

 旧インドネシア領、赤道直下のモルッカ。20年前にインドネシアが4つに分断した際に成立した民族国家だ。国土はモルッカ諸島とニューギニア島のごく一部、たいした面積はないが、そこに膨大な石油資源を擁していた。その石油採掘所からのパイプラインを分断するように、ロンゴロンゴ基地は存在する。基地と言ったって直径40kmの熱帯雨林のジャングルでしかない。なんでロンゴロンゴなんて名前が付いているのかは知らない。

 ――何のために?

  何のためだろう。よくわからない。

 20世紀末に発生した世界的な金融不安は、21世紀初頭についに世界的な金融恐慌を引き起こした。金融市場から雪崩をうつように引き上げられた巨額の資金は商品市場に流れ込み年率2000%の反動インフレを引き起こした。
 後に”見えざる手の暴走(run wild of invisible hand)”と呼ばれた現象は、自由主義経済の根幹を揺るがし、さらに東欧、中央アジア、東アジアで頻発していた民族紛争の火に油を注ぎ、世界的な政情不安をも引き起こした。
 経済不安が、大規模な紛争へと飛び火することを憂慮した国連安保理は経済安定を図るべく広域経済委員会を設置した。しかし、メガ・イナーシャ(巨大慣性)と呼ばれた実需の20倍を越え、実体経済と極端に乖離していた巨額な投機資金の動きは、先進主要7カ国の国家資金を持ってしても抑えることができなかった。
 世界的な景気の低迷に疲弊しきった各国は、アメリカを先頭に保護主義経済移行へと走り出した。それは経済のブロック化と、市場性経済の縮小を促進させ、そして貿易総量と総生産額の縮小と食糧需給の世界バランスの不均衡を引き起こした。
 国連はついにドイツ提案の国際通貨統合の検討を開始し、5年後に通貨統合を行った。
 2030年代、40年代、世界は一度の世界大戦を行うものの、おおむね緩やかな統合と安定の時代を送った。国連の民族融和、経済合理化政策の下、21世紀初頭に190に分断していた国家は150にまで減少した。
 だが2047年に発生したフレイヤ・フォールは、極端に集中依存していたエネルギー供給と情報インフラに大打撃を与えた。エネルギー供給の50%、ネットワーク網の98%を消失した世界経済は再び大混乱を迎えた。ダーク・クォーター(暗黒の四半世紀)の始まりであった。
 ネットワークの再構築に10年、エネルギー供給の再構築に20年。その間の累積餓死者10億人。たがのはずれた国連支配は民族対立を再び激化させた。その間の軍事紛争450件。民族対立により創設された新国家は国連承認を受けた数で132カ国、未承認で53カ国。
 フレイヤ・フォールの災害から復旧した21世紀末、国連は再び世界の安定と支配権を入手した。しかしそれはフレイヤ・フォール前の統治とは似てもにつかない奇妙な構造となった。
 22世紀初頭、世界は国連による経済、資源管理、合同軍備による世界統合と300以上に分断した民族国家という奇妙なダブル・ストラクチャー(二重構造体)の時代を迎えた。

 ――では何故此処にいる?

 学費が切れたからだ。学費が納入できなければ休学扱いにされる。休学扱いでは徴兵猶予の権利が発生しない。自動的に徴兵になる。だから此処にいる。国連陸軍(UNA)アジア師団《ディビジョン》極東旅団《ブリゲート》第12大隊《バタリアン》第4中隊《カンパニー》第2小隊《プラトーン》第3班《チーム》。2ヶ月前に入営。1週間前に実戦配備された。

 現在、正式呼称として”軍”を名乗る物は国際連合所轄の陸軍、海軍、空軍、宇宙軍しか存在していない。四軍併せて通常兵力5千万、航空兵力8千5百機、海上兵力総排水量6千7百万トン、保有軍事衛星120機。世界最大にして最強、そして唯一の軍隊。
 2011年、アメリカは自国の保有軍隊の3分の2を国連に移管し、常設国連軍の設立提案を行う。これは、縮小する国家予算の保全とコントロールできなくなった軍産共同体の解体を目論んだアメリカのエゴイズムに過ぎなかった。しかし、先進各国は国内の経済事情からこの常設国連軍を好意的に迎え、次々と自国軍の国連軍移管を行い始めた。悲鳴をあげたのは迎え入れた国連側だった。これほどの国が国連軍への移管を要望するとは予想外であった。予算、軍備、教育、基地等の受け入れ体制がほとんど間に合わなかった。一部は供出側の国家の施設を借り受ける事はできたが、運用時の予算は絶対的に不足していた。そこに接触を図ってきたのがアメリカの庇護を失った軍需産業体であった。新たな軍産複合体の創出。そして国連を軸とした軍、官、産の癒着。それは、公然の秘密という状態ではあったが、軍事緊張が弛緩しきった状態では取り立てて表沙汰にする人間もいなかった。

 ――何故此処にいる?

 モルッカ地域の国内紛争解決。
      ”国内紛争?”。

 反政府ゲリラの掃討。 
      ”反政府ゲリラ?”。

 そんな物が存在するとは子供でも信用しない。

 国連がかりそめであれ世界統一に成功したのは、軍事力、情報、資源の三つの統治に成功したからだった。とくに一番穏健にみえる筈のWRCO(世界資源調整管理機構)の資源管理が一番強力な支配体制の基盤となっていた。
 フランスの原子力発電所事故を契機に設立されたWRCOによる電力の適正配給、埋蔵資源の国際管理、環境保護を名目に配分される資源消費割り当て。原子力発電も火力発電も水力発電すら環境保護の名目で制限され、割り当て供与される太陽発電による電力に依存しなければならない体質。どの国も、電力、経済、流通、情報を支配する国連に対しては表だって反意を表明できない。反意を表明すれば次の日から日干しだ。しかし、不満をもつ人間は数多くいる。なぜ無償に近い低コストで資源を供出しなければならないのか?なぜ鉱工業生産計画に介入されなければならないのか?なぜ国連の供給するエネルギーに依存しなければならないのか?これは西洋文明の搾取ではないのか?西洋消費文明のツケの押しつけではないのか?不満は根強くまた多数に存在した。そして、その不満勢力がゲリラとなる。国は反意を表明しない、だからそのゲリラは”反政府ゲリラ”と呼ばれる。だがそのゲリラを支持するのは、その国の国民であり、裏では政府自ら資金援助している。”政府公認の反政府ゲリラ”。たちの悪いジョークだ。だが、たちの悪いジョークほど真実に限りなく近い。

 ヘルメットの内部でピッと電子音が鳴る。作戦開始時間《ゼロ・アワー》の1分前だ。銃の安全装置を外す。散開し、息を殺し、待つ。ゼロ・アワーと同時にゴーグルの電源が投入された。榴弾の発射される鈍い音に引き続き炸裂音がした。パック・ラット(収集魔)と呼ばれる直径1cm程のデータ収集装置がばらまかれる。パック・ラットから収集されたデータがゴーグルにリンクされる。解析されたデータは暗視映像に重なるように表示され、付近の建築物と敵の位置を浮かび上がらせた。ゴーグルに映る輝点めがけて引き金を絞る。だが訓練の様にうまく着弾点が収束しない。あっというまに弾を撃ち尽くす。空のマガジンを引き抜き、新しいマガジンを挿入する。銃を構え直し、照準を合わせようとしたした瞬間、ゴーグルの映像にノイズが走った。敵側からノイズ・メーカーと閃光照明弾が打ち上げられる。白い閃光が映像をホワイトアウトさせる。銃の引き金を引きながら、近くの立木の影に移動しようと走り出す。そのとき背後で炸裂音がした。両足のふくらはぎに痛みが走った。足がもつれ地面へと顔から倒れ込んだ。傷を確認しようとして体を回転させようとした。すると、焼け付くような衝撃的な痛みが足を襲った。痛みで頭の中が一瞬真っ白になる。泥の中を転げ回る。ゴーグルの映像は途切れていた。照明弾の閃光も見えない。闇が体を支配していた。ヘルメットの緊急救助信号のスイッチを入れようとして腕を動かした。だがちゃんと自分の腕が動いているのかよく分からない。激痛がすべての感覚を奪い、やがて意識を暗闇へと引きずり込んだ。


 最初に目覚めたとき、目に見えたものは優しそうな少女の顔だった。

 なぜこんな所に女の子が居るのだろう?

「大丈夫?」少女がそう問いかけた様な気がする。

 けれど、頭の中がふわふわして頼りなく、うまく返事ができない。下半身が熱く痺れるようだ。

 目を開けているのさえ辛かった。此処はどこだろう?うまく思い出せない。思い出せないことが自分の心を不安にさせていた。

「母さん《マザー》・・」だれかの声が聞こえた。でもそれは自分の声かもしれない。

 母さん?此処はどこだろう?だが雨は降っていない。それだけが救いのような気がする。

「なあに?」それに答える可愛らしい声が聞こえた。

 少女の碧い瞳を見つめていると、心が少し落ち着いた。そして安心すると、意識がまた暗闇へと落ち込んでいった。


「いい加減に起きなさい。もう朝よ!」

 目を開けると奇妙な白いドレスを着た10代後半位の少女がいた。豊かな金髪を後ろで束ね、 小さな白い布の帽子を付けていた。その白い帽子がナース・キャップだと気がつくのにしばらく時間がかかった。そして胸の赤い十字の縫い取りをみて、ようやく此処がRCFH(赤十字野戦病院)だということに思いが至った。

「お早うございます。足はまだ痛む?」彼の顔をのぞき込むように話しかけてきた。

 吸い込まれるような綺麗な碧い瞳が目の前にあった。

「・・・いや・・・ただ痺れる感じがする・・」

「まだ、少し毒が残っているのね」

 看護婦にしても幼い感じのする少女は、昔読んだ古典の挿し絵にでも出てきそうな、丈の長いフレアーなスカートに白い大きなエプロンという、妙に時代がかったナース服に身を包んでいた。

「2%のプロテイン・アンチトキシン(タンパク抗毒素)をセイリン(生理食塩水)500ccでドロップ(点滴)して…」

 彼女は後ろに控えた年長の看護婦に声をかけた。こちらは彼もよく知っているごく普通のタイトな感じの看護婦の服装をしていた。

「明日になれば痺れは取れていると思うわ。そしたら起き上がっても構わないから」そう話すと彼女はにっこりと微笑んだ。

「おっかさん《マザー》、傷が痛むんだ」右隣のベッドから声があがった。

「はいはい、ちょっと待っててね」そう答えると彼女はベッドを離れていった。

 なぜ、彼女だけが変わった服装をして、年長の看護婦を指示しているのか、そしてなぜおっかさん《マザー》と呼ばれるのかよく分からなかった。

「だらしないわね。この程度で痛いなんて言っちゃだめよ」言葉はきついが、優しく言い聞かせるような声が聞こえた。

「おい、ぼうや。部隊はどこだ?」左脇のベッドに寝ていた40代前半の男が声をかけてきた。

「極東旅団第12大隊第4中隊第2小隊」

「極東か・・ 俺はオセアニアだ。サージ(軍曹)って呼んでくれ。ぼうやは?名前じゃなくてニックネームでいいぞ」

 作戦行動中はお互いをニックネームで呼び合うことが多かった。短めで呼びやすい名称を付けるので、やがて作戦行動以外でも、ニックネームで呼び合うことが通常になる。

「バック・・です」配属直後に小隊長に付けられたニックネームを答えた。

「バック・・、ああバック・プライベート(新兵)のバックか。実戦は初めてか?」

「ええ、1週間前に配属になりました」

「配属1週間目で入院か、気が早えな。どうしたんだ」

「突撃しようとしたら、ゴーグルがジャミングされて・・・背後で何か炸裂したと思ったら足にいきなり激痛がして、気絶してそれっきりです」

「激痛がくる前に、チクッとしなかったか?」

「ええ」

「糸のこ虫(フレット・ソウ・ワーム)だよ。そいつは」

「糸のこ虫?」

「YR35特殊榴弾ってやつだ。榴弾に20cm位の細いワイヤーがびっしり詰まってるんだ。そのワイヤーの表面に鱗状にトゲがあって、体にささると血液でそのトゲが開くんだ、そうするともう抜けない。おまけに神経毒が塗ってある。死ぬような毒じゃないが、激痛が走る。その痛みで暴れると、筋肉の動きでワイヤーがますますくい込むって寸法だ」

「そんな武器があるんですか」

「敵も味方も使ってるぜ。知らんのか?軍も最近は”粗兵濫造”だな、教育期間がどんどん短くなりやがる。糸のこ虫で気絶するとは情けねえが。バック、お前さんは運がいいぜ。へたに痛みで暴れ回って足が使い物にならなくなった奴もいる」

「サージ、部隊がどうなったか知っていますか?」

「ロンゴロンゴ・ベース攻略か?あれは失敗したよ。もう20何回目の攻略戦だ。あいつは難攻不落だ。爆撃しに行けば、バタバタ迎撃される。熱帯樹林と電子撹乱(ジャミング)で衛星探査は効かない。しかもウェブ(クモの巣)であってハブが無い」

「ハブ?」

「車輪の中心《ハブ》だよ。あの基地群には中枢が無いんだ。40km四方の密林に散らばってる200以上のベースが全体で一つのベースになってるんだ。だからベースの何カ所かを叩きつぶされても痛くも痒くもない。しかも、背負える程度の大きさの電子装置と、そいつに連動させる地対空ミサイルの5,6本も立木にくくり付けときゃ立派な基地の出来上がりだ」

「一度に全体を攻撃すれば?」

「そんな兵器がどこにある。大規模破壊兵器は国際条約で全面禁止だぁ。まぁ、武器屋にとっちゃこんなに美味しい戦線はないだろうぜ。やってる兵士は地獄だがな」

 確かにその通りだった。2029年の東西アジア大戦後、128カ国で批准されたキンシャサ条約。それは第2ジュネーブ条約とも呼ばれ、ABC兵器の廃止と対人兵器の殺傷能力の抑制など12項目からなる条約だった。しかしキンシャサ条約の設立を強力に推進したのが他ならぬ軍産複合体であった。ようするに、大量破壊兵器はもはや商売にならないという事だ。東西アジア大戦の10万人とも20万人とも言われる戦死者の屍が残した教訓の一つに、”短期消耗戦は商売にならない、細く長くが商売の基本だ”と言うものがある。キンシャサ条約締結書の文面は血で書かれていたとか、用紙は人のなめし革だったとか言われる所以である。これもたちの悪いジョークのひとつだった。

「部隊との連絡はどうすりゃ良いんですか?」

「2,3日すりゃ勝手に向こうから連絡が来る。気にしねえで、休暇だと思ってゆっくり寝てな」

「まあ、ここはMASH(陸軍野戦外科病院)と違って居心地はいいぞ。かわいいねえちゃんもいるし。ただし、メシは不味いがな」サージは片目をつぶって笑った。

「ねえ、サージ。あの若い看護婦さんは、なんであんな変わった服を着てるんですか?」

「ああ、おっかさんか。ありゃなあ…まあ、お前そりゃ本人に聞いてみな」

「それと、なんで、あんなに若いのにみんな”おっかさん”て呼ぶんですか?」

「まあ、それも本人に直接聞いてみな。午後になればまた巡回にくるからよ」サージはなんだか楽しそうに笑った。自分だけがなんだか狐につままれたみたいだった。

 病棟の昼食はサージの言うとおり、たしかに不味かった。軍のレーション(配給食)の方がはるかにマシだ。あまり食欲もわかず結局半分以上残してしまった。

 昼食の時間が終わると朝方の若い看護婦が再びやってきた。食べ残しを見るとすまなそうに言った。

「ごめんなさい。あんまり美味しくなかった?赤十字も予算が厳しくて、食事にまでなかなか手が回らないの」

「いや、あんまり食欲も無かったから・・・」いきなり謝られると、こちらも曖昧に答えるしかなかった。

 目の前にすると、なんとなく服装の話をいきなり聞くのがためらわれた。とりあえず自分の体に刺さった糸のこ虫の現物を見せて貰う為に医師の巡回時間を聞いてみようと考えた。

「ねえ、看護婦さん。ドクターはいつ頃くるの?」

 一瞬妙な間があった。

「今よ。目の前に居るでしょ」クスっと笑いながら彼女は答えた。

「えっ!」

 サージが笑いをこらえているのが視界の隅に見えた。

「でも、その服装・・・」

「これ?」彼女は子供が服を見せびらかす様に腕を広げてみせた。「この服は趣味よ」スカートを指で軽くつまみ上げると彼女はその場でクルッと一回転してみせた。長いスカートの裾がふわりと広がった。「似合うでしょ?」

「え、ああ、似合うよ」もはや、そう答えるしか答えようがなかった。

「本当は、わたしエンジェル(看護婦)に成りたかったんだけど、なぜかリッパー(外科医)に成っちゃったのよね」まるで何かの間違いで外科医になってしまったとでも言うような口振りだった。「ごめんなさい、紛らわしくって。でもちゃんとした外科医よ。心配しないでね」

「いや・・心配してるわけじゃ無いんだ・・」あわてて言い訳をした。

「バック。おっかさんをいじめると、後が怖いぞ…」サージが声をかけてきた。

「失礼ね。なんにもしないわよ。でも、そんな意地悪なこと言うと、痛み止めを節約しちゃうわよ」振り向くと彼女も負けずに言い返した。そんなやりとりが如何にも楽しそうだった。

「で、足の具合はいかが?」のぞき込むように相手の目を真っ直ぐ見つめるのが彼女のくせのようだった。

「しびれは無くなったけど、動かすとちょっと痛いかな・・・」
「治ってきた証拠よ。ちょっと足を出すわね」足下の毛布をめくり、ズボンの裾をまくり上げると、彼女は膝から足の裏にかけて、指で触れては感触と痛みの具合を聞いてきた。

 ひんやりとした女性の手のひらを感じていると、ふと子供の頃に死んだ母親の事を思いだした。熱を出して寝込んだときに触れる、母親のひんやりとした手のひらの感触が好きだった。

「直りが早いのね。傷口は大体ふさがったから、明日からは歩いても良いわよ。でもいきなり無理しちゃだめよ」もう一度顔をのぞき込むように話しかけた。

「ええ、分かりました・・・ところで足に刺さっていた糸のこ虫ってやつを見せて貰えないかい?」自分に刺さった糸のこ虫というものがどんな物か一度見てみたかった。

「糸のこ虫? あの針金のことかしら・・・ごめんなさい。捨てちゃった。必要だったらゴミ捨て場から探してくるけど?」たかが針金の事くらいですまなそうに謝る。

「いや・・そんなことしなくて構わないよ。ちょっと見たかっただけなんだ」

「そお?じゃ、お大事に。いきなり走ったりして、無理しちゃだめよ」そう言うと、彼女はまた次のベッドへ移動していった。


 次の日の朝、彼女の巡回を楽しみに待っていたが、明け方運び込まれた患者の手術に追われ、巡回自体が行われなかった。朝食をとると、後はもうやることがなにもなかった。

「ねえ、サージ。装備はどこにあるんだい?」退屈そうに雑誌を読んでいるサージに声をかけた。

「攻撃用の装備は保管してあっから、ここを出るときしか持ち出せねえ。通常装備は、ほら、ベッドの下においてある」

 ベッドの支柱パイプをつかみ体重を掛けながら立ち上がる。ふくらはぎに刺すような痛みが走ったが、歩けないほどではなさそうだった。慎重に腰をかがめベッドの下をのぞき込む。たしかに、雑嚢とジャケット類とプロテクタ、それとヘルメットがベッドの下に置かれていた。それをベッドの上に置き、点検を始めた。

 ブーツなどは簡単に泥は落としてあったが、内部に泥がかなり進入していた。後で丸洗いが必要そうだった。ヘルメットを取り上げ装着し、電源を入れ動作を確認する。バイザーの画像投影部の端にグリーンの表示が出た。エリア外なのか中立地域のためなのか戦略支援コンピューターとのリンク表示は出てこなかった。ゴーグルの電源を切り、今度はプロテクタの点検を始める。プロテクタの布地に縫い込まれた鉄とチタンの無段階接合プレートに位置ずれがないかを確認する。

「バック、腹の所は特に注意しろ」サージが真剣な調子で話しかけてきた。「プレートの表面を滑った跳弾が隙間から入り込むことがあるんだ。この40度を超す熱帯で腹をやられたら最後だぞ。手足はまだ取り替えが効く、だがこの熱帯の戦場で腹をやられたら、2時間以内に治療を受けなければ助からん。つまり、ほとんどおだぶつだ」

「分かりました、サージ」神妙に返事をした。年長者の言うことには耳を傾けろ、ガキの時にさんざん教え込まれた。しかし、戦場では真理でもあるだろう。

 点検の終わった装備を再びベッドの上に戻し、ベッドの周りを歩いてみた。踏み込みに力を入れるとふくらはぎに痛みが走るが、走ったりしなければ大丈夫そうだ。装備を腕に抱え病棟から出た。外は密林を切り開いた100m四方の開けた部分があった。放牧でもしていた土地なのか、のびすぎた牧草が生い茂っていた。

 木造でできた仮設病棟の周りをグルッと歩くと、すぐに水道が見つかった。ジャケットとブーツ、プロテクタを蛇口の下に投げ出し、泥を洗い流した。

 雨期にしては珍しい晴れた天気だった。適当に風もあり、洗濯物はすぐに乾きそうだった。干す場所を探してみたが、すでにシーツなどの洗濯物に占領されていた。あきらめて牧草の密集した部分に濡れたジャケット類を広げた。2時間もすれば乾くだろう。

 洗濯物の隣に寝ころぶ。青い空が眼前に広がる。こうして青い空を見上げていると、あの雨の中の行軍が夢のような気がした。日差しは少し強かったが、柔らかな風が眠りをさそった。

 4,5時間も寝ていたのだろうか、日はだいぶ西に移動していた。ジャケットは完全に乾いていた。昼飯を食べそこねた事に気づいたが、大して食欲もなかった。

 ジャケットとズボンを着替え、プロテクタを装備する。地面に座り込み、まず足のすねにプロテクタを装着する。足を曲げるのがつらかったが、なんとか装着ができた。次に太ももに装着する。立ち上がるのにだいぶ苦労した。貫頭衣状のベストを付け、最後に腕のプロテクタを付ける。全部で10kg程度だろうか。久しぶりに装着すると、重さが身にしみた。

 プロテクタの左上腕部のポケットに信号弾がセットされているのに気がついた。攻撃用兵器とはいえないが、殺傷力は十分ある。入院時の装備チェックの際に見落としたのか、それとも信号弾は攻撃用兵器の範疇に無いのかよく分からなかった。

 ほとんど長さのない銃身を2本束ねた様な形状の信号弾は、デリンジャー型と呼ばれ2発の弾を装填できた。グリップと銃身部を折り曲げ、装填された弾の種類を確認する。通常のテルミットタイプの信号弾と対電子兵器にも使えるSIF(強度遊離電界)弾が一つずつセットされたままだった。

 原隊に復帰する前に、体調を戻す必要があった。寝ている間に少し筋肉も弱ったような気がした。

 100m程の距離を往復してみた。ゆっくりと歩く分には足に痛みが走ることもなかったが、装備の重さと、ふくらはぎをかばう足首を使わない歩き方が、太ももへと負担をかけるようだった。さらに2回往復すると太ももの筋肉が痛くなってきた。陽が地平線に近づき、雲が赤く色づき始めていた。

 座り込みたかったが、座れば、また立ち上がるのに苦労しそうだった。そのままぼんやりと夕陽を眺めながら、一人きりになるといつも思い出す歌を小声で口ずさんだ。

 
Mid pleasures and palaces though we may roam,

 Be it ever so humble there's no place like home

 

「こんにちは!!足の調子は如何?」背後から急に声を掛けられた。あの若い外科医の少女だった。

「無理をしなければ痛みは無いみたいだ。ただちょっと疲れやすくなっているみたいだ」

「最初の晩はずいぶん熱が出ていたから、体が消耗しているのよ。ちゃんと食事してゆっくり休めばすぐにもとに戻るわ」

「私も、ちょっと疲れちゃった。朝から手術が10件よ」そういうと彼女は、両手を組んだまま頭上にあげ背筋を伸ばした。白いナース服に茶褐色の血の跡が目立った。「かがみ込んで手術するから腰が痛くなるの、おばあさんみたいね」そう言って笑った。並んで立ってみると意外と背が低い。どう見ても外科医というよりは新米の看護婦にしか見えなかった。

「さっきの歌。ずいぶん古い歌ね」

「知っているのかい」

「私の国にも別な歌詞がついて残っているわ」

「ドクターはどこの出身?」

「ドクターって呼ばないでよ。それからできたら、おっかさんて言うのもね。どうして、みんな私より年上なのに、私のことをおっかさんて呼ぶのかしら。失礼しちゃうわ」

 けれど、おっかさんと呼ばれることをそれほど嫌がっているようでもなかった。

「野々宮瑠璃よ。瑠璃って呼んで。それと出身は日本。日本の真ん中辺の田舎の山奥よ」

「日本人で金髪碧眼はめずらしいね」

「・・・ええ・・・わたし養子だから・・・」

 表情が一瞬硬くなる。触れられたくない質問をしてしまったようだ。

 あわてて自分の自己紹介をした。「俺は、李善洪(イ・ソンホン)。でも呼びにくいだろうから、”バック”でいいよ。出身は朝鮮半島の東側。小さな漁村だよ」

「そこがあなたの”ホーム”なの?」

「いや、もうそこには帰る家はないんだ。家族はもうだれもいないんだ」

「そう。わたしとおんなじね・・・でもわたしはまだ帰る家は残っているわ。もうずいぶん古い家。” ever so humble home(わび住まい)”って言う程じゃないけど」

 その時、かすかな爆音が聞こえた。周囲の空を見回すと、西の空の低い位置にポツンと幾つかの機影が見えた。

 ヘルメットを被り、バイザーの電源を入れた。バイザー越しに機影と重なる様に7つのマークが表示された。国連航空軍の識別表示が出る。機影が近づくにつれ、徐々に細かいスペックが表示された。5機は中型の攻撃兼用爆撃機、2機は護衛の戦闘機だった。この野戦病院をかすめるようなコースを取るようだった。

 爆撃機の腹から小さめのパラシュートが一定の間隔で降下するのが見えた。ゴーグルに”AAW12”と表示が出る。通称PAN(鍋底)と呼ばれる自立対人攻撃兵器だった。編隊の左翼が境界エリアのぎりぎりを通り過ぎて行った。パラシュートのひとつがほとんど目の前の林に落ちた。

「大丈夫かしら?」彼女が不安そうに尋ねた。

「心配ないよ。中立マーカーの範囲では動作しない筈だから」

「中立マーカーって、あの電波をだす器械かしら・・・あれ先日から壊れているの」

 その言葉に、ぎょっとして林を振り向いた。その瞬間、がさがさと草を分ける音と共にPANが出てきた。ひっくり返した深鍋に蟹の足でも取り付けたような不格好な姿をしていた。

 敵味方を表示する無線識別標識は雑嚢の中だった。守備兵を呼ぶために、ゲートの距離とPANの位置関係を目測する。だがとても間に合いそうもなかった。

 武器になりそうな物は信号弾しかない。SIF弾がPANに対して有効かどうかは知らなかった。それに銃身が短いから、かなり接近しないと命中しそうになかった。

「守備兵を呼んできてくれ。走らずにゆっくりとだ!」振り向かずに声を掛け、PANの挙動に注意しながらゆっくりと間合いを詰めていった。

 PANは移動物にターゲットを合わせようとする。そしてターゲットが敵であると判定すれば攻撃する。

 ゆっくりと左上腕部から信号弾を抜く。銃器らしくない形状だからPANの目を誤魔化せるかもしれなかった。

 さらに間合いを詰めながら、音がしないように撃鉄を起こす。7m位まで近づいた。これが限界かもしれない。腕を伸ばし、照準を合わせる。PANの電子アイがこちらに注目を始めた。

 引き金を引いた。強い反動と共にSIF弾の赤い光軸が走り、金属同士がぶつかる衝撃音がした。だが弾はPANの装甲を貫通せず手前に転げ落ちた。PANが攻撃態勢に入った。

 もう一度撃鉄を起こす。今度はテルミット弾しかない。PANから榴弾が射出されるのと、引き金を引いたのが同時だった。

 テルミット弾が命中し、ものすごい閃光が発生した。ゴーグルが瞬間的に反応して薄暗くなった。

 PANから射出された榴弾は左後方にそれて落下した。着弾点を確認しようと振り返ったその時、彼女が先ほどの場所に立ちすくんでいるのに気がついた。

 自分と彼女のちょうど正三角形を形作る位置に榴弾はころがっていた。位置的に榴弾を拾い、投げ返す余裕は無さそうだった。

「伏せろ!!地面にふせろ!!」大声で叫びながら駆け出した。

 彼女が地面にうつぶせになるのを目の端でとらえながら、彼女と着弾点との軸線上に走り込んだ。榴弾の種類は不明だが、プロテクタの性能を信じて楯になるしか手段がなかった。

 膝をつき、プロテクタがなるべく前面に向くように体を開いた。その瞬間、榴弾が炸裂した。バイザーとプロテクターにバシャっと細かい物が叩き付けられる様な感触がした。

 地面に細かいワイヤー状のものが散乱していた。これが糸のこ虫と呼ばれる物の様だった。プロテクタにも何本かが突き刺さっていた。

 PANの方を振り向いた。テルミットの閃光でセンサーが焼け切れたのか、動作は停止している様だった。

「大丈夫!?」彼女が起きあがり、声をかけた。

「大丈夫みたいだ。停まっている」もう一度PANの動きを確認し、返事をした。

「そうじゃなくて、刺さらなかった?」

「今度は、大丈夫だったようだ」あの焼ける様な痛みは無かった。プロテクタでうまく防げたようだった。

「そう、良かったわ・・・じゃ、ちょっと手伝ってくれないかしら」

 糸のこ虫の刺さったプロテクタを外しながら、彼女のそばに歩み寄った。

「あのワイヤーが刺さっちゃった」彼女は左の腕を見せながら、こともなげにそう言った。

「痛くないのか!?」

「痛いわよ」全然痛そうな口振りでなかった。「長橈側手根伸筋ね」

「え?」意味の分からない単語に思わず聞き返した。

「ワイヤーの刺さった筋肉の名前よ。お願い、わたしの手のひらを押さえてくれる」

「それより医者を呼びに行くよ」

「医者なら目の前に居るでしょ」にっこりと笑って言う。「手のひらが閉じないように、両手で押さえていてくれる。筋肉が動くと処置しにくいから」

 両方の手のひらで、彼女の手のひらを強く挟み込んだ。口振りでは痛くなさそうだが、手のひらはじっとりと汗をかいていた。彼女は腰のポーチからスプレーを取り出し、ワイヤーの刺さった腕の周辺に吹き付けた。消毒薬のにおいがした。ポーチから今度はメスを取り出すと、ほとんどためらいもせずに自分の腕に突き立てた。

 思わずあげそうになった声を飲み込んだ。「・・・痛くないのかい・・・」

 少女の白い腕に血の色が染み出る。血が苦手なわけではなかったが、その色のコントラストを見たとき、急に動悸が強くなった。

 「痛いわ・・・でも、これはあなたが感じる痛さと同じかしら」

 「・・・?」

 「私の血は赤いでしょ。でも、私が見ている赤い色とあなたが見ている赤い色は同じなのかしら」

 彼女はメスをポーチに戻し、次に先端が曲がったハサミのような器具を取り出した。切開部に差し入れようとして、動作が止まった。

「片手じゃ、ちょっと無理ね・・・ちょっと腕を押さえていてもらえる」

 指示されながら、両手で彼女の腕つかみ、切開部が開くよう皮膚を引っ張る方向に力を加えた。つかんでみると細く華奢な腕だった。力の加減がよく分からなかったが、特に痛がる様でもなかった。彼女の額に汗がにじみ始めていた。シート状の布で血を拭い、ピンセットでワイヤーを摘むと横にずらすように力を加えた。二度三度とピンセットを動かすとワイヤーはあっさりと抜けた。

「ふう!!」彼女は大きなため息をついた。「やっぱり自分で自分の治療は難しいわ・・・ありがとう」

 彼女は切開部をもう一度消毒すると、シート状の粘着材を傷口に張り付け、包帯を巻いた。

「これ、あげる」彼女は血を拭った布でくるんだワイヤーを差し出した。「昨日、欲しいって言っていたでしょ」

「あ、ああ・・・」曖昧な返事をしながらそれを受け取った。彼女の腕に刺さっていた先端部をみると、確かにトゲが2mm程度の幅で開いていた。これでは普通に抜こうとしても抜けそうも無かった。

「足は大丈夫?」彼女がそう尋ねた。

「えっ?」一瞬何を尋ねられたか分からなかった。

「さっき、思い切り走ったでしょ。足は大丈夫なの?」

 ふくらはぎに手を当ててみた。生地を通して手に血が付着した。痛みが今頃になってやってきた。「傷口が開いたみたいだ」

「テーピングだから無理すると傷口が開くのよ。だから走っちゃダメって言ったでしょ」真剣な顔をして彼女は言った。

 走らなければ彼女はハリネズミになっていたはずだ。そんな不合理な意見があるか、と思った。言い返そうかと思ったが、ふとこれは母親の論理だなと気が付いた。みんなが”おっかさん”と呼ぶ意味が何となく理解できた。

「あのね、ちょっとヘルメットを外して」

 ヘルメットを被ったままなのに今更気が付いた。あごひもをゆるめ、ヘルメットを脱いだ。

「それと、ちょっとしゃがんで・・・それから、しばらく目を閉じていて・・・」

 黙って指示に従い、両膝を地面に付け、そして目を閉じた。何しろ母親に逆らっても、ろくな事はない。彼女が近づく気配がした。

「ありがとう。騎士(ナイト)さん。とても、助かりました」

 額に唇がふれる感触がした。ふんわりとした髪が頬にふれた。

 目を開けると、子供のような笑顔が目の前にあった。

「後で、傷口の治療に行くから、おとなしくベッドで寝ていてね」

 そう言うと彼女は、なんだか楽しそうに病棟に戻っていった。陽はもう暮れかけていた。

 


 熱でもあって動けないならともかく、足が痛むというだけでベッドの上に寝ているのは退屈きまわりなかった。

 やがて午前と午後に行われる巡回で、くるくるとコマネズミのように動き回る彼女の姿を見るのが唯一の楽しみなった。かなりの重労働だろうに、いやな顔や疲れた顔を見せたことが無かった。けれどその彼女の姿にやがて奇妙な不自然さを感じるようになった。

――何故だろう。

 趣味で着ているという古い看護婦の制服、常に笑顔を絶やさない態度、ためらいもなく腕をメスで切開した行動力、そして二十歳そこそこで野戦病院に勤務する。ある意味完璧な、人としての態度は医者の責任感というものだけで推し量れるものではなかった。

 彼女の行動の裏側にあるものは一種の怯えではないだろうか。とっぴではあるけれど、そう考えると何故か彼女の行動に説明が付くような気がした。では何に怯えているのか?それがよく分からなかった。

 笑顔で働く彼女の背後にある怯え。彼女がその怯えによって突き動かされている.。そう考えると、妙な物悲しさを感じた。

 部隊への帰還命令はなかなか来なかった。午後になるとプロテクタを装備しての散歩がすでに日課になりかけていた。中立エリアの狭い場所を歩き回るのも、とうに飽きてはいたが他にやることも見つからなかった。夕闇が迫り、病棟に帰ろうと草むらに置きっぱなしのヘルメットを取りに戻った。

 生い茂った草むらに隠れるように彼女が座り込んでいるのに気が付いた。

「おっかさん。こんにちは」そう呼ぶと怒るかなと思った。

「こんにちは・・・」元気がなさそうな声が返ってきた。

「どうかしたのかい?」

「・・・二人死んじゃった・・・助けられなかったの・・・」

 表情がよく見えなかった。泣いているのかもしれなかった。

「仕方が無いよ。戦争だからね」うまい慰めの言葉が見つからないのがもどかしかった。

「そうね・・・仕方が無いわよね・・・でもね・・・」その先の言葉が途切れた。「・・・自分が全然役立たずに思えちゃうの・・・」

「そんなことは無いだろう?」

「この間、あなたに助けて貰った時も・・・あのロボットが出てきたとき、わたし、怖くて動けなかったのよ・・・いざというときに限って役に立たないの・・・あのときはありがとう・・・わたし、とてもうれしかった・・・」無理に作った様な笑顔で微笑んだ。

「おっかさんは、人を助けに此処に来たのだろ。俺は人を殺しに来たんだよ。大違いさ」

「もう、人を撃ったことがあるの?」

「分からないな。ゴーグルの輝点めがけて引き金は引いたよ。その先に人が居て、死んだかどうかはよく分からない」なるべく感情が表に出ないように答えた。

「人を目の前にしても撃てる?」彼女はすこし表情をこわばらせて尋ねた。

「教官は『理性なんか捨てろ、敵を人間と思うな、目の前に有るのは射的のマトだ。ゴーグルが敵と表示したら迷わず引き金を引け、生きて帰りたかったら』・・・そう言っていたよ・・・俺は生きて帰りたいよ。帰る家は無いけどね」

「ごめんなさい・・・ひどいこと聞いて」

「かまわないさ。人を撃つのは怖いよ。敵に撃たれるのも怖い。でも撃ち合うときに見えるのはゴーグルの赤い輝点でしかない。たいした恐怖感はないよ。それより怖いのは行軍だ。古典的な落とし穴から始まって、指向性地雷、近接作動地雷、7,8人のチームの真ん中辺で作動する遅延信管地雷、2m位の高さまで飛び上がってから爆発するポップアップ型なんてのもあったな。散弾も単なる鉄から陶片まで、劣化ウラン製なんてのもあった。劣化ウランのやつは硬度と重量があるからゴーグルを貫通するんだ。この前の作戦のときも行軍の最中に二人死んだ。一人目はポップアップだ。俺の背後でポンって鈍い音がした、振り返るとちょうど俺の後ろから二番目のあたりに炸裂弾が飛び上がるのが見えた。そいつは脊髄に散弾を食らって即死した。プロテクターは前面には強いけど背中はあまり防弾性がないからね。二人目は指向性地雷だ。そいつはワイヤーを腕に引っ掛けて、顔面に劣化ウラン散弾を食らった。俺の目の前でそいつは横になぎ払われたように倒れていった。バイザーが血と脳漿でべっとり汚れて顔が見えなくなっていた。気管が破れてひゅーという声を出しながら俺の腕の中で死んでいった。俺がいま生きているのは生き抜く能力があったからじゃない、ただ運が良かっただけだ。運だけでジャングルの中を歩くんだ。あのやぶに地雷はあるかもしれない。あの如何にも体を引き上げるときに掴みやすそうな太い枝あたりにワイヤーが仕掛けてあるかもしれない。あそこの剥き出しの土が見える地面かもしれない。この足の一歩先かもしれない。そうやってジャングルの中を歩くんだ。でも本当に怖いのは闇かもしれない。昼でも暗いこのジャングルは日が沈めば真っ暗闇だ。ゴーグルの暗視装置を使えれば、まだ何とか見えるが電子兵装の電磁波を検出するタイプの地雷もある。だから暗視装置も切って、前を歩く奴の背中に見える蛍みたいな標識だけを頼りに歩く。それを見つめながら闇の中を歩いていると、たまに木立にまぎれて標識が見えなくなるときがある。そんなときに体中が恐怖で凍り付きそうになる。このまま闇が続くんじゃないか。俺は一人で闇の中に取り残されてしまうんじゃないかってね。闇が幻想を生むんだ。その幻想が恐怖を運んでくる。頭の奥底が痺れるような強烈な恐怖だ。このまま闇の中に沈みこんでいって出てこれなくなるんじゃないか。人知れず朽ちて消えていくんじゃないか。そういう恐怖感だ・・・」こみ上げてくる何かに突き動かされるように一気に喋った。

「ごめんね、勝手なこと喋って。おっかさんはどうして外科医になったんだい?」

「どうしてかしら・・・寂しかったからかもしれない。7歳の時におじいさんが死んで、5年間外国で暮らしていたの、12の時に今の家に戻って、家政婦のおばあさんと暮らし始めたわ。そのおばあさんも14の時に亡くなって・・・それから一人で暮らしていたの。お金には困らなかったけど、ひとりぼっちで暮らしていると自分が誰にも必要とされていないようで怖かったの。だからきっと、誰かの役に立ちたくて医者になったのね」

「偉いんだね」そう言うと、彼女は違うと言う様に首を振った。「俺は、ガキの頃に両親も爺さんも戦争で死んじまった。なんでこんなに戦争ばかりが続くのか分からなかった。だから歴史を勉強したくて大学に行った。だけど何故戦争が続くのかが分かっても、どうすれば戦争が無くなるかはまるで分からなかった。そのうちに学費が続かなくなって徴兵された。・・・いつのまにか自分が戦争をさせられる羽目になっちまった」

「大学に戻りたい?」

「こんな馬鹿げた戦争はもううんざりだ・・・でも大学に戻って歴史を勉強しても仕方がないことも分かった・・・」

 お互い黙り込んでしまった。陽はもう完全に沈み、東の空に十三夜くらいの月が昇り始めていた。

 
埴生の宿も、我が宿・・・玉の装い、羨やまじ

 

 彼女が歌い出した。透き通るようなきれいな声だった。聞き覚えのある曲に、聞いたことのない歌詞が付いていた。

「それが君の国の歌詞?」

「そうよ、言葉が古いから意味がよく分からないけど。たぶん同じ様な意味だと思うわ」月の光にぼんやりと横顔が浮かんだ。彼女は急に何か楽しいことを思いついたような調子で話しかけてきた。「ねえ、もしあなたに帰る家が無いのなら、私の家に帰らない?」

 一瞬彼女の言葉をどう取って良いのか迷った。「それは、一緒に暮らそうって意味かい?」

 自分の言葉の意味に気がついたのか慌てたように頭を下げた。「ご免なさい。いきなりこんなこと言って。私っていつもこうなの・・・迷惑よね」そして叱られた子供のように顔を伏せた。「でも・・・もし、良かったら」

 彼女の言葉にその言葉以上の意味は無いのかも知れない。小さな子供がひとりぼっちが寂しくて側にいて欲しいというのと同じなのかも知れない。「良いよ。一緒に暮らそう」

「本当。約束してくれる? 必ず帰ってくるって。そうしたら私その家であなたが帰ってくるのを待っているから・・・」彼女の表情がパッと明るくなった。

「良いよ。除隊は1年後になるけど。待っていてくれるなら、必ず帰るよ」

「そうだ、でも、わたし秘密があるんだけど・・・ちょっと普通じゃないのよ。かまわない?」

「秘密って、何?」

「・・・言わなければいけないかしら?」ちょっと言いにくそうに口ごもった。

「血をすすったり、満月になると変身したりしなければ、俺はかまわないけど」彼女をリラックスさせようと軽い冗談口をたたいた。

「そこまで、ひどくないと思うけど・・・」冗談に笑うかと思ったが、また表情が暗くなった。よっぽど大きな秘密を抱えているのかもしれない。

 ここまでくればもう迷うわけにもいかない。そもそも迷うほどの選択肢が自分に有るわけでもなかった。「それじゃ帰ったら、その秘密を教えてくれるかい・・・」もう言葉は要らない。彼女の髪をそっとかき上げ、キスをしようとした。

「ちょっと待って・・・」急に彼女は立ち上がり、服を脱ぎ始めた。そして下着だけになると、脱いだ服をシーツのように地面に敷いた。

 びっくりして、彼女の顔をまじまじと見つめた。その視線に気がついたのか恥ずかしそうに手で下着を隠した。

「ごめんなさい・・・いや?」

「いや、そうじゃなくて・・・それに服が泥だらけになるよ」

「かまわないの。血だらけの服を着ていたくないし。もう洗っても血が落ちないから、また縫うわ」

 問題は服が汚れることではなかったが、だからといってこんな場面で彼女の振る舞いの不自然さを指摘するのもためらわれた。

「自分で縫ったのかい。すごいね」照れ隠しのように、そんな言葉を掛けるしかなかった。

「赤十字の資料館でこの古いナース服を見かけたの。すごく気に入って型紙をコピーさせて貰って、自分で縫ったの」

 彼女は、自分の服の上に恥ずかしそうに身をちじこませて座った。

「あのね・・・」

「なに?」

「・・・初めてなの・・・優しくしてね・・・」

「大丈夫だよ。腕にメスを突き刺すよりは痛くないと思うから」

「バカ!・・・」

 月の光に浮かぶ小さな裸身がなぜか悲しそうだった。

 うなじに唇を寄せると彼女が呪文のように呟いた。

「私の血は確かに赤いのに、私はそれを実感できないの。私の見ている風景は、あなたの見ている風景と同じかしら? 私の感じる悲しみは、あなたの感じる悲しみと同じかしら? どうすればそれを確かめられるのかしら? それを考えると、私は遠いところに独り取り残された子供のように寂しくなるの・・・」

 意味がよく分からなかった。なんと答えてあげれば彼女が安心するのか分からなかった。

「お願い・・・」

「なに?」

「必ず帰ってきてね・・・お願いだから」すがるような小さくつぶやいた。

 彼女が抱える”怯え”の実態は相変わらずよく分からなかった。けれど、そうすることで彼女が少しでも安心できるのならば、黙って受け入れてあげたたい、そう考えた。

「約束するよ・・・必ず帰ってくるよ」

 月の位置がだいぶ高くなった。どこかで虫がジィジィと鳴いていた。


「左翼に散開しろ!!」

 閃光弾がひっきりなしに打ち上げられる。閃光と闇のコントラストがきつすぎて、ゴーグルの暗視装置はほとんど機能しなかった。

 閃光弾を打ち上げている箇所に闇雲に弾を撃ち込む。曳光弾が闇を縦横に切り裂いている。

「榴弾をもってこい!!」「左翼が薄い!」「弾幕をもっと張れ!!」闇の中を怒声が飛ぶ。ゴーグルの戦略支援表示はもはや役に立たない程の混乱状態に陥っていた。

「榴弾をよこせ!!」右手で声があがった。

 手探りで榴弾の詰まったパイプをつかみ、立ち上がった。その瞬間、腹部に衝撃を感じた。走りだそうとして、鈍い痛みを感じる。そして自分が撃たれたことを理解した。パイプを放り投げ、腹部を自分の手で押さえた、熱い血の感触を手のひらに感じた。

『この40度を超す熱帯で腹をやられたら最後だぞ』サージの言葉を思い出した。

 ヘルメットの緊急信号スイッチを入れる。だがこの混乱状態で信号を受け取れる人間がいるかどうか分からなかった。

 急速に血の気が引いていくのが分かった。吐き気がこみ上げてくる。仰向けに地面に体を横たえ、ゴーグルをむしり取る。閃光弾の光がかすんでみえる。銃声がだんだんと遠くなる。

「おっかさん。ごめん・・・約束を・・守れそうもない・・・」

 深い闇だけが目の前に広がる。


「いや、ドクターに辞められてしまうのは残念ですな。この殺伐とした野戦病院も、あなたの様な可憐なドクターがいてくれたからこそ、多少の潤いがあったというのに・・・」だが口振りはそれほど残念そうではない。この守備隊の隊長は、赤十字の守備隊を任せられていることにだいぶ不満を持っていた。しかも、彼女とは設備の管理面で何度も衝突していた。

「・・・しかし、ご出産では仕方がありませんな。いや、おめでとうございます」腹の中では彼女が居なくなれば清々するとでも思っているのだろう。

「ありがとうございます。後任の医師との引継も終わりましたので、このまますぐに帰還いたします」彼女はなるべく丁寧に頭をさげた。これでこの隊長の顔を見なくて澄む。

「そうだ、忘れていた・・・今朝届いた物ですが・・・」隊長は机の中からドッグ・タグ《IDプレート》を取り出すと彼女に手渡した。戦場で死傷した場合の身元確認を行う為の首からぶら下げるプレートだった。

「ドクターのアドレスと名前が刻まれておりましたので、こちらに転送されたそうです・・・お身内ですか?」

 IDプレートの表面に”李善洪”と漢字でネームが刻印されている。裏返すと金属で引っ掻いた様な金釘風のアルファベットで彼女の故郷の家のアドレスと名前が刻まれていた。

「この子の父親です・・・」彼女は手のひらをお腹にあてた。

「それは・・・残念なことです・・・」

 彼女はプレートの表面の刻印を親指の腹でなぞった。チェーンにワイヤー状の物が編み込まれていた。糸のこ虫のワイヤーの様だった。トゲはすっかり何かでそぎ落とされていたが、たぶん彼女が渡したワイヤーだろう。

 何故彼に抱かれたのだろう?自分を受け入れてくれそうな人ならば誰でもよかったのだろうか?常に強迫観念の様に抱えていた、自分と他人との感覚の違いを意識せずに済むようになれば良かっただけなのか?

 良く分からなかった。

 遠い昔、夢のようにかすかな記憶となってしまった昔。さびしそうな目をして、自分を置いて死んでしまった祖父の事を思い出した。そして何故自分が彼に惹かれたのか理解した。けれど、プレートを見つめる彼女にわき上がった感情は、何故か訳の分からない理不尽な怒りだった。

「・・・うそつき・・・」彼女はぽつりと小さくつぶやいた。

「えっ!」

「何でもありません。このプレートは頂きます。それでは失礼します」返事を聞かずにきびすを返し、部屋を出ていった。

 迎えの輸送ヘリはすでに離陸準備を始めていた。トランクを持ち、ローターの強い風に巻きあがりそうになるスカートを抑えながらヘリに近づいていった。一人の兵士が、彼女のそばに近づくとエンジン音に負けないように大きな声で呼びかけた。「もうじき出発します。ドクターはまだでしょうか?」

 彼女も大きな声を張り上げた。「ドクターは、わたしよ!!」

 怒ったような声に兵士が一瞬緊張の顔を走らせた。「失礼しました、ドクター。お荷物をどうぞ」兵士が敬礼した。

「ありがとう」

 シートに腰を降ろし、ベルトを付けるとすぐにヘリは上昇を開始した。LAM(地対空ミサイル)を警戒してか、ヘリはずいぶん長い間垂直上昇を行った。

 窓の外に遠くセラム海が見えた。昼なお暗い密林もこの高さから見れば単なる濃い緑色のカーペットにしか見えない。

 

♪A charm from the skies seems to hallow us there,
 (天の守護が我々を清めてくれる場所)
 Which, seek through the world, is ne'er met with elsewhere
 (世界中を探し回ったけど、そんな場所はどこにも無かった)

 

 小声で口ずさむ。どうせ爆音で聞こえないだろう。

 再び眼下の密林を見下ろす。やはり単なるなだらかな緑色のカーペットにしか見えない。

 彼女はそっと目を閉じ、その緑色の向こう側の彼が抜け出す事の出来なかった闇を想った。そして、その闇の深さを想ったとき、熱い涙が頬に伝わるのを感じた。

 

♪Be it ever so humble there's no place like home
 (どんなに貧しくても、我が家が最高さ)

 

 

 

 

 

 

 




注釈

















home sweet home:作詞 John Howard Payne

 

埴生の宿:作詞 里美 義