中華人民共和国四川省の旅
SICHUAN
成都・峨眉山・楽山・大足・広州
(2001.1.6〜11)

商朝以前四川は蜀と称されていた。これは中国最古の甲骨文字で証明されている
象形文字で蜀は一匹の蚕を表現したものである。その後、巴の字が使われ四川は
巴蜀と言われる。戦国時代以降、沃野千里、水旱従人、不知飢饉と語られ四川は
天府の国と称される豊かな国である。
2月号の最初へ/3月号の最初へ
JAS513便は下降しながら右旋回し関西空港へ着陸した。
関空は曇りであった。今回の旅のメンバーは12人と添乗員のTさんに聞いていたが、
1名のキャンセルが出て11名となった。
添乗員のTさんとは2回目である。
JD235便は福岡−上海−広州の空路を飛行する。
大陸上空は真っ白な雲がかかり太陽光が反射して眩しい。
「我又来了中国!」
午後2時過ぎに広州白雲空港へ到着した。
広州はとても暖かく冬仕度の私は汗ばんでしまった。
大気が汚れているのか太陽が霞んで見える。
SZ4302便に乗り換えて目的地の成都へ向かう。
貴州省を横切る雲又雲の空路を飛んだ。今時貴州は長雨の季節である。
成都に近づくにつれ雲の間から山並みが見え陸地が見えてきた。
成都(CHENGDO)
錦江春色来天地と杜甫が詠った成都は四川省の省都である。
名前の由来は、ここに遷都した蜀の王が1年で町にして3年で都を成すと
言ったことと伝えられ、蓉とも錦城あるいは芙蓉城との優雅な名を持っている。
人口約1,100万人、都市部人口200万人と聞く。
食事は山椒を効かせた辛いものが多い。
これはこの土地が盆地であるため大変湿度が高く身体の中の湿気を追い出すため
であるとガイドの周さんが話してくれた。
また、このことから四川人はデブがいないそうで痩せるための商品はここでは売
れないそうである。
四川人はのんびり屋さんが多いそうだ。食べる金が無くなると半年働き、貯えが
できると半年休むいう慣習が今でも残るほど欲が無いということらしい。
人はお茶を好み街には茶館が点在する。
ここで有名なのは麻婆豆腐と小吃である。麻婆豆腐は麻婆豆腐店で食べた。日本の
それとは違い格段辛さや山椒の利き方が強く食欲をそそられるまでにはいかなかった。
また、小吃は成都では有名な順興老茶館で食べた。この茶館は食事をしながら話すの
にはもってこいの落ち着いた雰囲気で気に入った。変面などの見世物を見せる舞台
もある。小さな椀に盛られた食べ物が順番にテーブルに出てくる料理であり、みんな
でわいわい話しながら幾つもの食べ物を楽しむ嗜好である。
小さな椀で食べることから小吃と称されたようである。湯豆腐、水餃子、湯麺、饅頭、
団子のお菓子など覚えきれないほどいろいろ楽しめてよろしい。
三星堆博物館
成都観光は成都から北方50公里にある広漢市にある三星堆博物館から始まった。
鴨子河という川が田園の中をゆるやかに流れていた。別名アヒル川と言うが本当に
アヒルが放たれていて人が名前をつけたずっと昔へ引き込まれたような気がした。
古代この川を背に東西南三方を城壁で巡らした都市があったようだ。幾つもの
黄土堆があり三星堆(月にまつわる星)という遺跡から祭祀跡が発見され二つの
祭祀抗から祭具と思われる面具、人頭像、神樹、尊、玉章などが発見された。
この発見により中国文明発祥は黄河流域単独との考えから長江上流同時併存説へと
大きく書き替えられた。
展示を見て(1)武器の発掘がなく争いのない文化でなかったかという
こと。(2)青銅器の鋳造技術は素晴らしいけれど土器は著しく粗末である。
(3)尊はあるが祭祀で一般的に使われる鼎がない。(4)夥しい人面具は何に
使われたのであろうか?(5)人頭像から想像する漢民族とは明らかに異にする
民族の正体は?(6)何かこれらの祭具が抗に打ち捨てられたのは何故か?
などなどたくさん興味が湧いて爽快な気分になった。
成都動物園
中国の動物園は動物園と遊園地が合体している。ちょうど日曜日で家族連れで
賑っていた。我々は四川と言えばパンダと孫悟空のモデルとなったと言われる
金糸侯(実際は獣偏)即ちゴールデンモンキーを見るのが目的である。
ゴールデンモンキーの表情やしぐさは賢そうであった。
動物園へ続く道は両側にお土産を売る出店が軒を連ねている。メンバーの
一人が焼き芋屋から芋を買った。私もおすそ分けを貰って食べた。中身は黄色
でかぼちゃに似ていたがかぼちゃほど甘くなくまたホクホクしていなかった。
成都の街は盆地で風があまり吹かないせいであるのか埃っぽく建物も街路樹も
白くくすんでいる。もう少し清潔感の溢れる街並みであれば素晴らしいなぁと
かってに思ったりした。今の時季太陽が出るのが希で、太陽が出ると犬が吠え
るとも語られている。
芙蓉は9月〜10月にかけて白からピンクに変わる花をつけるそうだ遠くから
見ると牡丹の花のようにも見えることから芙蓉美人とは遠くで見ると奇麗とひ
ねっている。麻婆美人とは麻婆はアバタを意味することからアバタもえくぼと
いうことになる。
武候祠
事の起こりは西晋の末年に十六国の李雄が諸葛亮を記念して建てられた。
その後明の時代に劉備廟と合体されたようだ。正式な名称は劉備玄徳を祀る
漢昭烈廟であるが、諸葛亮が人気が高いため武候祠と言われている。
門を入ると右手に三絶による唐碑があり左手には明碑がある。劉備殿には
劉備を中心に右に関羽、
左に張飛が祭られ左右の回廊には趙雲、馬超、
黄忠など三国志を読んで記憶の残る文官と武官の塑像が並んでいた。
このようなツワモノをまとめることは伝説の三顧の礼や忠義など儒教の教えが
後押ししたとは言え劉備や諸葛亮にとって至難な技であったと思われる。
名高い前出師表と後出師表が壁に掲げられている。諸葛亮を祀は一番奥まった
ところにあるが劉備殿より一段下がったところに建てられていた。民から人気の
高い諸葛亮であるが臣下の礼をあらわしたものになっている。
杜甫草堂
詩仙と呼ばれるのは李白、詩聖と呼ばれるのは杜甫というのが中国の評価である
ようだ。ここは今では詩聖と称される杜甫を祀るものである。ここは唐代759年
に流れてきて約3年間暮らし240もの詩を残した.。門を入り竹林の道を歩く。
後ほど触れるが竹は四川の象徴でもある。杜甫像は杜甫が線の細い人であった
ことを表現していた。叙情的な李白に対し論理を重んじた杜甫であることを象徴
しているようにも思えた。庵があり腰を下ろして詩境の気風を味わった。
成都市からバスで南へ下る。今日も四川盆地は空一面雲の蓋をかぶせられていた。
車は田園の中を走る。小麦や野菜畑のなかに塀に囲まれた2階建ての農家が点在する。
そのほとんど竹林を持っている。人のの気持ちを和らげるためなのか、風を和らげる
ためなのか、何かしらの材として利用するためのものなのか定かではない。竹が多い
ということは水が豊かである象徴として考えられるのかとにかくここは竹を抜きでは
景観がととなわない。真冬というのに畑では野菜が育ちこの土地の豊かさを感じさせる。
真に天府の国である。
峨眉山(EMEISHAN)
標高3,099メートルの峨眉山は成都南西約140公里にある。名前の興りは山頂を
眺めると眉の形のように見えるからであるらしい。
この四川の名峰峨眉山は中国四大仏教名山の一つである。西方の守り神である普賢菩薩
を祀る山である。
報国寺
バスターミナルで小型バスに乗り換えて峨眉山見物に出発した。山の麓にある報国寺を
明の時代に建てられた寺であり山を背にして青松翠柏の中に荘厳な伽藍が建てられている。
弥勒菩薩や韋駄天、お釈迦さまを祀る大雄宝殿、過去七仏などなど。山門の鶴駐雲帰、
普放光明と左右に、真中の報国寺の金文字が印象に残った。
写真は添乗員のTTさんである。
金頂
3077メートルの金頂へは公路を約2500メートルまで登り、ロープウェイに乗り
換えて行く。曲がりくねった公路を登って行くと標高が高くなるに従い次第に気温が
下がり樹木は白く霧氷に覆われ道は凍った雪道になった。2〜3人の男が道を遮り車を
停めチェーンを巻いた。チェーンを巻く商売があるのもこの国らしいと思われた。
ロープウェイからは霧が立ち込めていて外の景色は見えない。3048メートルの
山頂駅から金頂まで10分ぐらい小雪が舞う道を登るとほどなく頂上の金頂寺へたどり着く。
空気が薄く頭がふらふらしてしまう。山頂からの眺望もなく残念であったが1年のうち
300日は曇りか雨か雪ということであるからやむをえないとあきらめるしかなかった。
天候によって見られる仏光という光の輪の現象も然りである。ロープウェイ駅から階段を
下ったところにある金頂大酒店で昼食を取ったが空気が薄いためか楽しめなかった。
写真は現地ガイドのZさんである。
万年寺
金頂から約2000メートル下ったところから再びロープウェイで登ったところに東晋時代に
創建された古刹万年寺がある。普賢寺とも言う。観音殿、普賢殿など建物は明の時代に建立された。
境内は広く気持ちがよい。モスクのようなアーチと白壁が目立つ普賢殿は別世界を思わせる。
その中にある白い像に乗った銅製の普賢菩薩像(普賢銅像)は立派であった。蛙が琴を弾くとの
物語があると聞いたがどういうことか確かめるまでは想いがめぐらなかった。
楽山(LESHAN)
峨眉山から東に約30公里にある楽山市は人口約300万人(市内30万人)の都市である。
峨眉山もこの楽山市に含まれている。楽山市街地は岷江、大渡河、青衣江の3つの河が合流
する交通の要衝にある。閉店間際の商店街は明るくにぎわっていた。宿泊したホテルは大渡
河沿いの嘉州賓館である。夜、大渡河沿いの歩道を散歩して大河の黒々とした流れを眺めた。
楽山巨大睡佛
桟橋から眺めると一番右が烏龍山、真ん中に凌雲山と続く。ここからは大仏の姿は見えないが、
烏龍山が頭、凌雲山が身体と自然の巧妙な結合が巨大な睡佛に見えるのも雄大である。
大仏を真正面で見るためには河に出るしか手はない。渇水期で岷江の流れも狭まり観光船の
運行がやや困難であったようだ。
楽山大仏
観光船は岷江と大渡河が合流する急流を下り大仏を通り過ぎてからUターンしてから
大仏の前で停船した。岸壁に鎮座した大仏の大河を見下ろす顔の表情は全くおおらかでである。
水難事故が絶えなかったことから凌雲寺の海通和上が水運の安全を願って発願したのか
造営のきっかけであり、着工が開元初年(713年)、竣工貞元19年(803年)と90年もの
歳月をかけて造営された。仏像高71米、頭長14.7米、頭広10米、肩広24米、耳長7米、耳内
可併立二人、脚背広8.5米、可坐百余人とガイドブックに説明がある。水はけのための
溝を掘るなど工夫を施して1200年もの風霜に耐えている。
楽山市は日本の市川市と姉妹都市である。街路樹は根が垂れ下がるガジュマロの一種であり
現地では髭の木と呼ばれている。岷江に架けられた楽山大橋を渡りこの髭の木の道を
大仏の頭上にある大仏寺へ向かう。凌雲山の頂に13層の霊宝塔がそびえ、寺内には
天王殿と蔵経楼や大雄宝殿が建て並ぶ。浮玉亭から見下ろすと楽山大仏が真下に見え
二河の雄大な合流点が開け対岸の楽山市街地が望めすばらしい眺望である。
成都からここまで案内してくれた地元案内員のZさんとはここでお別れした。
自貢(GIGONG)
楽山から自貢までは約130公里ほどのある。田園風景を楽しみながらバスの旅となる。
途中で検閲のため車が停められた。正月が近く帰郷する人が多く治安が悪くなるということ行うらしい。
検閲所にはこれをあてにして地元のサボン売りが出ている。四川省は種子島と同じぐらいの緯度であり
ザボンが取れても不思議ではない。農家にはバナナの木も見えるくらい温暖なのである。
四〜五人の旅仲間が一つ二元のザボンを買った。おすそわけをもらったが味は悪くない。
田園風景であるが、どこも丘も頂上まで段々畑が開けていてこれ以上の広げられないほど開墾が徹底されている。
また、段々畑の畑と畑を区切る土手にも菜が作られていてその増産意欲におそれいると共にその意味を考えさせられた。
栄(実際は草冠でrongと読む)県というところで昼食になった。
バスは町の中心の四つ角にあるhui仙楼(仙人があつまるところ?)中庭に停まった。
僕たちは羽を剥ぎ取られ裸となったアヒルの山を見ながら二階の狭い食堂間へ案内された。
現地案内員のZさんがここの料理はうまいよと予告したとおり、出されたの料理はこれまでとうって
違って辛くもないしとても口にあってとてもうまかった。
真っ白なブラウスの上に青い上着を羽織り真っ赤な口紅を引いた小柄な楊(yang)という少女が食事の面倒を見てくれた。
彼女はとても陽気で印象的であった。私と撮った写真にもその陽気さが現れている。
道はゆるやかな峰峰を下り幾つもの集落を貫けて自貢へと走った。
自貢の恐竜博物館
一億六千年前の恐竜の化石が発掘されたところに博物館が建てられた。
ここの地名は和平というらしい。恐竜の展示には和平〜と紹介されている。
大型肉食獣の和平永川竜や長頭狭鼻翼竜など展示種類も多く見ごたえがある。
特に翼竜は化石に成り果ててぺちゃんこのものは見たことがあるが、化石を
組み立てられて実際にしたものは初めて見た。
組み立てられた大恐竜を見てとても興味があったのは恐竜の股間から下がった
二本の分銅のような骨である。何の骨かを質問しても回答は得られなかったが、
私は歩行する時に身体のバランスを取るためのものではないかと勝手に想像した。
この博物館は中国旅遊勝地四十佳の一つに指定されている。
大足(DAZU)
成都から重慶間は成渝高速が走っている。距離は339キロほどある。
これから行く大足は重慶市の一部である。とある料金所に再来四川、重慶人民歓迎Ninという
看板が掲げられており四川省に別れて北京や上海と同格の直轄市である重慶市に入った。
成渝高速を下りて一般道を32キロほど行くと山々に囲まれた風光明媚なところに大足がある。
大足は約30万人の農村都市であり作物が豊富に取れ昔から豊かな土地柄であるという。
大足の釈迦の足から由来しているらしいが、豊かな土地柄は人々に安定満足を与えたゆえに
すなわち大満足だということでもあるらしい。とても愉快だ。
大足の特産はコウリャンに白酒と包丁である。ホテルの売店に大きな骨きり包丁などが売っていた。
また、ji(魚偏に即)と呼ぶ鮒の料理が有名であるとのことでこの看板を掲げた食堂が目立って多かった。
泊った大足飯店の夕飯メニューは火鍋(huoguo)である。
別名おしどり鍋と言い鍋の真ん中に仕切りがあり味が甘辛に二分されている。
これは非常に便利なもので川を上り下りする船頭たちが考案したものであるらしい。
煮立った甘辛の湯のなかにスライスした豚肉や野菜を入れて煮て食べる。
これがとても素朴な味でとてもうまかった。身体もあたたまるしとても良い。
ツアーのメンバーのなかで誕生日の人がいた。
添乗員のTさんの計らいで現地の大ケーキが出され皆で祝った。
祝福された一人で参加した年配のOさんも思いもよらぬ異国の歓待にに感激したに違いない。
ここで最も有名なものは石刻である。
唐時代から清代まで非常に長い時間かけて彫り刻まれ、県内の70ヶ所に約6万余尊の像が造られている。
これらが文化大革命においても破壊されないで残ったということはこの土地の人々の大満足ゆえの
計らいであったということかも知れない。
大足の霧の朝
宝頂山へバスで向かう。町は深い霧が立ち込めた。
建物も木立も畑もすべて白いベールに被われ幻想的である。
町では市場がたつ日なのでこの霧の中人々が町へ集まってくる。
だんだん宝頂山へと登って行くと霧が薄くなり雲海の上に出た。
宝頂山石刻
宝頂山の石刻は南宋時代のものである。全長30余メートルもの釈迦涅槃像や高さ
8メートルの華厳三聖像、黄金に輝く千手観音など見ごたえがある。
これらは仏の教え現すものであるが写真に示す六道廻図や大方便佛報恩経変相など
の石刻群は道教や儒教の教義を物語的に絵解きするものであり、数ある石刻像は
物語を演じる役者達であると言ってよいであろう。
北山石刻
北塔がそびえる北山にある石刻は宝頂山のそれより威圧するような大きさはない。
しかし、石刻の精微さではこちらのほうが上であると思われる。
北山を見物していたとき村の方から豚の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
多分正月の準備かなにかでつぶされているのではないかということである。
また、こちらでは冬至に1年の健康を願って犬を食べる習わしがあるそうである。
重慶(CHONGQING)
重慶は長江上流で最も大きな商業都市であり、経済の中心地である。
総面積8.5万平方キロ、人口約3,042万人で40もの区市県で成る。
重慶の名は南宋光宗時代の双重喜慶の意味から来ている。
簡称は渝(yu)であり、ここで長江と合流する嘉陵江の別名である。
Zさんのあやしい解説によると霧の都と言われ美人の産地であり中国の秋田県であるということである。
夏は気温が四十度にもなり過ごしにくいようだ。
町は断崖にそびえている。この町では自転車は使えない。
棒棒族と呼ばれる荷物の運び屋もこの町の地形から生まれているものである。
冬で長江の水流も少ない。中洲がありここは以前飛行場としていたところである。
広州への飛行便まで時間があったので街の中心街を1時間ほで散策した。
広州(GUANZHOU)
成都からずっと乗った大型バスを降り空路広州へ戻った。
北園酒家というところで最後の食事となった。
ホテルは珠江河岸の江湾大酒店でまさにリバーサイドホテルである。
日本法人の関連会社に勤めるCさんへ公衆電話から電話した。まだ仕事中であるが
10時ごろホテルに行けるということで10時半にロビーで待ち合わせた。
Cさんは貴州出張の時に通訳など大変お世話になった女性である。
ホテルのレストランの珠江の夜景が見える窓際の席をとった。
レストランが閉店する0時まで街路灯が続く夜景を見ながら久しぶり会話を楽しんだ。
彼女の家は会計士一家であり自分もそちらの方へ進もうとしたが、
日本語を学ぶことになり会計士の仕事には就けなかったとのことである。
日本語を学ぶことで他国のひとの気持ちがわかることがとても良かったとの彼女の言葉が私の心に残った。
私も中国語をもっとうまく話せるようにならねばと思った。
翌最終日半日自由時間があったのでオプショナルへは参加しないで出租汽車(タクシー)で街へ向かった。
広州東駅の方向へ約30分ほど汽車で行くと天河体育中心へ着く。
そのすぐ隣にこの街で一番大きな書店の広州購書中心がある。
10時の開店を大勢の客が待っていた。ジャンル別にコーナに区切られその広さは
流石広州一の書店である。長野のK先生に頼まれていた書名をメモして店員に探させたが
残念ながら店員からの返事は没有であった。
中心の前に止まっていた出租汽車をつかまえ繁華街である北京路へ向かった。
車を広州科技書店の前で停めた。この書店は学生の専門書や参考書が中心である。
私は観光ガイドや地図、漢詩集などを買った。一人で買い物が出来るとの満足感でいっぱいとなった。
白雲空港から関空向け飛びたったのは午後3時であった。
四川省について見たり聞いたり味わったり、また広州ではTさんとの再会と夜景を見ながらの語らいなど思い出深い旅となりました。
また、今回の旅をお世話しくれた鄭(Zhen)さん、朱(Zhu)さん、角田さんに感謝!
次回はもっと楽しめるよう中国語を勉強して行こうと思います。再見!