小沢さんの歩んだ道

小沢さんにインタビュー(「鉄秋会ニュース」より、一部見出し編集)


 小沢和秋さんが生まれたのは、一九三一年(昭和六年)九月十五日、その一日後、いわゆる「満州事変」が関東軍によって引き起こされ、やがて太平洋戦争、「十五年戦争」ヘと拡大していった。
 小沢さんは子どもの頃から、弱い者いじめを許さない正義漢だった。四五年(昭和二〇年)三月十日の東京大空襲につづいて五月の空襲でも家を焼けだされ、炎の中を逃げまわった。その体験はのちに小沢さんの生活をかえていく要因となる。五○年(昭和二五年)都立高校から東大へ。大学二年の秋二十歳の誕生日に日本共産党に入党、小沢さんの新しい人生が始まった。八幡製鉄入社、さっそく労働運動にとびこみ執行委員に。そして県議から国会議員へと政治の舞台で活躍するようになった小沢さん。歩いた道を、今一度問い直すために、インタビューを申し入れ、しばしば笑いころげる面白い話を聞かせてもらった。


Q大学二年の秋、二十歳の誕生日に、なぜ日本共産党に入党したのですか
小沢「侵略戦争に反対し、命を賭けてたたかった党であることを知って…」

 およそ五十年前の話になりますが、大学に入った時は、政治に無関心とまではいかなかったかも知れませんが時間があればグランドで野球に熱中していました。

 ところが、その年の六月に朝鮮戦争が始まって共産党は弾圧されるし、すでに民間企業ではレッドパージの嵐が吹きすさんでいました。そのとき文部大臣だった大野積祐が『大学でも共産党とその同調者は追放せねばならん』と演説したのをきっかけに、大学でもレッドパージの動きがつよまった。これを許すのかどうか。もちろん正義派の私としてはそんなことは許せなかった。このレッドパージに反対する活動は、全国的な運動の高まりの中で、十月の全学連のストライキにまで発展するのですね。

 私は自治会から、他の学校にオルグに行ってくれ、正門前でピケを張るから参加してくれなどと頼まれると快く引き受けていました。
 こんな私に目をつけたのでしょう。次は自治会の執行委員に出てくれということになって、この年の秋執行委員になったんです。この様な状態の中で、「こんなに弾圧される共産党とは一体どんな政党だろう」「別に罪を犯しているわけでもない先生達を共産党というだけで、なぜ職を奪うのか」と思うようになったんですね。

 自治会の活動をつづけるなかで先輩たちが「獄中十八年」「空想から科学へ」など、いろいろな社会科学の本を貸してくれました。それらの本を読むうち、共産党が創立して以来、一貫して侵略戦争に反対し、命を賭けてたたかった党であることを知り、自分も共産党とともに歩むべきではないかと考えはじめたんです。当時は、のちに戦後の第一の反動攻勢の時期といわれた頃で、共産党はどん底の時代だったと思うのです。

 しかしどんな弾圧を受けてもくじけない、筋をとおす党の姿勢を見たとき、自分も生涯の仕事として、党の一員となってがんばろうと決意し、翌年の秋、二十歳の誕生日に、日本共産党に入党申込書を出したんです。

Q自治会活動の中で、小倉寛太郎さんや山田洋次さんに出会われたそうですね。

 そうです。一年の秋には執行委員になったのですが、小倉さんは一年先輩で、私が活動できるように、手とり足とり導いてくれた人でしたね。法学部自治会というのは、全国でもめずらしく、立候補するのに推せん団体があるんですね。

 ですから、どの推せん団体から推せんされたかで、立候補者の主張が分かるようになっている。私は日本共産党推せん、山田洋次さんは映画サークルの推せんで執行委員になったんです。そういう中で仲良しになり、長いつきあいが続いています。

Qどうして八幡製鉄に入社したのか、労組執行委員になったいきさつは。
小沢「不破さん(現・党議長)から誘いを受けて、八幡製鉄を受験」

 実は、大学卒業の五四年(昭和二九年)に武田製薬を受けて入ったんです。ところが試用期限の切れるときに、突然不採用をいい渡された。活動していたことが分かったんですね。そこで四月末に学士入学の形で東大に戻り、就職がむずかしいのであればと、司法試験の準備を始めたんですが、その頃、二年先輩の不破哲三(現・日本共産党議長)さんが鉄鋼労連の調査部に就職していて、鉄鋼の労懺運動がひどいこと、鉄鋼をかえないと日本の運動は前進しない、という話をきき、ではもう一度就職試験をうけてみるか、ということで八幡製鉄(現、新日本製鐵)をうけました。

 二、三日後の明け方、家に会社から呼びだしの電報がきたんです〃あっまたバレたか〃と思いましたね。(笑い)
 ともかく九時に会社に出ていくと五人が呼び出されていて、「まだ決まっていなかったら、是非うちに来ていただけませんか」という話だった。そこで私は逆に聞いたんです。「採用について責任をもつということですか」「ハイそうです」(笑い)という訳で私は会社に頼まれて入ったんです。

Q八幡にきた小沢さんは、すぐ組合活動にとびこむのですね。
小沢「スト切り崩しに公然と立ち上がって配転の話が…」

 入社の翌年、組合青年部の幹事となり、その次の年(五七年)に執行委員になりました。そのいきさつは、五六年(昭和三一年)の秋、(その当時は秋闘でした)三波六日間のストライキがあったとき、私が会社ににらまれることをやった。

 一つは、第二波の四十八時間ストに突入した十月八日に、組合は決起集会をやるように計画を立てていた。ところがその日は夜明け前に雨が降っていて、足もとがぬかるんでいるという理由で執行部は中止という方針をだしたんです。ところが朝には晴れたので、組合員は中央町の市民広場に集まってくる。それを執行部が散らしにかかる。「おかしいではないか」みんながワイワイいっている。
 それで私が演壇に上がって「みんな聞いてくれ、大体雨が降ったからといって、会社では毎日仕事をやるじやないか。こんな大事なストライキの決起集会を止めるという手があるか。今からもう一度体制を立て直してやろうじやないか」と一席ぶち、その通りに集会が開かれたのです。

 もう一つは、「ストライキによって、溶銑が処理できない。混銑炉もいっぱいだ」という口実を作って、次のストでは平炉以下の工程を動かし事実上ストライキを切崩そうと、会社が手を打ち始めた、という情報を聞いたので、組合支部長から委任状をもらって、中闘委員会に出席し、一般質問の中で「こういう動きが表面化したとき、執行部はこれを認めるのかどうか」とやったんです。

 この二つが会社をかんかんに怒らせた。そして、次の人事異動では、組合員の一人もいない名古屋営業所に飛ばすことを決めた、という話が伝ってきたものですから、それならば執行委員の選挙(当時は二月選挙)に出てたたかう他はないと決断したのです。
 それから五期五年半、執行委員として労働運動の渦中でもまれ、中央の会議に出ていけば、不破さんと話ができましたね。

Q安保闘争後三十一歳で県議に、そして国会へ、政治家となったきっかけは
小沢「県議要請は晴天の霹靂、日本の政治を変えなければ…」

 そうですね。六三年(昭和三八年)の県議選出馬の話がきたとき、それは私にとっては晴天の露震(ヘきれき)でした。私は、鉄鋼労働運動を会社いいなりから、働く人の生活と権利を守る運動に転換させていくことを生涯の課題と決意していましたから大変悩みました。

 しかし、労働組合運動というのは、労働条件を改善するとか、平和の問題を取りあげてたたかうことはできるけれども、真の労働者解放は日本の政治を変えなければ達成できないわけです。

 「ここであなたが立候補しなければ、八幡で当落を争う選挙はできない」という説得にも励まされて、立候補に踏みきったのです。この選挙はすべて初体験でしたが、これまでの共産党票を二倍近くのばして、福岡県議会始まって以来の共産党県議二名の誕生となりました。

Q当時、どういう問題を県議会で取り上けたのですか。
小沢「私は会社の代表でなく、働く県民の代表と…」

 当時、八幡製鉄は人べらし合理化を始めた時期でしたね。私はこの合理化を北九州の景気の沈滞の決定的な原因として取りあげたり、洞海湾が死の海となったという公害問題など八幡製鉄所の問題を取りあげて追及したことを覚えています。保守の議員から「小沢さんあんたは製鉄出身なのに、よく製鉄所を批判するね…」といわれ、私はすかさず「会社の代表ではなく、働く県民の代表だからですよ」とやり返したのを覚えています。

Q県議三期ののち、八○年(昭和五五年)田代文久さんの後をついで代議士となり、国政を舞台とした活動に移るのですが。

 八○年に初当選してから通算で三期(現在四期目)国会で働かせていただきました。国会では社会労働委員会、商工委員会などに所属してとくに力を入れたのは、健保や年金問題、民間労働者の残業代未払い問題の追及、全国に先がけて北九州で四十人学級の実現、筑豊地区の鉱害復旧など、国民の立場に立って一貫して取りくみました。(以下八〇年〜九三年までの実績の一例紹介)

●新日鉄の若松F鉄工所に対する一億円の未払いを本社と交渉して解決
●安川電気の残業代未払い問題で一千万円を支払わせる。
●西鉄の変形時間制は労働基準法違反と指摘し、労働省に改善指導を約束させる。
●育児休業の法制化を実現。新日鉄の女性労働者に対する退職強要を撤回させる。
●看護婦さんの夜勤の労働条件を取りあげ、妊娠中の三交替をやめさせる。

●石炭特別委員として、北九州市香月、宮田町大蔵、本町、鞍手町中山新橋、直方市植木などの鉱害復旧。小竹町、栄町、宮田町陽の浦・あけぼの、碓井町昭嘉などの炭柱改良を推進。産炭地地域振興臨時措置法の10年延長へ尽力。

●三井三池鉱のガス充満事故・労災隠しを徹底追及し、通産省に司法捜査に入らせる
●嘉穂郡桂川町の王塚古墳の修復と保存を実現。
●全国にさきがけて、北九州市で小中学校の四十人学級を実現。

●雲仙普賢岳被災者救済にため緊急措置地、特別立法を提案し、見舞金等が引き上げに。