管理人:前田滋のプロフィール

略   歴 2008.7.17
余は如何にして、
かいろぷらくたあ、となりしか
2004.07.21
PAACを支える人たち PAACニュース誌
(2006/5月号)

「頭蓋縫合」の翻訳を終えて 月刊「手技療法」
谷口書店刊
2000年12月号より
転載
目崎・前田両氏に聞く カイロ・ジャーナル紙
第13号(1993.01.27号)
より転載
line2

・・・ 略 歴 ・・・

 1950年: 鳥取県生まれ、5才の時大阪に移り住む
 1975年: 京都工芸繊維大学繊維化学科修士課程修了
      ↑
            この間は横浜の化学会社に在職
      ↓
 1979年: 長生学園卒業後、按摩・マッサージ・指圧師免許取得
 1980年: シオカワ・スクール・オブ・カイロプラクティック卒
 1986年: PAAC関西支部長就任
 1987年: SORSIのSOTベイシック認定試験合格(於米国オマハ)
 1988年: SORSIのSOTアドバンス認定試験合格(於米国オマハ)
 1989年: SOT認定試験委員長就任
 1990年: SORSIの頭蓋骨調整法認定試験合格(於米国オマハ)
 1992年: PAAC教育委員長就任
 1996年: インターネットにカイロプラクティックを紹介するサイト
      <Chiropractic in Japan(カイロプラクティック・アーカイブ)>を開設
  PAAC関西支部長、PAAC教育委員長、SOT認定試験委員長などを歴任。
   大阪・梅田で開業


 主な翻訳書:
 「SOT 1979(355p)」、「CRANIAL SUTURE (466p)」
 「THE ART & PRACTICE OF CHIROPRACTIC (462p)」
 「CRANIAL TECHNIQUE 1979-1980 (238p)」、
 「CRANIAL STUDY GUIDE (209p)」 (以上スカイ・イースト刊)
 「CLINICAL CHIROPRACTIC (520p)」(共訳:科学新聞社刊)
 上記を含め11冊を翻訳。
 全てA4版で合計2500ページあまり、要した年月はおよそ15年。
line2

余は如何にして、かいろぷらくたあ、となりしか
(内村鑑三先生、乞ご容赦)

1950年:鳥取県生まれ(朝鮮戦争勃発の年)

1955年:祖母とその末娘(私にとっては叔母)の3人で
    鳥取市内の市営住宅で暮らしていたが、
    叔母の中学卒業を機に両親のいる大阪へ。

    小学校卒業までは、大阪市北区の天神橋商店街の近所。
    それ以後、大学卒業までは守口市内。

1964年:東京オリンピック開催
    このころ初めて腰痛が出現(中学2年生)。
    今から思えば体育の時間に3段跳びをやったのが
    直接の引き金だったかもしれない。
    その他にも、勉強時の姿勢も悪かったと思う。

    評判を聞いて、中学校の近くの接骨院に通院する。
    治療は赤外線照射(温熱)と低周波パルスのみ。
    (こんな治療で治る訳がないわい)

    いつまでたっても痛みが引かないので、そこの息子が
    阪大医学部付属病院の勤務医ということで、
    仕事を終えて帰宅した息子に診察してもらった。
    接骨院に備え付けられていたレントゲン装置で
    腰椎のレントゲン撮影を受けたが、息子の医師は
    頸をひねるばかり。

    それにしても、接骨院にレントゲン装置を設置するのは
    違法のはずだが、当時はそのあたり、非常にいい加減
    だったようだ。また当時は整形外科はほとんど開業して
    いなかった。腰痛は外科で受診していたように思う。
    暫く安静に努め、激しい運動をしないようにしていたら、
    ひどい痛みは消えたので、接骨院への通院は中止した。

    しかし、その後も腰痛はしばしば出現し、その都度、
    評判を訊いてあちこちの鍼灸院や接骨院の門を叩いた。
    病院は理屈ばかりで実際の治療はホットパックや赤外線などの
    温熱と低周波パルスのみであることが判ったので、どこへ
    行っても無駄ということが、中学生で既に判ってしまった。

1969年:3月に大学受験。 
    その前年頃より、受験勉強のために机に向かって
    30分もすると腰がジワジワ痛み出すことに悩まされ、
    勉強に集中できないことに苛立ちの日々を送る。
    しかもこの年は大学紛争まっただ中で、
    とうとう東大入試が実施されなかった。

    2月には東大の安田講堂に立てこもった全共闘の
    学生に向けて機動隊が放水するニュース映像を、
    腰をさすりながら横目でながめていた。
    腰が痛くて勉強ははかどらないし、こんな腰では
    浪人しても学力アップはとても見込めないので、
    何とか現役で大学に潜り込まねばならない、
    と考えていた。

    その上、私の父は大阪の商売人気質を濃厚に身に
    まとっている人間で、「学費の安い国公立の大学があるのに、
    なんで学費の高い私立に行かんとあかんねん」という雰囲気を
    身にまとわりつかせていた。これは決して私学の学費をまかなう
    経済力がないためではなく、教育に金をかけることが
    もったいない、またはアホラシイという気持の現れ。
    要するにケチなんですな。

    息子の私としては意地でも国公立の学校に合格しないと、
    あとあと、何かにつけ恩に着せられる気配を強く感じていた。
    「私立も受験していいぞ」という言葉はついに父の口から
    出なかった。

    ピラミッドの頂点の大学入試が流れるということは
    受験生の雪崩現象をきたすということで、
    腰痛持ちで現役合格を目指す受験生にとっては
    弱り目にたたり目もいいところ。八方ふさがり、
    全くイイ所ナシ、の心境でありました。

    取りあえず、学費が安くて現役で潜り込めそうなところを
    見つくろって何とか合格。入学したのは、
    京都工芸繊維大学繊維学部繊維化学科
    (なんてえ長いんだい! 封筒に手書きする時には大変だった)。
    当時、国立二期校と呼ばれていた大学です。
    大阪大学も受験したが、当然ながら不合格。

    ちなみに親しかった10人ほどの同期生はほとんどが浪人。
    現役で片づいたのは筆者を含めて2人(もう一人は京都大学)
    だけのはず。浪人した連中は、一浪後ほとんどが旧帝大系の大学に
    進学した。

    つい最近ひょんなことから知ったが、かの竹中平○氏も
    私と同学年ということだ。彼の場合は現役で一橋大学に
    入学したそうな。それからもう一人、大阪府知事の太田○江氏
    (2004年当時)も。彼女は京都大学をしくじって一浪後、
    東大に入学したとの由。皆さんデキがいいんだねえ。

    これも後から知ったことだが、当時の東大全共闘の委員長は
    同大学医学部学生の山本某という人物で、この人、大阪の
    某府立高校出身。私の卒業した高校とは姉妹校になる。
    こんなことを書くと、大阪に詳しい人には私の出身高校が
    分かってしまうので、あまり書きたくないのだけれど・・・・。

    別に感謝している訳ではないけれど、世にも稀なる体験を
    させていただきましたな。おかげで、子供たちには
    「父は東大に行くつもりだったのに、大学紛争のあおりを
    食らって行けなかったんだ」と語り草にしております。
    これくらい言わせてもらわにゃあ、コチトラの気が晴れませんや。
    もちろん子供たちは、「またオヤジが与太言ってる」と、
    迷惑顔で聞き流しております。

    在学中は主に、ある有名鍼灸院に通院する。ツボに響く鍼の
    気持ちよさを体感するも、腰痛は改善せず。痛みが強くなれば
    治療に行くことを繰り返す。

1975年:大学を6年かけて卒業し、横浜の化学会社に就職
    この年の秋に高校時代の同窓生と結婚

1976年:5月の連休に帰省したとき、腰痛持ちの母が見つけた
    カイロプラクティックの治療院へ。この時が、カイロとの
    初めての出会いであった。今まで受けたどの治療よりも
    効果が高いことが実感できた。治療後の身体の軽かったこと! 

    大阪の先生から東京・蒲田の先生を紹介してもらい、
    2週間に一度のペースで土曜日の休日に通院する。
    長時間の座業にも耐えられるようになる。
    テニスの後もあまり痛まないようになる。

    カイロの治療を継続してゆくうちに、この技術を習得してみたい、
    という気持が徐々に募ってくる。何しろ今までいろいろな治療を
    受けてきたが、こんなに良く効いた治療は初めて。ちょっとした
    「カルチャー・ショック」である。治療も気持ちよい。

    鍼灸や指圧・マッサージはそれなりの専門学校があるから、
    それを目指すならその方面の学校に行けばよいことは
    常識程度に分かっていたが、カイロプラクティックは
    全く聞き慣れない治療法だし、それを教える専門学校なんて
    見たことも聞いたこともないので、どのようにして
    この技術を習得してこられたのかを、カイロの先生に尋ねてみた。

    返ってきた答は、「まず鍼灸や指圧の免許を取得して、それから
    講習会で勉強を始めるんだよ。そうでないと解剖学や生理学などの
    基礎医学を勉強できる所がないからね」というものであった。
    日本にはカイロプラクティックの免許制度がないとはいえ、
    開業して治療院を構えるには、何らかの医療免許を取得して
    おかないと、法律上何かとまずいことになるのでは、という位の
    ことは素人が考えても判った(しかし最近では、このように
    考える人が少なくなっているようで、極めて残念である)

    しかしまだ入社して1年、しかも結婚したばかりである。
    この1年の間に人生の重大イベント(就職、結婚)を2つもこなし、
    後は定年まで無事に勤め上げるだけか、と考えていた矢先である。
    その余韻もおさまらないうちから「転職」もやるのか?という言葉が
    頭をよぎる。この言葉に我ながら怖じ気づく。

    アクリロニトリル・モノマーを合成するための触媒開発という
    部署に配属され、仕事にもやり甲斐を感じていたので、敢えて
    会社の仕事に集中するよう、自分をし向ける。1年たってもカイロを
    勉強したいという気持が強いままなら、その方向で活動を開始する
    ことを心に決める。この間、仕事にも熱中したが、いろいろな本を
    むさぼるように読む。

    仕事が面白いのに、どうしてあさってのことに興味を覚えるのか、
    自分でも不思議でしようがない。そんな自分を持てあましている、
    もう一人の自分がいた(この理由は、後に母に聞かされたことに
    よって納得するところがあった)。

1977年:依然としてカイロの技術を習得したい、という気持が強いので、
    カイロを修得するための方向に一歩を踏み出す決心をする。
    先ず、家人を説得。これはあっさり認めてくれた。
    彼女曰く、「いずれ何かをやらかすようには思っていたけれど、
    こんなに早く言い出すとは思っていなかった」そうな。
    実家の両親にはまだ内緒。

    最初のステップとして何らかの国家資格を取得すべく、
    仕事を終えた後に通学可能な専門学校を探したところ、
    大森の東京衛生専門学園(鍼灸+按摩・マッサージ・指圧)と
    京浜急行雑色駅の長生学園(按摩・マッサージ・指圧)の
    二校あることが判った。

    どちらも調べたが、長生学園は脊椎調整を中心とした独自の
    治療法を伝授するということだったので、「カイロプラク
    ィックも脊椎調整だからちょうどいいや」とばかり、
    この学校に決める。

    その当時、鍼灸と按摩・マッサージ・指圧の免許を同時に
    取得できる学校は年限が3年、鍼灸だけなら2年半、
    按摩・マッサージ・指圧だけなら2年であった。勤務を終えて
    からの夜学である。期間も短い方がいいに決まっている。

1978年:4月に長生学園2年生に進級。覚悟はしていたものの、
    仕事と夜学の両立はやはり辛い。夜学に入学したことは
    職場の人たちには伏せたままであったので、それも精神的な
    ストレスになった。59Kgあった体重が52Kgにまで減った。
    胃も重い。寝汗をかく。

    数年後の胃カメラ検査で判ったことだが、この時、最初の
    胃潰瘍を発症していたようだ。学校とストレスが原因だろうから、
    精密検査は受けても無駄と考え、医者にも行かなかった。
    (卒業すれば治るだろうと考えていたが、事実その通りになった)

    基礎医学やその他の座学、按摩、マッサージ、指圧の
    実技練習は何とかなるが、困ったのが脊椎矯正の実技練習。
    矯正手技の基本動作を教わって家でもさんざん練習して
    いるのだが、いっかな成功する気配がない。
    この時の焦燥感といったら!

    しかし、「基本練習を諦めずに続ける」ということが、後々の
    カイロプラクティックの矯正手技を修得するときにも大いに
    役立った。いま思うに、練習不足の初心者がいかにも多い。

    5月に長女誕生。

    一つだけ助かったことがある。京浜急行の雑色駅にあった
    木造2階建てのオンボロ校舎を建て替えることになり、臨時の
    教室が生麦駅近くの本部ビル(整形外科医院とお寺が入っている)
    の本堂になったこと。生麦駅は会社へ行くのに毎朝下車して
    いるので、通学が大変便利になった。

    職場の人たちに隠しておくことがあまりにもシンドイので、
    学校が夏休みに入る前、ついに直属の上司である主任に打ち明ける。
    これでクビになってもどこかアパートを借りてアルバイトしながらでも
    何とか卒業するつもりでいたが、上司は「卒業するまで頑張りなさい」
    と逆に励まして下さった。

    それ以後、会社の人たちに知れてしまったので、昼休みに宿直室で
    腰痛の人や肩こりのひどい人など触らせてもらうようになった。
    (もちろん無料)

    思えば、化学会社は辺鄙な海辺のコンビナートにあることが
    多いので、横浜という大都会(京浜工業地帯)の会社に就職して
    いなかったら、他のことを勉強することなど全く不可能だ。
    そう言う意味では大変な幸運に恵まれたといえる。
    職場の人たちも気の良い方ばかりで、あさってのことを
    勉強しているからといって、意地の悪い態度を取る人は
    いなかった。この点では大変感謝しております。

    長女が生まれて実家の母が手伝いに来てくれた時、
    「そう言えば、お前の爺さんは鳥取の田舎でパン屋を
    していたけれど、若いときから柔道を習っていて(三段)、
    今で言う接骨院のようなことを仕事の合間にしていたよ」と
    教えてくれた。こんな話はそれまで一度も聞いたことがなかったので、
    ちょっとビックリした。

    その昔(昭和初期の頃だろう)鳥取の田舎には病院や開業医院など
    なかった時代であるから、柔道の活法(脊椎矯正のようなこと)が
    うまいので、捻挫やギックリ腰の人が評判を聞きつけて治療に
    来ていたそうだ。本業ではないので、治療代はもらわなかったら、
    患者さんは気の毒がって、お米や野菜を治療代の代わりに
    持ってきていたらしい。

    私がカイロプラクティックに出会って、この技術をものにしたい
    という欲求が強くなったのは、祖父の血が騒いだのかと、
    先の懸念に一応合点する所があった。この爺さんは私が生まれる
    前年に亡くなっているが、その生まれ変わりが私である
    というのは、いくら何でもコジツケが過ぎるだろう。


1979年:3月に長生学園卒業。同時に按摩・マッサージ・指圧師の
    免許を取得。4月に退職し、親子3人して大阪の実家に舞い戻る。
    会社に勤めながら「二足のわらじを履く」方法も可能かと
    思われたが、私のことが社内に広まってしまっていたため、
    他の社員に対する諸々の影響を考えると、在職を続けるのは
    会社に迷惑をかけると思い、取りあえず退職した。
    先の当てはない・・・・。

    半年ほど塾の講師や出張治療を続けていたが、
    塩川スクール(カイロプラクティックの養成校)に入学した
    長生学園の同級生から、10月生(1年制)を募集していることを聞き、
    妻子を実家に預け、再び上京することに。

    塩川スクール副学長の経営している薬湯健康センター付属の
    治療院で夕方5時までマッサージの仕事をし、1時間半かけて
    埼玉から日本橋の教室まで行って夜9時まで講義を受ける、
    という毎日。アパートに帰り着くのが夜の11時であった。

    ここでも副学長とその姉上である女性社長には大変お世話になった。
    その会社所有のアパートの一室に住まわせてもらっているのに、
    部屋代は給料から差し引かれていなかった。また、薬湯の従業員の
    方々にも大変可愛がっていただいた(埼玉方面には恐れ多くて
    足を向けて眠ることなんかできない)。

    埼玉での1年間の修行中にホトホト感心したことがある。
    それは地元の人たちの、穏やかで人を疑うことを知らない気質である。
    スクールで習ったことを少し昼間の治療中に使ってみると、
    偶然にしろ良く効くことがあった。すると、ぺーぺーの治療師に
    対して大先生扱いである。夕方早く仕事を終え、患者さん達に
    「お先に失礼します」と出かけようとすると、「なんだ先生
    (この上)まだ勉強するのかい?大したもんだねえ」とまるで
    「これ以上勉強なんかしなくてもいいんじゃないの?」と言うような
    口振りである。免許取り立ての治療師に対して、この台詞は、
    涙が出るほど嬉しいものであった。

    塩川スクール時代に、PAACの理事であった兼古、平塚、渡辺、
    その他諸先生方の講義を受けたことが、現在の私の礎になっている。
    この時期はよく勉強もし、練習もした。朝早く(といっても午前9時)
    治療院に行って治療開始の10時までの間、30分ほどカイロ手技の
    基礎練習に没頭した。

    この時の基礎練習のおかげで、学校で習ったいろいろなテクニック、
    ガンステッド・テクニックやディバーシファイド・テクニックなどを
    一年後には、ほぼ成功するようになっていた。


1980年:10月に塩川スクールを卒業し、大阪の実家の隣りにある
    アパートの一室で開業。もちろん最初は閑古鳥が
    啼きっぱなしである。

    「ワガハイは、かいろぷらくたあ、である。患者はまだ無い」
    という愚にもつかないパロディーが、しきりと頭の中をよぎる
    毎日であった。

    しかし英文のテキストを読んだりして勉強。
    日曜日には東京で開かれるセミナーに出席するなどして
    機会を見つけては技術力の向上に努める。

    そして埼玉の治療院の患者さんが大阪の知り合いを紹介して
    下さったりして、少しずつ患者さんが増えてくる。

1982年:長男誕生。

1983年:経営がほぼ軌道に乗る。と言っても院長(筆者)一人だけの
    治療院である。

1984年:この年の終わりに振り返ってみると、自己教育費として
    一年で100万円あまりを費やしていた。この頃を振り返って
    家人は「あの頃のセミナー代があれば、家計がずいぶん
    助かったのにね」などと言っているので、これは決して
    余裕で捻出できた金額ではない。

    しかし、自分の技術をさらに高めることを最優先し、
    高めた技術を患者さんに還元する、と言う姿勢を貫くことで、
    さらに難しい症例も扱えるようになった。ちなみに、
    これ以後10年間は、毎年ほぼ同額を自己教育費として費消した。

    この金額が多いか少ないかは読者の判断に任せるが、
    シオカワ・スクール時代、講師のH先生が「カイロの勉強には
    金がかかるので独立開業して勉強代を稼いだ」と語って
    おられたのが印象に残っていて、筆者の場合もその言葉通り
    になった。この業界は、雇われ状態では高給が期待できないので、
    勤めていては勉強代を捻りだせないのが実状である。

    ・
    ・
    ・
    開業してから今年(2004年10月)で満24年になる。
    この24年の間にもいろいろなことがあったが、
    取りあえず表題の目的は達せられたと思うので、
    これにて一応筆を置くことにする。
    (2004/06/06:記)

追記:上記の文章は10年ほど教示しない設定にしていましたが、2018年9月に
   サイトの内容を全面的に見直し、気が変わったので、再表示しました。
   2004年の時点から2018年現在まで14年経過しましたが、
   大過なく治療の仕事を続けています。

line2

PAACを支える人たち


PAAC:パシフィック・アジア・カイロプラクティック協会
   本サイトの管理人が所属するカイロプラクティックの団体

<カイロプラクティックを始めたきっかけは?>

 ミイラ(患者)がミイラ取り(カイロプラクター)に。
 14才で腰痛を起こしてから、26才でカイロプラクティックに
 巡り会うまでに10年あまり費やしました。


<大変だったのはどんなことですか?>

 特にありません。会社での出世街道(?)を放棄して自分で
 選んだ道ですので。世間一般には私のような者のことを
 「脱サラ」などと呼びますが、気分は落伍者です。

 苦労した、とは思いませんが、英語のテキストを日本語で
 読めるようにしよう、という活動をPAACが推進したことが
 印象深いですね。4半世紀前にはカイロプラクティックに
 関する日本語のテキストが皆無の状態だったので、
 セミナー屋さんたちがセミナーで自分勝手なことを教えても、
 文献がないので、受講者にはそれが判断できず、説明を
 鵜呑みにするしかなかったのです。英語のテキストを翻訳する
 ことによって、それ以後、勝手な説明ができなくなりました。

 そもそも物事を極めるのに、テキストがない状態というのは、
 どのように考えても異常です。もちろん、テキストに詳細な
 ノウハウまで書かれていると期待するのはバカげていますし、
 ある技術の内容を完璧に文章で表現できるはずもありません。

 玄妙な技術を修得するには、昔ながらの徒弟制のように、
 名人上手に教えを乞うことも必須です(これを補うものとして
 セミナー形式の技術講習会があります)。しかし、この方法では
 技術を広範囲に伝達することは不可能です。近代科学は
 何と言っても論文・テキストの発表という形式で世界中に
 広まったのですから。

 翻訳活動が一般的になって、流れに乗り遅れるなとばかりに、
 他団体でもチラホラ翻訳書が出てきたのは喜ばしいことです。
 しかし、翻訳の仕事は一朝一夕には完成しない仕事ですし、
 濡れ手で粟のような報酬は期待できませんので、
 相変わらず訳書の刊行は少ないですね。

 WEBサイトにも書きましたが、私が翻訳した英語のテキストは
 全てA4版で、かき集めると2500ページ余りになります。
 翻訳に要した年数はおよそ15年。決して英語が好きで
 始めたわけではなく、必要に駆られて始めた仕事です。

 本来なら、英語に頻出する、無生物や抽象名詞が
 平気で主語になるような文章ではなく、仕事を終えた夜には、
 のんびりと日本の歴史小説でも読んでいたいところでした。

 翻訳作業は短いテキストで3〜4ヶ月、長いものになると1年近く
 かかります。長丁場ですので、気を抜くと前半部と後半部で
 文体が変化したり、微妙な訳語が変化したりします。
 従って、文体がブレないように、訳語がブレないように、
 常に気をつけていないといけないので、寝ても覚めても
 心中に緊張の糸をピンと張りつめた状態を強いられます。
 ですから、もう横文字を見るのも嫌になりましたね。


<有意義だったのはどんなことですか?>

 カイロプラクティックに巡り会うまでの10年あまりの間に、
 いろいろな治療法を体験したことです。

 整形外科を手始めに、あちこちの鍼灸院、接骨院を
 渡り歩きました。そして患者として得た結論が、
 「下手なヤツほど看板がデカイ」ということでした。これは、
 実際に看板が大きいことだけを言っているのではなく、
 「医療・治療の業界で宣伝に力を注いでいる病院、治療院は
 避けるべし」というほどの意味です。

 このことを全く理解していない患者さんや一般人が殆ど
 であることに気づいたのは、インターネット上に
 カイロプラクティックのサイトを開設してからです。

 私のサイト(カイロプラクティック・アーカイブ)は、腰痛を患って
 いる時にいろいろな治療を受けた体験を基にしていますが、
 サイトを開設してからカイロプラクティックに関する
 いろいろなトラブルの相談が寄せられるようになりました。

 相談内容は大きく分けて治療過誤に関することと、
 カイロの勉強に関することの二種類に分けられます。

 治療過誤に関しては、治療院の宣伝ホームページを見て、
 設備の見栄えや通院しやすさなどから治療院を選び、治療を
 受けたのは良いが、ヘッドピースを何度も強くドロップして
 頚椎をアジャストされ、目眩や頭痛が止まらなくなった、などと
 いう相談が主流を占めます。

 勉強熱心なPAACの先生方には信じられないことでしょうが、
 世間一般のカイロ治療院のレベルは我々の想像以上に低いと
 言わざるを得ません。殆ど素人同然の技術レベルなのに、
 宣伝に力を注いで患者さんを集めることだけに躍起に
 なっている治療院が、世間では圧倒的に多いことを
 知っていただきたいと思います。


 そして私は、患者さんに向けて治療院の選択目安を提供している
 のであって、ご同業の方たちに「看板を出すな」などとは決して
 言っておりませんので、ここのところ誤解なきよう、お願いします。
 このようなことはPAACの先生方に向けて言うほどのことではなく、
 全くの蛇足でしょうが・・・。

 もう一つのカイロの勉強に関する相談については、何と言っても
 マルチ商法に関することが多いです。そして数年前から、
 カイロプラクティックをエサにした資格商法とマット売りの
 マルチ商法を抱き合わせた悪徳商法団体が、日本のカイロ界を
 牛耳ろうという動きが活発になっています。

 これら二つの事柄は日本のカイロ界にとって極めて憂うべき
 状況ですので、インターネットを通して一般の方々に知って
 貰う努力をしていますが、私一人の力では如何ともしがたい
 ところです。

 さて早いもので、「カイロプラクティック・アーカイブ」 も、この2006年3月で
 満10年を迎えました。少しはカイロプラクティックの啓蒙に
 貢献したと言えるでしょうか?


<PAAC会員の方にメッセ−ジがあればお願いします>

 絵画でも音楽でも書でも、なんであれ一流の芸術に
 親しまれることをお奨めします。日々美しいものにふれ、
 感動・感銘を受けることによって、自ずと仕事のセンスが
 磨かれるはずです。

 カイロプラクティックのさまざまなテクニックの修練に
 没頭するだけでは、診断やアジャストの技術レベルは
 そのうち頭打ちになります。その時に頭一つ分抜け出すのに
 必要なのは「美的センス」です。

 話は飛びますが、カイロの定義に出てくる「哲学・科学・芸術」
 というのは、正確には「哲学・科学・技術」と理解すべきかと。
 英語の「ART」という言葉には「技術」という意味も含まれています。

 そしてカイロプラクターとしてアルチスト(芸術家)を
 気取るのも結構ですが、私自身はアルチストではなくアルチザン
(職人・技術者)に徹したいと考えています。


line2

月刊「手技療法」2000年12月号より転載


 2000年9月に(株)スカイ・イースト社からマーク・ピックD.C.による 
 『頭蓋縫合』の翻訳本が出版されました。頭蓋マニピュレーション 
 を行なうにあたっては、頭蓋と顔面の縫合に関する構造と働きの完 
 全なる理解が必須とされています。本書は、それに応えた待望の書です。 
 今回は、この466頁にわたる大著の翻訳をされた前田滋先生を、 
 治療院のある大阪にお訪ねしました。


  翻訳を始めるきっかけ

本誌 先生はいつ頃からカイロプラクティック関係の翻訳の方を 
   手がけられるようになったのでしょうか。 

前田 始めたのが1987年ですから13年ほど前でしょうか。 

本誌 きっかけというのは? 

前田 元々は自分の勉強のために始めたというところです。 
   その頃、わずか13年程前には、日本のカイロプラクティックの 
   技術指導書の類の本はほとんどなかったものですから、何とか 
   翻訳されていかないとアメリカとの技術の差は埋まらないので 
   はないかと思っていました。その頃PAAC(注1)にいてSOT(注2) 
   をやっておりましたので、SOTのちょっとした英文資料を翻訳する 
   機会がありました。で、その翻訳が読みやすいと好評だった 
   もので、これが切っ掛けになって翻訳の依頼が来るように 
   なったのです。 

本誌 翻訳なさった本は今回で何冊目になるんでしょうか。 

前田 大小合わせて10冊目になります。日本人でカイロ関係の翻訳を 
   しているのは、私が最も多いと思います。この本が初めての 
   ハード・カバーですね。一般の書店にも出回るんでしょうか? 

本誌 一般の書店となるとよく分かりませんが、当店では出ております。 

『頭蓋縫合』表紙

前田 そうですか。もっとも、旭屋だとか紀伊国屋などに出されても 
   あまり売れないでしょうがね。 

本誌 そういうことはないと思います。 

前田 ああいった本は読む方にもある程度の基礎知識が必要に 
   なってきますから…。 

本誌 翻訳の方も手慣れてこられたと思いますが、最初の頃は 
   いかがでしたか?

前田 カイロプラクティック関係の文章は、そう難しいわけでは 
   ないんですね。文学的なレトリックなどは使われない。 
   ただし内容となると難しいことも多いですね。 

本誌 実際にカイロプラクティックを分っていないと訳せない 
   ものでしょうか。 

前田 著者が説明を省略して書いていることもあるので、ある程度意味を 
   補わないと日本語として通じないことがあります。ですからカイロ 
   プラクティックの専門分野を知る人間がやらないど難しいかもしれ 
   ませんね。ただ、この本のマーク・ピック博士の文章に関しては、 
   論理の飛躍などもなく、比較的訳しやすかったです。 

本誌 マーク・ピック博士は塩川先生なども以前からよく招いておられ 
   ましたね。PAACでは今回で二回目でしょうか。 

前田 PAACでは二回目になりますね。 

本誌 マーク・ピック博士と直接会われたことは? 

前田 何度がお会いしていますよ。PAACが後押ししたセミナーで、 
   私がオブザーバーとして参加する機会がありましたし、 
   個人的にも何度がお会いしています。 

本誌 マーク・ピック博士はどのような先生ですか? 

前田 治療をなされているときにお会いしたことはないのですが、 
   非常に穏やかな先生で…。少しミステリアスな雰囲気も 
   ありますね(笑)。 

本誌 アメリカでも有名な方なのですか。 

前田 SOTを勉強している人々の中では、やはり有名ですね。 

     腰痛がきっかけでカイロプラクティックを学ぶ

本誌 カイロプラクティックを始めることになられたきっかけ 
   というのは? 

前田 ミイラ取りがミイラ(笑)。そのころ頑固な腰痛を抱えておりまして、 
   どこを訪ねても駄目だったんですが、カイロプラクティックの治療を 
   受けると本当にあっという間に良くなりまして。 

本誌 どちらの先生でいらっしゃいますか? 

前田 蒲田の大越(勝衛)先生です。 

本誌 大越先生ですか。もうお亡くなりになりましたね。 

前田 そのときから随分おじいさんだなあと感じていたものですが。 

本誌 それは何年ぐらい前になりますか。 

前田 25,6年ぐらい前でしょうか。 

本誌 大越先生の会に入っておられたということはなかったのですか。 

前田 最初からPAACに入っていました。大越先生を紹介して下さったのは 
   大阪の西先生です。ピアース・テクニックで有名でしたが、 
   10年程前に亡くなられました。その先生の所へ1,2回ほど 
   通ったんですが、当時横浜に勤めていましたので、東京の先生を 
   紹介してもらうという形で。大越先生の所へは月2回ぐらい 
   ずっと通っていました。実際にはお弟子さんに治療を受けることが 
   多かったのですが。 

本誌 その腰痛が治って、自分で勉強しようとなされたのですか。 

前田 ええ、通っているうちに、これは面白いなあと、今まで受けた治療と 
   全然タイプの違うものだと感じましたね。それまでにも鍼灸や 
   整形外科など色々行ってみたのですが…。鍼灸にしても長い間 
   通っていましたが、別に鍼灸師になりたいとは思いませんでした。 
   でもカイロプラクティックにはそれがあったんですね。 

本誌 症状はどういったものだったんですか。 

前田 一般的な腰痛でした。ただひどいときには軽い坐骨神経痛のような 
   痛みもありましたね。 

本誌 そうですか。足の方まで…。勉強はどういった形でされたのでしょうか。 

前田 大越先生のお弟子さんに、どうすればあなた方のような技術を身に 
   つけることができるんですかと尋ねたら、まずは鍼でもマッサージ 
   でもいいから、免許を取った方がいいよと言われまして。大森に 
   東京衛生学園、雑色に長生学園というのがありまして、どちらにも 
   行ってみました。当時は按摩・マッサージは2年、鍼灸は2年半、 
   鍼灸と按摩マッサージ両方だと3年だったんですが、会社に 
   勤めながら3年というのは体力的にキツイので、短い方がいいなと 
   思っていると、長生学園の看板の「脊椎矯正療法教えます」という 
   文字が目に入り、これは悪くないなと。それでそちらに行くことに 
   決めました。 

本誌 何歳頃ですか。 

前田 27歳のときですね、入学したのが。 

本誌 卒業されてからは…? 

前田 学校の友達が、PAACの前身と言いますか、今のように分かれる前の 
   塩川スクールに行ってるんだと言っていたもので、それなら 
   自分もと、塩川スクールに。その頃は、日本でカイロプラク 
   ティックを勉強しようとするとあそこしかないような状況 
   でしたね。 

本誌 塩川スクールにも入学されたんですか。 

前田 そこも1年、夜学で通って卒業しました。その頃に習った先生は、 
   PAACの兼古先生(現最高顧問)や平塚先生(現JOA会長)ですね。 
   私は塩川スクールを卒業して、すぐ大阪に帰って開業しました。 

本誌 何歳でいらしたのですか。 

前田 ちょうど30歳ですね。この十月で、開業してから20年になります。 
   先に卒業した友達から、デントンのSOTセミナーが5回シリーズで 
   開かれるぞと聞かされまして、SOTのセミナーだったら自分も是非 
   参加したいと、それで1回目に行ったそのときに、改めてPAACの 
   入会手続きをしました。 
中央:SOTの創始者、故デジャネットD.C.

右:兼古将先生(現PAAC最高顧問)

左:前田滋
本誌 それまで先生はSOTの方は…? 

前田 塩川スクール時代に一通り教わっていましたよ。開業しても 
   暇だったもので、SOTの79年度版などは読んでいました。ただ 
   原書で読んでもあっちこっち色々なことが書いてあるもの 
   ですから、治療のときに見返そうとしても困ってしまうので、 
   日本語に直しておいた方が利便性があるだろうと思い、 
   その頃から翻訳をやっていたのです。自分でまとめたり 
   していました。 

本誌 SOTには以前から興味を持っていらしたんですね。 

前田 ええ、あれも一つの理屈に過ぎないかもしれませんけどね。 

本誌 ディジョネット博士にお会いになったことはありますか。 

前田 ありますよ。日本に来られたときなどにも、オマハでも直接 
   お会いしています。 

本誌 直接ご教授を受けられたことは…? 

前田 セミナーで教わったということであれば、あります。 

       SOT治療法とは

本誌 SOTとはどういうものか。読者の方に簡単に説明するとなると、 
   どういう感じになるでしょうか。 

前田 簡単にというのは…難しいですね。一言で言ってしまおうと 
   すると、骨盤の仙腸骨関節の病理状態によって患者さんを3つの 
   タイプに分けて、主にブロックを用いて治療していくやり方… 
   でしょうか。滑膜関節の部分に着目する、あるいは硝子軟骨の 
   部分に着目する、あるいは主に腰椎の結合組織の部分にと、 
   この3つのタイプに分ける。それぞれのタイプに適合した 
   ブロックの配置法、骨盤の下にブロックを置くという方法で、 
   骨盤の状態、仙腸関節や軟部組織の病理状態を改善していく、 
   というのが、SOTのブロッキングの説明になります。 

本誌 なぜ先生はSOTに興味を持たれたのですか? 

前田 SOTというものに限らず、私が特に興味を持っていたのが 
   CMRT(内臓マニピュレーション)なんです。胃の具合が悪い、 
   便秘だという患者さんに、背骨だけ治療しているというのも 
   物足りない。ぽ一んとアジャストして、はいサヨウナラ、 
   というのではなく、他に何かできることはないのかなと、 
   内臓を積極的に治療するやり方はないのかなと勉強 
   していたら、CMRTというのがあるということを知りまして、 
   ここに各内臓に向けた治療の仕方があると、それを勉強したい 
   というのがあって、本格的に学び始めることになりました。 

   SOTというのは、私の考えでは、ディジョネット流の 
   オステオパシーということではないかと思います。 
   ディジョネット博士が若いころ学んだオステオパシーの 
   各技法を自分で集大成し、そうして、カイロプラクティックに 
   持ってきたのがSOTだと言って間違いないのではないかと 
   思いますね。四肢テクニック、内臓マニピュレーション、 
   頭蓋骨療法もあれば背骨を治すためのブロック療法もある、 
   全身色々な所を治療するわけです。オステオパシーも全身 
   色々やっていますね。 

本誌 ではディジョネット博士というのはオステオパシーでも有名 
   だったのですか。 

前田 オステオパシーで有名という訳ではなかったようですが、 
   例えばサザーランド博士等とも親交があったようですね。 

本誌 今日本でSOTを勉強しようと思うとPAACにしか門戸はありませんか。 

前田 公式に認められているのに加えて、アジア関係のことはPAACに 
   一任されていますね。 

本誌 PAACに入らなければならないという訳では…? 

前田 いえ、入会しなくても、PAACの主催するセミナーを受ければ 
   いいでしょうね。初心者用のコースもあったはずです。べ一シック、 
   アドバンス、頭蓋骨療法の三段階に分けて毎年やっているはずです。 

本誌 先生はSOTの入門編といったものを、PAACからという形で出される 
   ことはないのですか。 

前田 すでにこういう類の本はありますからね。私ごときが入門など 
   書くよりも、原著者の書かれたものの翻訳書を買って読んで頂いた 
   方が余程いいかもしれません(笑)。 

      カイロプラクティックを目指す人へのアドバイス

本誌 これからカイロプラクティックを目指すという人に何か…? 

前田 技術というのは、何もカイロプラクティックに限らず、どんな 
   技能であれ、一に根気、二に根気、三四がなくて、五に根気ということ 
   ですね。根気がないと駄目です。諦めないことですよ。喰らいついて 
   離れないぐらいの粘りと根気があれば何とかなりますね…私のこの 
   20年を振り返ってみますと。 

   例えば翻訳にしても、原本を見てみますと、大学生や高校生レベル 
   でも読めるような平易な文章で書かれていることが多い。構文は簡単 
   ですからそれほど難しい文章ではないんですね。カイロプラク 
   ティックを勉強していて、医学用語など、ちょっとした専門用語を 
   知っていれば、「こんなの簡単じゃないか」と思えるものです。 
   ですから、たかだか数ページ程度でしたら訳すのは簡単でしょう。 
   ですが、これを最初から最後までやり通すだけの根気がある人と 
   いうのがなかなかいないので、私のような者がやっていると 
   いうことです(笑)。 

   振り返って考えてみると、私がこれをやっているのは多分に  
   根気の良さ、粘り強さ、途中で諦めない、投げ出さない性格の 
   おかげのような気がします。それまでは自分がこんなことに向いて 
   いるとは思ってもみなかったんですが、やってみるとそこそこ 
   やれましたし、他になかなかやってくれる人もいなかったので、 
   相対的に見れば自分も根気のある方なのかなと思います。諦めないと 
   いうか、しつこいというか(笑)。それがカイロプラクティックの技術を 
   習得する上でも役に立っているという気がします。 

作者の治療室

本誌 普段の臨床で使われるテクニックというのは…? 

前田 SOTばかり訳しているので、私はSOTしかやらないものと 
   皆さん遇っておられるようなんですが、実は私はガンステッドが 
   得意なんです(笑)。 

本誌 そうなんですか。 

前田 ガンステッドが得意というというか好きなんですよ。 
   ハーモニックというテクニックも使いますが…ガンステッドも 
   SOTも使いますし。どちらか好きかと言われるとガンステッドです。 
   ターグルというのもありますけどね。お陰様で塩川スクールで 
   色々なテクニックを一通り教わることができましたのでね。 

本誌 最近はカイロプラクティックの翻訳書が沢山出版されていますね。 
   勉強するには不自由しないですね。 

前田 最近は本が多いから勉強する人は資料を入手するのに困難と 
   いうことはないですね。お金さえあれば入手できますから。 
   昔はお金があっても買う本がなかったですからね。 

本誌 20年前と今とでは随分違うと。 

前田 状況は変わりましたね。ただ、色々なテクニックが出てきました 
   けれども、頭で理解したからといって手足がうまく動くとは 
   限りませんので、これはやっぱり実践主義といいますか…。 
   手足がうまく動かないことにはうまく治ってもらうことが 
   できない…矯正は出来ないしアジャストも成功しない。 
   ですから結局は練習ということになりますね。根気よく練習を 
   続けていかないと、患者さんを治すまでには技術レベルは 
   上がりません。 

本誌 先生ご白身何か健康に気を使ってやっておられるようなことは 
   ございますか。 

前田 健康法といえば…食べ過ぎないことと、仕事をしない 
   ことですよ(笑い)。それに、十何年もずっと夜に翻訳を 
   続けていると、もう疲れてしまいました。翻訳の方は 
   そろそろ勘弁してもらい、引退しようと考えています(笑)。 

本誌 では先生は翻訳の方は…? 

前田 引退させて頂きます。もう50歳ですから。老眼で小さな文字は 
   見えないわ、根気は続かないわで。特に45才を過ぎてからは、 
   大阪で夏場に翻訳をやると身体に堪えるようになりました。 
   夜も暑くて、とてもじゃないですがやってられません。 
   今年8月末までこの(両面を見せて)モジュールの翻訳を 
   やっていて懲りました。 

本誌 ではこれからの目標などは…? 

前田 遊んで暮らす。ぐうたらぐうたらと。睡眠をよく取って、 
   仕事をしない、これが目標です。 

本誌 それは素晴らしいですね。本日は貴重なお時間、本誌のために 
   ありがとうございました。 

注1:PAAC=パシフィックアジア・カイロプラクティック協会 
注2:SOT=仙骨後頭骨テクニック(Sacro Occipita1 Technic) 


line2

☆☆☆  目崎・前田両氏に聞く  ☆☆☆


  米国ロイド社の極東総代理店である江崎器械(株)の
  江崎健三社長が、ロイド・テーブルのユーザーである
  PAAC(パシフィック・アジア・カイロプラクティック協会)の
  目崎勝一氏と前田滋氏に、翻訳に際しての苦労話や、
  これからカイロを学ぶ人へのアドバイスなどについて
  聞いてみた。

<目崎・・・特有の用語に苦労>

             <翻訳は最初自分のために・・・前田>

(前略)

江崎  本題に入りますが、先生方が、はじめにカイロを志された動機を 
   お聞かせ下さい。

前田  手短に言いますと、ミイラがミイラ取り(?)になったと言うのに 
   近いと思います。私自身、長年腰の調子が悪かった。最初に腰が 
   痛くなったのは中学二年の頃でした。原因はきつい運動をしたり、 
   姿勢が悪かったりということだったんでしょうけれども。 
   お決まりのコースで整形外科へ行ってレントゲンを撮られ、 
   何か訳の分からないことを言われました。そして痛みがひどくなる 
   たびに、人づてに聞いてあちこちの鍼灸院や接骨院へ通うような 
   ことを繰り返しながら、大学を終えて就職しました。 

   入社して一年たった頃に、カイロプラクティックという治療が 
   あると言うのを知って、それで紹介されたところへ治療に通いだした 
   わけです。それがまた劇的に効いたのです、私の場合は。普通なら、 
   ああよく効いた、それで万々歳でそのままなんでしょうけれども、 
   どういうわけか、この技術をマスターしたくなり、それで資格を 
   取るためにまず夜学に行きまして、その後カイロの学校に入学した 
   ということです。 

江崎 おいくつのときに。 

前田 資格を取る学校、長生学園に入学したのが27歳のときです。 
      スタートとしては非常に遅いほうです。 

<整形外科療法では納得ができずに・・・>

江崎  目崎先生の動機は? 

目崎  前田先生と同じで自分自身の腰痛がきっかけだったんです。 
      同じように整形外科へ行きまして、いろいろ治療を受けました。 
      どういう治療かというと、牽引療法と低周波療法と温湿布です。 
      レントゲンを撮ってみたら非常に曲がっていた。 
      それで一応入院して牽引しましたら非常に真っ直ぐになりました。 
      しかし、症状は依然痛くて我慢できないくらいだったのです。 

      そのときの整形外科の先生いわく、東京オリンピックの金メダリスト 
   三宅選手は脊椎分離症でも重量挙げで世界記録を出している。 
   君の腰痛は精神的なものだと(笑)。あなたも少しいろいろな運動を 
   しながら自分を鍛えて腰痛を克服しなさいと言われました。しかし、 
   自分自身は結構運動していたものですから、この言葉は非常に心外 
   だったわけです(笑)。 

      それで納得いかないと思って、自分で腰痛に関していろいろ 
   本を読み出したんです。でも、あまり良い本がない。理屈が 
   どうしてもわからない。あるのは指圧の本とかそのたぐいの 
   本です。そういう本を買ってきて読み、わが家の母親も腰痛 
   でしたので本の通りにやってみた。そうしたら、動けなかった 
   母親がその場で立ち上がったわけです。非常に不思議な体験を 
   しました。自分が本を読みながらやってもこのような効果が 
   あるのに、病院で精神論を聞かされるというのは、おかしい。 
   今の医療におかしなものがある。そういうことがきっかけで、 
   医療と言うのは整形外科的な考え方以外に何かあるんじゃないか 
   と。最初は鍼灸の治療を受けました。そうしているうちに鍼を 
   打ちながら背骨を矯正するという先生に出会いまして、 
   非常に腰痛が改善しました。そういうことがきっかけで、 
   この業界に入ったということです。 


 <カイロを学ぶには本物の専門書が不可欠>

     <情報への飢餓感から翻訳を始める>

江崎  お二方は翻訳を何冊かお出しになっているんですが、 
      私なんかからすると、もし私に語学力があったとしても、 
      あれだけ分厚い本を訳すという大変な仕事を、まずやってみよう 
   とは自分自身思いません。先生方はその点、翻訳しようと思われて、 
   また成し遂げられたわけですが、その辺の動機と苦労話などを 
   お聞かせいただけますか。 

目崎  最初は先ずあちこちの本屋へ行き、カイロの本を探しました。 
      もちろん紀伊國屋とか丸善とかも行きましたが、カイロ関係の本は 
   ほとんどないんですね。また、図書目録でカイロ関係の英語の本を 
   探してもなかなか手に入らないんです。要するに情報の飢餓状態 
   なんです。 

      そういう飢餓状態の中で、たまたま手に入った最初の本が 
      「ローガン・ベイシック・テクニック」という本でした。 
      手に入れたときはその本が宝物のように思えました。 
   そしてそれを翻訳し始めた。読んでいると非常に 
   おもしろいんです。 

      それがきっかけになりました。前田先生とほとんど同じ頃で 
   15年前くらい前のことになります。その当時、英語のカイロの本が 
   ほとんど手に入らない。ですからそれが運よく手に入ったときには、 
   とにかく端から端まで読んでいきました。しかし英語があまり 
   得意じゃありませんので、読んだだけで理解するという訳に 
   いきませんで、結局なぐり書きのようにして訳してゆくという形を 
   取りました。そういう風にして読んでいったんです。必要性が 
   あったということと、情報の飢餓状態であったということで翻訳を 
   始めたようなことですね。 

江崎  翻訳をなさるときに苦労された点というのは? 

目崎  カイロプラクティック独特の用語ですね。 
      それからカイロの業界では用語の定義自体があまり厳密に 
   行なわれていないんです。同じことを表現するのに違う言葉を 
   用いたりする。そうすると我々としては非常に混乱するんです。 
   その前に大きな問題は我々の語学力がちょっと足りなかった(笑)。 

前田  足りなかったというじゃなくて、今でも足りないんじゃないか 
   という、そういう危惧を抱きながらやっているんです(笑)。 

目崎  そう思いながらも、知識欲の方が先行してしまったということ 
   ですね。一番苦労したのは、そういう用語の問題でしたね。 
   あとはリスティングが各テクニックの間で統一されていない。 
   そういうことでテキストを読んで理解することに当初混乱が 
   あった。その点も大きな問題でしたね。 

   <最初は自分の勉強のために翻訳を始める>

江崎  前田先生にも同じ質問なんですが。 

前田  いろんな分野で文献学というのがありますよね。 
      あることについて過去を振り返ってみる、あるいは現在の最新の 
   情報を得るために文献を検索して閲覧するという。私は大学の 
   専攻が化学でしたが、そういう文献学の訓練を受けてきたわけです。 
   自分の研究している分野で、他の人達がどのあたりまでやっているか、 
   どういうようなことを目指してやっているかを調べるために文献を 
   常に調べながら自分の研究を進めるということを常にやかましく 
   大学時代の先生から言われていたわけです。 

      そういうことを踏まえながら、私が勉強し始めた当時の日本の 
   カイロ界の状況を見ますと、日本語の文献というのはほとんど 
   なかった。英語の文献と言うよりテキストそのものが先ず手に 
   入らないと言う状態だった。アメリカに留学しないで、国内で 
   カイロを勉強したいと思っている人たちは、米国に留学して 
   帰って来た先生たちから、セミナーなどを通して口づてで 
   教えを乞うという状態だったのです。で、こういう状態は 
   かなりおかしいのではないかと私は思いました。 

      自分自身の勉強のためもあって、なんとかしてカイロの 
   一次情報、米国の文献・テキストを読みたい。人のためでも 
   何でもないんです。それで最初に手に入れたのが、SOTの79年版 
   テキスト。これをカイロの学校に通っている頃に手に入れまして 
   読み始めたわけです。 

   <英和辞書や医学辞書と首っ引きで>

      最初は通読しながら、ああそうか、こういうことかという感じで 
   読んでいましたが、その後、あっ、あのことはどこかテキストの 
   前の方に書いてあったな、というのを思い出すんですけれども、 
   どこに書いてあったのかすぐに出てこないんです。日本語の本 
   でしたら斜め読みができるからすぐ探せるんです。英語の本と 
   いうのは斜め読みができないんですよ。それで、これはちょっと 
   まずいなと思って、自分のために翻訳をしたわけです。それは 
   手書きで、その後、友達に清書してもらって、 
   お前にもやるからって。私、字が下手ですから(笑)。 
   そういうところから出発したわけです。 

      最初、私も語学の力がありませんので、常に英和辞書と 
   医学辞書が必要でした。おかげさまで最近は医学辞書の方は 
   あまり用いることがなくなってきたのですが、英和辞書のほうは、 
   相変わらず必需品です。いまだに1ページ読むたびに何度も 
   お世話になっているようなありさまです。 

      また、単に英単語を日本語に置き換えるだけでは意味の通じる 
   日本文にはなりませんので、同じような意味を現す日本語に移し 
   換えるにはどうすれば良いかということを常に考えながら翻訳 
   しているつもりです。しかし、英語の表現というのは日本語には 
   全くない表現法がありますので、それをどのような表現にするかと、 
   そこでしばらく作業が止まったりすることはありますね(笑)。 

江崎  ご苦労されてますね。 

前田  それから、カイロのテクニックの創始者である先生が書かれた 
   文章は、ある種の省略が結構あるんです。翻訳の際には、 
   そういうところを補わないと日本語の文章として通じないことが 
   ありますので、そのあたりで私たちの出る幕があるのではないかと 
   思っています。単に英語の堪能な方にテキストを訳してもらっても、 
   なかなか意味の通る日本語の文章にならないんじゃないかなと。 
   そういうところに私たちの入り込む余地があるのではないかと 
   思っていますけど(笑)。 

江崎  それはとても意義のあることだと思います。 

目崎  カイロの先生たちは理論家というよりも感覚的な人が 
   多いんですよ。理論的に積み上げていったという学問ではなく、 
   経験則の積み重ねの学問ですから、どうしてもそうなっちゃうん 
   ですね、特にSOTなんかそうですよね。 

   <基本に関する情報がまだまだ不足>

江崎  まだこれからも翻訳はずっとなされますか? 

目崎  自分にとって必要なものをどんどん訳していきたいと思います。 
      また、いままでカイロにおいて、翻訳対象になっているのは、 
      ほとんどテクニックなんです。テクニックもいろいろ日本に 
   紹介されてきており、資料もたくさん増えました。でも、 
   もっと基本的な要素が不足しています。たとえばサブラク 
   セイションはどういうメカニズムなのか、そういうことが 
   判らないわけです。より基本的な問題にかかわるような資料が 
   あれば、我々としてはまことに喉から手が出るほど欲しい情報 
   なんです。そういう情報に関しては、日本は十五年前と 
   全く同じ状態ですので、これからもずっと翻訳を 
   続けていきますけどね。 

江崎  昨年の11月25日にカイロ連合会ができて、これからますます 
   カイロを勉強される人が多くなってくると思うんです。 
   そういう人たちに向けて、先生方から何かアドバイスとか、 
   望まれることはありますか。 

目崎  いきなりテクニックから入るのは結局遠回りになると思います。 
      一番基本的なことは、テクニックではなく診断力をいかに確実に 
   ものにできるかということです。我々が対象としているのは 
   骨格ですから、骨格の機能障害を確実に診断できなくてはいけない。 

   そういうことが確実に判定できるようになれば、テクニックは 
   自ずと後から付いてくる。しかし、それが判定できないなら 
   テクニックに振り回されてしまう。ですから非常に地味な 
   ところから勉強を始めていただきたい。 

      そうすることが、カイロの本当の面白さを体験できる一番の 
   近道だと思います。その地味な世界を怠るとカイロの 
   素晴らしさは永久に判らないだろうなと。ただテクニックの 
   セミナーに出て学ぶというよりも、まず基本的な形を 
   身につけてもらいたい。 

      それには、たとえば我々の協会のUCCとか、そういう学校に 
   入っていただくのが一番近道で、そういうところの基礎的な 
   セミナーをまず受けていただいて、基礎を積み重ねてゆく。 
   その中で少しずつテクニックに入っていくという形が 
   ベストだと思います。 

  <正しいテクニック伝えるセミナーを>

江崎  同じ質問ですが、前田先生。

前田  私は目崎先生と少し考え方が違います。テクニックを学ぶことは 
      とても大切だと思います。テクニックばかりが先行しているから 
   基礎へ戻ったほうがいいという意見をよく聞きますが、それは 
   正しいテクニックを伝えるセミナーが日本で少なすぎるから 
   出てくる意見だと考えています。ですから、テクニックを 
   正しく伝えるセミナーを増やせば良いと思っています。 

      カイロというのは治療の技術体系ですから、技術が身に 
   付かなければいくら理屈がわかっても治るものも治らない。 
   実践哲学ですから、カイロは。逆に言いますと、理屈は 
   わからなくても実践できれば治る可能性はあるわけです。 
   私もいままで何度かそういう経験をしたことがあります。 
   何か判らないけど治っちゃったと。しかし、それだけに 
   ぶら下がっていては駄目なんです。診断の技術も含めて、 
   あらゆる技術を高めるということを意識しながら、 
   特に名人クラスの先生の技を「盗む」ということを意識して 
   勉強していただきたいと思います。 

      そして書物で勉強するときには、二次的な資料ではなくて、 
   米国の一次資料を手に入れていただきたい。あるテクニックを 
   勉強するなら、それを創始した先生が書かれたテキストで 
   勉強していただきたい。そのための翻訳を、これまでに我々が 
   行なってきており、カイロのテクニックに関する翻訳書は 
   ずいぶん増えてきました。だれかがあるテクニックを 
   解説したというような本で最初の勉強を始めるというのは、 
   決して勧められる姿ではない。 

      日本に帰ってこられた先生たちが50人近くいらっしゃると思います 
   けれど、その先生たちが一人一冊でいいから英語のテキストを 
   翻訳して下されば、五十冊の日本語のテキストができる。しかし 
   現状はそうではなくて、ご自分の名前で書いた本が出版されている。 
   ひどいのになると、どう見ても売名行為としかいえないような、 
   ずさんな内容の本が出版されていることが多い。こういう本が売れる 
   ということは、とりもなおさず日本のカイロ界のレベルが依然として 
   極めて低いことの証明になっているように思えるんですが。こういう 
   悪書を駆逐するためにも、もっと第一級の翻訳資料を増やしたほうが 
   日本のカイロ界にとって、ひいては国民の健康にとって良いことだと 
   思っています。 

江崎  前田先生自身が本を書かれるのはまだずいぶん先ですね。 

前田  こういう考えですから、今のところ私自身がカイロの本を 
   書くなどとは全く考えておりません。私なんかが書くよりは、私が 
   翻訳して第一級の資料を日本語にしたほうが日本のカイロの発展の 
   ためになると思っていますので。お金にはなりませんが(笑)。 


   <地道に足元を固める努力が第一>

江崎  業界全体に対するリクエストを聞かせて下さい。 

目崎  我々が社会においてカイロを認めてもらおうと思うなら、 
      厚生省を動かすよりも何よりも、厚生省が依頼している整形外科の 
   先生方を納得させなければならない。そのためには、てんでん 
   ばらばらな治療では困る。すなわち再現性のある治療を行なわ 
   なくてはいけない。一人の患者に対して複数の治療家が異なる診断を 
   下して異なる治療を行なってしまうなんていう現状では整形外科の 
   先生方を決して納得させることはできない。 

      したがって、我々としては基本的な問題で同じ結論が出るような、 
   もっと地味な世界で、同じ答が出るような人々の集団であってほしい。 
   そういうようになれば、社会に対してある程度我々の存在を主張する 
   ことができる。しかし、そこまでいっていないなら、まだまだ我々は 
   地道な努力を続けなければならない。まず第一に足元を固めてほしい。 
   翻訳をしていると、そのことをつくづく感じますね。 

前田  ほとんど目崎先生がおっしゃった通りですけれども、 
      これから日本のカイロが今まで以上に国民にも受け入れられ、 
      お役所にも受け入れられるようになるには、やっぱり永田町で 
   やっているような派閥争いのようなことをいつまでもやっている 
   ようでは駄目でしょうね。 

江崎  両先生、今後も頑張って下さい。 
   本日はどうもありがとうございました。 


目崎勝一氏の略歴
 1972年:中央大学商学部卒業、 
 1980年:東京鍼灸柔整専門学校卒業、 
 1981年:シオカワ・スクール・オブ・カイロプラクティック卒業、 
 PAAC関東支部長歴任後、現在PAAC理事。東京・世田谷にて開業。 
 主な翻訳書に「頭蓋仙骨治療」、「CMRT」、「SOTセミナー・ガイド」 
 (いずれもスカイ・イースト刊)がある。 


カイロプラクティック・アーカイブ:表紙へ
著作権所有(C) 1996-:前田滋(カイロプラクター:大阪・梅田)