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大東亜戦争
日下公人による戦争設計

2025年9月28日

始めに
この記事は、日下公人著「人間はなぜ戦争をするのか」(クレスト社 1996年) 中の、大東亜戦争に関する「戦争設計」の部分を抜粋したものである。 「あと出しジャンケン」と言う人がいるかもしれないが、かなり冷静かつ 卓越した国際情勢の判断がなされているので、それを多くの人に知ってもらいたいと 願っている。今年はちょうど戦後80年なので、先の戦争を振り返る資料として 格好の材料になると考える。また、古書であれば入手容易なので、 ぜひ原本の一読をお勧めしておく。
なお、下記のサイトも同じような分析を展開しているので参考にされたい。
"太平洋戦争の盲点とその戦略的解答:長沼伸一郎
☆日本が開戦に踏み切った理由は石油のためだったのか?
「対米(英・蘭)戦を辞せざる決意」を謳った「帝国国策遂行要領」を採決した 昭和16年9月6日の御前会議の席上、企画院(現在の経済企画庁)総裁は、 液体燃料(石油)について「一切備蓄に頼る他なくなり、我が国力の弾発性は 日毎に弱化し、海軍は2年後には機能を失い、我が重要産業は極度の戦時規制を 施しても1年以内に麻痺状態になることが判明した」と報告し、 「南方諸地域の要地にして3、4ヶ月の間に確実に我が領有に帰しますれば、 6ヶ月内外から致しまして石油、アルミニウム原料、ニッケル、生ゴム、 錫等の取得が可能」となると述べた。

しかし、その当時、陸軍省燃料課にいた26歳の青年将校で、 石油備蓄量の試算を担当した高橋建夫氏は自著「油断の幻影」(時事通信社)の中で、 「これは正しい計算ではなかった。少しオーバーな計算ではなかったか」と書いている。
試算では、
1.陸海軍の石油手持ち量を算出し、次に、
2.平時の年々の消耗量を差し引き、
3.開戦後の作戦所要量を陸海軍別にそれぞれ概算し、
4.最後に南方からの石油還送見込み量を加え、2年後、3年後の 年末手持ち量とする
という簡単な足し算と引き算だが、それが簡単ではなかったと書いている。

まず手持ち量だが、昭和15年から16年にかけて、ルーズベルトは日本に石油を 大量に売っていた。イギリスの妨害でオランダから石油を買えなくなった日本に 売りまくったのである。そこで昭和15年から昭和16年の春まで、日本は石油を 大量に買いつけた、アメリカがなぜ石油を売ってくれたのか。 その理由の第一は、商売のためである。 理由の第二は、日本が対米戦に立ち上がる決心がつく程度に、 ほどほどに見計らって売ってくれたのではないかと高橋氏は書いている。 つまり、開戦当初の日本には大量の石油があった。これだけあれば 一戦交えてみようかというくらいの手持ち量だった。 日本がギリギリ立ち上がるところまで待って禁輸に踏み切ったのだとしたら、 「日本の伸長を叩くという本来の目的にかなってお見事でした、 と言うべきなのであろう」と。

高橋氏は入省わずか2年後に突然、陸軍省燃料課に配属となり石油備蓄量の 試算を担当させられた。この仕事には前任者がおらず、 つまり陸軍省は、このような想定をしていなかったということだ。 「日本は戦争を準備していなかった」という証拠になる話である。

仕事にとりかかって、最初に陸軍の石油の備蓄量を調べるが、軍事機密だ ということで調べさせてもらえない。海軍省へ行っても同様である。 これは対米開戦を検討するための最も重要な資料だからと言っても、 きちんとした数字は教えてもらえない。仕方なく、高橋氏は推定で数字をつくった。 平時の使用量も推定で書きこんだ。そして、御前会議までこの数字が使われた。 素人がつくった数字が、そのまま全員の判断基礎になってしまったわけだ。

御前会議の席上、陸海軍の大臣は企画院が発表した数字を見て、 「わが省は、本当はもう少し余裕がある」と知っていたかもしれないが、 わが省はまだ余裕があるなどと言ったら損をする。国益より省益で、 敵はアメリカより陸軍であり、海軍である。

実際に石油が底をつくのは1年後なのか、それとも3年後なのかという計算を しっかりやらなければいけない。もし底をつくのが3年後なら、 ドイツがソ連やイギリスを相手に本当に勝てるかどうかの見極めがつくまで 待っていられる。慌てて南方に石油を取りに行く必要はなかった。 実際、ほんの2年間でよい、様子を見てからにしようということになっていたら、 1年半後の昭和18年には、ドイツがスターリングラードで大敗北するから、 そこでドイツの敗色を知ることができた日本は、対米開戦に踏み切れなかった はずである。

石油の備蓄量や使用量を極秘にしたり、実際と違って教えるのでは、 国家としての戦略が練れない。今でも霞ヶ関で繰り返されている光景で、 「省益あって国益なし」である。

ところが、開戦してみれば、初年度の南方石油還送量の予測は30万トンだったが、 実際は149万トンに達した(これですっかり安心した)。2年目は予測の250万トンに 対し、実績は274万トンだった。3年目(昭和19年)は予測の450万トンを 大きく下回り223万トンだったが、それまでの備蓄があったので作戦に 支障はなかった。

実際、石油不足で作戦をやめた例はないから、 日本は石油不足で負けたとは言えない。さすがに昭和20年からは、石油不足で 航空隊の訓練も休み休みになったが、その時はすでに敗戦が決定的だった。

これは戦争設計の基礎データが間違っていたという話である。 一般の常識では、日本は石油がないから開戦したことになっているが、 本当は石油がないと「思った」から開戦したのである。 負けた原因も「石油がないから」ではなかった。戦略、戦術のミスによって 負けたのである。

☆なぜ「ハル・ノート」は国民に公表されなかったのか
日米開戦にいたるまでの半年間、ワシントンでは日米関係打開のための 外交交渉が続けられていた。最大の問題は日本軍の中国からの撤退だったが、 日本は11月7日の「甲案」、および11月20日の「乙案」提出において 中国撤兵を容認する妥協案を示していた。

昭和16年11月26日、ハル国務長官が日本大使に提示したいわゆる 「ハル・ノート」の問題点は、甲案・乙案における日本の全面的な譲歩を一蹴し、 一方的な新条件を追加してきたことである。その条件とは、 当時、日本政府は蒋介石の右腕だった汪兆銘(おうちょうめい)に新政府をつくらせ、 それを中国の唯一正統の政府と認めていたが、それを白紙に戻せ、というものだった。

つまり、アメリカは交渉と妥結が目的ではなくて、単に日米開戦が狙いで、 日本を窮地に追い込む気であると日本は思ったのである。 それは第二項の四で、「日米国民は(蒋介石の)重慶政府以外のいかなる政権も 軍事的・政治的・経済的に支持しない」というものだった。

日本政府や軍首脳部はこれを読んでたちまちパニック状態となり、 これが最後通牒と「早合点」して開戦を決意したのであった。 まさにアメリカの術にはまってしまったのである。 粘り腰でじっくり交渉を続け、状況の変化を待つ、という態度が見られない。

この状況は「令和のコロナ禍」と似たような状況だったのではないかと、本サイト管理人はみている。 大昔から日本は「島国」で、外的脅威と向き合い、折衝したり、攻防戦を 繰り返す経験がほとんどないまま2千年近くをすごしてきた。そこでは 「和をもって尊しとなす(聖徳太子)」を基本理念として「仲良しクラブ」的な国の運営を 行なっていればよかった。この傾向はいまの日本政治にも当てはまることで、 優秀な国の指導者は必要なかった。もっと露骨にいえば「ボンクラ」指導者でも実務者が しっかりしていれば何とかなっていた。したがって、このような状況に陥ると過剰におびえ、 慌てふためくことになる。そのあとに続くのは国をあげての「集団ヒステリー」だ。

このような「外圧」の例としては、最近では「コロナ禍」騒動がある(この時には特にテレビが 「オオカミ少年」となって過剰に恐怖を煽った)。古くは元寇(1274年と1281年)があり、 幕末のペリー来航、日露戦争中のロシアウラジオ艦隊(3隻)の本土接近、 直近ではイギリス国営放送(BBC)による日本の芸能事務所に関する性的不祥事の キャンペーン(2023年)など、日本首脳部や日本国民は、外国からの干渉に対して過剰に怯え、 ヒステリーを起こす性癖がある。何かあるとすぐ頭に血がのぼり、国をあげての大騒動となる。 まさに国中が「瞬間湯沸かし器」と化すのである。

話がそれたが、日本はハル・ノートを世界に公表して、アメリカはこんな 無理難題を押しつけていると国際社会の世論に訴えればよかった。 そしてハル・ノートの条件を飲む。条件を全部飲んで、 それから実施に関する細目の外交交渉を続ける。 もしもアメリカが重ねてもっと過酷な条件を押しつけてきたら、 そのうえで戦争を始めればよかった。または、粘り腰でさらに交渉を 長引かせればよかった。

ところが、ハル・ノートは公表されなかった。国民には知らされなかった。 東條内閣は、ハル・ノートを公表したら雪崩をうって世論が受諾へ傾くことを 恐れたのだ。

日本陸軍は自分たちが暴走して中国における紛争を大きくしたことを 知っているから、撤兵となれば国民から貴任追求されることを恐れた。 これすなわち日本の国益そっちのけで、日本政府、陸軍のメンツを重んじたのである。

戦争が始まってからでもハル・ノートを公表すべきだった。 アメリカはこんな無理難題を言っているという国際宣伝をすればいいのに、 これをやらない。公表して、こんな条件を飲めるわけがないから 仕方なく戦争をしていると言えばよかった。

しかし、そういう宣伝をすると、海外の各国政府には通用しても、 日本の国民が「それだったら、ハル・ノートを受け入れれば よかったではないか」と言い出す恐れがあった。軍部の体裁のために、 巨大な犠牲が生まれたのである。

ハル・ノートが日本に対して過酷であるとの指摘をする人はたくさんいる。 たとえば駐日英国大使クレーギーは開戦後ハル・ノートを読み、 交換船でイギリスヘ帰国後、昭和18年2月、イーデン外相に報告書を 提出し、「乙案を検討せず、突如ハル・ノートを突きつけたアメリカが 開戦の原因をつくった」と書いた。これを読んだチャーチルは激怒したと、 日米関係史の研究では第一人者の国際政治学者・細谷千博さんは書いている。

アメリカ国内でも、開戦後ハル・ノートを読んで 「こんな大雑把で抽象的な要求のためにたくさんのアメリカ人が戦ったのか」 と国民は思ったらしい。ハル・ノートに書いてあることは大正時代から アメリカが折に触れて演説してきた理念の繰り返しだからである。

☆石油獲得の目的があいまい
「開戦の詔書」には、「帝国は自存自衛のため、蹶然たって一切の障害を 破砕するの外なきなり」と書かれている。大東亜戦争の目的は 「自存自衛のため」である。だとすれば、オランダの石油をとった時点で 戦争目的は達したことになる。石油を抑えたらすぐに、 「引きつづきこの石油を供給してくれるなら戦争をやめる」と 宣言すればよかった。ところが日本政府、大本営はそれをしなかった。 この点においても国家戦略がないことの証である。

☆ドイツとの連携ができていなかった
また、ドイツが負けそうになった時にどうするのか、ということも 考えるべきだった。ドイツが勝てそうもないと分かってからも、 何もしなかった。頼みの綱のドイツを勝たせるように支援するべきだった。

たしかに、ソ連を後ろから攻撃しようという案はあった。 昭和16年夏の関東軍特種演習(関特演)は、その下準備だった。 ところが、昭和16年9月、ソ連攻略は結局中止になった。 シベリアをとっても石油はないからである。南方へ攻め込まなければ 石油がない。放っておいても、ドイツがソ連を崩壊させるなら、 わざわざ苦労する必要はないと日本陸軍は考えた。

もしも昭和16年に、ソ満国境でソ連に攻撃を仕掛けていたら、歴史は変わった。 どこでもいいから攻撃すればよかった。たとえ局地戦で大敗しても かまわなかった。なぜなら、ソ満国境にいたソ連の名将軍ジューコフと その大部隊が、モスクワに戻れなくなるからである。 日本が攻めてこないという情報を入手したジューコフはモスクワに戻り、 以後、ソ連の戦争遂行の中枢にありつづけた。

あるいはソ連側に「日本が近々、ソ満国境を越えて攻めてくる」という ニセ情報を流すだけでもよかった。だが昭和18年2月、とうとうドイツ軍は 16万人の兵士を失ってスターリングラードから撤退し、攻防戦が終わる。 日本軍も、ちょうどその2月にガダルカナルから撤退。 以後、日独は敗退していく。

昭和17年には、ドイツは勝てそうもないことが見えてきた。 その時点で長期戦略再検討会議が開かれるべきだった。 にもかかわらず、何もしていない。

☆戦争終結の方法を知らなかった日本
戦争には攻勢終末点というものがある。第二次世界大戦では、 それがスターリングラードとガダルカナルだった。 攻勢終末点がはっきりしたのは、昭和18年の1月頃だ。しかし、 それは半年前に分かったことである。その時、なぜ今後の方策を 練らなかったのか。なぜ大本営が対策を講じなかったのか。 これは東條が無能だったという以外に説明がつかない。 彼の大失態である。宰相の器ではなかった。

昭和20年5月にドイツが無条件降伏をした時、大島浩駐独大使など ドイツ必勝論を唱えた人は全員が切腹するか辞職すべきだった。 全員辞職し、英米派に交代する。そうなればトルーマン大統領は 原爆を使えなかっただろう。さらに言えば、そこで日本国民は裁判を 起こすべきだった。日本国民が自分の手で戦争犯罪人を裁く。 日支事変の拡大論や、ドイツ必勝論を唱えた人を全員、法廷に引き出し、 その判断の誤りを問うべきだった。

昭和14年まで駐英大使を務めていた吉田茂は「ドイツは負けて、 イギリスが勝つ」というレポートを送ったが握り潰されている。 戦後、吉田は首相になったが、ドイツ派の責任については何も言わなかった。 個人的な美学としてはそれでもよい。しかし、国家としては処置を採るべきだった。 そこを曖昧にしたために、戦後、無責任社会ができてしまった。

☆大東亜戦争における最大の失敗はアメリカと戦ったこと
理由は単純明快、勝てないからである。日本はイギリスとオランダとだけ 戦争をすべきだった。それならまだ勝ち目があった。 日本の戦争目的は、石油の獲得だったが、それを解放戦争にするため、 昭和18年11月には大東亜会議を開いて、植民地解放を掲げた。 しかし、すでに遅かった。開戦当初から植民地解放という建前を掲げるべきだった。

☆戦争の大義名分を忘れていた
昭和16年8月、ルーズベルトとチャーチルは大西洋上で会談し、 大西洋憲章を発表した。内容は第一次大戦の時、ウィルソン大統領が 宣言した21ヵ条にならって、戦後の新世界秩序を宣言したものである。 その中に謳われていたのは、一つは自由貿易を守って世界経済を 発展させなければならないということ。 もう一つは民族自立、民族自決である。民族は自治権を持っており、 植民地は解放されるべきだ、というのである。

チャーチルがロンドンヘ帰ると、英国議会で大西洋憲章について質疑される。 ビルマやインドを解放する気なのかと聞かれて、チャーチルは 「大西洋憲章の総論には賛成だが、各論としてインドとビルマは除く」と 答弁している。

だから昭和16年12月8日に開戦するにあたり、 「日本は民族解放のために戦う。大西洋憲章と同じ目的である」と 開戦の詔書に書くべきだった。植民地解放のためにオランダと戦うと いうことにすればよかった。

日本が民族自決のために戦っていると宣言すれば、イギリスは危機に陥る。 チャーチルは、植民地は解放されるべきだが、インドとビルマは別だと 言っている。完全な矛盾である。それをアメリカ人全体に大規模に 宣伝すれば、アメリカはイギリスと手が組めなくなる。 ハル・ノートを全面受諾してアメリカの参戦理由をなくし、 それからオランダとイギリスに宣戦布告する。表向きは植民地解放で、 独立した新政府から石油を獲得するのが本音である。

ルーズベルトが最も恐れたのは、日本が「有色人種を解放するために戦う」と 宣言することだった。だから、昭和18年に蒋介石を連合国の一員に加えたのである。 大義名分として、「連合国陣営にも有色人種がいるのだから、 これは人種間戦争ではなく民主主義とファシズムの戦いである」 と言うためである。

昭和12年の時点で、世界で最もファシズム路線の国は中華民国である。 蒋介石がいちばんファシストだった。ヒトラーもムッソリーニも、 その当時の蒋介石にくらべれば、ファシストとしてはまだまだ 可愛いものだった。

日本の場合は、「アメリカと戦争する気はない」という路線で 準備を行なうべきだった。そのための準備計画を綿密に行ない、 それに沿った戦い方をすべきだった。

それなのに、なぜ一挙に真珠湾を攻撃したのか。また、真珠湾攻撃した後も、 なるべくアメリカを刺激しないように戦うべきだった。 それを、陥とす必要もないラバウル(オーストラリア領)などに 進出(昭和17年1月)して、シドニーを欲しがったりするから、アメリカは 懸命になって太平洋に出て来た。

☆大東亜戦争における戦略構想
オランダ・イギリスに先に手を出させる方法もあった。 そのシナリオは次のようになる。

オランダは日本へ石油を輸出することを拒否していたが、日本はタンカーと それを護衛するための連合艦隊をスマトラ(オランダ領)へ派遣する。

代金は払うと宣言し、実際にスイスの銀行に振り込む。日本は石油が 絶対に必要だが、できるなら平和的に買いたい、という建前にする。

もちろん、オランダは「それは侵略である」と主張するだろう。 オランダから宣戦布告をしてくるかもしれない。そうなればイギリスが 参戦してくることも考えられる。とにかく、イギリスとオランダから 宣戦布告が出されるまで、どんどん石油を強奪するが、金は払いつづける。

タンカーの護衛に連合艦隊が南下して行けば、イギリスの軍艦が出てくる。 イギリスの名目はオランダの救援である。日本は「これは国家の生存をかけた 自衛の戦争である」と宣言し、向こうが先に撃ったら、 応戦して沈めればいい。そこで「帝国陸海軍は今8日未明東南アジアにおいて 英蘭軍と戦争状態に入れり」と宣言する。金を出しても石油を売らないといぅのは 大西洋憲章違反であるとも主張する。

先に述べたシナリオでは、すでに日本はハル・ノートを受諾しているから、 アメリカには介入する大義名分がない。ルーズベルトが大西洋憲章で 宣言したとおり、日本も植民地自立に協力をすると言っておけば、 当分動けない。日本はビルマ・インドは独立すべきだという ルーズベルトの考えに賛成であると表明する。

そして、すぐにシンガポールを陥としてビルマとインドを攻略する。 米国領だったフィリピンには手を出さない。おそらくアメリカは悩むだろう。 日本はフィリピンには上陸してこない。アメリカの議会は、 なぜイギリスとオランダを助ける必要があるのかと紛糾するだろう。 こうして参戦を決定するまでには時間がかかる。

もしもアメリカの大軍がフィリピンに上陸して日本と南方の交通を 遮断しようとすれば、そこではじめて局地紛争としてアメリカと戦う ことになる。日本はフィリピンに対するアメリカの補給を遮断する。 アメリカ海軍がフィリピンを助けるために出てくれば、やることは単純だ。 敵の来る場所は分かっているから、そのためだけの決戦が起こる。 こちらは十分に待ち構えていて、短期決戦で戦えばいい。

もともと日本海軍は東京砲撃にやってくるアメリカ艦隊と小笠原沖で 決戦をする予定だった。そのために「月月火水木金金」といわれた 猛訓練を積んでいた。小笠原沖で決戦になれば、阿吽の呼吸ですべてが うまくいく。

小笠原沖決戦なら、勝つ可能性のほうが高い。これに勝てば、 連合艦隊はインド洋に進出する。

☆インドへ
その後は、連合艦隊をインド洋に展開させれば、絶対に無敵である。 インド洋にいたイギリス艦隊はたいした勢力ではなかった。 実際に、昭和16年12月、最新の戦艦プリンス・オブ。ウェールズと 高速戦艦レパルスが、日本海軍に撃沈されている(マレー沖海戦)。

昭和17年、セイロン島へ出撃した日本海軍は、航空母艦ハーミスと 重巡洋艦ドーセットシャーとコーンウェルを撃沈し、イギリスの軍艦は インド洋には一隻もいなくなった。残りの船はアフリカに逃げ帰っていった。 あのときなら、インドは簡単に占領できる。インド人は独立に立ち上がって 成功する。

昭和17年にガンジーは、日本待望論の演説をしている。 日本は、「インド独立の神様」チャンドラ・ボースに自由インド独立仮政府を つくらせ、その独立政府を支援する。自由インド政府の国旗をつくり、 チャンドラ・ボースに零戦を百機貸し、これに自由インド政府の国旗を 貼りつけて飛ばす。

その後ろに目の丸をつけた零戦が百機飛ぶ。合計2百機に二個師団をつけて マドラス、カルカッタに上陸すれば、全インド人が一夜にして立ち上がる。 そうなれば、イギリス軍は行動できない。

インドが独立すれば、イギリス国民はチャーチルを政権の座から 引きずり降ろすだろう。チャーチルの強硬路線がドイツと日本を 立ち上がらせ、いちばん嫌なところを突かれたことになる。 インドを失えばイギリスは貧乏国に転落する、というわけだ。 「ここは早く日本と講和条約を結ぼう。オランダを助けている場合ではない、 ぐずぐずしているとアラブの石朋を全部失ってしまう。サウジは日本、 イラクはドイツ、イランはソ連がとることになってしまう」 という声がイギリス中に沸き上がることになる。

そうなれば、イギリス政府はオランダを説得して、石油の安定供給を 日本に約束させる。それができなければ、当時イギリスの勢力下にあった イラクやサウジアラビアから、日本に石油を供給する。石油を売るから インドに手を仲ばすのはやめてくれ、ということになるが、もう手遅れである。

日本は聞く耳を持たずに、サウジアラビアまで攻めていく。そこまでいくと、 アメリカが黙っていない。そこをアメリカと全面戦争にならないように、 うまく交渉する。

いつでもサウジアラビアが占領できるようにしておいて、交渉の切り札にする。 かくてインドは独立国になる。

そうなればビルマとインドネシアは独立する。当然、マレーシアも独立する。 タイ国はすでに独立している。フィリピンはすでにアメリカから独立の予約を もらっていたが、それを早めてもらう。

アジア諸国に独立ラッシュが起こったら、韓国も独立させればいい。 韓国にも台湾にも、独立か現状維持かを選ぶ国民投票をさせる。 かくて、日本は植民地解放の父、有色人種の神様となり、 歴史の流れが一変したに違いない。


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