「様似・戦争の記録」第三集

エカルマ島に消ゆ
〜第五新栄丸撃沈事件

竹中 猛・森 勇二 共著 「様似・戦争を記録する会」発行

[この報告は、竹中猛と森勇二の共著である。具体 的には、主たる調査・聞き取りは竹中が行い、森が補 足的調査をした。なお、今後「様似・戦争を記録する 会」会員や町民の調査・情報提供を文章に組み入れる 際には了解を得た上で、調査・情報提供者名を記す。 報告の構成はふたりで協議し、編集は森が担当する]
中部千島の北緯四十九度・東経百五十四度付近に、 エカルマ島という総面積三一平方キロメートルの楕円 形をした島がある。様似町の十分の一にも満たない小 さな島だ。
中央に標高千百七十一メートルのエカルマ岳がそび えて、山裾は海に注ぎ込み、「島」というより、島全 体が「山」といってもいい。
昭和十九年九月三日午後四時頃、エカルマ島沖でア メリカ潜水艦の攻撃を受け、様似の漁民六名、浦河の 漁民二名が犠牲となった軍の徴用漁船・安中丸(やす なかまる)事件の稿を起こす。
森が、「北千島で鵜苫の漁民が攻撃を受け死んでい る」と聞いたのは「多宝丸の悲劇」(「さまに民報」 連載)の取材中だ。森は、竹中が「連載」の熱心な読 者であり、また「事件」犠牲者は竹中の居住する鵜苫 に多いこともあって、昨年十月、竹中に遺族などの調 査を依頼した。
竹中は最初、「簡単に事が足りる」と引き受けたが いざ調査にかかると、「事件」から五十年以上の歳月 が経過し、更に遺族が全国に分散しており、大変な仕 事であると痛感した。
しかし、竹中は「何とかこの作業を達成させねば」 と方々に電話をかけ、手紙も書き、近辺には直接出向 くなど、精力的に調査をすすめ、新事実が判明するた びに、一層のめり込んでいった。
「北千島」−このひとことに、竹中は大いに関心を そそられた。
「事件」当時、竹中はエカルマ島より北の幌筵(ホ ロムシロ)島(千島列島二十三島の内、エトロフ島に 次ぐ第二の島)に、「海上機動第三旅団(轟部隊)」 に所属して駐屯していたからだ。
当時二十二才の竹中は、身も凍る極寒の北方の島で の極限状態の中をくぐり抜けてきた。更に昭和二十年 三月、轟部隊に「沖縄転進命令」が下り、四月十九日 轟部隊第一大隊の乗り込んだ、輸送船「大成丸」が厚 賀沖で撃沈、六百五十一人が海に消えた。轟部隊第二 大隊に所属していた竹中は、この難を免れた。
竹中が、薩摩富士・開聞岳山麓にある農村、鹿児島 県揖宿郡潁娃村に到着した六月二日には「沖縄戦」は 終結していた。「もし、沖縄に行っていたら…」。
何度も生死紙一重をさまよった竹中は、今日、豊衣 豊食の時代を過ごしているが、亡き戦友たちに、一杯 の酒、一皿の料理でも、との思いが消えない毎日だ。
幸いに生き長らえたことに感謝の念を持ちながら、 「何をなすべきか」を考えた時、郷土・様似の町民の 戦争被害の記録がほとんどない中で、調査と証言を求 めて、できるだけ真実に近い記録を作成し、町民のみ なさんに知って頂きだくことが、使命だとおもった。 調査するなかで、遺族自身が真相を知らず、「詳し く調べて下さい。よろしく頼みます」といわれたり、 なかには、「子供や孫に話すにも、知っているのはほ んのわずかだけです。事件の全体がわかれば仏も浮か ばれます」と、帰りには、合掌して見送ってくれた人 もいた。また、残された子供の筆舌に尽くしがたい、 かわいそうな苦労も知った。
「聞き取り」をすればするほど、「真相を調べなけ れば申し訳ない」と、調査への思い入れが一層強くな っていく。今やらなければ永久にわからなくなる。
竹中は「自分はやりだしたら止まらない性格」といい 「父はロマンチスト」と家族はいう。

現在、様似戦争を記録する会会報に連載中です。

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