タニシの「ネパール奮闘記2012,14」
平成26年(2014) 12月 09日更新

石川タニシ先輩の、2012年と2014年のネパールでの記録です。
2010年以前の記録は、「ネパール奮闘記:1-7」 をご覧下さい。

タニシの『奮闘記』ネパール編 その9

再びのカラパタール
平成26(2014)年10月17日〜11月8日
10月のヒマラヤはトレッキングのベストシーズンです。
ところが今年は10月14日、アンナプルナ山域で時ならぬ吹雪と雪崩のため、 日本人を含む四十数名が死亡する遭難事故が発生しました。
4月にはエベレストベースキャンプ付近で雪崩のため16名が犠牲となっています。
異常気象に不安を抱きながらも私たちは10月18日、ベースキャンプを眼下に 見下ろすカラパタール5,545mをめざして、ルクラの空港をスタートしました。 メンバーは我ら山仲間5人に加え、ガイド1名、ポーター2名、合計8名のパーティーです。
不安は初日から現実のものとなりました。もう少しで今日の目的地だと思った時ガイドが言いました。「もうすぐ雨が降りそうです。今日はここで泊まりましょう」。不本意ながら近くのロッジに飛び込んで間もなく、ロッジは土砂降りの雨に見舞われたのです。こんな中歩いていなくてよかったと胸をなでおろした時、今度はバラバラバラッというすさまじい音とともにひょうが降ってきたのです。初日からちょっと手荒なご挨拶でした。
トレッキング2日目はナムチェバザール3,440mまで標高差600mを一気に登ります。3日目はナムチェからキャンズマ3,550mまで標高差110mをゆっくり登り、午後はエベレストビューホテル3,880mでお茶を飲んで高度順化を図りました。
ネパールの国鳥ニジキジもしっかり見ることができました。しかし夕食時、メンバーの一人が食欲不振を訴えたのです。高山病の不安が頭をよぎりましたが、明朝まで様子を見ることにしました。
翌朝やはりA君の体調は変わりません。これから先に進んだ場合には引き返す時 のリスクも増大します。苦渋の選択でしたが彼はここでナムチェに戻り、私たち の帰りを待つことになりました。 この日はキャンズマから標高差300mほど下り600mほど登り返すタンボチェ3,867m までのかなりきついコースです。
タンボチェはエベレストの眺めがすばらしい村 ですが夕方一時雪が舞いました。
5日目はタンボチェ3,867mからソマレ4,010mまでの比較的楽なコースです。とは言っても初めて標高4,000mを超えます。メンバーの息遣いも荒くなってきました。ソマレは小さな村で、小さなロッジに宿泊者は私たちだけ。静かな夜を過ごしましたが外には氷が張っていました。降るような星空も凍っていました。
6日目はディンボチェ4,350mまでの登りです。さすがにここまで来ると空気の薄さが実感されます。私たちはここで2泊し、慎重に高度順化を図ります。翌日はディンボチェ村の裏山ナンガゾン小ピーク5,075mを往復することにしました。標高5,000m超の体験です。全員ハーハー、ヒーヒー言いながらも無事登頂を果たしました。
8日目はロブチェ4,930mまでの登りです。枕元に置いていたペットボトルが凍り、振るとカシャカシャ音を出します。ロブチェ手前からは数日前に降った新雪が残っています。明日はいよいよカラパタール登頂です。お天気はどうなのでしょう。エベレストは見えるだろうか。無事登れるだろうか。高張る胸を押さえ眠りにつきました。
9日目、5:30起床。朝食後クンブ氷河を右に見ながらゴラクシェプ5,150mへ。11時にはゴラクシェプを出て最後の登りにかかります。周囲から雲が沸き起こりエベレストが見えたり隠れたりの状態です。急がなければと思うのですが、息が苦しく思うように進みません。足元は凍っています。悪戦苦闘の2時間を経て、やっと頂上にたどり着きました。
頂上は霧の中でした。風が強く寒さに震えます。エベレストが顔を出したのですがすぐ隠れてしまいます。前回のカラパタール(2,007年)では帰りもロブチェまで下って1泊したのですが、今回は慎重を期してゴラクシェプに泊まることにしました。私にとって最高所での宿泊記録となります。
10日目、下山開始。高度順化の心配もなくなり、足取りは快調。12日目にはナムチェでA君と合流、14日目に出発地ルクラに戻りました。トレッキング中は全員禁酒を誓っていましたが2週間ぶりに解禁となりました。全員の無事帰還を祝して大いに飲み、語りました。
翌日はいよいよ飛行機でカトマンズへ…。の予定でしたが飛行機が霧のため飛べず、2日連続ルクラでの宴会となりました。締まりのない締めくくりでした。


タニシの『奮闘記』ネパール編 その8

平成24(2012)年10月29日〜11月15日
「エベレストが見たい」との山仲間の言葉に応え、エベレスト街道8日間のたび を案内することになりました。ルクラから2日間のトレッキングは何ごともなく、 一行4人はシェルパの里ナムチェバザール(3440m)に到着しましたが…。
異変は翌朝起きたのです。女性2人のうちの1人が時間になっても起きないというのです。 部屋に行ってみると、起きないというより意識がないという状態なのです。「
まずい!高山病だ」と直感しました。 すぐにガイドを呼んで、医者を呼ぶよう頼みました。 やがて、医者が酸素ボンベを携えて駆けつけました。
かなり重度の高山病だということです。寝ている間に進行したのでしょうか。 救急のヘリコプターを呼んでカトマンズに下りるよう指示がありました。 ただし、40万円ほどの現金か、キャッシングが可能なカードがなければヘリは 飛んでくれないということです。皆様もトレッキングの際はクレジットカードを お忘れなく。
[左写真]
 ナムチェの町とタムセルク6608m
 救急ヘリの到着
ヘリコプターを見送って、私たちはヒマラヤ展望の旅を続けました。刻々近づく エベレスト、ローツェ、アマダブラム、タムセルクなどの山々を眺めながらの旅です。
エベレスト初登頂者のヒラリーが学校をプレゼントしたクムジュン村では、 ネパールの国鳥ニジキジ(Himalayan Monal)の群れを見ることができました。
今回の最高到達地点モン・ラ(峠)(3970m)を往復した帰りにはヒマラヤタール (Himalayan Tahr)の群れに出合い、さらにベニキジ(Blood Pheasant)を 初めて観察しました。高山病事件を除けばまずまずのトレッキングだったと いえましょう。
21世紀を迎えたネパールは今日まで混乱と混迷を続けています。王様一族10人の殺害に始まり、共産党毛沢東主義派(マオイスト)の台頭、政府軍との戦闘、ゼネストの頻発、政治、経済の停滞。2008年、王制の崩壊、そして少数政党の乱立、行政の停滞、経済の混乱。1日に10時間以上の停電と断水の恒常化などなど…。
2002年の教室 ちょうどこの期間をタニシ先生は日本語教師として奮闘したことになります。 小さいながらもわが日本語学校は堅実に発展し、日本語能力試験の合格者を生み、 日本への留学生を輩出しました。
「これ即ちタニシの奮闘大なり」と言いたいところですが、校長先生の識見と 人脈の広さによるところが大きいと言えましょう。
その校長先生が昨年(2011)8月、病を得て帰らぬ人となってしまいました。 働き盛りの50歳でした。それから1年、生徒は一人去り二人去り…。
学校経営のあとを継ぐ者もなさそうです。教え子の一人が自発的に、残った 生徒の受験の勉強を手伝っていると聞きました。
学校の存続を願いながらネパールを後にしたタニシでした。
祭りで賑わうカトマンズ

2010年以前の記録は、「ネパール奮闘記:1-7」 をご覧下さい。