間宮正孝の樺太紀行 《間宮林蔵の足跡を訪ねて》

 ここでは、今年7月16日から22日にかけて行った「間宮海峡日・ロ共同調査」について皆さんに報告します。間宮海峡の様子、サハリンの先住民族の生活、ホルムスク市(旧日本名真岡)の様子をお知らせします。

1 調査の概要

サンタン船
宗谷岬「林蔵渡樺の地」沖に浮かぶサンタン船

調査の経緯

 今回の調査は、稚内間宮林蔵顕彰会が中心となり企画、実施されました。当初の予定では、昨年の7月に実施する計画でした。残念ながら昨年6月に発生したОха(オハ)市付近を震源地とした大地震、その後のロシアの政情不安などにより延期となっていたものです。
 一昨年秋、田上俊三氏(現稚内間宮林蔵顕彰会会長)が苦労の末サンタン船を復元しました。田上氏は、この復元したサンタン船をぜひ間宮海峡に浮かべたいという強い思いを持っておりました。今年、当初の計画から1年遅れでやっと、この夢が実現したわけです。
 今回の調査に当たっては、稚内市も積極的な協力を行っています。稚内市では、間宮林蔵の顕彰事業を推進するため、稚内間宮林蔵顕彰会に300万円の事業補助が支出されています。この事からも稚内市民の皆さんの、林蔵顕彰に対する関心の高さを知ることができます。

「間宮海峡日・ロ共同調査」の目的

今回の調査は、間宮海峡(タタール海峡)を発見(1809年)した間宮林蔵の探検ルーとをたどり、歴史を学ぶとともに日・ロ友好親善を発展させることを目的としています。

行程の概要

 今回実施された調査は、1808年(文化5年)から1809年(文化6年)にかけて間宮林蔵が行った二度におよぶ樺太−黒龍江踏査の行程の足跡をたどろうというものです。間宮林蔵は、今から188年前幕府の命を受け2回の樺太踏査(探検)を行いました。この踏査によって林蔵は、樺太の離島と間宮海峡の確認、更に当時の清及びロシアの勢力範囲について確認を行ったのでした。
 私たちの調査は、林蔵が行った踏査のうち海峡北上、ナニヲーまでの行程を確認するものです。間宮海峡を船によって、林蔵が通ったコースをそのまま、たどろうというものです。林蔵が到達した最北の土地ナニヲー(現在のЛуполобоルポロボ村)では、復元されたサンタン船を間宮海峡に浮かべるとともに、ニブヒ族との交流を行おうというものです。
 間宮海峡を外国人が、それも日本人が船によって縦断するのは、ソビエト時代には考えることもできなかったことです。ペレストロイカによってロシアが変わったといっても、あくまで間宮海峡はロシアの内海です。外国人が訪れる、それも船によって海峡の端から端まで航海することは、大変難しいことでした。海峡地帯は、ソビエト時代軍事的に大変重要な場所でした。今でもそれは、変わっていません。計画の実施に際して最も問題となったのは、ロシア国境警備隊の存在でした。国境警備隊の許可が得られなければ、私たちは間宮海峡を航行することはできません。国境警備隊は、最後まで許可を出しませんでした。国境警備隊は、モスクワからの直接の指揮で動いています。最終的にモスクワからの許可を得て、私たちは海峡を訪れたのでした。

実施主体

間宮海峡日・ロ共同調査実行委員会

実行委員会の構成

日本側 =間宮林蔵顕彰会、ポーラスタージャパン、北海道サハリン友好交流協会
ロシア側=サハリン州郷土博物館、サハリンロ日協会、ユーラシア社

参加者名簿

参加者名簿 (敬称略)
  氏 名       所 属 団 体       備 考 等  
 田上 俊三  稚内間宮林蔵顕彰会会長     実行委員会委員長 
 間宮 正孝  間宮林蔵8代目        
 間宮 弘文  間宮家子孫          
 佐賀平八郎  会社員 1級小型船舶資格者
 岸本 吟一  作家(シナリオライター)   
 小川 正明  カメラマン          
 小林 敏明  カメラマン          
 隆  大介  俳優             
 松永 市郎  作家             
 佐久間昌美  北海道サハリン友好交流協会理事
 工藤 茂道  歴史学者           
 合田 一道  札幌大学講師         
 岡谷 繁道  稚内日ロ親善協会会長     
 坂本 政仁  稚内市秘書課広報主任     
 松尾 俊二  朝日新聞稚内支局       
 板垣 博之  毎日新聞札幌支局       
 菊池  信  北海道新聞稚内支局      
 山本喜久雄  北海道タイムス稚内支局    
 シューピン  サハリン州郷土博物館副館長  
 ワレリー   通訳             

参加者全員で

参加者全員でサンタン船の前で記念撮影

サンタン船

 サンタン船は、北樺太から黒龍江一帯の少数民族サンタン族(現在はニブフと呼ばれています。)が使用していた川船です。林蔵が樺太探検(踏査)の際用いたものです。間宮林蔵の報告書「北夷分界餘話」(原本国立公文書館蔵、間宮林蔵記念館にて複製により一般展示)の中には、絵図を入れてサンタン船を詳しく記述しています。
「…船は悉く満州の属夷コルデッケなる者の造る処にして、地夷の製する者なし。五葉松を以て是を造り、其釘は悉く木を用ゆ。故に甚軟柔にして堅密実用の者ならねば、更に大洋波涛の中に用べき者にあらず。形状は図のごとくにして、舳下板舌を出せり。何の用たる事をしらず。是林蔵が地夷と同乗して満州に渡りし舟なり。…」(北夷分界餘話巻之九より)

サンタン船復元

 復元されたサンタン船は、稚内市間宮林蔵顕彰会会長田上俊三氏が私費を投じて復原を行ったものです。製作は、稚内市の造船会社(株)一条造船鉄工社長一条木氏が担当しました。
 サンタン船の特徴である「水押し」(船主の下部に舌状の突起がある)は、幾度となく深山に踏み入り選び出した古木の松材を使っています。帆は、約300枚の鮭の川をなめし、張り合わせて作っています。後部にある竹で編んだ「篷=とま」は、私間宮正孝の竹薮から切り出した竹材を使って製作しています。また、竹釘は伊奈町長飯島善氏の竹薮から切り出した竹材を用いています。総工費は約400万円を要しています。
 サンタン船は、1994年10月20日宗谷岬の林蔵渡樺の地で進水式を行いました。当日は、私も出席しています。


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