第60話 2025/9/20
万葉集の中の日本紀
それは、朱鳥(しゅちょう)元号が『万葉集』に引用さ れていたこと。それも朱鳥四年から朱鳥八年までありました。元号の期間は、上記一覧を作ったとき参照した日本書紀や他の資料でも、改元から僅か一ヶ月半とされています。この引用元は、『日本紀』となっていて、『万葉集』の(巻一
)、 (巻二)にだけ
『日本紀』からの引用があります 。
第59話 2025/9/20
祝詞に残る天孫降臨
元々祝詞の意味は、神事の行事で神主が神前で唱える言葉のことをいいます。
日本人は古くから、言葉には魂があると信じてきました。これを「言霊:ことだま」と言います。神さまにお願いごとをする時や、感謝の気持ちを表すときには「言霊」を込めて読み上げるというのが、祝詞の意味です。「言霊」は言葉に出したことがそのままかなうといいます。
第58話 2025/9/20
日本一小さい国宝・金印
(印鑰神社について)
「日本一小さい国宝」金印には、発見された経緯が、よくわからないという
もう一つの問題があります。
この金印は、偶然にも江戸時代に福岡県の志賀島で一農夫により発見されたとのこと。
すぐに黒田藩へ差し出されたので、今では国宝となり福岡市立博物館で見ることができます。印鑑は一辺2.3cmの四角形で重さ108.7gの純金製です。
第57話 2025/9/20
日本人と暦と言霊と
4大文明は、それぞれ川の名前とセットで、
中国文明は、黄河
インダス文明は、インダス川
エジプト文明は、ナイル川
メソポタミア文明は、チグリス・ユーフラテス川
なんだか長い名前ですね。
それは、2つの川の名前だからです。
メソポタミアとは、現地の言葉で、「大きな川にはさまれた真ん中の土地」という意味だそうです。
つまり・・「中国ちゅうごく」 ということです。
実は、隣の国の中国も、元は 「黄河と長江にはさまれた真ん中の地」という事だった。ということだそうです。共通しています。
そう言えば、日本にも中国というところがあります。
それは、中国地方です。
しかし 大きな川にはさまれた真ん中の土地には見えません。
第56話 2025/9/20
考古学と黄門さま
日本における科学としての考古学は、1877年に行われたモースによる大森貝塚の発掘にはじまると言われています。
しかし、茨城県立歴史館には、徳川光圀(黄門さま)が発掘をしていたとありました。1692年のことですので、モースに先立つこと200年。家臣に命じ古墳を発掘、近くにある那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)との関係を探ったのです。
出土品を絵図に記録したのち、埋め戻してもいます。
日本人初の考古学者といえるかもしれません。
第55話 2024/9/18
改訂版「銅鐸民族 」
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた。
●「銅鐸民族」の概念なくして弥生時代の理解は不可能である。
弥生時代の終わり頃、おびただしい数の銅鐸を置き去りにしたまま忽然と〝蒸発〟した、何十万もの人々がいました。彼らの「声なき声」を頼りに調査した結果、ついにその行き先を突き止めることができました。彼らの悲劇の結末を多くの人々に知っていただくとともに、暗黒の古墳時代の正体を明らかにします。
第54話 2024/7/29
天皇陵はなぜ造られたか
じつは天皇陵と言いますが、奈良県から大阪府にかけてあります。皆さんもよくご存知だとおもいますが。これが実は、本当の目的、お墓ともう一つの目的、実はこれは(古代の)軍事要塞であった。
つまり砦(とりで)
として作られていたという[仮説]を述べさせていただきます。
第53話 2024/7/29
環太平洋の縄文人
一般的には10万年前から20万年前に、アフリカに出現した新人類は世界に広まり,アジアのモンゴロイド人はシベリアに3万年前,アラスカには1.5万年前に、ベーリングを経由して,南アメリカには1.2万年前に到達した。結果アメリカ大陸の原住民をなし,中米のアステカやマヤ文明,南米のインカ帝国を生んだと言われている。
第52話 2024/7/28
古代DNAが、解き明かす日本人
タイ南部の密林ここにわずか30人ほどで、ひっそりと暮らし続ける集団がいる。
森の民「マニ族」だ。外部との関わりを断って、何千年もの間変わらない狩猟採集生活を続けてきた人々だという。
実は、この森の民が日本人の起源を知る上で、重要なヒントとなることが最新の研究で明らかになってきた。
第51話 2024/7/28
(改訂版)郡評論争と大化の改新
「郡評論争」とは、それまではだいたい信用できると考えられていた『日本書紀』は、実際には潤色が多分に含まれていて、どこまで信用できるか分からないとされるようになった大論争のことです。
具体的には、『日本書紀』に大化改新で制定されたと書かれている地方行政単位の「郡」は実際にはその時には制定されていないんじゃないか?つまり『日本書紀』のその部分は実際には信憑性が低いんじゃないか?ということに関する師弟対決の大論争です。日本の古代史研究のあり方を見直さなくてはならなくなったほどの大論争でした。
師である東大教授坂本太郎氏と弟子の同じく東大教授井上光貞氏(最初の論文発表当時はまだ教授ではなかった)の間で行われた論争です。