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 テルトル広場はやはり絵描きさんの独壇場です。それが油彩や似顔絵、風刺画などと違う形態であってもやはり「絵描きさん」が集まっている処という、油絵の具の匂いが漂う特別な場所なのです。訪れる観光客も「芸術」に接することへの期待感で胸を膨らまして、もしかしたら掘り出し物の作品に出会えるかもしれないというかすかな思いと共に、かのピカソやゴッホ、マティス、ドガ、ルノワール、ユトリロなどの残像を求めてやってくるのです。無論、テルトル広場にいる画家たちの風貌は、どの著名な画家を名乗っても不自然には思えない雰囲気を漂わせているのですが。

 また、パリのほうぼうの街角で見かけるのはイーゼルを立てて絵を描いている人々です。立ったまま描いている人、小さな椅子に腰を掛けて描いている人といろいろです。その画家の背後には必ず数人の、散歩途中で足を止めた通行人がいて、作品と実風景を見比べて楽しんでいるのです。腰をかがめて画家と同じ目の位置から対象の風景を眺めたりして、それぞれ忙しく「画家」を体験するのです。そして、自分の好みの作品であればじ〜っと、長い時間見守るのです。

 あるいは、家族と友人と、恋人とパリの街を散策しながら、どこを見ても誰かの作品で見たことがあると思いながらパリの一見平凡な小路の風景を満喫するのです。
 画家ではありませんが、ユージェヌ・アトジェEugene Atget という写真家は1920年代のパリを記録した人です。下記で作品を見ることができます。洋服のファッションや通りのガス灯が電燈に変わったくらいで、90年近くも時間が立っているにもかかわらず、パリは変わることなく、アトジェのパリを今もって追体験をすることができるのです。

 僕のような旅行者には、45年前のパリも今のパリも全く変わっていないように思えるくらいに不変なのです。生活をしていればそれなりに時代の変化を目撃するのでしょうが・・・。

 僕は白亜のサクレクール寺院へ行ってみました。寺院へは2〜30段の階段を上がらなければなりません。たくさんの観光客がその階段からパリを全貌していました。あいにく曇った日でしたがそのパノラマ風景は今でも印象に残っています。

 僕は中村さんに教わった格安ホテルを探すために、さっき上ってきた階段を下り始めました。
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写真はある絵描きさんのパレット。2004年12月
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 モンマルトルの丘と地下鉄アベス駅の間を往復するには幾通りものルートがあります。安いホテルを探すために中村さんに教えてもらった中央のルートをすれ違う上りの人たちの荒い息遣いを聞きながら下りました。
 幾つもの長い階段を下った先はさほど大きくはない四方が囲まれた石畳の広場でした。階段の左右は5〜6階建ての建物で、通りに面した正面にはアーチ型の塀があり左右の建物をつないでいました。昔は馬車が出入りしたことをうかがい知る事ができました。

 階段を下りきった左の端の方の建物の入り口に小さな金属製のプレートが貼り付けられていて「Hotel Abbesses」と書かれていました。ドアは半開きになっていました。アローと声を掛けるとドアの近くの左の部屋から大柄の年配の女性が黒いエプロン姿で出てきました。今考えると僕は何んと言ったのか思い出せません。しかし、その女性は僕に鍵を渡してくれました。想像で、部屋を見てみろ、と言っているように思えました。
 記憶では3階だったと思います。狭い階段を上ってその部屋にたどり着きました。ドアを開けてみるとシングルベッドが右に、反対側には洗面台、洗面台と窓の少しの隙間に小さな洋服掛けがあり、それで部屋は一杯でした。
 僕には十分でした。部屋代は幾らなのかなと思いながら、階段を下りて行きました。僕の足音を聞いてホテルの女性がさっきの部屋から出てきました。たぶん身振り手振りで部屋代が決まったのだと思います。トイレとシャワーは各階に共同のがありました。
 再度部屋に入り、やれやれと思いながらリュックサックを下ろし、ベッドに座り深呼吸をしました。これで何とかホテルは確保できたと思うと急に疲れを感じ、空腹も覚えました。

 ホテルを出て右側にあるアーチをくぐるとアベスの繁華な、レストランや肉屋、八百屋が立ち並ぶ大きな通りに出ました。通りを横切った正面にキャフェがあり、バケットにハムとチーズをはさんだサンドイッチを売っていました。僕はカウンターへ行き、指をさして注文をし、合わせてアン キャフェ、と言ってみました。ウエーター氏は「ウイ」とうなずいて、××と言いました。分かるわけがありません。しかし、お金のことしかないだろうと思いながら紙幣を差し出し、何とか昼食にありつきました。
外のテーブルに陣取り、通りを眺め、行き交う人々を観察し、ゆっくり、ゆっくりと食べ応えのあるフランスパンのサンドイッチを食べました。
 
 ここがパリだと思いながら同時に、人々の日常生活を想像しました。買い物籠を提げた人々は店先で挨拶をし、値段の交渉をし、通りでばったり会ったと見受けられる人々は互いに挨拶のキッスを頬にしたり、握手をしたりしていました。僕が座っていたキャフェの通り向こうの、5階か6階のアパートの女性の住人は窓から半身乗り出して大きな声で、通りの買い物籠を下げた人と何やら話していました。
 当時のアベスは今のように観光客が多く訪れるところではなく、パリの庶民の生活が良く見える街でした。
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アベスの総菜屋さん 2004年12月
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 僕は毎日、日に2度3度とモンマルトルの丘とアベスホテルを往復しました。せっかくパリまで来ているのだからあちこち観て歩けよという内側の声もありましたが、電車賃の節約のこともあり、あまりしませんでした。
 今と違って足腰はすこぶる丈夫でした。朝10時前には一回目の「登山」をして、昼ころまで居ました。朝のテアトル広場は閑散としていて、無論どこのキャフェも開いていませんし、観光客もいません。
 一月の冷たい空気の中で何百年もの間踏まれ続けた10センチか15センチ四方の石畳の一つ一つは色も減り具合も違っていて、それぞれがそれぞれの違った物語を語りかけているようでした。

 僕は中村さんが「出勤」して来ると目ざとく見つけてイーゼルを立てたり、売り物の油彩の作品を並べたりして手伝いました。彼はジタンに火をつけて「今日は売れるかなァ」とため息をつきながら煙を吐き出しました。そして、僕を開店したばかりの何時ものキャフェに誘ってくれました。
昼近くにはいったん丘を下りてホテルへ戻り、途中で買ったバケットにバターを塗ってミネラルウオーターで流し込みました。
しかし、こんなことを毎日していても何にもならないし、第一、時々りんごを買って食べる程度じゃ野菜不足になってしまうと思いはじめました。

 一月の下旬、テアトル広場で僕よりも背丈低い、白い上下を着た日本人男性と会いました。高橋さんといいました。彼はケープタウンから来たと言いました。日本の週刊誌と契約をしている写真家であった、と過去形で話してくれました。それだけを聞いても写真家志望の僕には「すごいなァ」と思えたのですが、日がたつにつれて彼の話は膨らんでゆきました。彼も他にやることや行くところがないという感じで、僕と同じようにテアトル広場へ「出勤」してきました。
 「大坂さん、ここにずっと居るつもり?」「金、もつの?」と僕に話しかけてきました。僕は正直に「いや、お金、ありません。何かのアルバイトがないか考えているところです」と答えました。
「俺さ、ケープタウンで機材も金も全部、無くしてさ」
「どうしたんですか」
「女、女のお気に入りになっちゃってさ、追っかけられて、怖くなって、部屋に全部置いて逃げてきた」と一気にその顛末を話してくれました。
 当時の僕の南アフリカについての知識はほぼ皆無でした。
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テアトル広場 2004年12月
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 高橋さんを追い掛け回したという女性は、仕事の助手を務めてくれた地元出身の大柄な黒人で、何とかしてアフリカを出たいと願っていたのだそうです。一緒に生活をしてはいたものの、高橋さんは結婚なんてさらさら興味がないと言い続けたそうです。しかし、ある日、仕事に出かける朝、高橋さんは何かしら、尋常でない決意をその女性に感じたのだそうです。ちょうどその日は契約仕事が終わる日でもあったので高橋さんはその女性から逃れようとケープタウンを離れる決心をして、最後の取材が終わるや否やパリ行きの飛行機に乗ったと話してくれました。
「で、機材はどうしたんですか」と僕。
「アパートに残してきたのが少し。後はケープタウンでぜ〜んぶ、うっぱらったよ。それで飛行機賃と残りが少しさ」

 「ところでさ、大坂さん、これからどうするの」「俺はバイト探ししなきゃ」と言いながら、「パリの雰囲気はいいねェ、やはり。アパルトヘイトは疲れるよ。刺激的だけどね」
僕は自分の経済状態をはっきり話し、稼がなければならないことを伝えました。

 しかし、僕は南アフリカの様子が刺激的でした。何の知識もありませんでしたが、何故アパルトヘイトのような差別が今の時代にもあるのか知りたくなりました。
 後年、「遠い夜明け(原題:Cry Freedom)1987年製作」という映画作品を見たときには自分の無知さ加減や不勉強さを恥じました。
差別される黒人、黒人を差別する南アフリカ生まれの白人、南アフリカ生まれの白人を差別する西欧生まれの白人という図式すら見えていませんでした。加えて白人ではないが経済的成功者である日本人が「名誉白人」として白人気取りをしていることの貧相さなどが分かるにつけて、自分自身に強い憤りを感じました。

 高橋さんに会う数日前に、僕はある出来事を経験していました。ある絵描きさんから闇でドルを両替すると銀行の倍近くの率でフランを手に入れることができると聞いたのでした。僕はアルバイト先は見つからず、かといって節約にはもう限界という思いがあって、少しでも得になる両替ならやってみようかと、危険を承知で、ある日の午後、ピカデリー方面に出かけました。

 今はクレジットカードの時代ですが、そのころの安全策はトラベラーズチェックでした。従って、現金でのドルはあまり持っていませんでしたがそれでも50ドルくらいは持っていました。僕はそれをポケットに入れて、おっかなびっくりの気持ちでホテルを出て、坂道を下ってピカデリー駅の方へ向かいました。
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 写真は早朝のパリの北駅近く
 電線や電柱がないとこんなにもスッキリするのですね。
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 1月のパリの夕暮れは早く、僕がピカデリーに着いたころには街灯が少しずつつき始めていました。ピカデリーはアベスに比べて、たくさんの派手なネオンサインを揚げた飲食店や映画館などが軒を連ねていていました。
 僕は闇の両替屋が現れるのを、半ば期待をし、半ばそのまま帰った方がいいかなと思いながらぶらぶらと表通りを歩きました。ほどなく、背後から「ムッシュー、エクスチェンジ?(両替)」と声を掛けられ、予想をしていたはずなのに僕はビグッとして、一瞬凍りつきました。心臓はバグバグしていました。僕は思い切って「ウイ」と言って振り向きました。目に入ったのは褐色の肌をした、大きな目をギョロットさせた、僕の背丈とあまり変わりのない男でした。何となく背の高い白人が現れるのではないかと想像をしていたので、その男を見て、背の低い僕はどこかで安心をしていました。
 男が指す方向はビルとビルの間の細い路地でした。そこには街灯もネオンサインもなくうっすらと暗く目立たないところでした。僕は「フィフティーダラーズ」といいました。男は「ウイ」と言い、ポケットから札を出し、数え、その札をゴム輪でくくって差し出しました。僕は男が数えているのを見ていましたから「大丈夫」と自分に言い聞かせ50ドルを渡しました。それを手にした男は脱兎のごとく路地から消えてゆきました。
 僕は街灯があるところまで出て札を数えてみました。「しまった。やられた。」と思ったもののすでに後の祭りでした。
僕の50ドルは半分に減っていました。がっくりしながら自分に腹立たしさを覚えました。とぼとぼとホテルに帰る途中、何人もの厚化粧をした娼婦に声を掛けられ、それどころじゃないよ!とますます腹が立ってきました。
 日本を出て以来の初の大失敗でした。その日の夕食は無しと決めました。

 高橋さんに会ったのはその出来事の直後でした。僕は稼がないと餓え死にすると思いました。恐怖心が沸いてきました。気分が落ち込むと肉体も調子が悪くなります。そんなときに僕は風邪を引いてしまいました。大したことはないだろうと思いながら日本から持参した風邪薬をひとビン空にしました。
 しかし、悪寒と下痢が治らず悪化するばかりでした。ホテルのトイレは各階の共用のでしたから下痢の症状には最悪でした。寝込んで三日目くらいには廊下の壁に手をつきながらフラフラしながら、トイレ通いをしていました。
 安ホテルのスチーム暖房のラジエーターは朝夕にほんの少し暖かくなる程度で、その上に、毛布の枚数も限られていていました。僕は空腹と悪寒と下痢で眠ることもできず、部屋の天井の染みを見つめるしかありませんでした。眠れない闇の中で風邪以外の何か立ちの悪い病気だったらどうしようか、医者に診てもらうにはどうしたらいいのだろうか、フランス語も英語も出来ないのにどうやって症状を伝えたらいいのだろうか、日本大使館の電話番号は手帳に書いてきたはずだなどと思いながら、「死にたくない、死にたくない」と念じ恐怖心と戦っていました。
 しかし、体調は悪くなるばかりでした。
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 写真はムーラン・ルージュ (Moulin Rouge) 2005年12月。
 1889年に誕生したパリのモンマルトルにあるキャバレー
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 食べ物は乾いて硬くなり始めたフランスパンとマーガリンしかありませんでした。外へ出て買い物をする元気は到底ありませんでした。風を引いたかなと思った日に念のためと思い、少し多めにパンやミネラルウオーターを買いましたが十分ではありませんでした。暖かい飲み物をと思っても湯を沸かす設備はなく、冷たいミネラルウオーターを飲みました。
 僕はあたりが暗くなると洗面台の鏡の上に付いている小さな照明をつけました。ときどきうとうとしながら、スチームが流れるときに出るキンキンという金属音で目を覚まし、悪寒と下痢、空腹に耐えていました。
僕はパリまでようやく来られたのに、まだ何もやっていないじゃないかと、自分に怒ってみたり、風薬はもうない、食べ物もない、しかし、まだ死にたくはないと自分に言い聞かせていました。

 4日目ぐらいだったと思います。その日も何度目かのトイレ通いをしていました。
 ホテルは5階建てだったと思いますが、僕の部屋は3階で、トイレは2階と3階の中間にある踊り場にありました。トイレから出てきたときに、階段を下りてくるアジア人の女性が階段でフラフラしている僕の無様な格好をみて、「どうしたの?」と日本語で声を掛けてくれたのです。
 「私の部屋にいらっしゃい!」と言って、自分の外出を止めて4階の部屋に招いてくれました。リュックサックしかない殺風景な僕の小さい部屋とは段違いでした。壁には何点もの油彩の作品が立てかけられていました。さっきまでしっかりと暖房が入っていたようで別世界の暖かさでした。部屋は僕の3倍くらいはある広さで、油絵具の匂いが充満していました。久しぶりにテーブルと椅子が整った部屋でした。
 その椅子の一つに座らせてもらい「すみません」と言うのが精一杯でした。彼女は「今、日本茶を入れるからね」と言ってやかんを掛けました。僕は暖かいものが飲める、と心の中は半泣きでした。そのとき、ドアがノックされて来客がありました。やはり、日本から来た男性の絵描きさんでした。その人も僕をみて「ひどい顔をしているね」と言いながら空いている椅子に腰をおろしました。
 女性は熱い日本茶をいれてくれ、同時に「梅干あるよ」と言って、一つを指でつまんで僕の茶碗に入れてくれました。僕にとっては久しぶりの温かい飲み物でした。僕はフーッと深く息を吸いました。

 その女性は2年ほど前からパリに来ていて、もっぱら椅子だけを描いている方でした。部屋にあったどの作品も題材は椅子でした。

 21歳の僕は一番の若造で、お二人とも30歳を超えて見えました。何の話をしたのか皆目思い出すことができません。残念ながらお二人のお名前も思い出せません。椅子の作品1点ははっきり思い出します。座面から下の足の部分が少しデフォルメされた、椅子を上から見た構図の赤い絵の具をふんだんに使った作品でした。椅子の実寸くらいの大きさのキャンバスでした。

 僕は梅干の入った茶碗を両手で持ちながら、あったかいな〜と思い、一口頂きました。ミネラルウオーターと違って味がしました。そのことだけで僕は生きていることを実感し、気持ちがヘナヘナとなりました。一杯の梅干の入った日本茶を飲み干したとたん、さっきまでの何日も続いていた悪寒が頭のてっぺんから徐々に、足のつま先まで消えてゆくのがはっきり分かりました。僕は「救われた!」と思いました。後にも先にも同じような経験をしたことはありません。

 一週間ほど経った2月初旬に、前述の南アフリカから来た高橋さんと一緒に、当時の西ドイツのハンブルグへ向けてパリを後にすることにしました。モンマルトルの丘で仕入れた情報では西ドイツにはアルバイトがありそうだということでした。仕事探しのヒッチハイクを敢行です。ヨーロッパの地図を広げて、最初に目指すはアムステルダムと決め、郊外まで電車に乗りました。パリの2月初旬は天気も不安定で大変に寒く、その日も雨模様でした。
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雪模様のパリ・リヨン駅前 2005年12月
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56パリ脱出
 パリの郊外まで電車で出ました、ヒッチハイクの経験は日本ではありませんでした。高橋さんの「指導」のもと、予め用意をしておいたスケッチブックに太いマジックペンで「For Brusselsブラッセルまで」と大きく書きました。
我々が目論んだのはとりあえずベルギーのブラッセルへ向かうことでした。幹線道路に立ってこの手製の看板を掲げて車が止まってくれることを期待しました。しかし、雨上がりの水しぶきをあげながら、猛スピードで走り抜ける車ばかりで、映画などで見るヒッチハイクのように容易なことではありませんでした。
多くの車が僕らの目の前をむなしく通り過ぎて行きました。高橋さんが言うように親指を立てて、何時間も歩きました。よく見ると車を止めようとしていたのは僕らだけではなく前方にも後方にも、道路沿いのあちこちに何組もの人たちが親指を突き出していました。

 雨足はだんだんと本格的になってきました。それに合わせるかのようにヒッチハイカーたちはどこかに消え始めて少なくなってきました。車を止める競争相手ではあっても仲間が少なくなると僕は心細くなりました。このまま車が止まってくれなかったらどうしようかと、雨の中で夜を迎えることに恐怖心さえ覚えました。しかし、高橋さんは雨に濡れながらでも慣れている様子で陽気に親指を高々と挙げていました。僕の持っていた衣類には限りがあり寒さが身に応えました。僕らは交替で親指を突き出し続けながら幹線道路を歩きました。寒い上に雨に打たれながら、車の来る方向を見ながら後ろ向きに歩くのは本当にくたびれました。

 どれくらいの時間歩いたか記憶にありませんが一台の大型のトラックが止まってくれました。僕らはその車の運転席に駆け寄って、息をハアーハアーさせながら「Brussels?」と聞きました。運転をしていた男は何やら説明をしてくれている様子でしたが僕らにはさっぱり分かりませんでした。便乗をしてもいいという事だけは分かったので僕らは、とりあえず、と思って乗り込みました。どれぐらいの時間、そのトラックに乗っていたのか覚えていません。
雨は上がっていました。やがてトラックはどこかの街に着き、止まりました。男は前方に見える鉄道の駅のようなのを指して、何やら言いました。ここで降りて電車に乗ってブラッセルまで行け、と言われているような気がしたのでThank youと言いながら降り、その駅へ向かって歩きました。小さな駅でした。幸い駅員がいたので「Brussels?」と言いました。高橋さんの英語は僕の耳にでも明らかにブロークンでした。しかし、当時の僕としては南アフリカで仕事をしていた人というだけで尊敬に値する人でしたから情報収集はもっぱら高橋さんに依存していました。
その高橋さんが理解したところではブラッセルまでは3〜4つの駅でさほど遠くはないということでした。僕の地図で現在地を確認しようと試みましたが、その町があまりにも小さいせいか探すことができませんでした。
 プラットホームに電車が入って来ました。駅員の指示通りに切符を買って乗り込みました。電車に乗り込むときに駅員が、僕にも分かる単語の「Terminal station終着駅」と言っていたことが安心感となり、ぐったりと疲れを覚えました。
 
 僕は電車の中でリュックサックからユースホステルのガイドブックを出し、ブラッセルのホステルを捜しました。どうやら、中央駅から路面電車に少し乗ったところにありそうでした。ベッドに空きがあるだろうかと思いながらうとうととしました。
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 写真は2005年12月。 
 パリからブラッセルへ向かう電車。軽い朝食付きで快適でした。
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57 ブラッセルユースホステル
 ブラッセルの駅に着いたのは昼すぎころだったと思います。路面電車に乗って目的のユースホステルへ向かいました。曇り空でパリに負けずに寒かったのを覚えています。ユースホステルはじきに見つかりました。ドアを開けてロビーに入りました。新鮮な木の香りが漂っていました。
空腹と寒さで疲れ果てていました。重く感じ始めていたリュックサックとカメラ鞄を肩から下ろし、誰も居ないロビーに向かって、思い切ってハローと声を出しました。しばらくは何の反応もありませんでした。広々としたロビーの何処からか人が現れるのを期待してキョロキョロと見回しました。
その建物はログハウスでした。何処もかしこも太い丸太で組まれ、ロビーの天井は吹き抜けで開放感に満ちていました。今でこそログハウスという言葉を知っていますが当時は見たことも、無論、中に入ったこともありませんでした。心身ともに疲れ果てていた僕らには木の香りがとても心地よく思えました。
 しばらくすると奥のドアが開き、女性が出てきました。後ろには3歳くらいの女の子が母親らしきその女性のスカートにつかまり顔をのぞかせていました。僕は早速に用意していたユースホステルの会員証をみせ、泊まりたい旨を伝えました。返ってきた言葉はフランス語でした。改めて、あ、そうだ、ここはフランス語だと思いながら「ウイ、ダコール」の返事に安堵しました。僕は幸いにもユースホステル規格のシーツを持っていましたが高橋さんは持っていなかったのでそれを借りるのに少し余分に費用がかかりました。
 
 女性は何やらいろいろと説明をしてくれましたが、分かったことは混んでいるので1泊しか泊まれないということ、ベッドが使えるのは夕方5時過ぎからだということぐらいでした。一休みをしたいとは思ったもののかなわず、僕らは荷物を預けてそそくさとまた、寒空の中に出ました。泊まれるところを確保できた安堵感の後には、強い空腹感が襲ってきました。安いキャフェを探して何かを食べたいと、そればかりを考えていました。結局、ユースホステル付近には何も無く、再度電車に乗って駅前に出て食事にありつきました。
 
街をキョロキョロしながら、どこかのレストランのドアや窓に「皿洗い募集」の張り紙がないかと思いながらほっつき歩いて夕方まで時間をつぶしました。ユースホステルを出る前にフランス語で「皿洗い募集」の言葉を手帳に書いてもらったものの成果無しでした。

 ベッドに入る前に高橋さんと相談をし、明日はアムステルダムを目指すことにしました。アムステルダムでは本気でアルバイトを探そうよ、と互いに言いながら木の香りに包まれてバタンキューでした。
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 写真は2005年12月。一般鉄道のブラッセル駅の地下に路面電車の駅がありました。ここだけが半分地下鉄のようになっていました。
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58 アムステルダム到着
 翌日、ヒッチハイクをあきらめて電車でアムステルダムへ向かいました。電車賃を節約するためにパリを出るときに、ヒッチハイクでと思ってはみたのですがヨーロッパの1月下旬の寒さには耐えられませんでした。

アムステルダム中央駅に降り立ち、さて、と思いながら駅前広場を見渡しました。そこには予想に反して路面電車の路線がたくさんありました。やはり、僕の持っていたユースホステルガイドブックを頼りに乗るべき電車を、何人もの通行人に同じ事を訊ねながら探しました。
 
 アムステルダムの最初の印象は英語が通じる、でした。僕の下手な英語でもフランス語よりは用が足せました。それだけでも安心感に満たされ、同じ寒空でしたがアムステルダムが好きになりました。
 
 ユースホステルにたどり着いたのは夕方でした。大勢の若者たちがロビーにたむろしていました。ある者たちはリュックサックを広げて荷物の整理をし、ある者たちは大きな笑い声を出しながらコーヒーを飲んで談笑をしていました。僕は、ユースはこうでなくっちゃと勝手に決め込んでその雰囲気が好きになりました。

 受付けへ行って、事前に同行の高橋さんと決めていたように三泊を申し込みました。しかし、あっさりと一泊しか認めてもらえませんでした。一泊では仕事探しは無理と思い下手な英語でもう一泊をさせてくださいと懸命に頼みました。しかし、明日の朝にもう一度申しこむように言われました。可能性は?と食い下がりました。フランス語ではとても出来ないことでしたが、高橋さんと僕は知っている限りの英単語を使って交互に、少なくてもこっちの必死さを訴えることは出来ました。

 まずは情報集をしなければと思い、ロビーを見回しましたが日本人らしき人は居ませんでした。

 ユースホステルを出てさっき降りた路面電車の停留場に向かって歩きました。空は相変らずどんよりと鉛色の空模様でした。電車に乗るたびに、食事をするたびに懐具合はさびしくなりました。アルバイトを探さなければ本当に餓死をするかもしれないという恐怖感は日増しに強くなっていました。
  
 高橋さんは電話帳で日本レストランを探そうと言いました。停留場の近くまで来たときに電話ボックスを見つけました。そのとき丁度、若い女性が電話をかけ終わってドアを開けて出てきたところでした。アジア人の顔でした。僕らは思わず、あの〜、日本の方ですか?と話しかけてしまいました。
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写真は2008年12月。パリからアムステルダムへの電車
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 午後のアムステルダムは曇ったり小雨だったり、どっちにしても元気が出るような天気ではありませんでした。僕らの顔には少しずつ悲壮感のようなものが漂い始めていたのかもしれません。その女性は僕らの顔を見て、どうしました?と同情的に聞き返してくれたのです。
21歳の僕の目には30歳くらいに見えましたがもっと大人だったかもしれません。電話ボックスの脇で立ち話を始めました。僕たちがアルバイトを探さないと餓死してしまいそうだと必死で伝えました。
 電話ボックスは日本のよりは大きかったと思います。小雨模様になってきたので窮屈でしたが3人で中に入って相談を始めました。
 その女性は「何かないかしら」と持っていた新聞を広げました。「オランダ語は分かるんですか」と僕。「はい、勉強をしていますから」とその女性は紙面から目を離さず応えました。僕と高橋さんは息をこらして女性の視線を追っていました。じきに「シックという髭剃りのかみそりの会社、知っていますか」「はい、知っています」「そこの工場がアルバイトを募集しています。電話で聞いてみましょうか」

 狭い電話ボックスの中には、アムステルダムの事情に詳しい人と知り合えたことの安堵感と、もしかしたらアルバイトが見つかるかもしれないと言う期待感に満たされていました。

 当時の円は1ドル360円で固定されていました。また、日本政府のドルの保有額には限度があって日本の家族から送金をしてもらうなどと言うことは現実的では有りませんでした。したがって、自分で働いて稼がなければ単純に生きては行けないのでした。日本から持ち出した手持ちのお金は、いくら注意深く支出を抑えても減る一方でした。パリでは両替商の詐欺に合い50ドルくらいを損していました。日本円の持ち出しは2万円までが許可されていましたから、それは別口でパスポートと一緒に首から下げた袋に入れていました。いつも頭の中ではこの2万円に手をつけなければならないことになったら最寄りの大使館に相談に行こうと決心をしていました。

 彼女は財布から小銭を取り出してダイヤルを回しました。僕はその指先をじっと見詰めていました。受話器から先方の声がしました。内容は全く見当が付きませんでした。
「すぐ来なさい、って。行く?」と受話器に手をおいて僕らに言いました。無論、僕らは承諾をしました。高橋さんと「行こうぜ」と目で確かめ合いました。
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 写真は2008年11月。
 アムステルダムの道路は中央から路面電車、自動車道、自転車道、そして歩道と成っています。僕がうっかり自転車道を歩いていたときにはサイクリストに思いっきり怒鳴られました。皆、レースでもしているようなスピードで走っています。
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 僕らは電話ボックスを出て女性に教えてもらった道順を確かめながら大きな道路へ出ました。車は猛スピードで水しぶきを上げて走っていました。こんなところでヒッチハイクが出来るのだろうかと心配になりました。冷たい雨が降ったり止んだりしていました。
 今朝までの僕らの気持ちは息苦しさに満ちていました。青空はここ数日顔を出すことが無く、鉛色の低い雲がどんより覆いかぶさっていました。出来るだけ早くアルバイトを探し、手持ち資金が減ることを抑えなければという気持ちだけが先行していました。
 シック工場までヒッチハイクでどれくらいの時間が掛かるかは知るよしもありませんでした。僕らは車の水しぶきを浴びながら懸命に路肩を歩きながら右手の親指を突き出し、ひたすら止まってくれる車があることを念じました。
 
アムステルダムの1月下旬、雨模様の夕方はドンドン薄暗くなり始めていました。こんなことをしていて大丈夫なのかという思いが片隅にあり、一方では今はこれしか望みは無いという切羽詰った気持ちが入り混じっていました。

 僕は何故かアメリカへ旅行をしようとは考えもしませんでした。ミッキー安川の本はアメリカでの体験記でしたから、僕もアメリカのことを考えても良かったと思うのですが全く頭にありませんでした。
 一つにはフランス語への興味があったことがヨーロッパを選んだ理由かもしれないと、後々思いました。大学ではじめてフランス語の音に接し、何故か引かれたのを覚えています。それなら、と自分では思うのです。どうしてちゃんと勉強をしないのだろうかと。僕の興味の程度はその程度かと、自虐的に決め付け、同じ頭で英語も勉強しなければという二兎を追うような思いに駆られて、「お前は何をどうしたいんだ」「結局は何も達成しないで日本に帰るつもりか」と小雨の中を歩きながらの頭の中が混乱をし始めていました。

 高橋さんは相変らず元気よく親指を挙げながら僕の前を歩いていました。一時間以上は歩いたと思います。気持ちが萎えはじめた頃でした。小型のトラックが僕らを通り過ぎたなと思ったら、前方の路肩に止まってくれたのです。僕らはそのトラックめがけて走り出しました。電話ボックスの日本女性が渡してくれた新聞の募集欄の切り抜きをトラックの主に見せました。僕はそのトラックの主の顔の表情を最大限の注意を持って読み取ろうとしていました。すぐに「乗れ!」という合図に思えたのでそそくさと乗り込みました。
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 写真は2008年11月。運河と自転車の街でした。
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 トラックの運転手さんはあまり英語を話しませんでした。しかし、新聞の求人欄はしっかり読んでくれたように思えたので行き先についてはあまり心配することはありませんでした。どれくらいの時間乗せてもらったか記憶にありません。覚えているのは走行中、ずっとワイパーが忙しく動いていたことです。
 前方に工場らしき建物が幾つも見え初めてもうそろそろかなと思っているとトラックは止まりました。守衛のいる小屋を指して、何やら言われました。僕らは降りろと言われているように思え、ここだなと合点しました。
Thank you, thank youと礼を言いました。トラックはじきに僕らを残して猛スピードで走り去りました。僕らは守衛さんに新聞の切抜きを見せました。雨で濡れた手で大事に持っていたので切り抜きはグシャグシャになっていました。
 
 建物の中に案内され、来客用の部屋に通されました。緊張していました。日本での経験だったら履歴書を最初に出して話しを聞くのはそれからなのでしょうが、何の準備もない、住所不定の外国人旅行者を本当に雇ってくれるのか心配でした。高橋さんも緊張のせいかあまり話しませんでした。

 若い女性が入ってきて一枚の書類を差し出し、僕らに書くように言いながらボールペンを渡してくれました。しかし、僕らの目には明らかに英語ではないことが分かりました。困惑した僕らの顔を見た女性は「ネーム」といって書くところを指差しました。僕たちは名前だけを書きました。彼女は書類を持って出てゆきました。

 じきに背の高いスーツ姿の男性が現れました。その人に比べて僕らは濡れ鼠のような格好でした。我ながらみすぼらしく感じました。
 男性は手元のメモをと僕らの顔を2度ほど見比べて話し始めました。幸い英語でしたから助かったのですが、注意深く聞くと「電話で問い合わせをしたのは女性か?」と言っているようでした。僕らは「イエス」と答えました。男性は「あ、そうか」とでも言っているようで軽く笑い出しました。

 外国語は当たり前のことですが、分かったつもりの範囲しか分からないもので、分かっていないところは永遠に、分からなかったことに気がつかないものです。僕ら二人分の力を合わせても英語力には限界がありました。互いに顔を見合わせながら日本語で分かったことを確認しました。しかし、男性係員の話の内容を総合し、「分かりました」といって立ち上がるのに5分もかかりませんでした。
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 写真は2008年11月。アムステルダム中央駅の駅前通り。
 何故かアムステルダムへ行くたびに雨に当たります。
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 守衛さんに「Thank you」といって門を出ました。幸い雨は上がっていましたが外はもう暗くなっていました。僕らはブルブルッと震えを覚えました。さっき来た幹線道路をめがけてしょぼしょぼと歩き始めました。

 シックの工場では日本人女性2人がアルバイトを探していると理解していたらしく、男が現れてびっくりしたようでした。僕らもそれが分かったときには噴き出してしまいました。
 電話をしてくれた日本人女性に事の顛末を知らせようと思ってみたものの、浅はかなことに名前や電話番号を聞くことすらせずに別れたのでした。一緒に笑えたのにと思うと今でも残念なことです。

 どのようにしてユースホステルまで戻ったのか記憶がはっきりしません。
翌朝、目が覚めると同時に受付に飛んでゆきました。もう一泊をお願いするためです。しかし、あっさりと断られました。予約で一杯だという事でした。仕方がありません。荷物をまとめながら、夕方までアルバイトを探して見つからなかったらハンブルグを目指そうと決めました。

 ユースホステルの受付で日本のレストランのある地域と行き方を教えてもらいました。言葉の能力からして皿洗いの仕事しかないであろうと言うことは覚悟をしていました。何軒か飛び込みで仕事を探しましたが芳しくはありませんでした。そのようなレストランで働いていた若い人たちから別の店を紹介してもらったりもしました。中華料理店をも試みました。しかし、話を総合するとアムステルダムで仕事探しをすることは難しそうでした。

 昼時になって大きな通りに出ました。屋台で丸いパンにローストビーフを挟んだサンドイッチを1つとコーヒーを買い公園のにベンチに二人で腰を掛けて昼飯としました。それは素朴な味で極上の昼食だと思えました。感動を覚えました。今でもアムステルダムへ行くと屋台の店が無いか探してしまいます。もっとも飢餓状態の当時の僕らには何を食べても最高にうまかったのですが。

 いろいろな日本人に会う事は出来ました。その人々にデュッセルドルフの様子を尋ねました。「あそこだったら仕事があるだろう」という楽観的な情報と「時期が悪いよ。冬だから客が少ないし、今の時期に仕事をやめて旅行に出る日本人はいないから」というのが大方の反応でした。
 ここでの職探しは無理だろうという雰囲気に少しずつ押されてあきらめのムードになってきていました。
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 写真は2008年11月。アムステルダム中央駅のプラットホーム。
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 繁華な通りを行ったりきたりしながら何かのアルバイト募集の張り紙はないかと常にキョロキョロとしていました。そんなときに目に飛び込んできたのが「飾り窓」でした。時間もだんだん夕方になり方々の飾り窓に華やかな、趣向を凝らした電飾が目立つようになっていました。高橋さんは、自分は経験豊富だよと言わんばかりに僕に聞きました。「大坂さんは未だ童貞でしょ」と。いやな質問だなとは思ったものの僕は正直に小さな声で「はい」と言いました。

 通りには原色豊かにあでやかに飾り立てた大きな額縁のようにしつらえた窓が連なっていました。男を誘う女性たちは長いキセルでタバコを吸っていたり、半裸で空を見つめるような表情をしていたり、怪しいしぐさで挑発をするようなしぐさを繰り返したりと様々でした。
 高橋さんは「ここはアフリカより品があって清潔感があるからいいよ。大坂さんが興味があるなら俺、付き合ってもいいよ」と意味深に言うのです。
 大いにそそられる状況でしたが僕には踏み出せませんでした。飾り窓の女性たちの値段は知る由もありませんでしたが、ことのアトの残りのお金を考えたら、惨めな物乞いをする羽目になるだろうことは容易に分かることでした。

 僕は戦前の赤線のことは新聞や雑誌で読んだ範囲しか知らない世代です。その赤線が合法的にこのアムステルダムに存在していて、自分がそれを見ていることに違和感を覚えました。

 後々に分かってきたことですがオランダの人々(か政府)は大麻にしてもエイズ蔓延を防ぐための注射器の無料配布などにしても飾り窓と同様大変実利的な思考回路を持っていると僕は思っています。
 オランダに限らず西欧の国々の中には同じような法律を定めているところがあります。また、それとは正反対の立場を取る国もあるわけで、価値観は本当に様々だなと思います。

 というわけで僕の童貞喪失はしばらくお預けとなりました。
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 写真は2008年11月。アムステルダムのダイヤモンド研磨工場。
アムステルダムは400年以上も前からダイヤモンドの研磨をし、世界に流通させている街です。
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 夕方にはアムステルダム中央駅に着きました。まっすぐコペンハーゲンを目指そうか、途中でドイツの都市を試みるか迷いました。電車の時刻表を見ながら二人で悩みました。どっちにしてもアルバイトがあるかどうかの確かな情報は持ち合わせていませんでした。アムステルダムで会った日本の人たちの話から見当がついたことは、ユースホステル発祥のドイツのユースホステルは規則が厳しく、窮屈であることやデンマークに入国する際には所持金の確認がなされるらしいということでした。いくらの所持金で入国をさせてくれるかまでは分かりませんでした。

 僕らは手持ちのお金が多少でも多くあるうちにデンマークに入国してしまった方が得策ではないかと思いました。デンマークに入国できれば、コペンハーゲンの先にはスエーデンのストックホルムを試みることが出来るとも考えたのでした。

 僕は電車の旅はすきです。
 中学3年から東京に出されましたから両親の居る青森市までの帰省はもっぱら上野発の蒸気機関車が牽引する汽車でした。当時は14時間ほど掛かったと思います。3等の木製座席で鼻の穴が真っ黒になるような旅でしたが楽しんだものです。しかし、今回は、わくわく感は全くありませんでした。
 
 何時出発の電車であったかは覚えていません。しかし、デンマークの国境に着いたのは早朝7時ころでした。十数時間はかかったと思います。今はどうなっているか分かりませんが当時、電車で入国したときには大変こぢんまりとした入国管理事務所でした。建物に入ってゆくと僕とあまり年恰好が違わない感じのそれらしき制服制帽の男性が一人、ぽつんとカウンターの中に居ました。他に係官が居る風でもありませんでした。
 降りたのは僕たちだけであったのか先客は皆無事に通過したのか分かりません。入国事務所はがらんとしていました。

 フランスからベルギー、オランダへ入国した際には形式的なパスポートの検査と入国日時を示すゴム印が押される程度でした。

 僕はカウンターへ向かって数歩進みました。うわさに聞いていた所持金の検査が気になって少し緊張をしていました。若い入国管理官は僕のパスポートを入念に検査しました。そして、うわさ通りに所持金を見せるように言いました。
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 写真は前回同様、ダイヤモンドの研磨工場です。この工場見学で最も人気が高いのは女性たちがたくさんのダイヤモンドのアクセサリーを試すことが出来ることです。
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 僕はやっぱりと思いながら手持ちの米ドルのトラベラーズチェック全部と日本円2万円をカウンターの上に出しました。はっきりと記憶はしていませんが250ドルくらいはまだ残っていたと思います。入国管理官は注意深く計算をし、これで全部かと聞きました。僕は正直に「イエス」と答えました。続いて、帰りの切符は持っているかと聞きました。僕は「ノー」と答えました。係官はほんの少し考えた風でした。そして、おもむろに口を開きました。出てきた言葉は僕にもはっきりと分かる明確で単純な英語でした。「You can not enter the country. You have to go back to Germany. Take the next train.あなたは入国はできない。ドイツへ戻るように。次の電車に乗ってください」というものでした。
 僕はやはり、と思いつつも愕然としました。落胆をしました。ドイツなりオランダに戻っても電車賃がかかるだけです。ましてやドイツやオランダに何の当てもあるわけでもないのでここで引き下がるわけにはいかないと、僕は心の中で改めて決心をしました。改めてというのは、デンマークに到着するまでの電車の中で何度も何度も思いをめぐらしていました。所持金が不足で入国を拒否された場合には、持っているカメラを換金してでも滞在費を工面することを説明しようと。

 少しの知識があれば分かりきったことですが、どんな国に於いても入国の際に持ち込んだ物品をその国で換金することは「密輸行為」です。そのことを入国管理官に話すことは墓穴を掘ることなのです。

 しかし、当時の僕にはそんな初歩的な知識も無い馬鹿でした。僕はあからさまにデンマークの入国係官に言ってしまったのです。「幾らのお金があれば入国させてくれるのですか。僕にはこれらのカメラがあります。必要ならあなたに売っても良い。何としても入国を認めてほしい。」と。
 カメラバッグには使い古したペンタックスのボディー2台とレンズが3本、セコニック製の露出計などもろもろの機材が入っていました。
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 写真はパリのレストランで。妻は魚料理が好きです。特に舌平目ドーヴァーソールをイギリスで食べて以来、どこへ行っても注文をします。2005年12月
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 若い係官は僕のカメラバッグを覗きながらも困惑した表情を隠しませんでした。係官は電話を取り上げて誰やらと話をしました。デンマーク語でしたからどんな内容の話であったは知る由もありませんでした。彼はじきに電話を終えて僕に言いました。互いに不慣れな英語でのやり取りでしたが要約するこのような内容であったと思います。
「未だ朝の7時なので自分の上司は出勤していない。上司は9時になったらここに出てくる。その上であなたの入国について判断をするからしばらくここで待っていてほしい」
僕はとりあえず納得をしました。

 次は高橋さんの番でした。同じようにパスポートを入念に検査し、所持金も提示を求められました。高橋さんは僕よりは多くの、全てを米ドルの現金で持っていました。彼はおどおどした風も無く泰然としていました。年季が入っているな、と僕は思いながら頼もしく感じました。

 僕らは誰もいないがらんとした入国管理事務所で退屈な2時間ほどの時間をつぶしました。何もすることは無いのでベンチに横になったり、時々外に出て冷たい新鮮な空気を吸ったりして過ごしました。

 やがて上司が同じく制服制帽の姿で出勤してきました。何やら若い係官と話をした後に改めて僕らのパスポートのいちページ一ぺージを入念にチェックしました。
 
 その後、カウンターの奥まったところにあった小さな個室へひとりずつ通されました。僕のリュックサックの中身が全部テーブルの上に出されました。無論、入っていたのは着替えと洗面道具、数冊の本だけでした。
その上司はやおら一枚の書類を取り出しました。どうやら僕の持ち物のリストを書いているようでした。その中にはカメラバッグの中身や所持金も含まれていました。書き終えた彼はここに署名をしなさいと言いながらペンを手渡してくれました。全てがデンマーク語で書かれていて僕には何の書類なのか分からないまま署名をしました。

 僕の心中はあせりの気分と相反して何かゆっくりとした時間が流れているように思えました。
 僕らが乗ってきた電車の後続は到着する気配はなく入国管理事務所には僕らだけでした。
 
 最初のカウンターのある部屋に戻されて少し待ちました。奥のほうでは上司が若い係官に何やら指示を出しているようでした。
じきに、若い係官が僕らのパスポートを手にして言いました。「Welcome to Denmark!」
若い係官はニコニコしていました。僕らは肩の力が抜け、ヘナヘナとなりました。
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 写真はパリ北駅前の建物。2004年12月。一階はキャフェやレストランが多く、上部はホテルです。僕ら夫婦はこの界隈が好きです。24時間絶え間なく人が流れています。ここの延長線上にすすき野に住むという今があります。
(残念ながらデンマークの写真は一枚もありません。)
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67デンマークに入国
 ようやく国境を越えてデンマークに入国しました。あの時はどれだけ安堵したことか、今思い出しても緊張感を覚えます。

 コペンハーゲン行きの電車が来るまではしばらく時間がありました。今度は入国管理事務所ではなく駅で時間をつぶしました。
 強い空腹を覚えましたが小さな国境の駅で売店も何もありませんでした。
 入国を果たせたからと言ってアルバイトが見つかるという保障は何も無いのですが何かを成し遂げたような気分になっていました。早く安心をして腹いっぱいの食事が出来るように成りたいとは思いましたがそうは問屋が卸しませんでした。

 コペンハーゲンに到着したのは夕方であったと思います。駅前に出ると薄っすらと雪が積もっていました。ユースホステルのガイドブックを頼りに駅前にある路面電車のどれに乗るべきかを探しました。

 二両連結の路面電車の中で聞こえてくる言葉には全く馴染みがありませんでした。音はドイツ語のようなオランダ語のような感じがしました。僕が抱いているフランス語のある種の華やかな印象はありませんでした。

 時として津軽弁のようにさえ思えました。私見ですが北国の言葉は冬の寒さで口を大きく開くことなく音を発するので濁音が多いように思います。反面、温かな国の言葉には軽やかな印象があるように思います。
太宰治が津軽弁をフランス語のようだといったのはなぜだろうといまだに合点が行きません。僕も津軽出身なのですが。

 電車は街の中を抜けて郊外へ出ました。随分と遠いなァと思ったことを思い出します。あまり時間がかかるとどうしても「間違った電車に乗ったかな」という思いを持ってしまいます。無論、電車に乗り込むときには車掌さんに「We want to go to Copenhagen Youth Hostel.」と伝えて、間違いがないように確認はしているのですが不安になると落ち着かなくなり、そわそわし始めます。
ここだよと声を掛けてもらえるように僕らは車掌さんの立っている近くの座席に陣取りました。
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写真はパリ北駅の時刻表。2004年12月
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68 コペンハーゲンユースホステル
 電車はガタンという音と共に止まりました。車掌さんは仲通りを指差して「Copenhagen Youth Hostel」と教えてくれました。

 仲通りを歩いていると日本人らしき若い女性が前方から歩いてきました。背丈は小さいのですがガッチリした体格で、遠くから見たときにはこけし人形のような印象でした。その女性も我々を日本人と思ったらしく「こんにちは!冷えますね」と声を掛けてくれました。ほっとしました。彼女は「ユースはもうちょっと先にあるから」と僕らが訊ねる前に教えてくれ、いかにも慣れている風に電車通りへ向かってさっそうと歩いてゆきました。全く予期しない日本の人との出会いでしたから「ユースに泊まっているんですか」とか「後でまた会えますか」とかのお話は何も出来ませんでした。
それがこけしさんとの初対面でした。

 僕らは今度こそアルバイトを探さないと生死にかかわると真剣に思いながら歩きました。
 目の前に現れたユースホステルは、それは大きくて立派でした。それまでに泊まった2つのユースホステルとは規模が違うように見えました。
 階段を4〜5段上がってドアを開けてロビーに入ると、僕のめがねは一瞬にして曇ってしまいました。メガネをはずして見渡すと大勢の若者たちがあちこちの椅子やテーブルのあるところにたむろしていました。皆、実にリラックスした感じで談笑していました。中にはギターの弾き語りをしている者もいました。今までのユースホステルの雰囲気とは全く異なっていました。

 受け付けはロビーの奥の方にありました。受付に着くや否や今度は作戦を変えて「3泊できますか」ではなく「出来るだけ長く滞在したい。仕事を探すのが目的です」と受付の人の目をしっかり見て伝えました。しかし、受付氏はそんな僕らの「必死さ」に全く頓着無くで、予約台帳に目を落として「ヤ、ヤ」とのんびりした返事を返すだけでした。
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 写真はパリ北駅近くのホテル。
 美味しいパンとハム、チーズは朝食に関わらず、昼食でも夕食でも我々夫婦を幸せにしてくれます。2004年12月
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<参考までに>
Continental Breakfast =基本的にパンとコーヒーの軽い朝食。西欧大陸の様式と言われています。
English Breakfast=トースト、ソーセージやベーコン、卵料理です。ドーヴァー海峡を渡って英国に行くとこの様式の朝食になります。
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 受付に居たのは35〜6歳の黒い縮れ毛の、口ひげをたくわえた白人男性でした。「From Japan?」と言いながら名前やパスポート番号を書く用紙を無造作に渡してくれました。続けて「You want to stay one month?一ヶ月滞在したいか」と言いました。僕らは即座に大きな声で「YES!!」と応えました。高橋さんと顔を見ながら「良かったな、助かった」と言い合いました。

 与えられた部屋は2階の4人部屋で2段ベッドが2台ありました。先客が一人居ました。ジョンさんです。ベッドから足が出てしまうほどの長身でした。今はどこででも見かけますが肩にかかるほどの茶色の長髪で、輪ゴムで束ねていました。高橋さんは下のベッド、僕は上のベッドと決めました。やれやれと思いながら荷物を置いてロビーに下りました。

 ここのユースホステルは今までのと違って規則が緩やかでした。日中も滞在できるようで行き場の無い貧乏旅行の若人が大勢たむろしていました。びっくりしたのは、中にはコーヒーなどのソフトドリンクではなくカールスバーグ(Carlsberg)のビールをビンのまま飲んでいる人が何人も居たことです。当時の世界共通のユースホステルの規約にはアルコール飲料は禁止と書かれてあったのですが。皆、大きな笑え声を発しながら楽しそうでした。そのとき、改めて実感したのは英語大事だな、という言うことでした。
 同国人同士であれば当然母語で話していますが、白人同士といえども必ずしもそれは初めからわかることではないのでやはり出だしは英語なのです。フランス語でもなくドイツ語でもありませんでした。
 
 玄関の近くに所在無さそうにしていたアジア系の僕と同じくらいの年格好の青年がいました。僕はうかつにも気安く日本語で「ここはにぎやかですね」といいました。その青年は「I am not a Japanese. I am from Hong Kong.僕は日本人ではありません。僕は香港から来ました」と黒ぶちのメガネに手をやりながら少し不快そうに応えてくれました。
 僕はフランス語やドイツ語の学習を考える前に、最初に英語を勉強したほうが良さそうだと思いながら、外見で他人を判断することは失礼なことであることを学びました。
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 写真は北駅前のホテル。僕らに「駅前旅館」に滞在することの利便性と楽しさを始めて体験させてくれたアルバートホテルです。
(click 宣伝のつもりではありませんが・・・ご参考までに)
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コペンハーゲンユースホステルは大変めずらしく、日に三食を提供する大きなキャフェテリアがありました。
 到着して間もなく夕食の時間が来ました。僕らは一日いっぱい何も食べていなかったので猛烈にお腹がすいていました。受付で当時の現地通貨のクローネに両替をして早速キャフェテリアに行き夕食にありつきました。 15センチほどのソーセージが2本とジャガイモと玉ねぎのソテー、食べ放題の黒パンと白パンというメニューは忘れがたい食事でした。高橋さんと向かい合ってテーブルに着きむしゃむしゃと、誰かに見られたら恥ずかしいくらいたらふく食べました。僕は酒を飲めないのですが高橋さんは一人ビールを美味そうに飲んでいました。
その夜は夕食をたらふく食べたせいか、デンマークに入国できて安心したせいか、早々に眠くなりベッドにもぐりこみました。

 翌朝、目が覚めると同室のジョンさんはすでに起床し、2台のベッドの中間の床の上で腹筋の運動をしていました。彼は自分の腹部を指して「この腹が少し大きくなり過ぎた」と言っているようでした。歳は35歳くらいかなと思いました。

 僕は昨晩、あれほど食べたはずなのにとは思いながら朝食を食べようとキャフェテリアに下りて行きました。がらんとしていましたがまだ閉めてはいませんでした。お金を払ってコーンフレークスとパンとコーヒーを頂きました。
 
 外に出てみるとブルブルと震える寒さは昨日と同じでした。さて、どうやって仕事を探そうかと考えました。
 背後から「おはようございます」と声を掛けられました。振り向くと昨日道で声を掛けてくれたこけしさんでした。「しばらくここに居るの?」というので「はい。アルバイトを探さないとだめなんです」と資金が底をつきそうなことを説明しました。こけしさんは「今日はだめよ。日曜日だからたいていのレストランは休みよ」と言いながらコーヒーでも飲もうとロビーの一角に誘ってくれました。高橋さんは高橋さんで、どこかで情報収集に励んでいるようで見当たりませんでした。
残念ながらこけしさんの名前を思い出しません。
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 写真は12月早朝のパリ北駅近くの通り。右に見える「Apollo」はやはりホテルで後年滞在しました。ますます「駅前旅館」が好きになりました。2004年12月
http://www.hotel-apollo-paris.com/
(参考までに)
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 こけし女史は「しばらくはなかなかアルバイトは無いよ。3月か4月になって少し温かくなりはじめたらレストランやキャフェで皿洗いのアルバイトを雇うと思うよ」と状況を説明してくれました。彼女は月〜金は街の中華レストランで調理の補助的な仕事をし、週末はユースホステルの調理場で働いているということでした。

 僕は女性の一人旅は怖くないですかと聞いたら「私ね、空手2段なの。大抵の男だったら大丈夫」と笑っていました。
「私ね、ボンベイからバスやヒッチハイクで北上して来たの。時々変な男にも会ったけれど大丈夫だったよ。ナイフを持っているような男だったらひたすら走って逃げるけれど、そうでなかったら大丈夫」と誇らしげでした。
 歳は僕の10歳くらい先輩のようでした。僕はすごい人も居るんだな、と思いながら尊敬してしまいました。

 こけしさんは、地下に洗濯場があることを教えてくれました。洗濯機を使えば少しお金が掛かるけれど手洗いならただだよということでした。僕は日本を出発して以来、はきっぱなしだったよれよれのズボンを洗濯したいと思い早速地下へ降りてみました。粉石けんは手持ちのがあったので大きなタライに湯を入れて、はいているズボンを脱いでごしごしと洗い始めました。お湯はすぐにグレーになり、またたく間に真っ黒になりました。こりゃひどいと思いながら3度お湯を変えて洗剤で洗いました。固く絞って暖房用のラジエーターにかぶせるようにして干しました。サッパリしたものの僕は着替えのズボンを持っていませんでした。下着のパンツで歩き回ることは出来ないのでず〜っと地下にいるはめになりました。幸い大変熱いスチームが流れていたらしく3時間ぐらいでほぼ乾きました。ズボンも気分も軽やかになりました。しっかりしたアルバイトが見つかったら着替えのズボンを買おうと思いました。
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写真はパリ北駅構内のチョコレート屋さん。2004年12月。
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 僕は翌日の月曜日から「皿洗い求む」の張り紙を探してコペンハーゲンの街を一日中歩き回りましたが全く駄目でした。せっかく電車賃をかけて街に出てきたのだからと思い、歩けるだけ歩いて探しました。昼食は市役所前の広場に数軒出ていた屋台のホットドッグを一つと決めて我慢をしました。夕方ユースホステルに戻ると腹ペコでした。それでも寝床があることの安心感は気分を軽くしました。

 週末になると何人もの日本人の人たちが遊びに来ていました。月〜金は一所懸命に働いて、週末には日本語で話したくなるのか、人が恋しくなるのかと僕は思っていました。
 その中にAさんがいました。残念ながら顔を思い出せるのですが名前を思い出せません。27〜8歳の細身の男性で、郊外のある工場で働いていると話してくれました。彼は「俺は自給が5ドルだ。ここに居る連中は1ドルか1.5ドルくらいだと思う。」と給料の話になったときに披露しました。「俺はね、デンマーク語もドイツ語も英語も分かるからね。俺は日本語で言うと職場の主任みたいなものさ。上司から指示を受けて、部下に指示を出すというわけさ。つまり責任がある仕事が任せられているから給料が高いんだよ。」と周りにいた日本人に向かって話していました。普通に聞いていれば嫌味ったらしいのかもしれないのですが、当時の僕には真理に思えました。つまり、言葉が自由になればなるほど美味い飯を食うことが出来るという真理です。

 その後毎週末、Aさんはユースホステルに顔を出しました。キャフェテリアで昼食を一緒に食べながらいろいろな話を聞かせてもらいました。Aさんはアメリカの南部の大学を出たそうで「俺の英語は南部訛りの英語だ。時々、お前の英語は分かんねえって言われるけどよ。しょうがねえよな」と言っていました。僕は「なるほど、英語にも訛りがあるんだ」と合点しました。そこで「Aさん、訛りのことを考えると、どこで英語を勉強するのがいいんですか」と訊ねました。すると「そりゃ、British English英国英語でしょ。まして、ここはイギリスに近いんだからさ。スコットランドの方まで行っちゃ駄目だよ。俺みたいに訛りがきつくなるからさ。まあ、ロンドンから南じゃねえの」と教えてくれました。
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写真はパリ北駅構内。2005年12月
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73 コペンハーゲンユースホステルでのアルバイト
 ユースホステルに寝泊りをするようになって3週間くらいがたったころでした。朝食を終えて自分の部屋に戻り日米英会話の本を開いていたときでした。こけしさんが部屋に来て「大坂君、アルバイトはまだなんでしょ。ここでアルバイトを募集しているよ」と教えてくれました。「早い者勝ちだよ!」というのです。僕はベッドからガバっと起き上がって「本当!」と言いながら階段を脱兎のごとく駆け下りて事務所に行きました。
 いつも受付に居る縮れ毛のお兄さんが募集の紙をセロテープで貼っていました。「Help Wanted従業員募集」と書かれていました。僕の後からこけしさんも付いてきてくれ、「これよ、やる?」というので僕は「やりたい!」と叫んでしまいました。
 縮れ毛のお兄さんが募集の紙を貼り終わる前に「OK」といって貼るのを止めました。それは日曜日でこけしさんがキッチンの手助けをしているときに募集が決まったらしく、いの一番に僕に知らせてくれたのでした。
 縮れ毛のお兄さんの後について事務所の奥にこけしさんと一緒に行き、名前を確認して、仕事の内容と賃金のことを聞きました。細かいことはこけしさんが通訳をしながら説明をしてくれました。
 朝、昼、晩の食後の皿洗いとキッチンの清掃が主な仕事でその他の時間は好きに使ってよいということと、週給が50クローネで宿泊費と3食が無料という条件でした。僕は小躍りしたくなるような気分でした。縮れ毛のお兄さんには無論ですがこけしさんに何度もお礼を言いました。
僕はこれ以上これで手持ちの資金を減らすことなく、給料までもらえるという、夢みたいなことになり興奮しました。50クローネは記憶が正しければ当時は2500円だったと思います。
 
 仕事はその日の昼食からということになり、前払いしていた宿泊費は返金してくれました。僕はバンザーイと叫びたくなりました。こけしさんも一緒に喜んでくれました。ロビーに出てこけしさんと一緒にコーラを飲みながら乾杯をしました。
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 写真はパリ北駅付近のパン屋さん。2005年12月
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同室のジョンさんは相変わらず、フッフッと呼吸をしながら朝一番に腹筋運動をやっていました。彼は菜食主義者でした。牛乳とパンとチーズとりんごやトマトを日に3回、飽きずに食べていました。
「僕はソーセージが好きだからジョンさんのように菜食主義者にはなれないね」といったらクックックッと、仙人のようなひげもじゃの顔をしわだらけにして笑いました。
また、僕が英語の勉強をしていると会話の本を覗きこみながらいろいろと話しかけてくれました。

 「君は日本が好きか。数ヶ月したら日本に帰って元と同じように生活をするだろう。お父さんもお母さんも元気か。あ〜、そう。それはいいね。しかし、僕は帰るところが無いんだ。それが悔しい。旅行者というのは帰る所があるから旅行者なので、僕のように帰る所が無い人間は旅行者とは言えない。I have no root.僕には根っこが無いんだよ」と寂しそうに言うのです。浅はかな僕には「帰るところが無い」の意味が良く分かりませんでした。
 「僕は南アフリカ出身の白人であることがたまらなく疎ましい。いま、南アフリカで何が起きているか知っているか。知らないだろうな。世界中のほとんどの人々は知らないさ。あまり関心も無いかもしれない。しかしね、僕は知っている。白人によって黒人が差別されて虐待されて、それが終わることなく今日も明日も続いているんだよ。みんな同じ人間だよ。僕は小さいときから黒人の人たちが虐げられるのを見て育ったよ。僕には我慢が出来なかった。それでお金をためて出てきたんだ。そんな国を僕は故郷だとは思いたくないね。だから、僕の旅に終わりは無いのさ。何処も帰る所が無いんだから。自分の国を故郷だと言える君がうらやましいよ」
ジョンさんの目は遠くを見つめていました。
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 写真はプラハの地下鉄駅で。2005年12月
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 僕の英語力でジョンさんの言いたいことが順調に分かったわけではありませんでした。辞書を何度も引きながら、少しづつ、想像力をたくましくして、彼の表情の悲しみに、僕自身も何度も憤りを感じながら、少しだけ南アフリカの状況が見えました。
 ジョンさんと話したのは1967年2月でした。幾度も写真を撮りに南アフリカへ行けたらと思いました。しかし、英語が不自由な僕が行っても大した写真は撮れないだろうなという気後れと、一歩踏み出す勇気に欠けていました。

 後年の1988年ころ「遠い夜明けCry Freedom」という映画作品を見ました。1970年代の南アフリカが舞台です。強い衝撃を受けました。
http://www.fnosta.com/20to/title/cryfreedom.html

 また、「マンデラの名もなき看守Goodbye Bafana」(2007年)という映画はマンデラ氏の27年間の獄中でのことが描かれている作品です。
http://mandela.gaga.ne.jp/about/

 南アフリカのことがTVニュースに流れるたびに僕は長髪で目元が優しいジョンさんのことを思い出します。1994年に獄中にいたマンデラ氏が大統領になり、南アフリカは大きく変わりました。もしかしたらジョンさんは希望を抱きながら帰国をはたしかもしれないと思っています。
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 写真はクリスマスの夜のプラハの教会。2005年12月
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週50クローネの賃金でしたが電車賃は何とかなったので昼食の皿洗いが終った後、街に出てアルバイト探しをしました。しかし、少し春めいてきた3月になってもアルバイト先は決まらず、相変らずユースホステルで皿洗いをしていました。
 
 仕事を探しながらコペンハーゲンの街を歩き回っていて気が付いたことがありました。
 一つは車椅子を使っている人を多く見かけたことです。東京にいたときにはめったに見かけることが無かったので、浅はかな僕は当初「コペンハーゲンには障害者が多いんだ」と思ってしまいました。しかし、よく考えてみると東京よりも人口が少ないのに障害者が多いというのは不自然だと気が付きました。
 コペンハーゲンは僕がいた1967年にはすでに車椅子利用者にとって外出がしやすい街だったのです。路面電車にしても鉄道にしても乗り降りが楽に出来るようになっていました。車椅子の人にとって利用しやすいと言うことは、同時にお年寄りや乳母車の利用者にとっても便利なわけです。
 車椅子の人が歩道を横切る際には段差があって容易ではありませんが通行人が気軽に声をかけて車椅子を持ち上げる手伝いをしていました。そんな様子を目撃するのは日常のことでした。
 自転車を電車に持ち込むと言うことも普通のことでした。それは自転車専用道路も同じでした。主要な道路は車道と歩道の間に自転車専用道路があり、歩行者の安全が確保されていました。
僕は市民の意識が違うのだなと思いました。

 1971年に東京に戻ったときにはコペンハーゲンほどではありませんでしたが車椅子の利用者を以前よりも多く見かけたような気がしました。日本でも障害者への意識が変わってきているんだと思いました。

 もう一つ大変気になったことがありました。それは僕の世代の若人の表情でした。何かしら無気力感を漂わせていたのです。僕は、衣食住が十分に足りて就職のことや医療のことを心配しなくてもよい社会に異論はありません。しかし、社会参加の目的意識が希薄になり、生気を感じさせない顔つきの若人が多くなるのは好ましいことでないような気がしました。

 このような文面の手紙をコペンハーゲンから友人に書いたのを思い出しました。

 後年、タイやカンボジア、ヴェトナム、ラオスを旅行したときには、青年たちの生気あふれる表情に圧倒されました。
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 写真はプラハ中央駅(プラハ本駅)。第2次世界大戦時、多くのユダヤ人が連行された通路だと聞きました。
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77 コペンハーゲンの工場で働く
 4月のある日曜日でした。デンマーク語も分かるAさんが遊びに来ていました。「大坂君、仕事のめどは?」と声を掛けてくれました。「未だです」と僕が応えると、彼はユースホステルの事務所から新聞を借りてきて「仕事探し、手伝ってもいいよ。俺は明日休みだからさ」と言いながら求人広告の欄を読んでくれました。そして、「ありそうだな。電車で2〜30分の郊外にある工場だ。何の工場かわかんないけどよ。試してみる?」というので翌日の月曜日の午後に工場へ出かけることにしました。

 Aさんとはコペンハーゲン駅で落ち合い、電車でリュンビューLyngbyという郊外の駅まで乗りました。目当ての工場は駅から徒歩で5分ぐらいのところにありました。
 当時の駅は無人で閑散とした、工場以外は何も無い風でした。
 Aさんは門のところに居た守衛さんに昨日の新聞を見せて何やら話しました。守衛さんの指差す方向には白いペンキを塗った平屋の建物がありました。「大坂君、この新聞を持ってさ、あの建物の受付に行ってみなよ」というのです。言葉がうまく通じなかったらどうしようかという不安はありましたがそんなことを考えている場合ではありません。僕は覚悟を決めて一人でドアを開けて入りました。アムステルダムでの経験が思い出されましたが、空振りならそれはそれでしょうがないなという気持ちになりました。
 入ったところは事務所ではなく工場そのものでした。シンナーの匂いが強烈に僕の鼻を刺激しました。通路を挟んだ両側で何人もの職人さんたちが塗装のスプレーガンで盛んにシュー、シューと塗装の作業をしていました。僕は鼻だけではなく目も痛くなるくらいでした。「こりゃ、大変なところにきたな」と思いながらも、OFFICEと書かれた奥の扉へ向かって歩きました。

 重い頑丈な扉の先は事務所でした。幸いにもシンナーの匂いはなくほっとしました。扉の近くにいた人にまた新聞を見せました。中年の男性職員が立ち上がって僕に椅子に座るように言いました。その男性はもう一人の男性職員と何やら話しをしてから「English?英語で?」と僕に聞きました。

リュンビューLyngby
http://www.tripwolf.com/en/guide/show/200577/Denmark/Lyngby
ここをみると当時より大きく発展した街になっているような気がします。僕が働いていた頃は、店はタバコと新聞、デイニッシュペーストリーの自動販売機くらいしかありませんでした。
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 写真はプラハ郊外のカレルシュタイン城へ行く途中の風景。2004年12月
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78
 事務所の男性職員は僕のパスポートを見て、「OK」といいました。僕には何が「OK」なのか分かりませんでした。続けて「Will you come here tomorrow?明日来るか」というので僕はあわてて「Can I work here?ここで働けるのですか」と聞き返しました。彼は「Yes.Yes」と言って仕事の時間や給料の話しをしてくれました。
 僕はとりあえず、と思いながら「Not tomorrow、but next week?明日ではなく来週ではどうですか」と返事をしました。
 僕はさっき来たシンナーの充満した工場を通って外に出ました。仕事が決まったらしいということよりも、新鮮な空気を吸ってほっとしました。Aさんは守衛さんと話しこんでいました。僕を見つけて「どうだった?」と聞きました。

 シンナーのことを説明して、僕は耐えられるかどうか自信が無いといいました。Aさんは「そりゃ大変だな。けどよ、守衛さんの話しだとここは焼付塗装の工場で奥の方にもいろいろと大きい工場があるってさ。で、どうする?」僕はとりあえずの返事をしてきたことを説明しました。
 
 頭の中ではレストランの皿洗いの仕事では時給が1ドルくらい、この工場の説明では3ドルにはなりそう。Aさんは主任をやっていて5ドル。デンマーク語も英語も話せない僕が3ドルはいい話じゃないかと思っては見てもシンナーの匂いを払拭できませんでした。

 駅への途中、Aさんは「じゃ、こうしよう。コインを投げて裏か表かで決めたら?裏が出たら俺が電話をして断ってやるからよ」と提案しました。
 彼はポケットに手を入れてコインを一枚取り出しました。そして、こっちが表でこっちが裏だ、と僕に見せてくれました。「じゃ、やるよ」と言ってコインを空中にほうって、すばやく右手で捕まえました。左手の甲に右手を重ねて「いいか」と言いながら右手をはずしました。
 彼が右手を左手の甲から外すとき、正直なところ僕はどっちを願っていたのか分かりません。
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 写真はプラハ郊外のカレルシュタイン城へ行く途中、坂道がきつくて観光用の馬車に乗った際に撮った風景。2004年12月
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 コインは表でした。Aさんは「これ、一生の仕事じゃないからあまり考え込むことァねえよ。どうしても続けられなかったらまた、別の仕事を探すのを手伝ってやるからよ」と。僕は、ユースホステルの仕事を辞めることに多少の不安がありました。しかし、いつまでもユースホステルの心地よさにしがみついていても先は見えないと思いシンナーの匂いに覚悟を決めました。

 帰りの電車の中で部屋探しはどうしようかとAさんに聞きました。Aさんの提案は、万が一、次の仕事を探すことになった場合のことを考えて、塗装工場とユースホステルの中間ぐらいの駅で捜そうでした。
 駅の名前は忘れましたがコペンハーゲン駅のいくつか手前の駅で降りました。Aさんは「多分、駅とかどっかの店の掲示板に張り紙があるはずだよ」というので駅に降りてキョロキョロとしながら「部屋貸します」という張り紙を探しました。
 部屋探しは東京でもやったことが無い新体験でした。駅前には小さな店が何軒かありました。通りに面した窓ガラスや掲示板にいろいろな知らせが貼ってありました。中にはペットの写真を貼ったのもありました。僕には皆目見当が付きませんでしたがAさんは丹念に読みながら、「あった、あった。ここの近くみたいだな」と。

 北欧の町はどこもそのようですが、その町も箱庭のように大変こぎれいでした。赤茶の瓦の屋根はどの家も同じでした。外壁は大方白で統一されていました。彼はその一軒を指して「ここだ」といいながら腕時計をみました。もう5時をまわっていました。「仕事はだいたい4時に終わるから居るんじゃないか」とベルを鳴らしました。

 案内された部屋は半地下のボイラー室の隣でした。ベッドがあるだけでがらんとしていました。Aさんは細かいことを聞いてくれました。僕はそのやり取りをみながら、やはり本気で語学をやらなくっちゃ、と改めて思いました。
 家主さんは50歳代のかっぷくのいい長身でデニムのつなぎ服を着た独身男性で、ヤンスンさんといいました。
Aさんを通してシーツは無料で貸してくれること、台所や冷蔵庫は好きに使って良いなどのことが分かりました。また、Aさんは、家賃は格別に安いと思うとも言ってくれました。
僕は週末から住むことでその部屋に決めました。

 僕はユースホステルのこけしさんに電話をして、皿洗いの仕事に少し遅れる旨と理由を説明しました。叱られるかと思いましが喜んでくれました。
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 写真は2004年12月のプラハ本駅(中央駅)。下記のサイトを見ると当時とは違って大変にぎやかになっているようです。
http://marygoldblos.blog119.fc2.com/blog-entry-309.html
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 パリから一緒に旅行をしていた高橋さんはすでにユースホステルを引き払っていました。デンマーク人女性と知り合いになり「俺さ、女ができたんだ。その人のアパートに住むことにしたから」と。「またな」と言って白いスーツケースを抱えて消えました。それ以来、うわさを聞くこともありませんでした。

 同室のジョンさんは、ユースホステルのヌシのごとく、シーズンが始まり込み合っていたにもかかわらずなぜか追い出されることも無く、超長期滞在を決め込み、長いあごひげをなでながらニコニコしていました。新しい仕事のことを話すと「That’s great. But take it easy. I’ll be here anyway。Visit me at weekends.それは良かった、しかしね、ほどほどにね。僕はどっちみちここに居るよ。週末にはおいでよ」と。

 姉御肌のこけしさんも週末にはキッチンの手伝いをしていたのでベッドは確保されていて、安泰でした。仕事が見つかったことは昨日電話で伝えていましたが、改めて報告すると大変喜んでくれました。「週末にはご飯食べに来てね。週にいっぺん位はちゃんと食べたほうがいいから。ソーセージ、多目に盛ってあげるからさ」と励ましてくれました。

 受付の縮れ毛氏も「You are diligent.君はまじめだと。ここの仕事を手伝ってくれる人が居なくなるのは残念だけれど、いい仕事みたいだから良かったな」と喜んでくれました。(Diligentは彼に教わった単語でした。)
 彼はアフリカのアルジェリア出身でした。僕はどんな国なのか全く知識がありませんでしたから折に触れて教えてもらいました。
 彼は、アルジェリアは最近までフランスの植民地だったので、母語のアラビア語と同じにフランス語が日常的に使われていていると話してくれました。道理で英語よりもフランス語が先に口をついて出てくるはずだと僕は思いました。彼にとってフランスの植民地であったということは悔しいことのようでしたが、ヨーロッパに居てアラビア語では何も出来ないのでフランス語が話せることは幸いだと思う、と話してくれました。

 僕はユースホステルで出会った様々な国の人々の話を聞いて、ヨーロッパにおける第2次世界大戦のことやその後のこと、フランスや英国の植民地だった国の人々の複雑な気持ちなどを少しだけ知ることになりました。そのことは後々の僕の人生に少なからず影響を与えたと思っています。
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 写真はプラハ本駅のドーム内にあるカフェ。2004年12月
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 その週の日曜日にユースホステルで昼ごはんを食べて、リュックサックとカメラバッグをもってヤンスンさんの家へ向かいました。部屋の代金は覚えていませんが週単位で支払いました。

 翌朝、7時半前には工場に着くように部屋を出ました。実際、どんな仕事をやるのか不安がありました。シンナーを使う部署ならどうしようかと思いながら先日の事務所へ行くと、多くの人たちはすでに机に向かって仕事にかかっていました。
 先日と同じ男性職員は「This wayこっち」と言いながら入り口とは反対側の扉から職場へ案内をしてくれました。シンナーの匂いはしませんでした。

 案内をされた仕事場には畳よりも大きな見るからに頑丈そうな作業用のテーブルが5〜6台並んでいました。すでに何人もの人が出勤をしていて、あちこちのテーブルに腰を掛けて談笑をしていました。
 北欧の人たちは大方、ヨーロッパ人の中でも背が高く大柄です。僕にはみな力持ちに見えました。当時の僕の身長は164センチで体重は今とは段違いに理想的な60キロくらいでした。そんな僕を見て頼りない若造が職場に配属されたと思ったと思います。
 僕はその部署の責任者に紹介されました。事務所の人はそのまま帰ってしまいました。責任者はそこにいた人たちに「Japan.Osaka」と言って紹介してくれ、仕事の内容を説明してくれました。

 1メートル弱四方の大きな、やはり木製の箱には焼付け塗装が終わった自動車の鉄製ナンバープレートが入っていました。それらをテーブルの上に空けて、同じ番号のプレートを探し、2枚一組にして新聞紙で包むのが仕事でした。これなら言葉が不自由でもできるなと思いました。
 やがて、7時になりみな仕事を始めました。大きな台車にはできたばかりのプレートが入った木製の箱が幾つものっていました。いかにも力がありそうな人がそれをテーブルにのせ、プレートを広げました。2〜3名が一つのテーブルにつきました。僕は言われるままに若い番号から探し出して2枚一組にして並べました。番号の抜けが無いかをチェックしてから新聞紙で包み、元の木箱に入れました。みなは特に効率とか能率にこだわることなくおしゃべりをしながら手を動かしていました。
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写真はプラハ国立歌劇場。2004年12月
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 作業テーブルは北欧の男子の身長に合っているので僕の腰の位置よりもはるかに高く、慣れるまで少し時間が掛かりました。余談になりますが男子のトイレも同じで、高い位置に設置されています。僕なんかはつま先で立たないと用を足すことが出来ませんでした。

 突然、みんなの手が止まり、何やら話し始めました。壁にかかっている大きな時計に目をやると10時でした。15分間の休憩です。
 ひとりが僕に「Beer?」と聞きました。僕は酒は飲めないので「No thank you. I don’t drink.」といいました。
 工場の片隅に細長い大きな箱があって、ビールやタバコが保管されていました。管理をしているらしい職場の一人にお金を渡してビールを受け取り、ビンのまま飲んでいました。僕は、えっと思いながら、ユースホステルでもビールが販売されていたことを思い出しました。

 また、休憩時間に葉書大の用紙が回ってきました。デンマーク語でしたから内容が全く分かりませんでした。隣にいた人がニコニコしながら英語で「Lunch!」と言ってくれました。それは昼食時にキャフェテリアで食べるオープンサンドイッチの注文書でした。
 自宅から自前の昼ごはんを持ってきている人は注文をしませんが僕のような人間には便利だと思いました。
 左にはハムとかサラミ、チーズなどが書かれていて、右には黒パンと白パンの欄がある表でした。自分が食べたいものに丸印をつけて名前を書いて担当者に渡しました。
 
 僕は朝ごはんを食べずに下宿を出てきましたから、おなかがグーグー鳴っていました。昼まであと2時間かと思いながら黒パンと白パンのサンドイッチを2枚づつ注文しました。
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 写真はカフカ像。2001年の創設されたカフカ賞のトロフィーは、この像を小さくしたものです。2006年には村上春樹が受賞しました。
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 11時45分には皆、作業用のテーブルをそのままにして手洗い場に向かっていました。僕はまだ早いだろうにと思いつつも彼らのやるとおりにしました。手洗いのあと、ぞろぞろと皆の後について行くと、その先には期待通りに食堂がありました。大きな細長いテーブルが幾つも並んでいました。職場の一人が「Osaka, over here.」と手を振ってくれました。そこには10時の休憩に書いた僕の注文書がのったサンドイッチの皿がありました。美味そうでした。

 コーヒーは無料で何杯でも飲むことができました。多くの人はビールを先に、その後にコーヒーを飲んでサンドイッチを食べていました。
 黒パンも白パンもギュッと圧縮された感じで空気は含まれていない、ナイフでゆっくりと切らなければならないほど硬いパンした。黒パンの一切れを噛むとゴーダチーズと一緒に酸味が口いっぱいに広がりました。久しぶりにカンボジア号で食べた黒パンの味と食感を思い出しました。
 昼食の代金は給料から引かれるということでした。

 夕方4時までで初日は終えました。心身ともに疲労困ぱいしました。帰りは電車に乗ることが億劫になるくらいでした。しかし、この仕事なら続けることができると思えたのは最大の収穫でした。

 4時で仕事を終えると帰宅してから夕食の時間まで自宅のペンキ塗りをしたり、庭仕事が出来るということらしいと後々分かり、なるほどと思いました。特に北欧の夏場は日が長いので有効活用をしているようです。

 金曜日の夕方まで働いて仕事の流れが分かり、職場の人たちとも皆、顔見知りになりました。
 
 家主のヤンセンさんとは互いに英語が下手なせいか妙な安心感があって気安く話すことができました。彼もどこかの工場で働いているようでしたが詳しくは記憶にありません。彼は僕の部屋の隣に設置されている暖房と温水のボイラーと地下に埋設された灯油タンクが自慢でした。実にうれしそうに僕に何度も見せて、あのバルブは、とか、このパイプはと説明をしてくれました。僕もそういう設備的なことは嫌いではないのでいろいろと質問をしました。

 後年、札幌に住むようになって暖房や温水の設備を設置する際には、予算が無くて半地下を実現できなかったのは残念でした。
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 写真はプラハのドヴォルザーク博物館。ドヴォルザークの住居ではなかったようです。2004年12月
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 最初の週末には、疲れていてユースホステルへ出かけるのが億劫でしたがAさんにしっかり報告をして御礼を伝えたいと思い、昼食をめがけて行きました。幸い、Aさんも来ていました。一緒に昼食を食べながら仕事の内容を説明しました。「俺だってそんなことで仕事を決めたことはねえよ」とコインの裏表で決めたのは正解であったと大笑いをしました。
 仕事が続けられそうだということにこけしさんもジョンさんも、縮れ毛の受付氏も喜んでくれました。
 その日は夕食もそこで食べてから早めに引き上げました。途中、コペンハーゲン駅付近でパンとチーズとハム、インスタントコーヒー、砂糖を多目に買って翌週に備えました。

 1週目、2週目と過ぎて行く中で仕事にもなれて足腰の筋肉痛もだんだんとなくなりました。そのころはまだ、何ヶ月間仕事をしようという目標はありませんでした。会社はとりあえずといって1年間の労働許可証を取得してくれました。

 週末には相変わらずユースホステルに出かけて馴染みの人たちとお喋りをし、まともな食事をして英気を養いました。
 そんなある日、25〜6歳のBさんと出会いました。名前は思い出せません。彼はイギリスから来たということでした。僕は早速にイギリスの語学学校について教えてもらいました。僕の最大の関心ごとは費用とアルバイトが出来るかどうかのことでした。

 そのころには何としてでも英語を習得しなければならないと思い始めていました。
 僕は、横浜を出たころには6ヶ月くらいヨーロッパを旅行したら言葉は何んとかなるだろうぐらいの甘い考えでした。しかし、やはりブロークンな英語には限界があることを実感していました。

 Bさんの情報は大変貴重でした。1000ドルあればイギリスへ行って英語学校の授業料を3か月分支払い、学生の査証を取得し、アルバイトを探す時間はあるだろうということでした。
 合わせて、Bさんはロンドンのある住所を教えてくれました。下宿やアパート(イギリスではフラットflat)を探す間は泊めてもらえるだろ言う日本人の住まいでした。
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 写真はダンスをするカップルをイメージしたのではないかとないかと云われ、通称「ダンシング・ビル」と呼ばれています。1996年に建築されました。2004年12月
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85 1年以内に1000ドルを貯める
僕のコペンハーゲンでの目標は決まりました。1年以内に1000ドルを貯めることにしました。
 当時はまだ1ドルが360円でした。また、1ポンドは1000円でした。

 翌週からの昼食を4枚のオープンサンドイッチから2枚にしました。交通費の節約も考えました。
 僕は世話になったヤンスンさんに1000ドル目標を説明し、通勤の電車賃も節約したいと言うことを説明しました。彼はいつものように一日一本と決めていた太い葉巻を吸いながら、ボイラーの自慢相手が居なくなるので少し残念そうでした。

 幸いすぐにアルバイト先のリュンビューに部屋を見つけました。
 新しい部屋はやはり半地下でしたが通りに面して大きな窓があり窮屈感はありませんでした。
 家主さんは赤ちゃんのいる若夫婦でした。部屋代は幸いヤンスンさんの所よりも小さいせいか安く助かりました。しかし、問題は飼い犬がいたことでした。僕は犬猫はあまり得意ではありません。その茶色の大きな犬は、僕にはドーベルマンのようにさえ見えました。いつも台所に寝そべっていました。そして、僕の部屋は台所を通らないと入れませんでした。一番いやだったのは夜トイレに行くときでした。その犬は僕がドアを開けると暗闇の中でむくっと起き上がり、大きな目を僕のほうに向けるのでした。
 僕の頭は1000ドルを貯める事で一杯でしたから怖いなと思いながらも我慢、我慢と言い聞かせました。

 ある日、リュンビューの駅周辺を散歩しているとき自転車屋の前を通りました。店頭にあったのはパリでよく見かけた原付自転車で「ソレックス」というのでした。これは文字通りの原付自転車で、前輪の上に小さなエンジンが付いています。下部に前輪と接触すると動力を伝達できるようにローラーが付いています。自前の写真がないのでURLをここに。
http://www.bart-co.com/solex.html
 僕は高校時代に乗っていた50ccバイクのことを思い出していました。

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 写真はプラハ旧市街地の教会。僕たち夫婦はどこの街ででも歩き疲れると教会に入ってお祈りをして一休みをします(無料です!)。大方の教会は開放的ですから誰でも入ることができます。
 第二次世界大戦後、当時はチェコスロヴァキア共和国でした。ソ連主導による共産化が進みましたが1968年、検閲の廃止や政党の復活などの改革の民主化運動「プラハの春The Prague Spring」が始まりました。しかし、ソ連の軍事介入により挫折しました。
 僕はイギリスの全新聞一面に大々的に報道されたThe Prague Springという文字とソ連の戦車がプラハに進行する写真をいまだに忘れることが出来ません。
 この教会でも民主化への多くの祈りが捧げられたのではないかと思います。
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 僕はなぜかエンジンという代物が好きなのです。小学生の5〜6年生の時には模型飛行機用のディーゼルエンジンを買っていじくり回していました。また、高校生時代には、今はありませんがブリジストン製前進2段ギアの原付バイクに乗っていたことがありました。これは東京の京王線桜上水駅近くに住んでいたころの、中学同期の古谷君の影響でした。彼の実家は一つ駅手前の下高井戸で酒屋さんを営んでいました。店では配達用にホンダスーパーカブという原付バイクを使っていました。古谷君は家事手伝いも兼ねてそのバイクでときどき僕の下宿まで遊びに来ていました。そんなことでエンジン好きの僕も小金井まで出向いて免許を取り、バイクで遊びました。

 店頭にあったソレックスは手入れはされているようでしたが随分古いように見受けられました。僕は好奇心から値段を聞いてしまいました。そして、そんなに安いの、と思いながら、頭の中ではコペンハーゲンまでの電車賃でソレッスクの値段を割っていました。しかし、僕はデンマークの免許は持っていませんでしたから論外だと思いました。
 
 翌週、ユースホステルでその話を誰かとした際に分かったことは、デンマークでは原付に免許は不要であるということでした。
 僕は頭の中でソレックスの「経済効果」を改めて計算をし、季節の良くなったコペンハーゲンでバイクに乗ることの楽しさを加え、デンマークを出るときには売れるだろうと算段しました。

 デンマークの主要な道路には車道と歩道の間に自転車道があり、原付は自転車道を走ればよいので日本に比べて安全でした。
毎週末、ソレックスに乗ってコペンハーゲンの街に繰り出しました。エンジンは49CCで2サイクルエンジンだったと思います。

 タイヤは少々へっていましたが故障知らずで、それはそれは風を切って快適に走ってくれました。リュンビューからコペンハーゲンへの道は少し下り坂でしたから行きはヨイヨイでしたが、帰りはエンジンが悲鳴を上げそうになることもありました。そんなときには自転車と同じにペダルをこぎました。

 金曜日の就業時間が終わるころ、先週分の給料が支払われました。僕は1000ドルの目標に向けて守銭奴のごとく節約をして貯まったお金を計算しました。
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 写真は前述のドヴォルザーク博物館の庭のベンチ。2004年12月
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 夕方仕事を終えて部屋に戻るとたびたび遊びに来る近所の女の子がいました。アニータさんという大柄な13歳の中学生でした。通りに面した大きな窓から僕がいるかどうかを確かめてやってきます。彼女は外国人などめったに見かけないリュンビューで僕のことがめずらしかったようでした。それと学校で英語を習い始めていたので使ってみたかったようでした。
 僕の部屋にはベッドがあるだけで椅子はありませんでしたから2人でベッドに腰を掛けて英語の勉強をしました。幸いにも、幾ら不得意科目といえども僕の英語の知識のほうが多少ましでした。しかし、話すことについては僕にとっても練習になりました。

 彼女はときどきクラスメートを連れてきました。クラスメートは英語が得意ではありませんでした。そこで、アニータさんがデンマーク語から英語に辞典を見ながら通訳をするということになりましたが荷が重くて、だんだんその友達は顔を見せなくなりました。

 ある日、アニータさんは自分の家で夕食をしようと招いてくれました。家は僕の部屋の道路を隔ててはす向かいでした。広々とした庭は一面芝生で沼に面していたのを思い出します。手漕ぎのボートがつながれていました。僕は生活水準の違いを強く感じました。

 両親はどちらも僕程度の英語を話しましたので僕も気後れせずに一晩お喋りをさせてもらいました。
 ある日の夕方、いつものようにアニータさんは通りの窓から顔を出し、部屋にやってきました。彼女はいきなり「I would like to kiss you.キッスをしたい」と言い出しました。僕は様々なことが未経験の22歳でしたがあわてて「I don’t think so.」と応えました。彼女は「Why?」と食い下がりましたが僕は「I don’t think so.」と繰り返しました。やがて彼女は怒って出て行きました。それからはめったに遊びに来ることはありませんでした。

 僕がイギリスへ行ったあとに2度ほど手紙をもらいました。家主さんには手紙の転送をお願いするために1年間くらいはイギリスの住所の連絡をしていましたから多分、アニータさんはそこから僕の住所を知ったのだろうと思います。あまりにも激しく?熱烈?な文面でしたので僕は返事を書けませんでした。
 あれから40年以上もたちました。
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 写真はプラハで見かけたサイケデリックなペイントを施した、フランス製のブリキの車と言われたシトロエン。一度は乗ってみたいと思っていた車ですがもうかなわないような気がします。すでに生産が停止されたようです。
お好きな方は下記へ。
http://blog.goo.ne.jp/koyapop/e/cbb0c33825e3a7d9947147200779e995
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 ある日の夕方、僕はいつものジャガイモを煮たのとソーセージ2本の夕食を終えたころ、デンマーク人に付き添われた日本人の女性が訪ねてきました。リュックサックを背負っていました。ヒッチハイクをしていた彼女を乗せたトラックの運転手が連れてきたのでした。彼女はコペンハーゲンまで行きたかったようでしたがトラックはリュンビューまででした。そこで運転手氏は気を利かしたつもりで日本人が住んでいると聞いていた僕の下宿へ案内をしたということらしいのです。

 28〜9歳の彼女は「全然、英語が通じないのよ」と運転手氏が悪人のように言いながら「泊めてくれる?寝袋はもっているから」というのでした。僕は少しどぎまぎしながら「床の上でよかったらどうぞ」と承知をしました。僕は食べ物は何もありませんけど、というと「一晩くらいは大丈夫よ」と言って寝袋を広げてさっさと横になりました。
 横になりながら、彼女はデンマークの景色は北海道のと全然変わらないねといいました。僕は北海道を知らなかったのでなんとも言いようがありませんでした。
 
 僕は仕事があるので朝、早く出かけることを伝えて、ゆっくり寝ていてくださいといました。

 それから何年かして札幌に住むようになり、道内を多少見ていますがデンマークと同じ印象を持ったことはありません。
 その日の夕方に部屋に戻るとベッドの上に「一晩ありがとうございました」というメモがおいてありました。名前は書かれていませんでした。

 コペンハーゲンの季節がだんだん良くなると同時にユースホステルの住人も少しずつ入れ替わり、馴染みの顔が少なくなってきました。
そんな時、僕はばったり、文字通りばったりと大学同期の戸田さんと会ったのです。
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 写真はプラハの地下鉄で。2004年12月
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 戸田さんとは日大芸術学部文芸学科で同期でした。当時、戸田さんは、着る物に頓着しない僕とは違って、いつもしゃきっと背広を着て穏やかな笑顔を絶やさない、いかにも都会の人、という感じでした。濃紺のストライプの背広を着ている戸田さん浮かんでくるのですが・・自信はありません。

 1975年頃、僕が前妻とイギリスに行くときに、戸田さんはわざわざ成田空港まで出向いて会いに来てくれました。以来、会うチャンスがなかったのですがこのブログで再会を果たしました。
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★戸田さんのブログへのコメント
戸田勝男 ― 2011/02/02 17:34
大坂さんご無沙汰です。やっとデンマーク着いた様ですね。(中略)私は7月14日に日本を離れました。確か8月初めにコペン着いたと思います。貴兄の旅行記を拝見していると私はなんと運の良いやつだといまさら思いました。パリに居るはずの貴方に会ったからです。仕事の件、学校の件、英国を離れるまで大変お世話になりました。デンマークに戻った後ヒッチハイクがスタートです。ヨーロッパ、北アフリカ、中近東、インド等です。では又。
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 戸田さんの記憶のようにコペンハーゲンで偶然に会えたのが8月で、僕は仕事にも十分に慣れて、目標の1000ドルを貯めることも実現できそうな気がしていた時期でした。

 戸田さんを最初に部屋を借りたヤンスンさんのところへ案内をしたのを思い出します。僕が居た部屋は空室で、そこに3人が腰を掛けて、身振り手ぶりも加えて何やら話している様子を思い出します。そのときにも僕はしっかりと語学を身につけないと他人の役にも立てないことを強く感じたことを覚えています。

 あの時、戸田さんはヤンスンさんのところで部屋を借りたのかどうか思い出せません。また、その後、コペンハーゲンで何回か会う機会があったのかどうかも定かではありません。
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★戸田さんのコメントへの僕の返事
大坂忠 ― 2011/02/02 23:17
戸田さん
ご無沙汰しています。
はい。ようやくデンマークまでたどり着きました。
どんな風にして戸田さんとコペンハーゲンで会うことが出来たのか記憶がはっきりしません。手紙のやり取りをしていたんですかね。覚えていますか?
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写真は早朝のプラハの路面電車。2004年12月
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 僕が戸田さんとコペンハーゲンのユースホステルで会うことが出来たのは全くの偶然のようでした。「ようでした」というのは、実は僕にははっきりした記憶がないのです。
 過日の戸田さんの書き込みによると下記のようです。
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戸田勝男 ― 2011/02/04 16:22
 大坂さん、全くの偶然です。私は貴方がてっきりパリに居ると思っていました。横田さんか稲垣さん辺りに聞いたと思います。ストックホルム経由でコペンに着いてユースに最初は別のユースに泊まっていました。そして顔を出したらビックリでした。それからはご存知の通りです。ではまた。

大坂忠 ― 2011/02/04 21:02
 戸田さん
>全くの偶然です
 コペンハーゲンでは友達に葉書を書く余裕は全く有りませんでした。パリからは横田さんに書いた記憶があるのですが。
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 ということらしいのです。
 僕が日本を出る前に戸田さんもヨーロッパへ旅行をするということは聞いていませんでした。また、僕自身も具体的な旅行日程が決まっていたわけでもなく、風来坊的でしたから誰にも僕の居場所は分からなかったはずなのです。そんな状況で、大学の友人とコペンハーゲンでバッタリ、というのはあまりにも出来すぎているような気がしますが、そなことも有り得るのですね。今、改めて考えてみてもびっくりです。
 そのあと、戸田さんとイギリスででも会っているようなのですが僕の記憶ははっきりしません。
 戸田さ〜ん、お助けください。
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 写真はプラハのホテルの朝食レストラン。2004年12月
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 職場では毎日の作業の中で力もつき、20キロほどもある木箱を一人で作業台に持ち上げることができるようになりました。
 
 昼食はできるだけ切り詰めて白と黒のパンのオープンサンドイッチ2枚を維持しました。パンにのせるチーズはいろいろ試しましたが一番好きだったのはゴーダチーズでした。それは今も変わりません。
 22歳の男が一日一杯、力仕事をしての昼食としては満腹にはなりませんでしたが1000ドル目標のために水もたくさん飲んでこらえました。

 夕食は下宿で煮たジャガイモと生の人参を毎日。肉はいろいろな種類のソーセージを日替わりで2本食べました。それで足りないときにはパンを食べました。
 下宿から数分歩くと小さな、食料品や新聞、タバコを売っている店がありました。甘いものを食べたいと思ったときにはそこで砂糖のアイシングをしたデイニッシュペーストリーをひとつ買いました。時間外でも自動販売機があり買うことができましたので、空腹で眠れないときには夜中でも着替えて買いに行きました。今も忘れがたい「甘味」でした。
店の前にはいつも10代の若者がたむろしていました。

 ある日、出勤すると職場の上司が「Osaka, Do you want to work overtime?残業をしたいか」と声を掛けてくれました。僕は4時に仕事が終わっても他の人たちのように家で夕食の時間まで庭仕事とか趣味的なことをやるなどということはありませんでした。僕は「Yes, I do.」と即答をしました。 上司は、残業は一人で仕事をすることもあるからと工場の戸締りのことなどを説明してくれました。僕にとって最も嬉しかったことは残業時間の給料は50%増であることでした。
 僕は4時になって皆が帰るころ、焼き上がっているナンバープレートの木箱が残っているかを工場の別棟へ行き確認をしました。たくさんある日は、僕は燃えました。頭の中は文字通りお金の亡者でした。
 多くの日は6時まで残業をしました。週末の給与が増えて楽しみでした。
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 写真はプラハ中央駅の売店。今は商業の中核的な存在になったようで全く違う雰囲気のようです。2004年12月
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 雨さえ降らなければ土日にはソレックスに乗ってコペンハーゲンの街へ繰り出しました。

 市役所広場の近くにABCというセルフサービスのレストランがあり、日本でもカンボジア号でも食べたことのないいろいろな野菜、肉、魚料理を堪能しました。セルフサービスですから大きなステンレスの保温バット入っているのを目で見て選ぶので失敗も有りました。後で分かったのですが、生ニシンの酢漬けは口に合いませんでした。なけなしのお金を払ったのにと思って2度口に含んで見たものの食べることが出来ませんでした。しかし、ABCへ出かけることは僕にとっての唯一の、まれな贅沢でした。

 ユースホステルにも顔を出しました。だんだんと顔見知りの人たちが旅立ち、寂しく思うこともありました。
 当時の日本人旅行者のほとんどは20歳代後半でしたが、めずらしく35〜6歳のあごひげをたくわえた工藤さんという人と会いました。「俺は英語も何語も全然だめ。けどよ、少しは世界を見たいと思ってよ」と香りのいいパイプタバコをプカプカふかしていました。「大坂さんはコペンで何してんの」というので、工場で働いていることやお金を貯めてイギリスへ行くつもりであることを話しました。工藤さんは「おれも、もうちょっと若かったらな。言葉ができないと字を読めないんだから。何倍も疲れるよな」と。

 その翌週くらいであったと思います。また、工藤さんと会いました。顔色が優れず全く元気がありませんでした。「どうしました」と聞くと「俺さ、おしっこが真っ赤なんだよな」というのです。「いつもなの」と僕。「うん、弱ったな。帰国するか、ここで診てもらうか、迷っているんだ」

 僕はパリで風を引いて死ぬんじゃないかと思いながら恐怖心と戦いながら一人寝込んでいたことを思いだしました。
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写真は2004年12月。遠方に見えるのがカレル橋とプラハ城。(ガラス越しの写真)
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 工藤さんは「トイレに行くから、みてくれね〜か」というのです。医者でもないのに僕が他人の小便を診ても、とは思ったのですが相談相手がいない様子でしたので一緒に行きました。
 工藤さんは便器の前に立って「悪いな」といいながら小便をし始めました。便器は見る見る間に赤く染まりました。彼の小便は本当に真っ赤でした。僕はびっくりし怖くなりました。
 僕は地元の医者に診てもらって、それから帰国を考えるのがいいのではと話しました。
 幸い、アルジェリア出身の縮れ毛氏がいたので僕の度胸英語で状況を説明しましました。彼は「わかった。明日、俺が時間を作って病院へ連れて行ってやる」と約束をしてくれました。工藤さんは安堵半分、「金は」というと縮れ毛氏は「多分、いらないと思う」と。

 天気が悪るかったりしてソレックスに2週間位乗れず、再度、ユースホステルに行ったときには工藤さんはすでにいませんでした。どうしたのかなと思って縮れ毛氏を捕まえて聞きました。
 分かったことは、工藤さんの病状は非常に悪く、日本に早く帰ったほうが言いというのが地元の医師の診断であったそうです。
 工藤さんはパイプをくゆらせながら「イタリとかギリシャも行ってみてえな」と話していたことを思い出します。
 お元気なら今は80歳を過ぎているかもしれません。
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 写真はプラハの屋根たち。2004年12月
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 10月ころであったと思います。残業分が50%増しの給料であったこともあり、僕の1000ドル目標は予想より早い時期に達成されました。
 僕はじきにデンマークを離れてイギリスへ出発する日にちを決めなければなりませんでした。

 英国へ行き、英語の勉強をすることに少しずつ緊張感を覚え始めました。
 自分には英語を習得できるという自信も確信なく、同時に手ぶらで日本に帰りたくはないという気持ちが交錯していました。合わせて、英国でアルバイトが見つかるかどうか、語学学校はどんな風にして決めたらよいのか、下宿かアパート探しは、と次から次へと心配な事が頭をかすめました。
 
 僕にとって、以前に登場したBさん(2011.2.13)の情報が全てでした。僕は幾度もBさんに書いてもらったロンドンの知人の住所をなくしないように確認をしました。

 東京の世田谷にある松沢中学校へ転向したのは3年生のときでした。以来、英語の点数は常に赤点でした。基礎がない上に単語を暗記することが不得意で、高校でも大学でも英語だめ人間でした。
 そんな僕ですからイギリスの語学学校でたやすく英語を習得できるとは思えませんでした。
 もっとも不得意な英語の勉強への嫌悪感、しかし、これをやらなければ一生、劣等感を引きずって生きなければならないだろうという恐怖感は人一倍強く持っていました。
 そんな気持ちが行ったり来たりし、それなりに快適なコペンハーゲンでの生活を切り上げる時期を決めかねていました。
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 写真はプラハのみやげ物店。人形劇が盛んなお国柄で操り人形を売っている店が方々にありました。2004年12月
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95
大学に入った年、東京に出張で出てきた父が「もう大学生だから飲み屋にでも一緒に行こうか」と連れて行ってくれたのが新宿西口にあったカウンターだけの焼鳥屋さんでした。
 先客がたくさんいて僕たちが座った席は入り口に近いカウンターの端っこでした。僕は全く酒を飲めないというのは悔しいので盃で何杯か飲みながらもっぱら焼き鳥を食べました。
 父は酒が強いのでぐいぐいと飲んでいました。今思えば、息子と一緒に飲み屋にいることが楽しかったのだろうと思います。上機嫌でした。
 突然、「忠くん、向こうの壁にかかっているカレンダーの写真の説明は何て書いているか分かるか」というのです。それは英語でした。僕は試みましたが分かるわけがありません。父は残念そうに「そうか」とだけいいました。

 正月などに父の戦友たちが家に遊びに来ると戦時中のことが話題になりました。父はめったに戦地での体験を話すことはありませんでした。しかし、断片的な話しから父は英語とドイツ語が分かるらしいということが幼かった僕にも分かりました。
 父は酔いながら「僕は一度も鉄砲を使ったことが無かった。戦地で一番大事に持って歩いたのは英語とドイツ語の辞典だった」と。戦友の話などを総合すると、父はもっぱら将校たちのために英語とドイツ語の手紙や書類の翻訳をやっていたそうです。
 父は最後まで将校になる試験の受験を拒否し2等兵で終えました。しかし、将校たちと一緒の暖房の利いた、食料の充分ある環境で戦場にいた事を話したくなかったようでした。「重い鉄砲などの装備を担いで行軍している人たちを見ていて申し訳なかった」と言っていました。
 父の書斎には古ぼけた英語やドイツ語の辞典が何冊か並んでいました。

 そんな父でしたが焼鳥屋で英語を勉強せよなどという説教はしませんでした。その分、僕にはグサリと鋭く刺さるものがありました。

 父が70歳くらいのときだったと思います。2人で話しているときに新宿の焼鳥屋でのことを覚えていますか、と聞いたらあっさり「覚えていないなア」と。
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 写真はプラハのパブレストラン。壁には「プラハの春」時代に戦った人々の写真がありました。
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96 イギリスへ
 僕がパリを出てヒッチハイクを始めたのは2月はじめの大変寒い時期でした。そのことを思い出しながらイギリスへ移動するのは冬になる前だと決めていました。

 僕は毎週の給料を、週末コペンハーゲンに出たついでに両替屋でドル紙幣に替えて、現金で貯めていました。ときどきそのドル紙幣をベッドの上に広げて「あと何ドルで1000ドル」とか「あと何週間で1000ドル」と呪文のように唱えていました。
それが「1000ドル、プラス100ドル、150ドル」となってきました。

 いよいよアニータさんや下宿の犬ともお別れする時期だなと思いながらユースホステルへ行きました。そこで何気なくバイクのソレックスをほしい人はいないかなと誰とはなしに話したら、すぐに買い手が決まってしまいました。日本の人でしたが彼はすぐ欲しいというのです。商談はすぐに成立しました。その夜、僕は電車でリュンビューに戻りました。
 もうバイクがないと思えばイギリスへの出発時期は決まったようなものです。翌日、工場の上司に仕事を辞める時期を相談し、2週間後と決まりました。

 1000ドルは絶対にイギリスへ行ってからの費用に当てると決心していました。幸い、それ以上の資金ができたので電車でオランダへ行き、フェリーボートでドーヴァー海峡を渡ってイギリス入りを決行しようと決めました。

 イギリスで降りた鉄道の駅はヴィクトリアステーションでした。パリの北駅よりも、コペンハーゲンの中央駅よりも大きく人が多く、出口が方々にあり、僕は完全におのぼりさんでした。
 まずはインフォメーションを探さなければと思い、キョロキョロ360度見回しました。僕は後生大事に持っていた手帳に書いた住所を係員に見せて地下鉄を教えてもらいました。
 
 聞こえてくる言葉はやはり英語でした。フランス語でもなくデンマーク語でもなく正真正銘の英語でした。僕は、よ〜し、こいつをやっつけてやるぞと身震いを覚えました。戦いの始まりでした。

 何とか目的の地下鉄駅にたどり着き、今度は通行人を捕まえて手帳をみせ、目的のフラット(アパート)へ向かいました。曇り空のどんよりとした午後でした。
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 写真はプラハのユダヤ人墓地。先の大戦中、中央ヨーロッパで唯一大虐殺(ホロコースト)を生き延びたとされるプラハのユダヤ人街にあります。古いのは15世紀頃のお墓だそうです。
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 人づてに聞いていた「ロンドンの地下鉄は一番分かりやすいよ」と言うのは真っ赤な嘘だと勝手に思いながらようやく、2〜3度の乗換え後に目的の住所にたどり着きました。
 コペンハーゲンで日本人のBさんに会ったのは数ヶ月も前であるにもかかわらず、僕はその住所にたどり着ければ英国での諸々のことが万事うまく行くだろうと強い期待感を持っていました。アパート(フラット)探しも学校探しも、無論アルバイト探しもここの住人がすべて助けてくれるとに違いないと、会う前から勝手に決め込んでうました。

 誰も彼も普通に話しているようにしか思えない、周りから聞こえてくる英語に僕は心の中で戦いを挑んでいました。中学、高校、大学と屈辱にも似た苦労をさせられたこの英語とやらに負けてなるものかと22歳の僕は気持ちを高ぶらせ、血は頭に上っていたように思います。

 地下鉄駅の名称はもう覚えていません。地上に出てきたときは昼を過ぎていました。数分、あっちこっちと歩き回りようやく目的の住所を探し当てました。階段を4〜5段上ったところにドアがありました。ドアの右にはたくさんのベルが並んでいました。各住人の名前が書かれた小さな紙が、多くは手書きでしたが貼り付けられていました。僕は高鳴る気持ちを抑えてそれらに日本人のが無いか注意深く読み、探しました。ありません。僕は「落ち着いて」と自分に言い聞かせながらもう一度上から順に確認をしました。やはりありませんでした。
 よく見ると名前の付いていない押しボタンが一つありました。僕は「これだな」と思いました。足音がかすかに聞こえて誰かがドアのところにやってくるのがわかりました。僕は日本人が顔を出すと決め込んでいました。しかし、その人は英語で「Can I help you?」と僕の顔を見ながらけげんそうに訊きました。
僕は「Is a Japanese person here?日本の人は居ますか」と云うのが精一杯でした。
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写真はパリのベルシー・ヴィラージュ
http://www.hayakoo.com/bercy_village/
当時、ワインを貯蔵する為に造られた倉庫が、今ではそれらの建築物を改装してたくさんのレストランや洋品店に活用されています。今も当時のままの2本の鉄道のレールが残されています。
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 その男性は「He’s moved.彼は引っ越しました」と。僕の頭は真っ白になりました。コペンハーゲンを出発して以来、頭の中はこの住所にどうやってたどり着くかばかりを考えていて、本人が引越しをしてそこに居ないなどということは思ってもいませんでした。
 僕は力を振り絞って転居先を聞きました。応えは簡単でした。「I don’t know.」でした。僕は一瞬、ふらふらとなりました。僕の英国での唯一の情報源が消えてしまったのでした。万事休すとはこのことだと思いました。
 僕は気力を振り絞って「I see. Thank you」といい、階段を下りました。ドアは文字通り冷たく閉じられました。とっさには次の行動が思いつきませんでした。
 階段を下りながらとりあえず「戻ろう」と思い直して出発点のヴィクトリア駅へ向かいました。完全に振り出しに戻ってしまいました。

 なんとかヴィクトリア駅に着いたのは2時頃だったと思います。僕はまずは寝床を確保しなければと日本から持ってきたユースホステルの案内書と地図を開きました。自分が地図上でどこに居るのかを確かめ、近隣にユースホステルはないかと探しましたが気持ちがざわざわとして落ち着かず、自分の目が地図上であっちこっちへ動いているだけで頭は空っぽでした。
 無意識に僕が立っていた数メートル先には切符売り場の窓口があり、その上部には大きな時刻表が掲示されていました。そこに書かれていたたくさんの駅名を目で追いながら、同時に案内書に書かれている地名はないかとぼんやりと考えていました。
 
 知らず知らずのうちに僕は切符売り場の列に入っていました。後ろから少しずつ押されて気が付いたときには窓越しに切符を売る係員氏が僕の言葉を待っている風でした。僕はとっさに前の人が言った駅名を云ってしまいました。ユースホステルの地図には載っていて、何となく頭に入っていたのに加えて、耳でその音を聞いたので口を付いて出てきたのではないかと思います。が、いまだに何故そうなったのか良く分かりません。
 係員は「Single or return?片道、それとも往復」と言いました。僕はその意味を良く知りもせず「Single」といいました。
 窓口を去って、一瞬、切符を払い戻そうかと思いましたが、どっちみち行く先も決まっていないので心の中で「まあ、いいや」と言って手にした切符をゆっくりと眺めました。
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 写真はパリのベルシー・ヴィラージュのキャフェ。パリではときどき雪が降るようです。2005年12月
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大都市の駅ばかりを見てきた僕にはブライトン駅は大変小さく思われました。
僕は駅を出て、商店街のある方へ歩きました。後々分かったことですがブライトンはロンドンから近い距離にある静養地というかリゾート地であったのです。従って、海岸に沿ってたくさんのホテルやベッド&ブレックファースト(B&B)が並んでいました。
僕はまずはユースホステルを探さなければなりませんでした。地図を見ながら徒歩では無理と分かったのでバスをと思いながらしばらくウロウロしました。
バスは家並みのあるところを過ぎて広々とした牧場のある道を走り、「草原の小さな家」のようなところで停まりました。ユースホステルとおぼしき家屋はバス通りからさらに細い道を5分ほど歩いたところにぽつんと建っていました。周りには何もありませんでした。僕は「こんなところにあるの」と思いながらドアをノックしました。
宿泊客は一人も居なく、がらんとしていて、どのベッドでもどうぞということでした。
僕はブライトンに来た目的を告げてDavies’ School of Englishという語学学校を紹介してもらい早速出かけました。
やはりバスに乗って住宅街で下ろされ、すぐに見つけることが出来ました。僕はロンドンからブライトンまでの電車の中で、すぐに必要と思われる単語を辞典で調べてメモを作っておきましたのであまり不安はありませんでした。
下宿:boarding house
授業料:tuition fee
などです。
 学校ではすぐに電話をして下宿を探してくれました。そして、もし気に入らなかったら何の面倒も無く別の下宿を紹介してくれることを説明してくれました。
 学校ではクラスを決めるのに簡単なテストを受けました。結果は当然ながら「初級」でした。僕は基礎からしっかりやらなければならないと思っていたので納得しました。

 紹介された下宿へはまたバスで行きました。大きな家ばかりが並んだ住宅街で目的の番地を探し、ベルを鳴らしました。しかし、何度鳴らしても誰も出てきませんでした。窓から中の様子をうかがっても人気はありませんでした。何度も学校からもらった紹介状の住所を見て確かめましたが間違っていませんでした。
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写真はパリの北駅で。

大坂忠のブログ「僕の45年間」まとめ
50〜99
Tadashi Osaka

2011.3.4
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