大坂忠のブログ「僕の45年間」まとめ
1〜49
Tadashi Osaka


2011.3.4
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1 =カンボジア号に乗って=

写真展「下北半島にて1964-65」を新宿とむつ市の2カ所の会場でやりました。僕は両方の会場に毎日「出勤」をして来廊の多くの方々とお話をさせて頂きました。皆さんはそれぞれの歴史を語っていました。いくつかはすでに紹介をさせて頂きました。

僕は僕なりに、新宿での2週間、むつ市での1週間の個展の間、自分の45年間に何があったのか振り返えりながら、自分の歴史をあれやこれやと思い出していました。

1966年、大学3年の年に一大決心をしてヨーロッパへ行くことにしました。

大学での第2外国語の選択はフランス語でした。結果は無残でした。皆目分からなかったのです。赤点の連続でした。しかし、「これからの自分の人生に外国語は絶対に必要だ」という認識だけは強く持っていました。そこできわめて安易に、フランスへ行って勉強をしてみたら分かるようになるかもしれないと思ったのです。

1966年の一年間はがむしゃらにアルバイトをしました。漫画を印刷していた工場で、アンパンの支給を受けながら24時間労働もやりました。印刷されたページがベルトコンベアーに乗って機械から出てきます。数人がベルトコンベアーを挟んで立ち、それを両手の指に挟んで抜き取り、台の上に積み重ねて梱包をします。何時間もしないうちに指の皮がざら紙にすれて出血をし始めます。それでも作業を休止することはできません。一人でも遅れると印刷されたページはベルトコンベアーの端から落下し、それを拾って梱包するのはかえって大変でした。

軍手をはめたり、ゴムのサックを指にはめたりといろいろやりましたが作業能率が悪く、結局は血を流しながら素手でやりました。10日間くらいやりましたが限界でした。

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写真は僕の最初のパスポートです。

1966年暮れに取得し、横浜からフランスの客船「カンボジア号」で出国した際と1971年に、やはり横浜でしたが帰国したときのスタンプが見えます。

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僕がどんな経緯で海外へ行くことを考えたかはいくつかの理由があります。

大学ではバリケードが築かれ実質的な授業がなくなっていました。僕は学生運動をやろうかどうか迷っていました。僕は学生運動が本当に世の中を変えるのだろうか懐疑的でした。そこで、学生運動のリーダー達が社会に出てどんな仕事や地位に就いているかを大学の研究室の先生方に少し聞いてみました。結果は、優秀なリーダーであった人ほど企業の管理職に就き「立派」になっているということでした。僕は父親からも同じような話を聞かされていました。労働組合で指導者になれる人は会社にとって大事な人材だと。僕は、それはそれで受け入れることができました。社会を変えると言っても何をどんな風に変えるべきなのか、自分でも分かっていませんでした。

大学の先生方は「じっとしていろ。授業はなくても単位は出すし、卒業はできるから。」と話していました。へそ曲がりの僕は、いくら外国語の成績が悪かろうとそれでは納得ができないと思いました。

そんなころ「ふうらい坊留学記」(安川実著、後のミッキー安川、カッパブックス刊)を読み、その後で、「何でも見てやろう」(小田実著 講談社刊)を見つけて夢中になりました。両方とも語学が不得意でも歯を食いしばってがんばれば何とかなるという思いを持たせてくれたのです。両者とも常人ではないということに気がつかず、自分も同じような語学音痴だが可能性はあると信じてしまったのです。

僕はまず、新宿東口にあった交通公社、いまのJTBへ行き相談をしました。カウンターで話を聞いてくれた男性職員はすぐに、僕には見えない奥の事務所の方へ引っ込みました。ややしばらくして戻ってきて、具体的な話をしてくれました。パスポートという旅券が必用であること、外貨は500ドルまでしか入手できなこと、などなどでした。

僕にとって肝心なことはどれほどのアルバイトをやったら資金ができるかであって、手続きの仕方は後々勉強をすれば良いと思っていました。「船賃はいくらですか」と聞きましたら「どこまで行きたいんですか」と聞かれ、とっさに「フランスです」と答えました。

フランス語が分かったらいいだろうな、という漠然とした気持ちがあったからそう言ってしまったのかもしれません。考えてみれば前述の2冊の本は主にアメリカでの体験を書いていたのですが、なぜか「アメリカです」とは言葉が出てきませんでした。

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写真は外貨500ドルを受け取った記録。

あわせて「携帯輸出金額 15000円」とあるのは日本円の現金の持ち出し限度額。出国時に自己申告。

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僕はどうしてアメリカではなくフランス行きを思い立ったのか、今でも時々考えます。前述した本はアメリカの情報が満載でしたし、社会の雰囲気も終戦後からのアメリカの影響を引きずっていました。

白黒の14インチテレビで観ていた海外のドラマはスティーブ・マックイーンの「拳銃無宿」であり、映画はジョン・ウェインの「アラモ」でアメリカ物がほとんどであったと思います。一方で、フランスについての情報は皆無であったと思います。フランスについての本は読んだ記憶がありません。となると、単なるあこがれであったのかと思いざるを得ません。はなはだ情けないような気がします。確かに、今でもフランス語の響きはドイツ語のそれよりも好きです。大学での第2外国語の選択も響きで決めたような気がします。

日本交通公社で分かったことはフランスのマルセイユ港まで10万円で一ヶ月の船旅であることや12月に船が出る予定であると言うことでした。そのときに僕は担当者に何度も念を押しました。一ヶ月の船旅で10万円ということは船に乗って寝るところがあり、三度三度の食事が付いてのことだということを。担当者は、船室は船底ですよ、と僕に判決でも言い渡すように言いましたる

僕は単純に外貨500ドル、当時は1ドルが360円でしたから18万円と船賃の10万円で必用なのは28万円と計算をしました。

持ち出せる外貨が500ドルという意味は、当時の日本はそれ以上の外貨を個人に持たせるだけの力がなく、泣いてもわめいてもそれ以上の入手はできないということなのです。むろん闇マーケットでのドルは横浜あたりで買うことができたようですが、所詮はお金がなければ買うことはできないわけで僕には無縁のことでした。

アパート代は一畳千円というのが相場の時代でした。

僕はアルバイトを懸命にやりました。毎日、その日その日の賃金を計算して目標の金額まで後いくらと考えていました。

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親に相談をしたのは一応の下調べをしてからでした。

反対をされるとは思っていませんでした。一番の気がかりはお金のことでした。アルバイトを懸命にやって出発までにいくら用意できるか見当が付き、結果、約半分しか無理だと分かりました。そこで、父親に渡航のことと半分を援助してもらえないかと相談しました。

僕の家では小さい頃から、何かを買って欲しいときは半分の金額を貯めてから相談をするということが通例でした。正月のお年玉は必ず貯金をしていました。合わせて月々の小遣いです。僕が何かを買って欲しいと言うと父親は決まって言いました。「値段の半分をまず貯めてみなさい。貯まった時に、やはり欲しいと思ったら相談に乗る」と。

渡航のことを相談したときもやはり同じでした。

母も反対はしませんでした。心配はかなりしたと思います。何しろ家族の誰も経験をしたことがないことをやろうというのですから。かといって親に心配をかけたくないからこの計画を止めようとは思いませんでした。母は下着や靴下を上手に整理してリュックサックに詰めることができるようにとバスタオル半分くらいの大きさの丈夫な生地にポケットが幾つも付いた壁掛け式のを作ってくれました。これは日本に帰って来るまで重宝しました。

一番心配したのは僕自身でした。本当にヨーロッパへ行くのだろうか、間違った船に乗ったらどうしようか、お金がなくなったらどうしようかなどといろいろなことを想像しました。そのたびに「大丈夫だ。何とかなる。」と言い聞かせ、前述の2冊の本を繰り返し読み、勇気を奮い立たせました。

 1966年12月9日に横浜港の第2埠頭から出港予定のフランス郵船(MMライン)のカンボジア号を予約したのは7月か8月頃だったと記憶しています。やはり新宿の日本交通公社へ行き、僕にとっては大金の10万円を支払いました。その時点で船室は文字通りの船底で、普通のビルで言えば地上階にあたる甲板から地下3階へ降りるようなところにある6人用の船室であることが分かりました。

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 その日は大変天気の良い日でした。横浜の山下公園の端にゲートがあり、船の切符とパストートを見せ通過しました。桟橋まで長い距離を歩いて船が係留されているところまでたどり着いたような気がしましたが実際はそれほどではなかったと思います。

  僕が一番心配したことは、この船が本当に僕が乗るべき船なのかと言うことでした。当時の横浜の桟橋には何隻かの船が停泊していましたから。間違った船に乗ったら、簡単に引き返すわけもできないし、と思いながらタラップを上りました。登り切ったところには数人の、真っ白な制服を着た船員がいて切符とパスポートを確認していました。僕は、間違った船なら乗船をさせてくれないだろうからと思い、少し安堵しました。そこから数メートル進んだところに事務机がいくつか並べられていていました。今度は乗船名簿の記入です。用紙を受け取ったものの、全てがフランス語と英語で書かれていました。一瞬たじろぎました。僕には簡単に分かりそうにもなかったのです。乗船客のごった返す中で、僕一人だけが言葉が分からず乗船できなくなるのではないかという恐怖心のようなものがわいてきました。周りを見るとみな、いかにも慣れている様子で、少なくとも僕にはそう見えたのですが、ボールペンを走らせていました。僕は入学試験でも受けているような気分になりながら、取りあえず、名前とか住所、パスポート番号など分かる項目を書き、隣の人の用紙をちらちらと見てカンニングの要領で書き終えました。これでいいのかなと思いながら係の船員に渡したら、何も言われず、キャビン番号が書かれた用紙を渡されました。

  リュックサックを背負い、写真機の入ったカメラバッグを肩にかけて指示された方に歩き進み、狭い、ペンキの匂いが鼻につく階段を下りました。交通公社での説明を思い出し、最下層を目指しました。船の中は大きなスーツケースを幾つも持った客達でごった返していました。みな、受付で渡された用紙とそれぞれのキャビン番号を照らし合わせながら右往左往していました。随所に船員が立っていてあっちだ、こっちだと大きな声で指示をしていましたが、すべてがフランス語で僕には皆目理解できませんでした。白い給仕のような制服を着た船員はアジア人の顔をしていました。僕はどうしてフランス人ではないんだろうと思いました。こんなにフランス語を話すアジア人は日本人ではないだろうとは思いました。かといって、どこの国の人なのかは見当も付きませんでした。彼らがどこの国の出身者か分かったのは出帆してしばらくしてからのことでした。僕はそれくらい無知でした。

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写真は暗室作業用の白衣をきて、いっぱしの写真家気取りをしている様子です。所有している機材はペンタックスS2、50ミリと135ミリのレンズがすべて。雑誌「太陽」は当時あこがれでした。

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 桟橋には真っ白な巨体がつながれていました。近づいてみればその巨体はとてつもなく大きく、地面から船体に沿って上に伸びている桟橋の階段はややしばらく上らなければなりませんでした。船には大きな文字で「CAMBOGE」と書かれていました。フランス郵船のMMライン所属で15,000トンクラスです。当時の東アジアとヨーロッパをつなぐ客船の代表格で「CANBOGE」の他に「VIET-NAM」と「LAOS」があり、3姉妹と呼ばれていました。

 これらの船の名前が何を意味していたのか、また、なぜ多くのフランス語を自由に操るアジア人が船員として働いていたのかを僕は知らなかったのです。その訳を知るのは出帆して数日経ってからのことでした。

 つまり、カンボジアもベトナムもラオスもフランスの植民地であったのです。そんなことでベトナム人船員がたくさん働いていたのでした。そのことを知った時は赤面しそうでした。僕の時代のアジアについての学校教育の内容がどうであったかは別にして、僕は新聞(朝日新聞)をよく読んでいたつもりでしたから、単純な歴史すら知らなかったことに恥ずかしく腹が立ちました。

 僕は同じようなことをイギリスでも経験しました。それは小さな本屋でのことでした。いつものように英語の勉強に役立つ本はないかと立ち寄ったときに見かけた本でした。日本陸軍の中国での残虐行為の記録がたくさんの写真とともに書かれたのを目にしたのです。手足を開いて逆さにつるされた中国人が、日本刀を振りかざした日本軍の兵士によって拷問をされている写真などが掲載されていました。頭がない写真もありました。僕にはショックでした。いたたまれない気分になりました。しかし、全部の写真だけは見ておく必要を感じ、立ち読みをしました。

 僕のいた下宿には予備校に通うイギリス人や海外からの留学生が5〜6人いました。彼らと毎晩のように様々なことについて話をし、時には激しい議論もしました。特に戦争については旧英国領出身の学生は熱く英国批判をし、語っていました。そんなことで、僕は日本陸軍の本が出版されたことは遅かれ早かれ話題になり、質問攻めに会い、激しい議論を吹っかけられるであろうと思って、ぞっとしたのでした。

 外国へ旅行した多くの人々が語ると同じく、僕も海外に出てはじめて自分の国についてどれほど無知かを思い知らされたのでした。

 後年、東南アジアを旅行した際には、特にカンボジアとラオスではフランスパンやフレンチコーヒーが日常生活に浸透していて、道ばたで売られていたフランスパンの美味かったのを嬉しく思うとともに複雑な思いをしました。

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写真は大学2年ころ。当時住んでいた東府中の家で友人のF君と。

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 僕の船室は船底の8人部屋でした。入り口を入ってすぐの左右に2段ベッドが2つ、その奥左右に2組があり、その真ん中に直径が6〜70センチほどの丸い窓がありました。窓の下には小さなテーブルがあり手紙を書いたりすることができました。

僕がようやくの思いで自分の船室を探しあてて重い鉄のドアを開けたときには1つを除いてすべてのベッドが陣取られていました。それぞれのベッドにはすでに本や洗面道具、脱ぎ捨てた衣類があり、住人がいることを主張していました。みな、甲板に出て見送りの人々に手を振っていたので船室には誰もいませんでした。僕も急ぎリュックサックを残りのベッドの上に放り投げて甲板へ急ぎました。

 やがてカンボジア号はゆっくりと岸壁を離れ、徐々に横浜港が遠くなり、船客達は、今度はゆっくりと慌てることなく、それぞれの船室へ戻り始めました。

僕はすれ違うことがようやくという狭い階段を下りながら「もう引き返すことはできない、大丈夫だろうか」という気持ちと「さあ、いよいよだ、何とかなるさ」という気持ちが行ったり来たりしているのを感じていました。

 当時の僕は、自分が乗船する船がどのような船かは全く知識がありませんでした。事前に調べるなどと言う余裕もありませんでした。ひたすらアルバイトをしてお金を貯めること「おまえは本気で外国へ行こうとしているのか、何のために」という自問自答を繰り返していました。

インターネットの時代になり、改めてWEBで「カンボジア号」のことを調べている有様なのです。しかし、意外に情報がありません。下記のサイトはフランス語ですが「カンボジア号」の写真が載っています。

http://www.es-conseil.fr/pramona/cambodg2.htm

 船室での僕のベッドは入り口に最も近い左側の上段でした。予約の時点ではベッドまでは決められていませんでしたから、早い者勝ちでそれぞれが陣取った結果なのでした。一番遅く船室にたどり着いた僕には選択肢がありませんでした。

僕は全員が初めての船旅であろうと勝手に思っていましたがそうではありませんでした。中には2度目という人もいました。

 戦後、日本政府が観光目的の渡航を許可するようになったのは昭和39年、1964年4月からです。それまでは民間人では海外の大学の奨学金を取得した者とか、何らかの理由で招聘された者だけがパスポートを発給されていました。日本政府の外貨の蓄えは十分ではなく一般市民に潤沢に行き渡るまではさらに数年を要しました。パスポートは一次旅券で一度帰国したら再利用はできませんでした。当時の多くの人々は、僕もそうでしたが洋行は人生で一度きりの経験と思っていたと思います。外貨の持ち出しは年に一度、500ドルまでという制限がありました。様々な煩雑な書類を作成してようやく500ドルを「お上」から支給されたのでした。数次旅券が発給されたのは1970年からでした。

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写真は今日のススキ野付近。

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 船室は男女別々でした。夫婦で旅行をしている人には気の毒でしたがやはり別々の船室でした。むろん、船底の船室ではなくもっと上級のクラスを利用している場合は2人用の船室もあるようでした。

 僕の船室にはカナダ人の30歳くらいの男性がいました。彼だけが非日本人でした。誰でも自国から一歩でも出たら「外国人」で平等なのですが、僕の船室ではやはり「外人さん」と呼ばれることになってしまいました。背の高いほっそりとした口数の少ない人でした。

 横浜の岸壁を離れてしばらくして、船室に訪問客がありました。全く予期しないことでした。それまでの雰囲気では連れのいる同室者はいないようであったからです。

 やはり30歳くらいの大変小柄な女性が突然ドアを開けて、にこにこしながら一台一台のベッドに目をやり、奥の方の右上のベッドにたどり着いて、「Hi, John!」と言いました。確かジョンさんだったと思うのですが記憶違いかもしれません。全員、ちょっとびっくりしました。アジア系の顔立ちでしたから日本語が口から出てくると一瞬思ったのです。

 彼女はつかつかと船室に入ってきて英語で自己紹介をしたのですが、語学音痴の僕には確証はありませんでした。夫婦での旅行なので始終この船室に遊びに来ます、くらいのことを話したようでした。しかし、僕らの反応の悪さか、誰も何とも言わないせいか、彼女は日本語で自己紹介をやり直したのです。僕らはみな安堵して、やれやれと思いました。彼女は日系カナダ人でした。 

 僕のベッドは出口に近く、上段でしたから、横になっていた僕の顔と立ち話をしている彼女の顔が同じ高さでした。帰りがけに僕の顔をにらみつけて「大坂君、英語も分からないで何しに外国へ行くの! 英語の勉強、しっかりしなさい!何とかなるなんて思ったらとんでもない間違いよ!」ときつい顔で、真剣に言って出て行きました。

 英語苦手意識の強かった僕にはいきなりのきつ〜い一撃でした。完全に先制パンチを食らった気分でした。その場面は今でも鮮明に覚えています。恥ずかしさと悔しさが一緒になった屈辱感を船旅の第一日目から味合うことになったのでした。

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写真はカンボジア2002年

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 僕のベッドの向かいの下段には30歳くらいの男性が陣取っていました。僕が日系カナダ人女性に小言をいわれているのを聞いていたらしく、彼女が立ち去るのを見計らって「大坂君、英語苦手なんだ。俺も苦手なんだよ。でね、英語の勉強にはね、ポルノ小説を読むのが一番だよ。何せ、分からない単語があっても簡単に想像がつくからね。ほら、こんなのさ。」と、その男性は僕のベッドめがけて一冊の分厚いペーパーバックの本を放り投げてよこしました。

なるほどそうかと思ってその本のページを繰ってみましたが、当たり前ですが全部英語で書かれていて、挿絵も見あたらずチンプンカンプン。僕は「苦手」のレベルが違いますよと言ってその本を返しました。

 僕は旅行の初日から英語という怪物にばっさりとやられ、悔しくて情けなくてずいぶんと気落ちをしました。しばらくの間、船室の天井を見ながら「おまえ、どうするんだ」「英語が分からないで外国へ行こうとするのは無謀じゃないのか」「最初の寄港地の香港で下船して日本に帰ろうか」「まだ500ドルはあるから帰国の切符は買えるぞ」「これで帰ったらかっこう悪いだろうな」などとつぶやいていました。

いつまで経っても気持ちの整理が付かないでぼうっとしていたのだと思います。先の男性がまた話しかけてきました。「大坂君、心配するな。俺だって一回目の海外旅行の時には四苦八苦したよ。だんだん慣れるよ。腹くくってりゃ、その内に雰囲気に慣れるからさ。」

僕は上半身をベッドから起こして、2段ベッドに座って足をぶらぶらしながら「まあ、勉強するしかないですよね」と自嘲気味に言いました。

 

 僕は青森にいた中学2年までは英語に苦手意識はありませんでした。3年から東京の世田谷区立松沢中学校へ転校したのですが、僕の英語コンプレックスはそこから始まりました。3年の授業は英語に限らずすべての科目が復習のみでした。その中学校では2年生の時に3年の勉強を終えていたような気配でした。授業でやるのはプリントの問題をひたすら解き、答え合わせをして授業は終わっていました。

青森の田舎からポッと出て行き、東京のレベルはこんなにも高いのかと仰天して、半ばあきらめの気分でした。

そんなことで、高校でも英語は赤点の連続でした。

 カンボジア号が横浜を出て、最初の異文化体験は昼ご飯でした。

3等船客用の食堂は全員が一度に着席するには十分ではなく、どの食事も2回に分けられて出されました。2度目のドラがなると僕らの番です。食事は、当たり前と言っては当たり前なのですがフランス料理が中心でした。というか、何がフランス料理か分かるはずもなく、フランス船だったからフランス料理と思っただけかもしれません。

スープ、食べ放題のフランスパン、肉か魚の一品、デザート、というのがお定まりでした。ワインも好きなだけ飲んでよかったように記憶していますが僕は下戸なのであまり関心がありませんでした。まだ内海でしたから揺れはなく穏やかな食事でした。

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僕は日本を出るときに「日米英会話」=旺文社=という真っ赤な表紙の本を一冊リュックサックに入れていました。それを取り出して毎日勉強をすることにしました。少し覚えてはその日のうちに実践をするということを繰り返しました。言い回しを暗記して適当なタイミングで使ってみるということです。しかし、文法力のなさから応用がなかなか出ませんでした。生来の理屈っぽさのせいで納得できないと使う気になれなく、文法をあれこれ考えてしまう始末で、あまり進歩はありませんでした。しかし、少しずつ雰囲気には慣れました。船員達は英語を使わず、全てが万事フランス語でしたから、英語とフランス語のカクテルで話していたように思います。

 ポルノ小説の男性は相変わらず分厚いペーパーバックと格闘をしていました。この人の上段のベッドには絵描きさんがいました。見た目からして一風変わった感じがしていました。長髪に無精ひげの35歳くらいの男性でした。村上さんと言いました。

村上さんは、見たこともないような大きなトランクを2つ船室に持ち込んでいました。始終、これらのベルトを開けたり綴じたりしながらごそごそと何かを取り出し、又はしまい込むということをやっていました。ある日、「大坂さんね、僕はイタリア語が好きなんですよ。」と言って厚さが7〜8センチもある大判のイタリア語辞典をトランクから取り出し、「よっこらっしょっ」と言いながら上段のベッドに持ち上げました。僕はびっくりしました。こんな大きな辞典をトランクに入れて旅行するなんてどうかしているんじゃないかな、と思いました。

「僕はね、こうしてこの辞典を眺めているだけでも幸せなんですよ。マルセイユに着くまでに全部読み終えれればいいんだけどね。無理だろうな。」

「村上さん、それ全部憶えるつもりなんですか。考えただけでも頭が痛くなりそうですよ。」

「そうですよね。無理ですよね。」

という会話を毎日のようにしました。

 村上さんは当時、彗星のように現れた天才画家と言われた方です。そのことを紹介した週刊誌を本人に見せてもらい、僕は思わず「新聞で読みましたよ。はい、憶えています」と言いました。銀座の並木通りの路上で絵を描いていて、ある画家に見いだされ、一躍有名になった絵描きさんです。日本のゴッホとも言われました。

「大坂さん、近頃、うんち、ちゃんと出てる?僕は全然出なくてさ。困っちゃうな。」と突然言われてたこともありました。

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写真はカンボジアのシェムリアップで。

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 村上さんは船室にいるときにはいつも分厚いイタリア語の辞書と、頭の毛をかきむしりながら格闘をしていました。上段のベッドに横たわってゆっくりゆっくりページをくって、時々訳のわからない音声を発しながら読んでいる風でした。僕も同じく上段のベッドで、村上さんの丁度向かい側に陣取っていましたから村上さんの辞書との格闘の様子は良く見えました。目が合うとニッと笑い、困ったような表情をしていました。

 いかに30日の船旅といえども日一日とマルセイユが近づいてはいました。村上さんは「もう○○日も船に乗ったんだね。だんだんパリが近くなってくるね」と話しながら相変わらず辞書と相撲を取っていました。

村上さん「大坂さんね、僕はこの辞書をパリまで持って行くことをあきらめようと思うんだ。重いし、パリではイタリア語ではなくフランス語だしね。」

僕「そうしますか。やっぱりパリでイタリア語を話してもね。で、その辞書、どうしますか。」

村上さん「マルセイユまで一所懸命勉強しますよ。読み終わったら食べちゃおうかなと思っているんですよ。食べたら忘れないような気がするんです。こんな風にネ。」

村上さんはそう言って本当に一ページをビリビリっと破り、口に入れました。

僕「村上さん、本当に食べちゃうつもりですか。それは無茶ですよ。食べて覚えられるなら僕だってこの本を食べますよ。僕も全然覚えられないんだから。」

村上さんと僕は誰もいない船室で大笑いをしました。

 第一回目の朝食は、やはり洋食でした。食堂へ近づくと何やらコーヒーやシナモンの香りと一緒にパンが焼かれている、うまそうな匂いもしてきました。テーブルの一角にはバスケットボールを半分にしたくらいの大きな銀製の器がありました。合わせて牛乳や砂糖が並んで置かれていました。西洋系の船客は自分で小ぶりの深皿に取りわけて牛乳と砂糖をかけて美味そうに食べていました。日本人の客は誰も試みようとはしていませんでした。食べている人の皿を見るとおかゆのように見えました。しかし、おかゆに砂糖をかけるのかと思いながら僕も大きな銀製のボールを覗いて見ました。湯気が少し立っていて牛乳でご飯を炊いたような匂いがしていました。記憶にある匂いでした。

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写真:僕が写真を撮ろうとしたために泣き出したのでありません。泣いて母親に甘えていたので写真を撮ったのです。念のため。

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僕の母は炊きたての熱いご飯に牛乳をかけて食べるのが好きでした。僕の記憶にあったのはその匂いでした。

船の朝食にコーンフレークスと一緒に出されていたのが湯気が立っているオートミールのポリッジ(粥)だったのです。

http://cookpad.com/recipe/490529

1960年代、中2年まで青森にいて、その後、東京の下宿や自活をしていてオートミールなど知るよしもありませんでしたが匂いだけは記憶にあったのです。

西欧系の船客たちがどんな風に食べるのかを観察し、僕も試みてみました。お粥ほど水分はなくどろどろした感じの熱々のオートミールを小さめのどんぶりに取り分け、改めて牛乳と砂糖をかけて食べるのが普通のようでした。何人かは砂糖ではなく塩をかけていました。僕は甘党なので砂糖をかけてぐるぐるっと混ぜて食べてみました。これは僕の口に合って美味い、と思いました。以来、毎朝食べるようになりました。周りの食わず嫌いの日本の人たちにも勧めましたが「お粥に牛乳と砂糖をかけて食うなんて考えられない!」と一笑に付されてしまいました。

後々、イギリスで生活をしているときに知ったのですがオートミールに塩をかけて食べるのはスッコトランド系でイギリス人の多くは砂糖党でした。また、当時のフランスではこれを食べる習慣はないと言うことも知りました。

オートミールに似た食べ物にイギリスの「ライスプディング」があります。

http://blog.goo.ne.jp/qpcorn/e/0e5f9d494d7ad735eefcae0ca9b44e28

イギリスでは一般的なデザートです。材料はオートミールではなくお米です。牛乳でお粥を作り、好みで砂糖やシナモンをふりかけて食べるのです。僕もこればかりはかなり抵抗がありました。しかし、レストランの調理場でアルバイトをしていて時々作らされるはめになり、味を知らないで調理するわけにもゆかず、一口、調理長の作ったのを恐る恐るスプーンで口に入れてみました。シナモンの香りが口いっぱいに広がり「ご飯」とは全く別物の印象でした。

僕はこのライスプディングをも周りにいた日本人に進めましたがオートミールの時と同じで、頭から否定され誰も試みようとはしませんでした。先入観念とは恐ろしいものあることを学習した一件でした。

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写真はままごとをする少女 カンボジア

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カンボジア号の最初の寄港地は香港でした。

横浜を出たのは12月9日で少しずつ寒さを感じる季節になっていました。しかし、真っ白な巨船は静かに南下をし、最も格安な船底の船室では湿度も増し、暑さを感じるようになってきました。

皆、それまで着ていた冬の衣類を着替え始め、半袖や人によっては半ズボンになる人もいました。

僕は季節によって着替えるなどということは考えもしませんでした。12月に日本を出て6ヶ月くらいの滞在で帰国する腹づもりでしたからヨーロッパの冬のことばかりに頭がいっていました。ましてや船上で夏用の衣類が必要になるだろうとは全く考えませんでした。海外旅行、ましてや船旅の経験者に話を聞くなどと言う機会は皆無でした。僕の衣類は中くらいのリュックサック一つに入りきるだけの分量でした。ズボンはウール地の濃い茶色のが一本だけでした。衣類にはあまり頓着のない方ですが、それにしても今考えてみると噴飯ものです。

香港には2泊しました。下船手続きや上陸手続きを終えてタラップを下り、振動のない大地を数日ぶりで踏むのは格別でした。足もとは少しふらふらしましたが、学校の教科書に書いてあったイギリスの植民地である香港に実際に自分の足で立っていることは、「ここが香港だ」と大きな声で言い聞かせたくなるくらい感動をしました。ましてや僕にとって外国の土地を踏むのは初めての経験でしたからなおさら強い感動を覚えました。

数人の同じ船室の人たちと一緒に下船し、街へ繰り出しました。気持ちの上での高まりと暑さで頭はボーっとしていたように思います。

ご承知の通り、香港は英国の植民地でした。街中の看板は漢字と英語で書かれていました。

英語不得意の僕は何を書いているのかさっぱり分かりませんでした。漢字から推察して理解をするしかありませんでした。それもまた悔しい思い出です。

英国人が多く住んでいると言われた坂道の地区へ足を踏み入れたときには、なるほどこれは違うと思いました。その地区直前の通りの、統一感のないごちゃごちゃとした街並みとは全く異質な雰囲気が漂っていました。

僕は東京の府中に住んでいました。家から数分のところに米軍の基地があり、それに通じる並木道の両脇は飲食店やバーが乱立し、けばけばしいネオンサインがその派手さを競っていました。日中はあまり人通りがありませんでしたがときどき頭にカールを巻き付けた女の人や出前を運ぶ自転車を見かけました。その一本の並木道は甲州街道を入ったところから始まり、まっすぐに伸びて、行き着く先は米軍基地の衛兵が数人立っているゲートでした。そこから先は完全にフェンスで囲まれていました。僕はその通りの入り口にあったカウンターだけの小さな喫茶店にたびたび行っていましたから散歩ついでにゲートまで歩きフェンスの向こう側の様子を眺めていました。

白のペンキを塗った建物が整然と、あたかも箱庭のように、隅から隅まで敷き詰められた手入れの行き届いた緑の芝生に映えていました。僕はある意味で西洋文化と日本文化の境界を見ていました。そんなわけで、香港でイギリス人住居区を見たときには、やはりね、と思いました。

繁華街を歩いていたときに路上で石油缶のようなもので煮炊きをしているのに出くわしました。こんな往来の激しいところでか、とびっくりしたのを覚えています。女の人が道路の真ん中にしゃがみ、通行人のことは意に介さず、煙を出して何やらを煮ていました。しかし、その光景は僕が小さい頃、夕方になると頻繁に目にしたものでした。僕の家の裏の通りには戦後の急ごしらえのバラックが軒をなしていました。今でこそこぎれいな家並みになっていますが当時は子供が遊ぶのも煙をもうもうと出しながら七輪で魚を焼くのも、夫婦げんかをするのもみな穴だらけの、ときどき馬車が通り馬糞を落として行く路上で繰り広げられていました。夕日が生活者の長い影をつくり、あたかも人々の生活を描いた舞台のようなものでした。

僕は写真を撮りたいな、と思いながら香港の街をぶらぶら夕方まで歩き回りました。しかし、持っているフィルムの本数は限られていましたからあきらめざるを得ませんでした。

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後年「慕情(原題Love is a Many-Splendored Thing)」という映画を見る機会がありました。

何年ころかは覚えていません。今はすでに販売はされていませんがDVDが出現する前にレーザーデスクというのがあり、ビデオに比べて数段きれいな映像を提供してくれました。特に一時停止したときの映像にぶれがなく、英語を教える際に電気紙芝居的な利用で大いに重宝しました。

http://www.youtube.com/watch?v=alRKMk8NlDY

舞台は香港です。この作品は1955年の発表ですから僕が香港を訪れた時期の12〜3年前に撮影をされたのだろうと思います。内容はメロドラマです。僕は音楽とともに大変好きな作品です。この映画でEurasian(白人とアジア人の混血)という単語を知り、なるほどと思ったのを覚えています。

映画の中の街の雰囲気はまさしく僕の最初の香港の印象と同じです。僕の手元にDVDがないので確認ができないのですが香港全体を鳥瞰した映像が冒頭か最後に出てきます。それを見たときには「そう、そう、こんな感じだったナ」と思いながら、当時は2度と訪れる機会はないだろうと思っていた香港を懐かしく思ったものです。

僕は、日本出発前は荷物を最小限のにしなければという思いが強くあってリュックサックとカメラ鞄のみという出で立ちで船に乗り込みました。しかし、最初の寄港地の香港で小ぶりのショルダーバッグが必要だと気づきました。冬用の上着を地図などを入れる物入れの代わりに着て歩くには暑すぎたのでした。船を下りたとたんに汗どろどろでしたから。そこで露天商の鞄屋で格安のカーキー色のキャンバス地のショルダーバッグを買いました。初めての買い物でした。これなら上着を着て歩かなくても不便をしないだろうと大いに満足をして、店先で上着のポケットの物を出してバッグに入れ替えました。

僕は限られた500ドルと現金2万円という旅費しか持っていませんでした。したがって、寄港地で遣えるお金は全くなく、街で中華料理を食べるなどと言うことは論外でした。しかし、一緒に下船した人たちは「これは安いね〜。」といいながら小物を買って喜んでいました。僕は、皆、同じ500ドルしか持っていないはずなのに余裕があるな〜、と思いながら買い物の様子を眺めていました。

昼どきには困りました。安い屋台で食べるにしてもお金が必用です。僕にはそんなお金の余裕はなく、せいぜい冷たい飲み物で我慢をせざるを得ませんでした。そんなことで街の見物はしたい、腹は減るという有様でした。で、空腹が我慢できず、午後2時頃には一人で船に引き返しました。

食事に関しては、船は天国です。3食に加えてAfternoon tea があり、飲み物と菓子や果物がふんだんに出されました。

その日は昼抜きでしたからAfternoon teaが待ち遠しく食堂でうろうろしていました。ほとんどの船客は下船をしていて食堂はがらんとしていました。僕は一人で悠々とサンドイッチなどのAfternoon teaにあずかりました。以来、下船をする際には、昼どきには戻ることを給仕長に告げることにしました。つまり、船に戻って街に出直すという作戦をとることにしたのです。

その日、ゆっくり空腹を満たして、やれやれと思いながら一息を入れ、さっき買ったばかりの鞄に目をやりました。僕は真っ青になりました。

<慕情>

作詞:PF・ウェブスター、作曲:S・フェイン

日本語詞:岩谷時子、唄:ナット・キング・コール他

春浅きあした/風に揺れて咲くバラの花こそ

二人のはかない恋の姿よ/つかの間に咲いて散る

君とただ二人/霧にぬれ 固くいだき合いて

口づけし別れの丘に/今日も君慕い 君想う

Love is a Many-splendored Thing

Love is a many-splendored thing

It's the April rose

That only grows in the early spring

Love is nature's way

Of giving a reason to be living

The golden crown that makes a man a king

Once on a high and windy hill

In the morning mist two lovers kissed

And the world stood still

Then your fingers touched my silent heart

And taught it how to sing

Yes, true love's a many-splendored thing

Once on a high and windy hill

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写真はカンボジアの市場で店番をする少年

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14

僕は腹一杯、Afternoon teaを満喫し、円い窓から岸壁の様子を眺めていました。炎天下、岸壁では荷役の人々が大きな箱を背負って忙しそうに、ゆらゆら揺れるタラップを上ったり下りたりしていました。貨物や食料を積み込んでいる風でした。船内には客はいなく、船員も少数でがらんとしていました。

僕は街で買ったばかりの鞄をテーブルの上に無造作に置いていました。いかに食堂が僕だけの専有であっても盗難には気をつけていました。何気なく目をやったときに鞄の裏側、つまり身体に接する側が見えました。そして、唖然としました。そこにはカミソリで切られたように横に一直線の切り口があったのです。15センチくらいの切り口でした。僕は一瞬、やられたな、と思い、頭から血が引いて行くのが分かりました。

鞄が切られていたにもかかわらず、僕は何故か首から下着の中に下げていた貴重品の布袋を手でまさぐって無くなっていないことを確かめていました。

今でこそ旅行用品の売り場へ行くと既製品で売っていますが、当時は母が木綿の生地で丁度の大きさに作ってくれたものでした。

僕は中三の時に青森から上京しました。そのときにも同じようなのを母が作ってくれた記憶があります。当時は青森駅から上野駅まで急行列車で15時間もかかりました。昭和35年、36年(1960、61年)頃です。帰省の時期には列車の通路に何時間も立ったままの乗客がいることも珍しくはない時代でした。帰省のたびに父が買って送ってくれた切符は3等列車の椅子席でした。硬い木製の、背もたれが垂直な大変窮屈な椅子席でした。列車はいつも混み合っていました。出発の何時間も前に上野駅に行き、席を確保できるようにプラットホームで並んだものでした。

そんなことだったので母の手製の首から下げる貴重品袋にはなじみがありました。腹巻きをしていた大人たちはその中にお金を入れていました。

僕はパスポートやトラベラーズチェック、予防接種証明書などを入れてあり、眠るときでもシャワーを浴びるときでも決して身から離さないように気をつけていました。

あ、あるな、と指先の感触に安心をしました。今度は鞄に手を伸ばして、開けてみました。鞄の中には地図や英語の勉強の本、手帳、筆記用具を入れていました。幸いなことに英語の本が切り裂かれた側に入っていて、本の裏表紙に傷が付いたものの盗まれた物はありませんでした。やれやれと思いながら、それにしてもいつ、どこでは皆目見当が付きませんでした。 

夕方になっても外気温は涼しくなることはありませんでした。僕の船室の人々は暑さにぐったりとなりで街から戻ってきました。船室でも甲板でも食堂でも香港初日の武勇伝が語られ、またいつものようにわいわいがやがやと賑やかになりました。

僕は鞄を切られたことは、何故か恥ずかしくて誰にも話せませんでした。

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写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校

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香港での48時間の滞在は初めての外国と言うこともあって胸の高まりを憶えるものでした。しかし、やはり英語力のなさを痛切に感じることにもなりました。学校での英語には苦手意識の方が先立って横文字を見ると拒絶反応を起こしていました。そのことが実践の場である香港のマーケットでも同じでした。正しい英語だろうが正しくない英語だろうが用を足す道具だと悟るまでにはしばらく時間がかかりそうでした。

僕は、船中では相変わらず赤い表紙の「英会話」の本とにらめっこをしていました。前述の日系カナダ人の女性が夫を訪ねて船室にくるときは、またしかられるかなと思いながらも少ずつ質問もして教えてもらいました。

画家の村上さんは相変わらずイタリア語の辞典を読み、読み終わったらムニャムニャと口に入れて消化をしようとしていました。

村上さんの下のベッドのポルノ小説の人は時々にやにやと笑いながら数ページづつ読み進んでいる風でした。この方は白井さんという海洋調査を専門としている方でした。インドネシアの海域でダイビングをしていろいろと調査研究をする仕事だと話してくれました。

白井さん「大坂君は何をしにヨーロッパへ行くの?」

僕「写真を撮りたいんです。しかし、その前に語学を勉強しなくちゃと思って。なにしろ、この有様ですから。」

白井さん「僕を見て。何とかなるもんですよ。だんだん慣れるから大丈夫。」

僕「そりゃ、基礎のある人にはそうかもしれないけれど。」

読みかけの、どぎつい表紙のペーパーバックを指して

白井さん「これだよ。前にも言ったでしょ。」「ところで、大坂君はどんなカメラを持ってきたの?」

僕はアサヒペンタックスであることやレンズの種類を説明しました。

白井さん「いいね。僕と一緒にボンベイで下船しない?僕と一緒にインドネシアへ行って僕が撮って欲しいのを撮ってくれないかな。旅費とか生活費は僕が出せるよ。」

写真の仕事を提案されるのは生まれて初めてのことでした。僕はドキドキしました。頭がボーっとしてきました。

白井さん「インドネシアは半年くらいで、その後はヴェトナムを考えているんだけどさ。」

僕「申し訳けないんですけど僕は泳げないし、水中写真は器材もないし・・」

白井さん「水中のは僕が撮るんだけど、陸上の環境とか、いろいろ撮るものがあるんでね。」「東京で写真の仕事、やったことあるの?」

僕「撮影の仕事は経験がありません。暗室の仕事はアルバイトでやったことがあります。」

白井さん「どこで?」

僕「週刊文春です。」

白井さん「あ、そう。それで十分だよ。」

白井さんはとても簡単なことのように説明をし、一緒に仕事をやろう、と誘ってくれました。

僕は21歳で白井さんは32〜3歳に見えました。小柄な方でしたがそのときはとても大きな人に見えました。

ということで僕はその晩は寝ずに悩み、悩み、考えました。船は深夜に香港の岸壁を静かに離れ、外海へ向かっていました。船室の円い窓からは遠くに香港の明かりが見えていました。

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写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校。3部授業をやっていました。

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僕は一晩中考えていました。

船底の船室ですからエンジンの振動がわずかですがベッドにも伝わってきました。波が静かであればあるほど横たわっている僕の背中に感じることができました。

もしかしたら写真で飯が食えるようになる貴重なチャンスになるかもしれないと思いつつ、同時に、ここで語学の習得を断念したら一生語学音痴で終わり、劣等感を引きずって残りの人生を生きることになるのではないか、などと懸命に自分なりに理性的に考えました。

僕は数学や物理、化学などの科目も不得意なのですが、不思議なことにそれらについては全く劣等意識がありませんでした。しかし、何故か外国語についてだけはそれを払拭できず、重い気分を引きずっていました。

高校生の時にこんな経験をしました。同期に久保田君というどんな科目でもこなすオールマイティーな友人がいました。ある日、彼は僕の家に遊びに来て「大坂、おまえレコードを持っているか?」というのでジャズのはあるよと答えました。で、それを聴きながら彼は言いました。「なんのことを歌ってるのか分かるのかよ?」彼は僕が英語は全然だめなのを知りながら訊くのでした。僕は「そんなの分かるはずがないだろう。だけど見当はつくよ。音楽は言葉が分からなくても通じるって言うだろう。」とちょっとむっとなりながら答えました。久保田君は続けて「じゃ、何を歌っているのか紙に書いてみろよ。」と言うのです。僕はむきになってそのジャズから想像できることを紙に書き、彼に見せました。彼は「う〜ん」とうなって「まあ、まあ、当たってるな。」とニヤリと笑いながら言いました。

僕はこんちくしょう、と思いましたが、それで英語が分かるようになるわけでもありませんから益々自分に腹が立ちました。

僕が何故、50年近く前のことをこんなに鮮明に覚えているのかは、つまり、それくらい僕にとっての英語はいやなことだったのです。彼は多分、全く覚えていないだろうと思うのですが。

劣等意識から自由になるには勉強をするしかないと言うことは自明なことです。僕は劣等感からは解放されたいと強く思っていました。

白井さんの提案を考えながらもウトウトしたようでした。目が覚め、いつものように食堂へ行きオートミールやパン、卵を食べて船室に戻りました。僕よりも早く起きていたらしい白井さんも、どこからか戻っていました。

僕は思いきって一晩考えたことを伝えました。

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写真はカンボジア・シェムリアップ湖上小学校の教師。ここの仕事だけでは食べて行けない、とこぼしていました。

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白井さんは「また機会があると良いなア」といいながら残念がってくれました。

彼は何かの縁だからと言って淡いピンク色をした珊瑚礁でできたネクタイピンをプレゼントしてくれました。ご自分が海中で調査していたときに見つけた破片で作ったと言っていました。最近までその在りかが分かっていたのですが何度も引っ越しをする中でどこかへしまい忘れてしまいました。

カンボジア号は紅茶のセイロンでよく知られている旧英国領のセイロンへ向かってどんどん南下していました。(1972年に独立をし、共和国となって今はスリランカという名前に変わっています。)

従来の航路ではベトナムへも寄港をしていましたが僕の乗った1966年にはすでにベトナム戦争が始まっていたので素通りをしました。

数日後にセイロンに到着し、香港の時と同じように下船や仮入国の手続きを終えて、みな街の方へ散って行きました。記憶がはっきりしていませんが僕は何かの都合で下船が遅れ、みなと一緒の行動はとれませんでした。下船をしたときにはすでに港はがらんとしていました。焼け付くような炎天下に見えたのは古ぼけた一台のバスだけでした。むろん言葉は皆目分かりませんでした。しかし、船にじっとしているのはもったいないと思い、ちょっと勇気を出してバスに乗り込みました。客は僕一人でした。どこかへ連れられて行き船に戻れなかったらどうしようという心配もありましたが運転手の顔をみて「大丈夫かな」と思ったのでした。

どこへ向かって行くバスかも分からないまま、けたたましい騒音とともに背後にもうもうと排気ガスを残して走り出しました。僕は「Want to go to town.」と言ったつもりでしたがバスの行方は違っていたようでした。砂煙を巻き上げながらどんどん田舎の方へ走っている風でした。僕は最前列の席に陣取っておっかなビックリ行く先を見ていました。バスの中はトースターのように暑く、ほこりが充満していました。

途中、バス停らしいのはどこにもなく、ただひたすら赤茶けた道路をノンストップで走り続けました。周りには南国らしい感じの様々な木や草花が見えました。しばらく走った頃に、少しですが涼しさを感じるようになりました。周りには大きな椰子の木が見え始めていました。椰子の木だと分かったのは高校の時に九州へ修学旅行で行ったからでした。

バスはやがて木の葉でできた民家がいくつかある椰子の木の林の中で停まりました。数人の子供たちが遠くから異星人を眺めていました。バスのエンジンが切られたときには、シーンと静まりかえり、無音の世界でした。

みな真っ黒に日焼けしていて、目だけが光って見えました。何が起こるのかと不安感の強かった僕には「やー、こんにちは」と言うほどの余裕はありませんでした。

バスから下りた運転手は椰子の木を指して、年長の男の子に何やら言いつけているようでした。その男の子はうなずくと刃渡りが2〜30センチもある大きなナイフをどこからか持ってきました。一瞬、僕はどきりとしました。来なければ良かったな、と思いましたが後の祭りです。僕は身構えました。

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写真は、僕が教室に招き入れられたときに「このひとだ〜れ」と後ろの子に話しかけていました。カンボジアで。

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年長の少年が持ってきたナイフは先が幅広く、いかにもナイフを振り回して刃先で切るような作りでした。

少年は腰にそのナイフを無造作にさして、一本の椰子の木を見事なほどに器用に登り始めました。てっぺんまで登り切ると、下で様子を見ていたバスの運転手が何やら指示をしました。すると少年は腰からナイフをとって振りかざし、椰子の実をバサッ、バサッと切り落とし始めました。僕の足下近くに数個の実が上空から降ってきました。地面に落ちて割れるかと思いましたがそんなこともなく原型のままドサッという音を立てて落ちてきました。

数個の実を切り落として、少年はスルスルと椰子の木を滑るように下りてきました。ナイフを運転手に渡すと、今度は運転手が片手に実をもって、もう一方でナイフを振りながら白いココナッツが見えるまで削りました。最後に注意深く上部を平らに切り落としました。それを僕に差し出し、手真似で飲めと言いました。

僕はさっきまで身構えていたことをすっかり忘れて、素直に口をつけて実の中の液体を味わってみました。生ぬるい、かすかに甘みのある液体が僕ののどを通りました。運転手も少年も「どうだ、甘くて美味いだろう」という笑みを浮かべていました。

この液体がナタ・デ・ココの原料であることを知ったのはずうっと後のことでした。

他の少年らもみなココナッツ・ジュースを飲み終わった頃、運転手は再度、バスに乗れと言う仕草をし、僕らはタクシーまがいの路線バスで田舎を走り回りました。

結局、最後まで乗客は僕が一人だけでした。僕にはそのバスが本当に路線バスであったのかどうかさえ分かりませんでしたが4時ころには埠頭に送り届けてくれました。

僕は、下船するときに両替した現地通貨はわずかでしたからバス賃がいくらになるのだろうと気になり始めていました。料金を訊ねたところで分かるわけがないので、僕はポケットからお金を取り出して手のひらに乗せ、バス賃を取るように促しました。しかし、運転手は「いらない」というそぶりでエンジンをかけ「降りろ」と僕に言って走り去りました。

結局、僕はセイロンの埠頭近くの田舎をドライブしただけで、肝心の街を見物することはできませんでした。

翌朝、カンボジア号はインドのボンベイ、今のムンバイへ向けて、ゆっくりと埠頭を離れました。

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写真は、僕が英語で自己紹介をした後、笑顔を見せる女生徒。

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カンボジア号の甲板は雨が降らない限り、デッキチアーに寝べったり、読書をしたり、手すりに身をゆだねてぼんやり海を眺めたりする大勢の人々で賑わっていました。いろいろな国の人々が、それぞれの国の言葉で、静かに話をしていたり、身振り手振りを交えて冗談らしきのを言っては大笑いをしたり、真顔で議論をしたりしていました。

中でもインドの人々はいつも散歩に余念がないようでした。あまり女性が散歩をしているのを見かけることはありませんでした。男性2人が、言葉の分からない僕が眺めている分には、至極難しそうな哲学か政治でも議論をしているのではないかと思えるような雰囲気で、楕円形に一周できる3等船客専用のデッキを何周も何周もしていたのが印象的でした。インドでは男同士でも話すことがたくさんあるんだな、と感心したことを覚えています。

それまでの僕の生活では見たことがない光景でした。高校や大学で、数人の仲間と喧々がくがくの議論をすることはあっても2人だけで話すことは無かったように思いました。2人で喫茶店に入っても話すことはさほど無く、腕組みをして流れているジャズを無言で聴いたり、互いに異なる本を読んだり、というのが「普通」でした。喫茶店を出たら「またな」とだけ言って、それぞれの電車の駅へ向かって歩くだけでした。

甲板で散歩をしている様子を注意深く観察していると、僕の思い込みではなく、やはりインドの人々の「二人で散歩」が圧倒的に多いと分かりました。他のアジア人や白人はめったにいませんでした。で、僕は「多分、これはインド文化だ」と合点しました。

彫りの深い、褐色の肌の、大きな目の男2人が、ゆっくりゆっくり歩きながら真剣に話している様子は、どう見ても世界観や宇宙観を話しているようにしか見えませんでした。

浅学な僕は、当時は知りませんでしたが後々、ゼロを発見したのはインド人であるというのを知った時には、さもありなんと思いました。

航海中は、位が低そうな船員たちが方々でペンキを塗る作業をしていました。所々に立ち入り禁止のロープが張られ、真っ白なペンキの刷毛を黙々と動かしていました。ときにはいつもの通路にロープが張られて、迂回している間に迷子になることもありました。船底には迷路のように通路が張り巡らされて、「DANGER」という文字もありました。

僕はある日、間違って大きな機械音がする通路へ入り込んでしまったことがありました。

突然に視界が開けて、そこでは大勢のアジア系の船員たちが大量の洗濯物と格闘をしていたのを目撃したこともありました。蒸気がもうもうと上がり、みな大汗をかきながら機械を操作していました。僕は職人が仕事をしているのを見るのが大好きですから、そこでも立ち止まって見入ってしまいました。中でも感動をしたのは大きなシーツやテーブルクロスを、回転する2つのローラーに差し込んでアイロンをかける作業でした。ローラーを通過した真っ白な生地は糊がきいて板状になって出てきました。2人一組でそれを待ちか構え、素早く折りたたむ様子は芸術的でさえありました。

今でも油性ペンキの匂いをかぐと、船旅のことを思い出します。

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写真は、托鉢を終えて英語の勉強をする修業僧。カンボジア

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20

匂いが思い起こさせる記憶は人によっていろいろあるような気がします。そのことを意識したのは前述のカンボジア号での油性ペンキです。僕にとってのペンキの匂いは若い頃のいろいろな場面を想起させます。

イギリスで下宿生活をしていた頃です。

適当なアルバイトが見つからず、手持ちのお金を何度も計算をし、2週間くらいもしたら下宿代を払えなくなるな、と思った頃があります。今は分かりませんが当時の下宿代は週払いでした。アルバイト賃は無論、会社員も高給取りでない人たちは週給が普通でした。

下宿屋のおばさん(Fifyと呼ばれていた40歳代の、小学生の息子2人を持つシングルマザー)にその旨を話しました。つまり、下宿を出なければならないだろうから、食事なしの安いアパートを紹介してもらえないかと相談をしたのです。Fifyはしばらく考えてこう言いました。

Can you paint? If you can, you can stay free of board while you paint all the rooms in the house.

(ペンキを塗れるなら、全部の部屋のペンキを塗り終えるまでは下宿代を無料にする。)

僕は少しですがペンキは塗ったことがありました。東京に住んでたときに庭の片隅に大工仕事が得意な兄が暗室を作ってくれたのですが、そのペンキ塗りは僕がやったので少しの経験はありました。そこではったりで

Yes, I can paint.と言ってしまいました。

この下宿は3階建で部屋が10室くらいある大きな家でしたからしばらくは食いつなげると算段しました。

僕はその日の内に、3階のその上にあった屋根裏部屋へ引っ越しました。

3階の踊り場から通常のよりも狭く急勾配な階段を上った、物置のようになっていたほこりっぽい部屋を腰をかがめながら掃除をして、ベッドと机を入れました。新たな僕のお城ができました。広さは十分でしたが屋根の形と同じ三角の勾配があり背中を伸ばして立てるところは限られていました。所々に長い釘が出ていて、危ういところで頭に怪我をするということもありました。

僕はFifyの気持ちを本当にありがたいと思いました。Fifyは夕食の時に他の下宿生に事情を話してくれました。大学受験の浪人生がほとんどで、イギリス人やアラブ人、みんなが拍手をして喜んでくれ、握手をしてくれました。

翌日から午前中の語学学校が終わると午後からペンキ塗りを始めました。夕食後は皿洗いもしました。

僕にとってのペンキの匂は、お世話になった下宿屋のFifyの親切さを昨日のことのように鮮明に思い出させてくれるものです。

また、この屋根裏部屋は僕の英語習得にもっとも大事な一場面を経験させてくれました。そのことはまた次回にでも。

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写真はハンモックに揺られながらはえを追うマーケットの肉屋さん

(カンボジアのシュムリアップ)

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21

僕が住んでいたのはブライトン(Brighton)というロンドンから電車で南に一時間ほど行った、当時は小さな海岸の街でした。

屋根裏部屋は快適でした。小ぶりのドアを開けると正面に小さな観音開きの窓がありました。実質4階からの眺めは近所の家々の屋根ばかりでしたが空は大きく広がっていました。

その窓の脇にベッドを置きました。寝ながらたびたび空を眺めては「こんな調子で念願の英語習得はできるのだろうか」と不安を覚えることしばしばでした。

ドアを入ってすぐ左に、やはり小ぶりの机を置き、スタンドもFifyに借りました。机の後方には洋服を入れるタンスがありました。これは元々この部屋にあったのですが僕には入れる衣類がありませんでしたから無用の長物でした。なにしろ全財産はリュックサック一つでしたから。

語学学校での授業は9時から12時までの3時間だけでした。無論、資金があれば午後の授業をもとれたのですが僕には無理でした。

下宿で昼食を食べてからペンキ塗りの仕事を始めました。まずは3階の部屋から取りかかりました。実際にはじめてから、これは容易なことではないと気がつきましたが投げ出すわけにはいきません。覚悟しました。

夕食後、皿洗いを終えて自分の時間になります。屋根裏部屋に入って寝るまで復習と予習をやりました。しかし、進歩を実感できず、「これをやっつけなきゃ日本には帰れないぞ」という不安ばかりが頭をよぎっていました。

学校は、土日は休みです。Fifyはペンキ仕事も休みなさいと言ってくれたので他のアルバイトを探しました。しかし、見つかりませんでした。

ある週末、いつもの英語習得への不安感やいらだちが僕を襲ってきました。僕は居ても立ってもいられず、屋根裏部屋を頭をぶつけないように背をかがめてうろうろぐるぐるとしていました。そのとき、そうだ、と思ったのです。それは、小学生の頃は国語の教科書を毎日、家でも学校でも音読をしていたことを思い出したのです。僕は英語を小学生のように取り組めばいいのだ、と思い立ったのです。

僕は机に向かって、スタンドをつけて、語学学校の教科書の一冊を取り出し、深呼吸をして、音読を始めました。夕食までの5時間ほど、ひたすら読み続けました。その本はイギリスの笑い話の短編集でした。英語の教科書ですから各ストーリーの終わりには問題が載っていましたがそれをすべて無視して本文だけを音読し続けました。

夕方、突然に「分かった」と思ったのでした。何が分かったのかは分かりませんでしたが、分かったと思ったのです。

イギリス人の発想の仕方か英語の発想の仕方が薄ぼんやりと見えたと思ったのです。これさえつかんで離さなければ英語習得は何とかなるという確信を持つことができたのです。

僕はフーっと息をして、声を出して「やった!」と自分に言いました。

閑話休題

今のマンションから徒歩で7〜8分のところにシアター「キノ」という名画座があります。タヌキ小路六丁目です。今日はそこで「新しい人生のはじめかた」という作品を観ました。

久しぶりにロンドンの景色を見て、エマ・トンプソンの明瞭なイギリス英語を耳にして、心地のいい時間でした。(僕は反アメリカ英語ではありません。念のために。)彼女の英語を耳にするのは「日の名残り」という作品以来です。

お時間がありましたらどうぞ。お勧めです。

http://hajimekata.jp/

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写真はおいしそうなフランスパンを売っていた店

(カンボジアのシュムリアップ)

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22

カンボジア号はセイロン(スリランカ)の後、インドのボンベイ、今はムンバイと呼ばれている大きな港町に向かっていました。

船室は益々暑くなってきていました。皆、甲板に出て涼を求めていましたが所詮はどこの日陰に入っても暑さはあまり変わりませんでした。一番上の甲板にはさほど大きくはないプールがありました。僕は泳げないので眺めているだけでしたが、面白いことを発見しました。プールで遊んでいるのは、多くは白人でアジア系の人は皆無ではありませんでしたが多くはありませんでした。アジア系の船客が絶対的に多いのにです。

それは夜のダンスパーティーの場合も同じでした。

船客の夕食が終わり、給仕をしてくれる船員達も食べ終わった8時半頃から毎晩、食堂でダンスパーティーが開かれました。

船員が楽団員となった急ごしらえのバンドが生演奏をして、夜遅くまで繰り広げられました。そこでもやはりダンスを一番楽しんでいるのは白人達でした。

プールで遊ぶも、ダンスパーティーで楽しむも、西欧文化だったのかもしれません。

僕はというと、やはり下戸でダンス音痴の画家の村上さんとジュースをちびりちびりとストローで飲みながら、時々バンドの音で聞き取れないながらもゲイジュツについて熱く語り合っていました。

「壁の花」という言葉を知ったのもこの船上でした。

語源はダンスに誘われず壁際に立っている女性を指す「Wall Flower」のようですが・・。

船がボンベイに近づきはじめるとインド系の船客たちは幾つもの大きな荷物の整理やら梱包に忙しくなり始めました。

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写真は焼き魚をご飯に載せた弁当を食べる女性

(カンボジアのシュムリアップ)

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23

船旅の場合、飛行機とは違って荷物の重量制限が無いようなものですからアジア系の人々が帰国するときの荷物の量は「よくもマァ、こんなに」と思われるくらいすごいのです。

ボンベイで下船するインドの人々は、日本で買い込んできた物だけでは足らず、船内の売店でも手当たり次第に買い物をして、段ボール箱を幾つも幾つも荷造りをしていました。

ボンベイの港に入ったのは昼前でした。接岸をすると大きな歓声が上がりました。今までのどこの港でも下船する人々はいましたがボンベイが一番多いような気がしました。

大きな荷物を肩に載せて、半ばふらふらしながらタラップを幾度も往復し、大事な土産を上陸させていました。

セイロンの時には、僕は下船が遅れてバスのひとり旅を強いられましたが今回は一人にならないように、同じ船室の人たちと行動をともにするように心がけました。

一緒に下船をして、かんかん照りのボンベイの街へ繰り出しました。

横浜を出帆して以来、相変わらず冬物の衣類しか持たない僕にはこたえました。特にウールのズボンはどうにもならず、我慢、我慢でした。

ボンベイは、呼称が1995年に変わりムンバイとなりました。しかし、僕の記憶の中ではやはりボンベイです。

港からバスで街中に入ると、街の匂いが気になり始めました。

甘ずっぱい腐敗臭のようなのが漂っていました。道ばたにはたくさんの物乞いをする人々がいました。路上の子供達はまとわりついて金銭をねだっていました。

暑さと異臭と、彫りの深い褐色の人々の何かを凝視しているような大きな目は、僕に何かを問うているような気さえしました。僕は精神的な疲労感を強く覚えました。

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写真は米屋。奥には昼寝をしながら店番をする少年がいます。黒く点々がありますがハエです。

(カンボジアのシュムリアップ)

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 近頃はインドの経済力やそれを支えるインドの教育のことがTVで話題になります。僕は本筋の話題よりもその折りに映し出されるインドの街並みの様子や人々の暮らしぶりに目がいってしまします。

 経済力の興隆はすばらしいことだと思います。しかし、僕には底辺の人々のことが気になります。

 2001年か02年にバンコックを訪れたことがあります。タイもまたインド同様に経済の発展が著しいところです。夜市内を散策しているとき、道端に、なすすべもなく横たわっている人々を多く見かけました。タイの人々に言わせると半死人だいうことでした。何日も食べていず、何ヶ月も、もしかしたら何年も顔を洗うことすらしていないであろうことは明らかでした。中には外見だけで病気だと分かる人々もいました。歩行者はそのような歩道の真ん中にごろりと横たわって微動だにしない人々を無視して避けて(少なくても僕にはそのようにしか思えませんでした)何事もなかったようなそぶりで通行していたのです。

 そのときに僕はボンベイでの同じような光景を思い出しました。

どこでも経済の発展とともに裕福な人々は増えているのでしょうが、かといって底辺の人々の福祉までは思いが至っていないように思うのです。それは世界の主要5カ国にアジアから一国だけと言われる日本においても程度の違いはあるかもしれませんが、存在する問題ではあります。

 ボンベイでの昼食はチキンカレーでした。仲間と何を食うかという話になったとき、皆、「当然インドカレーでしょう!」と。

それらしきレストランに入ってメニューを見たところで僕には皆目見当も付きませんでした。そこで、香港で下船した白井さんという海洋調査を専門としている人の助言をそのまま実行したのです。白井さんはどこの国へ行っても、料理の注文に迷ったら「chicken, please」といいなさいと教えてくれました。経験的にチキンはどこの国の料理でも何とか食えるから、というのがその趣旨でした。

出てきたのはチキンレッグのカレーでした。日本でのカレーライスとは別物でしたがおいしく食べた記憶があります。

 後日、英国にいたとき、フトコロに多少の余裕があるときの外食はインド人の経営するカレーレストランでした。理由はイギリス料理や中華料理よりも安くて量があったからでした。

 インドのあの暑さの中で辛い香辛料がきいたカレーを食べることの理由が分かったと思ったのは、食事が終わって炎天下の通りに戻ったときでした。何故か多少の涼しさを覚え、元気がわいてきたような気さえしたのです。

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写真はカンボジアのシュムリアップ湖で換金できるゴミを探す少年。

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25

 ボンベイには3泊しました。

 最後の夜が12月31日でした。僕は横浜を出て以来、船に揺られている以外は何の予定もありませんでしたから曜日や日付の意識が薄れていました。31日になってそれが大晦日だと分かる始末でした。

 多分、周りではとうに大晦日のことが話題になっていたのだろうと思います。しかし、英語の不得意な僕には「情報収集」の源が限られていて、気づきませんでした。この経験は後々、役に立ちました。つまり、言葉のやりとりでは分かったことしか分かっていない、という単純なことなのです。

 自分が知りたいと思ったことは身振り手振りででも何とかしますが、それ以外のことはなかなか耳に入ってこないのです。レストランで、隣のテーブルの人たちが話していた内容を何気なく理解するなどということは無理だということなのです。それ以来、僕は人と話していても「分かっていないことがあるかもしれない」「聞き取れなかったことがあるかもしれない」という意識を強く持つようになりました。

 前に書いたイギリスの下宿屋でのことを思い出します。下宿のFifyおばさんは買い物に出かけるときにいつも同じことを階段下から叫んでいました。

I want to be late.」そのたびに僕は「あ、遅くなるのだな」と思っていました。しかし、Fifyおばさんは「I'm back.」と言ってすぐに戻ってきました。僕はそのたびに「あ、用事が早く済んだんだ」とペンキを塗りながら勝手に分かったつもりでいました。

この文章が「I won't to be late.I will not be late.遅くはならない」であると気づくまで何日もかかりました。ここで白状するのも恥ずかしいくらいの英語力でした。

 日本の多くの人は英語について「単語さえ分かれば何とかなるよ」といいますが意外とそうでもないような気がします。

 船は元旦の早朝に出帆の予定でしたから、街に繰り出していた船客は比較的早々と船に戻ってきました。

11時頃から皆、そわそわし出しました。酒を飲める人たちはビールやワインを手にして甲板に集まり始めました。

 港にはたくさんの客船や貨物船が停泊していました。沖には入港を待っている船もいました。どの船もありったけの電飾を施したようにまぶしく輝いていました。

 12時になると、港に停泊をしていた船は一斉に汽笛を鳴らし始めました。

 1967年の始まりでした。

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写真はマーケットの総菜店。(カンボジアのシュムリアップ)

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 ボンベイでは多くのインド人船客が下船しました。前にも書きましたがそれはそれは大きな段ボール箱の荷物を幾つも「荷下ろし」をする様は荷役をする人々のようでした。

 元旦には、今度はヨーロッパへ行くインド人の船客が乗り込んできました。早朝でしたが気温はすでに相当に上がっていて汗だくになって荷物を船室へ運んでいました。僕は、彼らがインドへ帰国するときにはたくさん土産で持ち込んだ荷物の何倍ものにふくらんでいるのかなと思いながら甲板から眺めていました。

 後々、分かったことで、自分の浅学さにあきれもしましたがこれらのインド人船客の多くはイギリスへの移民であったことです。ですから「彼らが帰国するときには〜」と考えたのは無知も甚だしいことであったのです。当時のイギリスは宗主国としてインド人の移民をほぼ無制限に受け入れていたのでした。

 

 ボンベイをほんの少しだけ垣間見た僕の印象は「混沌の渦」でした。当時の僕はインドについての知識を持ち合わせていませんでしたが街を歩いていてこの言葉が頭の中で行ったり来たりしていました。

 数年後に日本に帰ってきてからもボンベイの印象は強烈でした。何故かインドのことが気になっていました。堀田 善衞の「インドで考えたこと」を読んだり、インドを舞台にした映画を観てはボンベイを追体験していました。

 以来インドを訪れる機会が無いのですが、いつかは、という思いは強くあります。

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写真はポルポト政権によって虐殺された人々。

カンボジア・プノンペンにある「トゥール・スレン虐殺博物館」

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 ボンベイ(ムンバイ)を新年の早朝に出航したカンボジア号の次の寄港地はジブチでした。今も残っている情景は、一面赤土の設備らしい設備のない簡素な港です。下船をしてすぐに赤土を踏んだような記憶があります。こんなに赤い土もあるんだと思ったことを覚えています。

 停泊したのは半日くらいであったと思います。港の周辺を同じキャビンの人たちと一緒にぶらぶらしました。最初に行き着いたのはそれなりの規模の市場でした。いきなり目前に牛や豚、ニワトリが大きなテントのハリからぶらさっがいてぎょっとしたのを覚えています。いかにも屠殺が終わったばかりという感じでそのあまりの生々しさに圧倒されました。

大きなハエがなんの遠慮もなく勢いよく飛び回っていました。

 当時はジブチがフランス領のことすら知りませんでした。考えてみればカンボジア号はフランスの船ですからフランス領の港に停泊するのが当たり前なのですが。77年に共和国として独立をするまではフランスの海外県であったとWikipediaに書かれています。

 

 ジブチの後はいよいよスエズ運河を目指しました。

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 僕が乗っていた「カンボジア号」はジブチを出航してまもなく紅海へと向かいました。

 紅海の海の色は赤くはありませんでした。あ、やっぱり、と思いながら海水の色を眺めていたのを覚えています。なぜ紅海、英語でもRED SEAと云うのかは僕には分かりません。トルコの上には「黒海」という内海があります。僕は見たことはありませんがこれも海水が黒い色とは思えません。何か、大昔の人々の感性がそういう名前を付けさせたのだろうと思います。

 しかし、紅海に船が進んでゆくと左舷にも右舷にも「赤茶色」の陸が、手が届くと思われるほどの距離で見えてきました。

 どれくらいの時間でスエズ運河の入り口に到着したのかは記憶がありません。船は運河の少し手前で一旦停泊をしました。船内では何かのアナウンスがありましたが僕には理解できませんでした。多くの乗客は甲板に出ていました。運河通過の経験者らしき人が説明をしていました。それによるとどうも運河を渡る順番待ちをするらしいことが分かりました。確かに、カンボジア号の前方には何隻もの大きな船が待機しているように見えました。

 「いよいよヨーロッパですね」と僕は同じ船室の画家である村上さんに赤茶色の陸を見ながら話しかけました。

 「そうですね。いよいよですね」と氏は少し緊張したような面持ちで遠くを見つめていました。

 

 横浜を出帆したころは船内の勝手も分からず、苦手な語学のことで日系カナダ人女性に説教をされたりで緊張感がありました。しかし、それにもじきに慣れて、三食、おやつ、昼寝つきの船内の生活は大変快適でした。三度三度のことを気にかけなくてもよい生活と云うのは、こんなに気楽なものなんだと思いながら満喫していました。

 村上さんだけではなく僕も、スエズ運河を通過し、地中海に入るとすぐに最終港のマルセイユに着き、そこからパリまで電車で迷子にならずに行けるのだろうか、パリではホテルを探すことができるのだろうか、といろいろなことが頭をかすめはじめ、緊張感を覚えました。

 カンボジア号は大きな汽笛を鳴らして再度、運航を始めました。

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 写真はポルポト政権の悪行を絵画に記録したもの。

カンボジア・プノンペンにある「トゥール・スレン虐殺博物館」に展示をしている 。2002年12月撮影

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 スエズ運河のことは小学校で勉強をしました。担任だった丸山達先生が社会科で教えてくれたと思います。船が運河へ向かって航行を始めたときにそのことを思い出していたことを今も覚えています。

 教科書で読んだときには強い感動と興奮を覚えました。無論、その運河を自分が実際に見るとか通過することになるとは思いもしませんでした。丸山先生に「スエズ運河は先生に教わったとおりでした」と伝えたいと思いました。

 10年ほど前ですが丸山先生はご健在であることが分かり、お訪ねをしたことがあります。奥さんを早く亡くされて独り住まいでした。何やらの苦い薬草のお茶をご馳走になりました。そのときにスエズ運河の体験をお話しました。

 「そうか、勉強をしたのと同じだったか。それは良かった。私はね、50歳代で教員を辞めたんですよ。青森の田舎でね、世界のことを教科書に書いてあるとおりに教えていて、本当にそのとおりなのか知りたくなってね。それで、早期退職をして世界を何年もかけて観て周りましたよ。でね、私は子どもたちに嘘を教えなかったと確信が持てましたよ。」

とお話してくださいました。

「残念ながらスエズ運河へは行けなかったな。しかしね、エジプトのピラミッドは観て確認しましたよ」

「そうそう、運河と言えば、オランダへも行きました。運河の堤防から水が漏れているのを見つけた少年が自分の指で穴をふさぎ、助けを求めた話を覚えてる?教科書のとおり、やはり海抜ゼロメートルの運河の街でした」と楽しそうに、たくさんの宝物の絵葉書広げて語ってくれました。

 カンボジア号はゆっくりゆっくりのスピードで、あたかも海底に沈んでゆくような感じで進んでゆきました。

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 写真はポル・ポト政権の拷問を絵画に記録したもの。当事の人口8百万人の内の百万とも2百万人とも云われる、特に知識人が殺害されたと云われています。

カンボジア・プノンペンにある「トゥール・スレン虐殺博物館」に展示をしています 。2002年12月撮影。

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 船は巨大な水槽に向かって進んでゆきました。右舷も左舷も手を伸ばしたら壁に届きそうなくらい窮屈な感じでした。船は大きなビルの谷間を進んでゆくようで、上を見上げると空が四角く見えました。

 今、WEBで調べて見ると運河の全長は163キロもあるようです。当事どれくらいの時間がかかったのかは覚えていませんがWEBでは十数時間と記されています。キャビンからはそれまで見えていた大海原ではなく茶色の土の壁の連続であったように思います。

 小学校の時の教科書に何と説明をしていたかは覚えていませんが、人間はとんでもないことを考え付くものだとえらく感心したことを覚えています。

 船内は今までとは違った華やいだ雰囲気になっていました。ヨーロッパ出身の人々にとっては、もうじき家に帰れるという高揚感ゆえだったかもしれません。

 僕のキャビンもこれからのヨーロッパ旅行で何が起こるかわからない緊張と期待が入り混じった、落ち着かない雰囲気になっていました。

 僕も画家の村上さんも向かい合った上段のベッドを使っていました。

参照:http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/12/15/4758488

http://tadashi.asablo.jp/blog/2009/12/23/4773913

「大坂さん、いよいよだね。けどね、僕はこの重い大きなイタリア語の辞典はパリまで持ってゆけないような気がするんだけどね」

氏は分厚い辞典を大事そうに撫で回して、どうしたらいいだろうと僕に聞くのです。

「それをスーツケースに入れて鉄道や地下鉄に乗ったり、階段を登ったり降りたりは一仕事ですね」と言っては見たものの、どうしたらよいのか僕には分かりませんでした。

「いっそのこと、地中海へどぼ〜んとやったらどうでしょうか。運河を渡り終わったらイタリアの靴の先が見えるそうですし、せっかくのイタリア語の辞典ですから」と僕は無責任な提案をしました。

無精ひげが伸び放題の、童心そのものという顔がぱっと明るくなり、「それはいい考えだね。そうしましょう、そうしましょう」と氏は決心をされました。

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写真はポル・ポト政権の拷問を絵画に記録したもの。

ポルポト政権の非道な行為は1970年後半に起こったのですが、今ようやく、さまざまな紆余曲折を経て裁判が始まりました。

当事のカンボジア人口の4分の1ほどの人々が殺害されました。つまり、国民の大半は家族ならずとも身近な人を殺害された経験を持つのです。

新聞はあまり大きく扱いませんが、僕は注目をしています。

今後何年かかって結審するかは、今までの経緯からして検討もつきませんが。

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カンボジア・プノンペンにある「トゥール・スレン虐殺博物館」に展示されています 。2002年12月撮影。

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 一ヶ月間も船に乗っていると何人かの船員とも仲が良くなりました。いつも船室の清掃やシーツ交換をしてくれるヴェトナム人の船員とも仲が良くなりました。糊のきいた白い詰襟の上着に黒のズボンといういでたちでした。

 仲が良くなったと言っても先方はフランス語かヴェトナム語で、こっちはその両方ともだめ。加えて両方とも英語はだめという悪条件?での意思疎通には限界がありました。しかし、かろうじて身振り手振りで互いに信頼関係が生まれていました。名前を思い出せないのですが、年齢は30歳くらいであったと思います。

 地中海に入り、どこの船室でも荷造りが始まっていました。一ヶ月も船上で生活すると思うとホテルに一泊や二泊するときの気分とは違っていました。必要なものをスーツケースから出して使った後も、また使うだろうという思いで、しまわず出しっぱなしにしておくということの繰り返しで、結局、家を出発するときにやったと同じ要領での荷造りをやる羽目になっている人を多く見かけました。

 僕はもともと大きめのリュックサックにカメラバッグですから持ち物も少なく、改めて荷造りをする必要もなくのんびりしていました。

 そんなときにいつものヴェトナム人船員がキャビンにやってきました。何やらいつもの雰囲気とはすこし違っていました。もじもじしているのです。彼は僕がカメラバッグをもっていることを知っていました。そのバッグはいつもベッドの上に置かれていました。彼は自分が持ってきた小さな紙袋と僕のカメラバッグを指差して熱心に何かを伝えようとしていました。彼の説明はフランス語であったり、ヴェトナム語であったり、時折彼の知っている英語の単語が混じったりしました。しかし、僕にはサッパリ見当がつきませんでした。キャビンにいた何人かの人の顔を見ましたが、みな分からないという仕草をしていました。

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写真はプノンペンにある土産物屋。「ここで買い物をしてくだされば*障害者が日々の生活ができるのです」と書かれてありました。

*カンボジアには7〜8百万個の地雷があるとされています。毎年2〜3百名が犠牲となっています。)

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 ヴェトナム人船員はいかにも困ったという風でした。キャビンにいた我々も困りました。彼が何を言いたいのか理解をしたいと思ってもその手立てがありません。しばらくお互いに顔を見ていても何も起こりませんでした。言葉の意思疎通に奇跡は起こりえないことを実感しました。彼は両手を振り振り、肩をすくめて、持ってきた紙袋を大事そうに抱えたまま帰ってゆきました。キャビンには消化不良の雰囲気が強く漂っていました。

 小一時間も経ったころでしょうか。くだんの船員は仲間を一人引き連れてまたやってきました。いつも食堂でウエイターをしているフランス人船員です。この二人はフランス語で、身振り手振り忙しく話していました。しばらくして僕の方を見、ウエイター氏は、今度は英語で何やら説明を始めました。ヴェトナム人船員が大事そうに抱えている紙袋と2段ベッドの上段に置かれている僕のカメラバッグを指差しながら、英語の言葉を捜しながらゆっくりと、しかし、フランス語にしか聞こえないくらいフラン語訛りの英語で説明を始めました。残念ながらキャビンにいた我々の誰も英語が得意ではありませんでした。僕は困ったナとは思いながら、ウエイター氏の顔をじっと見ながら、神経を集中しました。

 村上さんは向かいの上段ベッドで部厚いイタリア語の辞典と一緒に横になっていました。彼の目は辞典と僕らの間を行ったり来たりして僕らの様子を見ていました。

ウエイター氏の説明が一段落したところで一瞬シーンとなりました。キャビンにいた皆の頭脳は思いっきり想像力を働かせて、それぞれが分かった単語をつなぎ合わせて、意味のあるストーリーを作り上げようしていました。一人一人に通訳をしてもらったら皆それぞれのストーリーを語ってくれただろうと思いました。

「大坂さん、イタリア語なら僕、分かるかもしれないけどね」と上段ベッドから村上さんが声を発しました。皆、緊張がほぐれてほっとしました。

ヴェトナム人船員とウエイター氏は僕が口を開くのを待って僕の顔をじっと見ていました。

仕方がないので僕は数日前に覚えたばかりの英語表現を使ってみました。

Do you want me to do something(僕に何かをしてほしいの?)

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写真はプノンペンにある土産物屋。

ミシンはカンボジアに限らずどこの発展途上国においても現金収入を得る貴重な道具です。 カンボジアシルクを使った小物を作っていました。収益は地雷の被害者のリハビリに使われていました。

*カンボジアには7〜8百万個の地雷があるとされています。毎年2〜3百名が犠牲となっています。)

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 覚えたばかりの僕の英語表現にフランス人ウエイター氏は「イエス、ウイ、ウイ」と大きくうなずきました。

 さて、話の方向は検討がついたけれど、何をしてほしいのかはまったく見当がつきませんでした。船客の中では一番の若造で、フランス語も英語も分からないことでも一番の僕にいったい何ができるというのでしょう。なけなしの頭でウエイター氏の説明の中の分かった単語を改めて思い出しながら僕は精一杯、このヴェトナム人船員の役に立ってあげたいと思いました。

That is my camera bag. と言いながら上段のベッドからかばんを下ろしました。そして、氏が大事そうに抱えている紙袋を指差して聞いてみました。

What is this?と。

氏は大事そうに抱えていた紙袋を開けて中の物を取り出しました。キャビンにいた皆は何が出てくるのか一斉に氏の手元に集中しました。出てきたのはカメラでした。レンズが固定されている35mmのカメラでした。名称は覚えていません。茶色の皮のケースに入っていました。

 再度、フランス人ウエイター氏の熱い説明が始まりました。ウエイター氏はケースに入ったカメラを僕のカバンに入れ、船から下りるしぐさをしました。そこで、キャビンの誰かが「分かった!」と声を発しました。「つまりね、このカメラを大坂君のカメラバッグに入れて下船をしてほしいんだよ」「う〜ん、これは船員が税関をうまく通過する方法なんだよ」と。

 僕は誰に聞くともなく「そんなことをして大丈夫なの」と言いました。そうすると誰かが言いました。「大丈夫でしょ。大坂君はカメラバッグを持っていて、他にもカメラがあるから疑われないんじゃないかな。」「それほど高いカメラでもなさそうだし」と。

僕の心臓は少しどきどきしてきました。

 それまでいくつかの港で下船をする経験をしましたが、いずれも一時的な下船でパスポート検査だけで入国ができました。しかし、マルセイユでは本格的な入国手続きをしなければなりません。それは未経験なことで、旅行案内書に書いてある「税関を通過する」ということは具体的にどういうことなのか分かってもいませんでした。

 そのときのキャビンには誰も反対する人がいなかったので僕が引き受けることになってしまいました。僕は少し、憂つうな気分になっていました。

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みやげ物店の職員とともに。

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 地中海の船旅は波が穏やかで快適でした。

 船室では画家の村上さんが一大決心をしたようでした。

「大坂さん、手伝ってもらえる?」と声をかけてきました。

「あのネ、このイタリア語の辞典2冊をネ、甲板まで運びたいんだけど。1冊持ってもらえる?」

村上さんは大きな大きな黒っぽいスーツケースを2つ持っていました。それぞれにイタリア語―日本語と日本語―イタリア語の辞典が入っていました。それらを上段のベッドの上に「エイッコラ」とのせてしみじみと言いました。

「今日でお別れをしようと思うんですヨ。もうじきマルセイユに着くだろうしネ。甲板からドボーンとやろうと思うんですよ。」

「1ページづつ食べながら覚えようと思ったけど、やっぱ、覚えられなかったね。残念だな。あきらめようと思います。」

村上さんはひげが濃い方ではありませんでしたがぼさぼさに伸びた無精ひげの風貌がとても悲しそうでした。

我々のキャビンは、甲板を一階とすると多分、地下4階くらいになるだろうと思われるくらい船底でした。狭い階段を、重い辞典を抱えてえっこら、えっこら2人で上りました。地中海の空も海も青々と輝いていました。僕には他人に見られて、何をしているのか訊ねられたら説明が面倒だなという思いがありました。村上さんも同じ気持ちであったらしく、二人とも自然に人影がない方へ歩いていました。村上さんは「この辺でどうお?」という顔をしました。僕はくたびれてきてもいたのでうなずきました。まず、村上さんが手すりの上に辞典をのせて押し出すように地中海へ、僕は放り投げるようにドボーンとやりました。2冊の辞典はまたたく間に海に飲まれて消えてゆきました。村上さんはボーっと海を眺めていました。寂しそうでした。

僕はマルセイユに近づくに従って余計な心配ごとが一つ加わり、気持ちが落ち着きませんでした。あの紙袋に入ったヴェトナム人船員のカメラは僕のカメラバッグにしっかり収まっていました。税関を通過した後の受け渡し場所を描いた紙も確かに受け取り、カメラとは別口で保管しました。同じキャビンの日本人の人たちは「大丈夫だ、心配するな」と若造の僕を笑っていました。

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写真は地雷で障害者となった人々の歩行訓練(プノンペン)

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35マルセイユに上陸

カンボジア号はいよいよ最終港のマルセイユの岸壁に横付けになりました。1966年12月に横浜を出航して以来、ようやく船の最後の目的地に着きました。船内は、それはそれはにぎやかで興奮が渦を巻いていました。ヴェトナム系の人々はここフランスで新しい生活が始まることに胸を膨らませ、インド系の人々はもう少しの旅でイギリスに着くことに安堵している風でした。そんな、大きな荷物を持った船客が狭い階段を上ったり下りたり、忘れ物がないかとキャビンに戻る人などが右往左往していました。どこの通路も身動きができないくらいの様相を呈していました。

 すでに甲板に上がった人々はタラップが下ろされるのを今か今かと待ちながら、埠頭に来ている人々の中に自分の家族や友人がいないか両手を振って探していました。

 

 これまで幾つもの港に寄ってきましたがどこも土ぼこりが舞っているような雰囲気の港でした。しかし、マルセイユ港は甲板から眺めただけでも施設がしっかり整備されていて清潔な感じがしました。荷役をする労働者は制服らしい作業着を着、埠頭で忙しそうに動き回っているトラックも塗装が剥げたり錆付いたりはしていず、はからずも僕は安心感を覚えてしまいました。

 

 僕ら三等船客はタラップを降りて、岸壁からさほど遠くないところにある大きな倉庫のような、飛行機の格納庫のような建物に連れて行かれました。一等船客が優先的に下船していたらしく、すでに幾つもの長い行列が作られていました。僕らは船の最下層のキャビンの客ですから行列に並ぶのも最後でした。

 僕と大きなスーツケースを2つ持った村上さんは何となく目配せをしながら離ればなれにならないように気をつけながら少しずつ前へ進みました。やがて税関の前に来ました。僕はどぎまぎしている自分を悟られないようにしようとポーカーフェースを装って、肩に掛けていた黒のカメラバッグの握り手をぎゅっと握りました。

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オランダのNGOの支援で義足を作る人 カンボジア・プノンペン

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 僕にとっては初めての税関通過です。何をどうされるのか皆目見当がついていませんでした。僕は行列が進み、税関の係官がだんだん近くなって、行列の先頭が見え始めたときから、係官は何をどうしているのかを注意深く観察し、気持ちの準備を始めました。何の検査もされずに通過する人、スーツケースの中を全部調べられている人など様々であることが分かり始めました。見た感じではやはり、大きな荷物の人ほど調べられることが多いような気がし、僕はリュックサックとカメラバッグだけだから大丈夫ではないかなという気がしました。

 前の人が無事通過し、いよいよ、僕の番です。緊張で足がガタガタ震えていたのを覚えています。ドキドキしながら大きな木製の机の前に進みました。係官は無表情でした。僕はカメラバッグを肩から下ろし、リュックサックを下ろして、と手順を考えていました。しかし、係官にいきなり、Go,Goと手を振られて終わってしまいました。な〜んだ、これだけ、とは思ったものの冷や汗がどっと出てきました。

 後ろを振り返ると村上さんの大きなスーツケースが開けられていました。村上さんは大量の油絵具やスケッチブック、画集を持ち歩いていました。誰が見ても画家の持ち物という風でした。村上さんは直立不動の姿勢で終わるのをじっと待っていました。すでに無事に通過した僕の目には長い時間ではありませんでしたが、村上さんにとっては長く感じられたのではないかと思いました。

 僕にはまだ大事な仕事が残っていました。パリ行きの電車に乗る前に、例のヴェトナム人船員から預かった、税関を無事通過したカメラを渡さなければなりませんでした。僕はポケットから地図を出し、落ち合う場所の方向を見当つけようとしましたが容易ではありませんでした。

 ヴェトナム人船員が渡してくれた地図らしき紙切れは大変大雑把でした。大きな通りに出てすぐの建物と建物の間の路地のようなところで落ち合うことになっていました。

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オランダのNGOの支援で義足や義手を無償で提供していました。 カンボジア・プノンペン

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 手書きの簡単な地図には×印が付いていました。僕は何度も税関を出てからのその位置を確認しました。ここで間違いない、と確信をもって×印の建物のところにしばらく立っていました。あまり人通りはありませんでしたがリュックサックを背負ってじっと一箇所に立っている東洋人は目立つな、と少し気になりました。間もなくヴェトナム人船員氏は現れて、カメラを渡して一件落着となるだろうと時計を何度も見ていました。10分、15分と経っても現れません。

 僕はだんだんパリ行きの電車のことが気になり始めました。村上さんと駅で落ち合うことになっていましたが互いにその場所すら確かではありませんでした。船を下りる前にマルセイユの駅の様子を知っている人にどこで落ち合うのが良いかを聞き、ぼんやりと分かっている程度でした。村上さんと落ち合えなかったら僕は一人で電車に乗ってパリまで行くことになります。村上さんも僕も言葉には不自由ですが一人旅よりは少し安心かなと思っていました。

 ヴェトナム人船員氏と会う約束の時間は20分ほど過ぎていました。僕は手に持っていた茶色の紙袋を自分のカメラバッグに仕舞いました。そして、深呼吸をしました。「無理だ、これ以上は待てない。

悪いけれどあきらめよう」と心の中でつぶやいて駅の方角に歩き始めました。歩きながら、僕は税関を通過したときのあの緊張を思い出しながら「こりゃ、一体何だったんだろう」と自分に少し腹立たしさを覚えました。

 しかし、じきにそのことを忘れました。何しろ、自動車の往来が激しい道路を横切るときに、目が強い反応をしているのが分かりました。頭では日本の逆であるとは分かっていても目の感覚が付いてゆけませんでした。自動車が走っている方向に目がびっくりしている風でした。船が寄港したどこの国でも同じことを経験しましたが、ヨーロッパ大陸に上陸をしたとたんに、この異文化体験は目と頭がばらばらになるような奇妙な感じでした。

 僕が知っている鉄道の駅で一番大きいのは上野駅でした。年にいっぺん位は実家の青森へ帰省していましたから上野駅は馴染みでした。鉄道の駅はどこも同じようなものだろうと思ってマルセイユの駅舎に入ってゆくと、上野駅とは違っていました。

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 写真はカンボジア・プノンペン近郊の小学校の先生。教師の給料では生活ができないと嘆いていました。

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僕は鉄道の駅が大変好きです。僕が見たことがある範囲ですがヨーロッパの鉄道の駅はどこも映画のシーンのような雰囲気があります。鉄骨で大きなドームが組み立てられて、その上にガラスのような屋根がかかっていて、自然光が構内を照らし陰影を作っています。

 僕は単純にマルセイユ駅と思っていましたが、実際はもっと長い名称だったようです。下記にウィキペディアの記載を引用させていただきます。

「マルセイユ・サン・シャルル駅(Gare de Marseille-Saint-Charles)またはサン・シャルル駅は、フランスの南部の中心都市マルセイユにある主要の鉄道駅である。市の中心部に位置する。小高い丘の上に位置するため、市中心部へは階段を降りて行くことができる。かつては船舶との乗り継ぎのためアフリカや中東への旅行者に利用されていた。」

 僕は駅にたどり着くことばかりを考えてひたすら歩きました。幸いカンボジア号から降りたらしい人々が大きなスーツケースや段ボール箱を担いで通りを歩いていましたから、見失わないように後について行きました。小高い丘を上ったことはまったく記憶にありません。

 駅構内に入ると、さっき通過したばかりの税関の建物のように高い天上の大きな空間がありました。はるか前方には確かに電車が見えました。僕は「For Paris」という掲示板を探しました。東京新宿の交通公社(今のJTB)でパリ行きの切符を買いましたから切符売り場を探す必要はありませんでした。直ぐにそれらしき電車が見つかりました。改札口はどこかなと思って探しましたがそれらしきものはありませんでした。僕は注意深く他の乗客の様子を観察しました。分かったことは皆、勝手にプラットホームに入り、電車に乗り込んでいたことでした。僕は念のためにと思い、大事な切符を鞄から出し、手に持ちました。万が一、駅員に質問をされてもこれを見せれば大丈夫だろうという考えでした。

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 写真はプラハ中央駅 2004年12月

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 丈が2メートルくらいの、先が槍のように尖った黒いペンキが塗られた鉄製の柵が、日本で言えば改札口とプラットホームを分けていました。しかし、駅員が立つ箱のようなものがあるわけでもなく、その柵はきわめて開放的で、切符の有り無しに関わらず誰でも往来ができるようになっていました。駅員はどこにも見当たりませんでした。僕は「For Paris」という表示を鉄の柵の上に見つけ、この電車で良いのだろうとは思っては見たものの不安がありました。そこで、赤い表紙の日米英会話の本で読んだことを思い出しながら「Is this for Paris?」とプラットホームにいた年配者に尋ねました。ウイ、ウイと応えてくれたのでヤレヤレと安心しました。無論、僕のカタカナ英語が通じたわけではなく「Paris」と不安そうな僕の顔に反応をしてくれたのだ、というのは大方分かりました。

 

 出発まではまだ時間がありましたから電車に乗っている人もそれほど多くはなく、また、プラットホームもがらんとした雰囲気でした。それでもあちこちにカンボジア号で見かけたような顔ぶれを見つけては安堵感を覚えました。

 まず、村上さんを探そうと思いながら長〜く連結された電車の最後尾から、電車の中を覗きながら探し始めました。港の税関を出るときに約束をしたのは僕の切符に書かれている出発時間の電車に乗って、窓から顔を出していること、でした。村上さんは最初の数両の電車には見つかりませんでした。

 

 自分勝手なもので自分が駅まで来られたし、パリ行きの電車も確認できたと思ったとたん、村上さんと落ち合うことができなかったらどうしようという不安感が薄れているのに気が付きました。薄情だなと思いつつ、思い直して電車の先頭の方へ向かって歩きました。プラットホーム側ではなく、反対側の席に座っている可能性もあるかもしれないと思いながら、かといって「村上さ〜ん」と大きな声を出せる雰囲気でもありませんでした。時計を見ながら、まだしばらく大丈夫だなと思ったとたんに、「おおさかさ〜ん」という声が背後からしました。振り返ると長髪で無精ひげの村上さんがニコニコして窓から手を振っていました。

 

 村上さんは僕のための席を確保していてくれました。向かい合って席に座りました。互いに「来れたね。ここはフランスだよ。」と、なぜかニヤニヤしてしまいました。間もなくして、電車は何の前触れもなく、ゴットンという音と共に、窓からの駅舎の景色が動き始めました。僕はこれにはびっくりしました。

上野駅では「青森行き、間もなく出発しま〜す」と拡声器から大声が聞こえ、けたたましいベルが長々と鳴ってからゴットンと動き出しました。マルセイユの駅は多少の雑踏の音だけで、大変静かでした。

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 写真はパリの北駅(2枚合成)  2005年12月

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40 パリ到着

 車内は特に混雑していませんでした。しばらくは何の心配もせず電車の揺れに身をませて朝からのことを思い出していました。

税関でどきどきして足が震えたこと、案ずるより産むが易すしで、実際の検査はされず素通りで済んだこと、カメラを預かったヴェトナム人船員氏とは会えず、結局そのカメラは僕の鞄に収まったままであることなどを考えている内に少し眠ってしまいました。

 ゴトンという電車が停まる音で目が覚めました。村上さんも同様に目が覚めたばかりらしく、寝ぼけている風に見えました。「腹が減ったね」と互いに顔を見合わせました。

 しかし、その後、どのようにして食料を調達したのか全く記憶にありません。車内販売を利用したのか、駅のホームでパンか何かを買ったのか覚えていないのです。電車の中のことで覚えているのは良く眠ったこととパリに着いたら、僕は新宿の日本交通公社で予約をしたホテルへ一晩だけ泊まり、村上さんは当てがないのでモンマルトルのどこかのホテルを当日に探す、ということを話し合ったことぐらいです。僕は日本交通公社でもらったパリの地下鉄の地図とホテル予約券に記載されている住所や最寄り駅を何度も確認をしました。到着駅はリヨン駅です。そこから僕のホテルまでの行き方を何度も頭の中で反復しました。何しろ僕にとって、はじめてのヨーロッパであり、言葉についても船に乗っていたときのように誰かを当てにすることはできず、大変な緊張を覚えていました。

 リヨン駅で、これからどうなるんだろうと互いに大きな不安を覚えながら村上さんと別れました。村上さんは相変わらず大きなスーツケースを2つ、ふらつきながら持って雑踏の中へ消えてゆきました。ふと、もう二度と会うことがないかもしれないと思いました。

 僕は目指す地下鉄の駅名が書かれている表示を探してキョロキョロしながら地下鉄に乗り込みました。なんと言う駅まで行ったのか覚えていません。しかし、何とかそのホテルらしきのを探し、予約券に書かれているホテル名と小さい金色のプレートの綴りを何度か確認をして、回転ドアを押してたどり着きました。すでに夕方でした。

 夕方の暗くなり始めに新しい旅先に独りで到着をするのはあまり好きではありません。夕方の時間帯は旅行者の気持ちを不安にするような気がするのです。

 回転ドアの前には、僕には金モールで派手に飾った、芝居がかったようにしか見えない制服を着た、どっしりとしたドアマンが立っていました。中に一歩入ったとたんに僕は場違いなところに来たと感じ、気持ちが萎縮してしまいました。ロビーは黄金色で装飾がなされ、今にして思えば、あたかも中世の屋敷にでも居るような雰囲気でした。

 僕はリュックサックを背負って、カメラバックを手に持って、一ヶ月の船旅を終えたばかりのよれよれのズボンをはいて、目は必死に受付カウンターを探していました。僕は21歳でした。

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写真はリヨン駅 2005年12月

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41

 僕が小中学生のころ、父は月に一度か二月に一度くらいは東京へ出張をしていました。多くの場合、日曜日の早朝に到着する汽車で帰ってきていました。当時は役所も企業も土曜日は半日仕事をしていましたから土曜日の仕事を片付けて夜汽車に乗ったのだろうと思います。

 後年の昭和35年ころ、青森東京間は、僕が帰省するたびに乗った十和田や八甲田という急行で15時間くらいかかったと思います。

 たびたび父を駅に迎えに行ったのを覚えています。青森は終着駅ですから父はゆっくりと、いつもの紫色の風呂敷の包みを一つと旅行鞄を抱えて1等寝台車から降りてきて手を振ってくれました。窓越しに見る1等寝台車の真っ白なシーツは印象的でした。家に着いて朝ごはんを一緒に食べながら東京の話を聞きました。そんな折、何かのことで東京帝国ホテルのことが話題になりました。

「忠、東京には立派なホテルがたくさんある。今回は一番立派な帝国ホテルへ行って来た。」

「そんなに立派なの?会議があったの?」

「会議はなかった。しかし、立派だ。皇居の近くにある。父さんはそのホテルで小便をしてきた。」

「そこへ泊まったの?」

「いや、父さんはそんな高いところには泊まれない。しかし、ホテルというところは誰でも出たり入ったりできる。覚えておきなさい。小便をしたくなったらホテルを探しなさい。どこにも立派な便所があって、誰でも利用できるから。誰も、「何をしに来たんですか」とは聞かないから堂々としてなさい。」

 僕にはその話が妙に印象的でした。今でもその朝の状況が頭に浮かんできます。

 僕はパリのホテルに一歩踏み込んだ瞬間、たじろぎました。名前こそ忘れしましましたが、しかし、瞬間、父の帝国ホテルの話を思い出し、両手をぐっと握って、思いました。僕はただでトイレを使いに来たんじゃない。僕はこんな格好をしているけれど部屋代を遠く東京ですでに払っている、れっきとした客だ。ひるまないぞ、と強い決心を持って受付に向かいました。なぜかしらそのカウンターまで遠かったような気がします。受付氏には僕の武者ぶるが分かったかどうか。

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写真は北駅に近くのホテルロビー2004年12月

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 僕のパリ滞在が始まった時の所持金は500ドルと1万円でした。途中のあちこちの寄港地で1万円くらいは遣いましたから日本円の残りは1万円くらいだったと思います。正式に許可を得て出国時に持っていた日本円は2万円くらいでした。1966年、1ドルが360円、1フランが72〜3円、1ポンドが丁度千円くらいでした。

 横浜を出帆したときの予定では半年もヨーロッパをぶらぶらして、大学に戻りちゃんと卒業をするつもりでした。そのころには安保反対の学生運動も下火になり授業も再開されるというのが大学の研究室の人たちの予想でした。また、研究室の誰もが半年分の単位は「面倒を見てやる」と約束をもしてくれたのでした。僕は両親にも友人たちにも「半年で戻るから」と言って安心?をさせていました。

 それにしても帰りの切符すら持たないで出国したのですから今考えるとぞっとするぐらい無謀でした。どんな算段をして半年間生活をし、帰りの船賃を稼ぐつもりであったのか、今の自分であったら「お前、馬鹿か」としか言いようのない体たらくです。僕の判断の材料は4冊の本だけでした。

 2009/11/26のブログにも書きました「ふうらい坊留学記」(安川実著、後のミッキー安川、カッパブックス刊)、その後で「何でも見てやろう」(小田実著 講談社刊)です。これを書きながらもう2冊を思い出しました。小澤征爾「ボクの音楽武者修行」(音楽之友社。現在新潮文庫)と犬養道子「お嬢さん放浪記」(中央公論社1958年刊行 )です。最初に読んだのは父の書棚にあった「お嬢さん放浪記」であったと思います。青森の実家の父の書斎でむさぼり読みました。

 スイスだったと思いますが彼女は結核をわずらいサナトリウムでの養生を余儀なくされますがめげることなく、前向きに状況と対処するくだりは今も記憶にしっかり残っています。他の本を読んだ順序は覚えていません。僕がどうしてパリ行きを思いついたかは今思えば、多分、この「お嬢さん放浪記」と「ボクの音楽武者修行」の影響だったような気がします。

 僕は中学3年のときに親にねだって原付バイクに乗っていました。今は生産されていませんがブリジストン製の前進2段ギアのバイクでした。これは中学同期の古谷君の影響でした。彼の家は下高井戸で酒屋さんを営んでいたので配達用にホンダのスーパーカブがありました。彼はときどきそのバイクで僕の下宿先に遊びに来ていました。僕のすいぜんの的でした。そんなことで僕は小澤征爾がスクーターでヨーロッパを駆け巡ったことに強い羨望と興奮を覚えたのでした。

 無論、小澤征爾、犬養道子、前述の小田実や安川実がそれぞれの分野において、また、最も重要な社交性において卓越した才能の持ち主たちであったことなど気が付きませんでした。

自分のことを十分に知らないで行動を起こすのは無知以外の何者でもありません。恐ろしいものです。これらの人々の名前を僕の人生とつなげてここに書くこと自体に羞恥心を覚えざるを得ません。

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写真はパリ北駅 2004年12月

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 僕は翌朝、モンマルトルを目指そうと思いました。絢爛豪華な分不相応としか思えないホテルを早々に後にしないと手持ちのお金はすぐになくなってしまうことは明らかでした。日本からの送金を受けるということもありえないことでした。何しろ日本政府には一般市民に使わせるだけの外貨がありませんでしたから。無論、今風なクレジットカードはありません。ダイナーズクラブというカードが徐々に浸透し始め、高級レストランなどのドアに「DC」というステッカーが目立ち始めたころだったと思います。

 チェックアウトの際に、シドロモドロのカタカナ風の英語で日本交通公社でもらったパリの地図を広げて「I want to go to もんまるとる.」と何度も言いました。もんまるとるの発音はいい加減で、なかなか「Montmartre」とは聞き取ってもらえませんでした。それでも何とか乗るべき地下鉄の駅の方向が分かり、目指すはアベスAbbesses駅です。

 モンマルトルのことは船上で村上さんから度も聞きました。僕にとって最も大事なことは安いホテルがいくつもあるということでした。そして、僕は今晩から寝泊りができるホテルが必要でした。

 

 幸いパリの地下鉄はそれぞれのホームに下りて行く階段の左右に行き先が書かれたホーロー板の掲示が出ていて分かりやすいのです。僕はホテルを出て最寄の駅を見つけて地下に降りて行きました。直に「Abbesses」という表示を見つけて「これでよし」と自分に言い聞かせて電車に乗り込みました。当時のパリの地下鉄のホームはすでに無人化されていたように思います。駅員に「Is this for Abbesses?」と聞くことはできませんでした。僕は腹を決めてホームに入って来た電車に乗り込みました。

Abbesses駅に着き、他の乗客が歩く方向について行きました。行き先は円形の20畳くらいもある、とてつもなく大きなエレベーターでした。中には自転車と一緒に乗り込んできた人も居ました。

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写真はリヨン駅 2008年12月

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 エレベーターは出口が入り口と反対側であったのが印象に残っています。階段を少し登って地上に出ると賑わいのある広場でした。いくつものキャフェやレストラン、みやげ物屋、惣菜屋や教会もありました。ゆっくり周りを見渡すとHOTELという看板があちこちに見えました。昨晩泊ったのとは違って質素な感じで安心感を覚えました。通りには観光客に混じって買い物籠を下げた地元の人々らが大勢いて、八百屋の店先でトマトを買ったりりんごを買ったりしていました。肉屋の前では前掛けをした大柄な女性が大きな身振り手振りで、高いの、安いのといっている風でした。当たり前ですがその早口のフランス語のやり取りを遠くで聞いて、大丈夫かな、と僕はたじろぎました。

 朝早くにチェックアウトをして昨晩のホテルを出てきましたから昼までにはまだまだ時間がありました。広場のベンチに腰を掛けて、さて、と思いながら一月のパリの乾いた冷たい空気を深く吸いました。

 地図を広げてAbbesses駅を確認し、そこから、モンマルトルの丘を探しました。自分が座っているベンチの後方がそれらしく思えました。地図に出ていたMontmartreという綴りを見ながら、これがどうしてモンマルトルという音になるのかなと思いながら、リュックサックを背負いなおして歩き始めました。

 村上さんは「僕はどこのホテルになるか分からないけれど、絵描きがたくさん集まっているモンマルトルに来れば、また、会えると思うよ」と話していました。僕はまずそこへ行って、どこのホテルが安いかを誰かに聞こうと思いました。

 パリで最も高い丘と言われるだけあって、しばらく階段を上ったと思ったら小さな公園があり、ベンチが置かれていました。それを何度か繰り返し、今度は延々とだらだらと上りの坂道が続きました。上って来た後ろを振り返るとパリの街が眼下に広がって見えました。レンガ色の煙突がどこの建物からも突き出ていました。季節柄、暖房の煙を吐いている煙突が多く見えました。日本では見ることがない風景でした。僕は途中、息を切らしながらも何度も後ろを振り返り、パリの人々はこの屋根の下でどんな生活をしているのかなと思いをめぐらしました。僕は何度も、これがパリの屋根だと独りでつぶやき、日本からずいぶん遠くまで来たものだと改めて思いました。

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写真はモンマルトルの丘からの下りの途中 2004.12.31

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 息をハーハーいいながら、もうそろそろ丘のテッペンに着くのかなと思って数段上ったら、何の前触れもなく小路に出ました。特段視界が開けたわけではなく、両脇には絵葉書や土産用の絵を売っている店が続いていました。観光客たちは、狭い石畳の道をあっちの店、こっちの店と渡り歩き、自動車はクラクションをけたたましく鳴らし、パン屋の前では大きな紙袋に入った出来立てのようなバケットの荷降ろしをし、聞こえてくるのはフランス語だけではなくいろいろな言葉で、それはそれは皆、サンドイッチやクレープを手にして楽しそうにおしゃべりをしていました。

 僕は「花の都、パリ」という表現は日本語固有のものなのか、あるいは、英語にもあるのかと思い、少しだけWEBで調べてみました。日本語では定着した表現だと思うのですが英語ではさまざまあるようです。Paris, the magnificent cityParis, the beautiful citythe beautiful city of love called Parisなどです。僕にはgay city of Parisが日本語の語感に近いように思うのです。しかし、残念ながらgayという単語に手垢が付きすぎた感があります。厳密な話ではありませんが、gayがイギリスで「同性愛者」の意で使われ始めたのは70年代からではないかと思っています。その前は本来のcheerful陽気な、gorgeousjazzy華やかなという意味で使われていました。今はその意味で使われることはほとんどありません。もっとも同性愛者にgayを当てはめたのは「うまいな!」と思うのですが。

 英語での表現はさておいて、やはり「花の都、パリ」には特別な思いを抱かせてくれる何かの魔法がありそうな気がします。

モンマルトルの丘を華やいだ雰囲気にしてくれるのはやはり、「花の都、パリ」の魔法のような気がします。その魔法は、たとえ1月の鉛色の空の寒さにぶるぶると震えながらでも輝いていて、うっかり犬の糞を踏んでしまっても訪れる人々の気持ちを高揚させ、幸せにしてくれるのです。

 そんな人々を見ながら、僕は世界から絵描きさんたちが集まって来るというテルトル広場はどんな雰囲気のところなんだろうと想像しながら、それらしき方角へ、人ごみをかき分け進んで行きました。

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写真はテルトル広場の近くで見かけた、パリの掃除人です。

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 僕は塩味の効いた、細身のバケットが好きです。これに美味いハムとトマトと、チーズをはさんで、後は何もいりません。

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札幌ではなかなか適当なバケットがないように思っています。

値段の高いのは時々見かけますが・・・。

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 モンマルトルの丘を最初に上ったとき、僕は21歳、体重60キロでした。今の僕の体型しか知らない人には「信じられない!」と言われそうです。それでもリュックサックを背負い、カメラバッグを肩にかけてモンマルトルの丘を上るのは一仕事でした。当時は、荷物をどこかに預けて丘を目指す、などという知恵は全く働きませんでした。何をするにも一直線に、という感じでした。

 後々分かったことですが階段を上らずに済む方法はありました。地下鉄のアベス駅から少し離れたところにケーブルカーがあり、これこそ一直線にモンマルトルの丘へ、何の苦労もなく行くことができます。しかし、無料ではありませんから一度も利用をしたことはありませんでした。

 狭い小路の両側にある画廊や絵葉書屋、美味しそうなクレープを焼く店を見ながら歩いていると、突然と言っていいほどに急にテルトル広場に出ました。四角い広場です。それぞれの角が小路につながっていました。隅から隅まで、どれだけの人が歩き回ったであろうか、時代によっては馬車も硬い車輪をきしませたであろう歴史を感じさせる、不均一に磨り減った、10センチか15センチ角の石が敷き詰められていました。そして、4〜5階建ての、やはり長い歴史を通り抜けてきたことをうかがわせる石造りの建物が周りを囲んでいました。それらの一階はキャフェやレストランとなっていました。2階や3階を見上げてみるとごく普通の人々が暮らしを営んでいる風に見えました。

 広場を一周する路に沿って絵描きさんたちが、仕上がったばかりの絵の具が乾いていない自分の作品の展示販売をしたり、せっせと筆を動かして製作中でした。十分に乾燥していない絵を買った人はどうやって持ち帰るのだろうと、僕はじっと観察をしてしまいました。

 広場の中央近くには似顔絵を描く絵描きさんたちが、サンプルの作品を見せながらお客さんを捉まえようと声を描け、値段の交渉をしていました。お客さんをすでに捉まえた人は一心不乱に、外から見ていてもすごいなと思われるくらいの集中力で、自分の画板とモデルのお客さんを見つめ、目はその間を忙しく行ったり来たりしていました。

 親が子どものを描かせたり、恋人達が二人一緒のを描いてもらったりと様々です。立ち止まって作品が仕上がる過程を最後まで見届けて、画家に一言二言、言葉を投げて立ち去る評論家風の人たちもいます。なんと言っているのか僕には分かりませんでしたが、大方「似ている」とか「あまり似ていない」程度のことだろうと想像をしていました。

 僕が暇そうにウロウロしていると、25〜6歳の油彩の画家が「日本の人でしょ?」と僕に声をかけてきました。「あまり、日本人はいないからさ」「寒いから中へ入ろう!」とキャフェに入って行きました。昼前のキャフェは空いていました。その画家は通りに面したテーブルに座って、「絵描きなの?」と聞きました。

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写真は2004年12月 テルトル広場で

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 その絵描きさんは、確か中村さんとおっしゃいました。お顔ははっきり思い出します。今の時代に比べると当時はまだ日本人の旅行者は大変少なく、まして、僕のような若造がパリのモンマルトルをいかにも暇そうにウロウロしているということはありませんでした。そんなことで中村さんの質問は当然でした。500ドルしか持ち出せず、パリでのアルバイトは非常に困難でした。稼ぐことができたのは絵描きさんしかいなかったように思います。

 無論、ドルをたくさん持った裕福そうな旅行者にも後々会いました。そういう人たちは元々お金持ちで、日本を出る前に横浜あたりで闇ドルを手に入れたのでした。しかし、僕は500ドルチョッキリでした。そんなことで食事に誘われても僕ははっきり事情を話してお断りをしました。

 中村さんは「大坂さん、金無さそうだね。キャフェ、おごるよ。」と言って、大変慣れた風に「ドゥ キャフェ ムシュ」と注文をしてくれました。

 そのキャフェのカップは2段になっていて、メッキを施した金属の器がカップにのせられていて、コーヒー豆が入っていました。金属の器の底には細かい穴がたくさん開いていてフィルターの役割をしていました。僕は金属の小さなふたを持ち上げてコーヒーが落ちるのを見ていました。すると、中村さんは、「こうやるんだヨ」と言って、金属のふたを外して自分の手の平をふたの代わりに置いて強く押し付け、圧力をかけました。なるほどと思いながら僕もマネをしました。それは船で飲んだコーヒーと同じでした。

 僕は元々コーヒー党ではありません。しかし、その香りや雰囲気は大好きです。砂糖をたくさん入れて飲むのが好きです。65歳にもなった今でもそうなのですが、チョッと大人になった気分になるのです。酒もだめなのです。でも水のようなウイスキーであってもグラスを手にすると大人になった気分になります。

 中村さんは九州出身であること、モンマルトルで絵を売っている画家で「作品」を描いている人は何人もいないこと、英語を話せたらもっと絵が売れることなどを話してくれました。そうしていても、中村さんは自分の絵に興味を持ってくれるお客がいたらすぐ店を飛び出せるように、広場の方から目を離しませんでした。

 僕は「やはり英語か。フランス語じゃないんだ。」と心の中で思っていました。

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写真は38年後の2004年12月。

クリスマスを終えたばかりの、中村さんにキャフェをご馳走になったテルトル広場のキャフェ。

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 僕は一ヶ月の船旅の間、はじめて自分が「外国人」になったこと、語学力があればあるほど働く機会は多くあり、賃金も高いこと、そして、現実問題として手持ちの500ドルでどれくらいの期間、自分は生き延びることができるのかなどを甲板から地平線を眺めながら、時には2段ベッドに横になり真っ白なペンキが塗られた天井を見ながら考えました。

  僕にとってもっとも深刻なのは金銭のことでした。機会があるたびに、パリのホテル代や食事代のことを何人もの船員に尋ねました。そして、何度も何度も割り算をしたり、掛け算をして一日何ドルで何日間滞在ができるかを予想をしました。それと同時に帰国費用をどのようにして工面するかも大きな問題でした。

僕はそのことを考えるたびに、海洋調査の人に誘われたときに一緒に香港で下船をしていれば良かったのかなと思いました。考えれば考えるほど様々な不安が浮かんで、時々落ち着かなくなりました。

 「荷物、まだ持って歩いているようだけどホテル、決めていないの?」と中村さんが聞いてくれました。「安いホテルがいいなら教えてあげようか」というので僕は早速、手帳とペンを出して書き留めました。合わせて、僕は村上肥出夫という画家が昨日、ここに着いているはずだけど、といってみました。「うん、来てるよ。夕方になったら上がってくると思うよ。知ってるの?」と中村さん。僕は横浜からの船で一緒だったことを話しました。「彼は別格だからさ。われわれとは違って天才で本物の絵描きだよ。画廊がついているから、ここで絵を売らなくてもいいのさ。」と広場に目をやりながらジタンの煙を吐き出しました。

 中村さんは「昼過ぎたらそのホテルに行ってみるといいよ」と言って、広場へ飛び出して行きました。テーブルには小銭が残されていました。僕は、ああ、これがギャルソン(ウエイター)へのチップだなと思いました。僕もリュックサックを背負いなおしてキャフェを出ました。

 昼まではまだ少し時間がありました。もう一度、テルトル広場を一巡しました。だんだん観光客が増えはじめ、合わせて絵描きさんの数も増え、テルトル広場のすき間がなくなってきていました。僕は中村さんには午後にまた来る旨を伝えて、サクレ・クール寺院の方へ歩き出しました。

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写真は2004年12月 テルトル広場

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