『封印の魂−Ending−』


 微かに空に青みが差し、夜明けの訪れを若葉の香りと鳥の声が告げる。
 時折途切れる意識の中で、萌絽羽は小さく笑みを浮かべた。
 こんな時にも夜明けを好きだと思えた自分が嬉しかったのだった。

ねぇ、もう何も見えないの。
でもね、わたしには判るの。
もうすぐお日様が昇ってこの部屋を明るく照らすの。
そしてね、空からお迎えが来るの。
そうでしょう? 仁旺……。

「お母さん、起きてらっしゃいますか?」
 いつもなら誰よりも早く起きて庭掃除を始める萌絽羽が、朝食の時間になっても姿を見せないので、嫁が様子を見に部屋を訪れた。
「お母さん!?」
 慌てて部屋に入った娘が見たのは、穏やかな顔で眠るように死んでいる母、萌絽羽の姿だった。
 享年78歳、夫の仁旺の一回忌を無事に済ませた翌朝の事だった。

 身体から離れた萌絽羽の意識は薄絹を纏い、空を真っ直ぐに昇って行く。
 元気な2人の子供達と5人の孫にも恵まれて、萌絽羽はとても満足していた。
 唯一心残りは有るが、それはこれからの事と宙を駈ける。
「萌絽羽!」
 待っていた声に呼びかけられ、萌絽羽は見上げて微笑んだ。
「仁旺!」
 長く短かった1年の時間を取り戻そうと、2人の意識は互いを力一杯抱きしめた。
 すでに身体は無くなってしまったが、お互いの魂の温もりに満面の笑みを浮かべる。

 仁旺が萌絽羽の頬に手を寄せると、萌絽羽は遠慮無く仁旺の顔面に平手を見舞った。
「めちゃ、おっそーい。待ちくたびれたんだからね。一緒に死のうねって約束したのに1年も待たせるとは良い度胸だよね」
「無茶を言うな。元々女より男の方が寿命が短いんだぞ。歳だって俺の方が2つ上なのに萌絽羽の寿命より保たしたんだから誉めてくれ」
 久しぶりの再会だというのに、色気もへったくれも無い萌絽羽の言い様に仁旺はすねた声を上げた。
「それでも約束守ってくれなかったのは本当だもん。寂しかったんだからね」
 目に涙を浮かべる萌絽羽に仁旺は「ごめん」と素直に謝って抱きしめた。

 萌絽羽の大学卒業を待って2人は入籍した。
 大学に行っても仁旺は変わらずに萌絽羽だけを愛し続け、萌絽羽もそれに応えた。
 家族全員からも、破王や妖達からも温かい祝福を受け、2人は幸せな夫婦生活を送った。
「結局、そうなるのかよ」
 と、式では幼なじみや学友達には散々ひやかされたのだが、仁旺が「羨ましいだろう」と胸を張って言った直後、萌絽羽が速攻で末広(扇子)で殴りつけたので周囲の爆笑を買い、当分語り種になった。

 萌絽羽の瞳には仁旺は18歳の頃と変わらぬ姿が映り、仁旺の瞳にも萌絽羽が15歳の頃の姿が映った。
「魂の姿は精神年齢が出るって言うけど、もうちょっと大人の姿になりたかったな。仁旺が馬鹿の頃のままっていうのは凄く納得いっちゃうんだけど」
 萌絽羽が自分の魂の姿を見て溜息を付く。
「萌絽羽は20歳過ぎても小学生に間違われていたじゃないか。胸も全然成長しなくて、俺はかなり寂しい思いを……」
 ボコッ! と魂とは思えない音をさせて萌絽羽のゲンコツが仁王の後頭部にめり込む。
 たとえ死んでも女には絶対言ってはいけない事がいくつも有るという事を仁旺は綺麗に忘れていた。
 萌絽羽の教育的指導という名の鉄拳が仁旺の頬にヒットする。
「相変わらず手が早いな。萌絽羽は」
「仁旺が悪いんだからね」
 あっさり言い切られて仁旺は苦笑する。
 まだほんの少女の頃から全く変わらない真っ直ぐな気性と誰よりも早い行動力、家族同然から夫婦になっても萌絽羽は仁旺に取って常に追いかけ続ける存在だった。
 それは魂だけの姿になっても変わらないのだと仁旺の心は喜びで満ちた。
 転生の時が来るまで、ずっと2人きりで長い時を過ごせるのだから。

 逆に萌絽羽は真剣な面持ちで仁旺を見つめ続ける。
 自分がどうしても成さなければならない最後の仕事をする時が来たのだと覚悟を決めたからだった。
 俯いて半眼になった萌絽羽に仁旺が首を傾げる。
 先程までの笑顔はどこに消えたのか、らしくない表情に仁旺は戸惑った。
「どうかしたのか?」
 仁旺が抱き上げて顔を覗き込むと、萌絽羽は小さく頭を振って、1度頷いた。
「うん。しっかりしなくちゃって思ってたの」
「しっかりって……?」
 萌絽羽の真意が読めず、仁旺の困惑は広がる。
 生まれた時から共に居て、死別によって1年もの間離ればなれになっていたのが漸く再会できたのだ。
 喜びの再会の果たしたばかりだと言うのに何を、と仁旺が聞き返そうとすると、萌絽羽が仁旺からすっと離れた。

 目を閉じ、自分の身体を抱え込む様な仕草をする萌絽羽に仁旺は近づけない。
「萌絽羽?」
 萌絽羽の胸から赤い光が少しずつ現れるのを見て、仁旺は驚愕した。
「萌絽羽!?」
 あれは自分自身だと魂となった仁旺には判った。
 妖の鬼王であった頃の自分の力、萌絽羽が死んだ事によって封印が解け始めているのか?
 いや、そうでは無いと仁旺は確信した。
 萌絽羽が自分の意志で鬼王の力を解放しようとしているのだ。
「萌絽羽!!」
 どんどん大きくなっていく赤い光は萌絽羽の両手一杯に広がった。

 萌絽羽は光を大事そうに抱え、口付けして仁旺へ差し出した。
「返す時が来たの。仁旺……ううん。鬼王」
 初めて萌絽羽から鬼王と呼ばれ、仁旺は狼狽え、同時に何度も頭を振る。
「要らない。もう俺には必要の無い力だ。それは萌絽羽が持ち続けていてくれ。お願いだ」
「返さなきゃいけないの」
 寂しげに微笑む萌絽羽に、あれを受け取れば自分は妖に戻り、霊界でも来生でも萌絽羽と2度と会う事は無いのだと仁旺は知った。
「嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。俺はずっと萌絽羽の側に居たい」

 今すぐ萌絽羽を抱きしめて「思い直して欲しい」と仁旺は懇願したかった。
 しかし、萌絽羽に近づけば自分の魂と呼応した力は、すぐにでも自分の身を妖に戻してしまうだろう。
 それが判っているから仁旺は萌絽羽と距離を置く。
 萌絽羽と共に人として満足のいく一生を送った。
 再び生まれ変わる時も萌絽羽と共にと仁旺は心から願っていた。
 鬼王の力は魂だけの姿となった萌絽羽と自分を繋ぐ唯一の絆なのだ。
 あれを無くして来生の出会いは無いだろうと、仁旺は涙を流しながら「嫌だ」と言い続けた。

 萌絽羽も身を切られる様な思いを味わっていた。
 自分が鬼王の力を封印する器だと知ってから、いつかはこの日が来るのだとずっと覚悟をしてきたのだから。
 仁旺を想う気持ちは萌絽羽も同じで決して離れたくなど無かった。
 しかし、役目は役目、人として生き、情を知った鬼王を自分が元の姿に戻さなければならない。
 出会えた事を幸せに思うと同時に、残酷な運命を2人に与えた先祖の法師を、ほんの少しだけ萌絽羽は恨んだ。
「仁旺、聞いて。仁旺がこれを受け取ってくれないと、ご先祖様はずっと縛られたままなの」
 自分はずるいと思いながら萌絽羽は口を開いた。
「ずっと救われないままなの。もう解放してあげても良いよね?」

 自分を封じた法師の事と知り、仁旺は少しだけ戸惑った。
 400年以上もの間、自らの死をもって法師は鬼王の力を封じ続けている。
 自分の力と共に長い時を闇の中で彷徨い、漸く現世に戻れば萌絽羽の魂に封印され、法師の魂もまた疲れ切っているはずだった。
 自分が妖に戻れば法師の魂はすぐにでも解放されて成仏できるだろう。
 愚かだった自分を封じてくれた法師、自分を萌絽羽に出会わせてくれた法師、救えるものなら救いたい。
 しかし、それは同時に萌絽羽との決別を意味していた。
「仁旺……お願い」
 涙を流しながら両手を伸ばす萌絽羽に仁旺の胸も痛んだ。

「わたしは仁旺が好き。ううん、愛してる。もう2度と会えなくなっても絶対に仁旺を忘れないよ」
 だから……と唇だけで告げる萌絽羽を仁旺は「もう良いから」と言って抱きしめて口付けた。
「俺も萌絽羽を愛してる。鬼王に戻ってもそれだけは変わらない」
「うん。ありがとう。仁旺」
 萌絽羽は両手を解放し、抱えていた光を仁旺に向けた。
 それと同時に萌絽羽の魂は天上へと向かい、萌絽羽に導かれる様に法師の魂も鬼王の力から離れて昇って行った。

 独り残された仁旺は、深い眠りに落ちながら身体が再生されていくのを感じていた。

 破王は館近くの草原をぼんやりと1人歩いていた。
 光と共に柔らかい空気が破王を包む。
「萌絽羽か」
『うん。やっぱ、すぐ判った?』
 身体を無くした今の萌絽羽は、妖達の居る界の挾間にも自由に出入りが出来る。
 破王の気配を追ってここまで来たのだった。
「最後を……看取ってやれなくてすまなかった」
 頭を下げる破王の髪を萌絽羽が優しく撫でる。
『破王が姿を現すと子供達がびっくりするから仕方ないって。時々隠れて会いに来てくれただけで充分だよ。つくづく、うちの両親やじい様達ってぶっとんでるんだなぁって思った』
「その最たるのが萌絽羽では無いのか」
『そうかも』
 軽口を叩いて2人は笑いだした。

 緩やかな風が破王の長い髪をなびかせるが、萌絽羽の身には何も起こらない。
 生きている者と死んでいる者の違いを萌絽羽はこんな些細な事からも感じていた。
『破王、もうすぐ鬼王が帰ってくるよ』
 その一言で破王は全てを察し、萌絽羽を見上げた。
 萌絽羽の内にはすでに鬼王の力も法師の魂も無く、生涯、妖達を惹き付け止まなかった輝ける魂だけがそこに有った。
『破王、今までずっと鬼王をわたしに貸してくれててありがとう。とても遅くなったけど破王に返すね。破王が許してくれたから、わたし達は人として幸せに暮らせたの』
「それは……」
 それは違うのだと破王は言いたかったが、萌絽羽の笑顔を見たら何も言えなくなってしまった。
 全てを受け入れ、それでも前に進もうとする達観した人間の強さをそこに見たからだった。
『仁旺は鬼王に戻ってこれからはずっと破王と一緒だよ。多分落ち込んでると思うけど、千年来の親友だもん。大丈夫だよね』
 破王は萌絽羽の望むままの答えを返す。
「ああ、あれは根が単純だから我が少しでもかまえば、すぐに元気を取り戻すだろう」

 萌絽羽は微笑んでもう1度破王の長い髪に触れた。
『ありがとう。じゃあ、さようなら』
 このまま萌絽羽は天上に昇るのだと気付いた破王は手を伸ばして萌絽羽の腕を掴んだ。
「行かないでくれ。萌絽羽」
『破王……』
 萌絽羽は少しだけ困った様な顔を浮かべて振り返る。
「我の側に居てはくれまいか。我はそなたを失いたく無いのだ」
『これからは昔のままに鬼王が破王の側に居るよ』
 あっさりと言い返す萌絽羽の身を破王は強く抱きしめた。
「萌絽羽に側に居て欲しいのだ。身体を無くした萌絽羽と我を隔てる物は何も無い。魂だけの不安定な存在だからと言うのなら、萌絽羽を受け入れる仮の器を我が用意しよう。萌絽羽も妖になれば良い。そうすればずっと共に居られるのだから。頼むから我を置いて行かないでくれ。我はそなたの事を……」

 小さな指先で唇を塞がれ、破王は言葉を続ける事が出来なかった。
 慈悲に満ちあふれた萌絽羽の目が、破王の意識を貫いた。
『わたしは人として生まれ、人として死んだの。人は死んだら霊界に行かなきゃいけないの。それは破王にも解るでしょ』
「分かっている。分かってはいるが、我は萌絽羽を失って生きていく自信が無いのだ」
 仁旺が死んでもずっと胸の奥に秘め続けた想いを破王は口ずさむ。
 矜持も鬼王への友情も全てが今の破王には関係無かった。
 妖と人という相容れない存在で有りながら、出会ってからずっと萌絽羽は破王を受け入れ続けてくれた。
 どこまでも真っ直ぐで強い萌絽羽を破王も愛し続けていた。
 親友の仁旺が居なければ破王は萌絽羽を攫ってでも側から離さなかっただろう。
 このまま手を離せば2度と萌絽羽には会えなくなる。
 破王に取って鬼王を失った時と同じか、それ以上に耐えられ無い事だった。

『破王、好きよ。仁旺の次ぎにね』
 それは萌絽羽の破王への想いは、友情以上の物では無いと暗に告げていた。
 破王は目を潤ませて小さく頭を振ると、萌絽羽の両手を取った。
「それでもかまわないから我の側に居て欲しいのだ」
 萌絽羽はそれまでの表情を一変させて明るく笑うと破王の頭をぺちっと叩いた。
『もー、仁旺も破王も変なところでそっくりなんだから。この類友』
 突然の事に拍子抜けした破王の腕からすっと萌絽羽はその身を引いて離れる。
『破王、優しくしてくれてありがとう。愛してくれてありがとう。わたしが転生したらまた友達になってくれる?』
 萌絽羽の固い決意を知って、破王は笑みを浮かべた。
「約束しよう。そなたがどんな姿で転生しようと我は萌絽羽に会いに行く。自覚は無いのだろうが、萌絽羽は歩く蝋燭だ。この我がその輝きを見逃すはずが無い」
『うん。約束ね』
 萌絽羽はにっこり笑って手を振ると、もう本当に思い残す事は無いと一気に天上に昇って行った。

 破王がいつまでも萌絽羽が消えた空を見上げていると、かさりと草を分け入る音が聞こえてきた。
 400年以上の時を経て、本来の姿を取り戻した鬼王がそこに居た。
 長く癖毛の髪も深紅の瞳も最後に別れた時と何も変わっていない。
 唯一変わっているのは鬼王の瞳に浮かぶ悲しみの色だった。
「「お帰り」と言っても良いのだろうか?」
 破王は鬼王の想いを察して短く問い掛けた。
 それには答えず、鬼王は周囲を見渡して逆に問い返した。
「さっきまでここに萌絽羽が来てたんだな?」
「……うむ」
 力を取り戻した鬼王をだます事は出来ない為、破王は素直に頷いた。
「強引にでも萌絽羽を引き留めなかったのか? お前も萌絽羽を愛していたんだろ」
 やはり気付かれていたのかと破王は苦笑する。
 救い様の無い大馬鹿者だったが、さすがに同じ相手を想う気持ちには敏感だったらしいと破王は思った。
「引き留めたが、あっさり行ってしまったのだ。ただ一言「お前を頼む」と言い残して」
 破王に言われ、鬼王は両手で顔を覆うと堰を切った様に涙を流した。
「力なんか要らなかった。ただ、萌絽羽の側に居たかった。だけど俺には萌絽羽の心からの願いを断る事が出来なかったんだ」
 膝を付き、声を上げて泣き伏せる鬼王の肩を破王は抱いた。
 鬼王がどれほど萌絽羽を愛しているか、破王はずっと2人を見守り続けて痛いほど解っていた。
 全てを本来の姿に、萌絽羽はそれだけを願っていた。
 自身の本当の願いや想い全てを捨てて、萌絽羽が選んだ道を鬼王も破王も止める事が出来なかった。

 聡明な萌絽羽もたった1つの事だけを見落としている。
 破王だけがそれに気付いていた。
 本性は妖だとしても、1度人としての生を全うした鬼王は元の鬼王では無い。
 微かとは言え、鬼王は人の気配を纏っているのだ。
「鬼王、お前の本心からの望みは何なのだ?」
 すでに解りきった答えを破王は待った。
 言霊の力を借りる為に。
「萌絽羽の側に帰りたい」
 顔を上げてきっぱりと言い切る鬼王に、破王は笑顔を向けた。
「そう言うのではないかと思っていた。我がお前の望みを叶えてやろう」
 破王の真意を知り、鬼王は喜びで震えた。
「頼む」とだけ言うと、鬼王は静かに目を閉じた。
 その直後、破王の風の刃が鬼王の首を跳ねあげた。
 高く血しぶきを上げて鬼王の身体は地面に倒れると徐々に砂と化していった。

 破王は解放の歓喜の意識と共に一気に天上に昇る仁旺の魂を見守り続ける。
 仁旺の魂は決して萌絽羽の魂を見失う事は無いだろう。
 そう出来る様に破王は萌絽羽にも気付かれない様に、予め術を掛けていたのだから。

我は再びそなた達が現世に戻る時を待とう。
絶望に包まれた400年間と比べたら、何と待ち遠しい時である事か。
転生した2人が我の事を忘れていても、再び新しい関係を築けば良い。

 破王は自分はもう独りでは無いと笑うと、ゆっくりと家路を歩いて行った。


おわり



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