封印の魂−番外編−『名の告げるところ』


 破王は界の狭間に有る自分の屋敷、月の館に帰っていた。
 現代の人界の空気は妖の破王には有害で、長い間居るとかなりの体力を消耗する。
 仁旺と萌絽羽が学校に行っている昼間は破王は館で過ごしていた。
 むろん配下の者に任せきりにして、主の自分が館を空けっぱなしにする訳にもいかないという事情も有る。
 綺麗好きの破王は鬼姑の様に、配下の者が掃除した場所を細部まで点検するのを日課にしていた。

 破王は窓辺の机に向かい、物憂げに墨を擦っている。

『萌絽羽はその名の通り、俺に取って『諸刃の剣』なんだ。俺は萌絽羽を愛してる。俺が妖としての力を取り戻すという事は愛する人の命を失うという事。人が持つ温かい情の心を失うという事なんだ』

仁旺は笑ってそう言いおった。
しかし、あやつは気付いているのだろうか?
『萌絽羽』という名の持つもう1つの意味を。
単に『諸刃』と『もろは』を掛けただけならば、あえてあの字を充てずとも良かったはずなのだ。
そう、例えば『藻蕗葉』とかでも良かったはずだ。
たしかあの娘が生まれた時に、父親が顔を見てすぐに思い付いたのだったな。

 破王が筆を手に取り、和紙にその名を書き綴る。

萌絽羽

 『萌』とは物事の兆し、つまり始まりを意味する。
 『絽』は薄い絹織物の事。
 『羽』は普通ならばそのままの意味と受け取るのであろうが、その前に『絽』の字を充てているという事は、おそらく『羽衣(うい)』、羽衣(はごろも)の事を意味する。
 萌絽羽は目には見えぬ翼を持つ始まりを起こす娘。

 破王はそこまで考えたところで筆を取り落とした。

あの娘は『誰にも掴まえられないほどに、常に1番先を飛んでいく者』とだという事なのか!?
しかも、超が付くほど頭が軽い!!

 破王は立ち上がった時にあまりに気が動転していた為、硯と筆を机から蹴り落とした事に気付かなかった。
 墨は床と破王の衣服を真っ黒に染め、気付いた配下の者達が慌てて破王の元にてぬぐいと雑巾を持って走り寄る。
「どうなされたのですか? 破王様」
  破王の衣服に付いた墨を押して吸い取り、床を拭き始める。
「ああ、これでは無理だ。誰ぞ。水桶を沢山持ってまいれ。破王様。すぐにお召し替えを用意いたします。」
 破王がこの様な醜態を晒すのは、長年仕えてきた妖達も見た事が無かった。
 鬼王が死んだ時すら何十年間も荒れ続けていたが、配下の前でこれほど呆けたりはしなかったのだ。
 妖達は呆然と立ち尽くす破王の周りでおろおろとしながら掃除を続ける。

 ふと、妖の1人が破王の書いた文字に目を止めた。
「破王様。もしや萌絽羽様の名を書かれて動揺なされたのですか?」
「萌絽羽様の名とな!」
 他の配下達も手を止めて紙を見つめる。
 彼らは1度だけ萌絽羽に会って、その場ですっかり魅了された者達だった。

それにしてもなんと汚い字だ。
まるで幼子の落書きのごときもの。
書を得意とされている破王様の字とは到底思えぬ。
よほど緊張されていたのだろう。

 妖達は好き勝手な想像を巡らせ、1つの結論を導き出した。
 蛇妖がおそるおそる破王に問い掛けた。
「もしや、破王様は萌絽羽様に懸想なされたのですか? それでは仁旺様のお立場が……」

 その言葉で正気に返った破王は、蛇妖の頭を思い切り踏みつけた。
「ぐえっ!!」
 蛇妖は痛みのあまり、尾をじたばたと振り回している。
「思い違いもたいがいにするが良い。何故、この我が人間の娘などに懸想せねばならんのだ!!」
 破王はもう1度蛇妖の頭を踏みにじって、早足に湯殿へ向かって行った。
 別の配下が着替えを持って急いで後を追う。
 残された配下達は破王の怒りの大きさに、逆に主のあの少女への想いの強さを悟り、深い溜息を付いた。
 自分達妖と人間とでは、明るい未来など望めそうも無かったからだった。

 破王は湯に浸かりながら怒りを静める努力をしていた。
 配下を持つという事は時に強い自制心が必要とされる。
 それ故に気まぐれな鬼王は配下を持たなかったのだ。

「我が萌絽羽に惚れる事など有るはずが無い」
あれは仁旺のものなのだから……

 破王はかすかに胸のうずきを感じたが、まだ形にならない想いはかぶった湯ごと頭から完全に流しさった。

おわり



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