『封印の魂』


−第4章−

「こんばんは、破王さん。いつも仁旺がお世話になってます」
 破王が窓枠に手を掛ける前に、萌絽羽が勢い良く窓を開けて出迎えた。
 相変わらずの脳天気な反応に一瞬目眩を覚え、やもすれば怯みそうになる足を矜持と気力でねじ伏せて、破王は部屋に入って来た。
「時間どおり来たな。座れよ」
 仁旺はすでに座布団に腰を下ろしていた。
 部屋の中央を囲む様に座布団が3枚敷かれ、ポットと急須、茶菓子もセットして用意されている。
「今日は豆大福にしてみたの。破王さんは好き?」
 にこにこと笑顔を向ける萌絽羽に頷くと、破王は1輪の花を差し出した。
「いつもそなたには良くして貰っているから、我の館の庭に咲いていたのを持ってきた。ささやかでは有るがそなたへの礼だ」
 破王から花を受け取ると萌絽羽は破顔した。
 光の加減で淡いピンクにも緑にも青にも見える不思議な光沢と丸みを持った白い花弁、綺麗な緑色の茎に寄り添う様に開く小さな花々はとても愛らしく、萌絽羽の目を釘付けにした。
「これをわたしにくれるの? ありがとう。破王さん、すっごく綺麗。こんな花見た事無いよ」
「人界ではすでに失われた花だからな」
 愚かなお前達人間が土を汚染させ、とうの昔に滅ぼしたのだと破王の目は笑っていなかった。
 しばらく花に見とれていた萌絽羽がはっと気付いて「ごめん。座って待っててね」と言うと部屋を飛び出した。
 萌絽羽の極端な行動にしばらく呆気に取られていた破王は、仁旺が手招きしている事に気付き、座布団に腰を下ろした。

 しばらくするとバタバタという足音と共に萌絽羽が小走りで戻って来た。
 萌絽羽の手には破王から送られた花が一輪差しに生けられ、大事そうに抱えられていた。
「お花がしおれると可哀想だからすぐに生けたかったの。いきなり席外しちゃってごめんね」
 萌絽羽も座布団に腰を下ろすと3人の目の届く所に花瓶を置く。
「皆で観れた方が良いよね」
 萌絽羽が破王の顔を見て両手を合わせて懇願した。
「破王さん。貰っておいて申し訳無いんだけど、こんなに綺麗な花をもう切らないであげてね。切って家の中に飾るより、庭で咲いていた方がもっと綺麗だと思うから」
「女は総じて花を贈られると喜ぶものと思っていたが」
 破王が萌絽羽の反応に意外そうな顔を見せた。
「うん、すごく嬉しい。もし出来る事なら破王さんの庭に咲いているお花を見せてくれるともっと嬉しいな。地面にしっかり根を下ろしてる花の方が好きなの。これだけ綺麗な花だもん。お日様の下で見たら感動物だと思うんだ」
「そなたが望むなら我の館に連れて行っても構わぬぞ」
「本当?」
 それこそ本望だとにやりと笑って答える破王に、萌絽羽は満面の笑みを浮かべた。
 焦ったのはそれまで黙って2人のやりとりを聞いていた仁旺だった。
 破王の真意を正確に悟ったのである。
「破王、よせ! あそこは生身の人間が簡単に行ける様な場所じゃ無いだろう? 萌絽羽も無茶な頼み事なんかするんじゃ無い」
「仁旺、何を怒ってるの?」
 破王の真の企みも、界の狭間の世界がどういう場所なのか、何も知らない萌絽羽は何故仁旺は焦っているのかと首を傾げた。
「鬼王、どうしたのだ?」
 破王も萌絽羽に合わせてわざとらしく笑みを浮かべる。
「あれ? 破王さんの発音変じゃない。仁旺は「におう」だよ」
「我に取っては鬼王(におう)なのだ。そなたが生まれるずっと前からな」
「……?」
 破王が何を言っているのか理解出来ず、萌絽羽は困惑の表情を浮かべる。
「我と鬼王は千年来の付き合いなのだ。人の身のそなたには理解出来ぬだろうがな」
「破王、よせって!」
 仁旺は破王の口を塞ごうと立ち上がった。
「鬼王よ。今宵、我はこの娘と真面目な話をしたいのだ。お前は黙っていろ」
 仁旺を一瞥し、振り返った破王の真剣な顔を見て、萌絽羽も小さく頷いた。
「分かった。仁旺、しばらく黙っててくれる? わたしも破王さんの話が聞きたい」
 2人からきっぱり言い切られ、仁旺は歯を食いしばって口を閉じると座り直す。
 話し合っている間は萌絽羽に危害が及ぶ事は無いだろうと、仁旺はいつでも2人の間に割って入れる様に姿勢を正した。

「で、破王さんはわたしに何の話が有るの?」
「我は鬼王を取り戻しに来たのだ」
「取り戻しって……破王さんって実は仁旺のお兄さんなの?」
「違う」
「んじゃ、実はお父さん!」
 萌絽羽はびしっと人差し指を立てた。
「違う」
「まさかとは思うけど……お母さん……じゃ無いよね?」
 どう見ても男にしか見えないけどと、おそるおそる萌絽羽が問い掛けると、破王と仁旺は同時にその場にへたり込んだ。
「何故、我がこいつの母親になるのだ!? 親友だと言っておるだろう」
 何とか体勢を立て直し、破王がずれまくった発言をする萌絽羽に大声を上げた。
 一方、仁旺は未だに肩を震わせて立ち直れずにいる。
 実は破王のあまりにも呆けた顔を見て、爆笑したいのを必死でこらえていたのだ。
 萌絽羽が「納得がいかない」と腕を組んでうーんと唸った。
「親友の破王さんがどうして仁旺を取り戻したい訳?」
 真剣な顔の萌絽羽に問われ、「簡潔に話そう」と元来真面目な破王も頷いた。
「我と鬼王は数百年もの間ずっと共にあった。400年前、鬼王がその身を失った日から我はずっと鬼王の転生を待ち続けた。そして漸く人の姿ではあるが、鬼王はこの世に戻って来たのだ」
 淡々と短く告げる破王の言葉を、萌絽羽はひとつひとつ反芻して正確に理解していった。
「つまり、仁旺の前世は妖さんで破王さんはその頃からの親友だったと。それで破王さんは転生した仁旺に元の妖さんの世界に戻って欲しいって事ね」
 ずれた発言ばかりをするが、予想していたよりずっと萌絽羽が聡明と知り、破王は安心してほっと息をついた。
「どうなる事かと思ったが結構話が早くて助かるな。解って貰えたなら鬼王を我に返して欲しい」
「絶対駄目!」
 萌絽羽の断言に破王は一瞬言葉を失った。
「何故駄目なのだ?」
 よもや自分の命と引き替えなのだと萌絽羽に気付かれたのではと破王は焦った。
 言葉には細心の注意を払った。
 言質を取りさえすれば、言霊の力によって萌絽羽は拘束され、簡単に鬼王の力を取り出す事が出来るはずだった。
 破王の思惑も知らず、萌絽羽は立ち上がると両手を腰に当てて一気に言い切った。
「『葵家家族会議決定事項
その1、葵家は雁野仁旺の身元後見人となり、親、兄妹等、親族が迎えに来るまで大事に預かる事。
その為に養子縁組は行わず雁野姓は残す事。
その2、葵家は雁野仁旺を本当の家族の一員として扱う事。お客さん扱いは厳禁』
仁旺をうちに引き取った時にそう決めているから破王さんの要求は呑めないの」
 破王は何を馬鹿な事をと笑うと、残酷な事を平然と告げた。
「そなた達は何も知らぬのだな。父親が誰とも知れぬ鬼王を産んだ女はとっくに鬼籍に入っておる。人界に鬼王の親族と呼べる者など誰1人として居ないのだぞ」
 萌絽羽は知らされた内容の大きさに足が震えるのを感じた。
 仁旺も萌絽羽達には知られたく無かったと、ぎゅっと目をつぶって俯いた。
「……仁旺のお母さんって死んじゃったの?」
 ふんと鼻を鳴らして、破王は全ての元凶を見る様に萌絽羽を睨め付けた。
「まだ幼かった鬼王を此処に置き去りにして、自分は楽になりたくてさっさと自害したのだ。勝手な女だったのだ」
「……」
 青ざめた萌絽羽が何と言って良いか解らないという表情で仁旺を見つめると、仁旺はとっくに自分は承知していると萌絽羽に笑顔を返した。
 2人の様子を見ていた破王が萌絽羽に1歩近付いた。
「だから我が鬼王を迎えに来たのだ。本来有るべき世界に戻す為に。そなたが「うん」と一言言えば我は鬼王を連れ帰れる」
「それは駄目だって言ってるでしょ」
 先程聞いた残酷な話に萌絽羽は泣きたくなったが、ここは絶対に引く訳にはいかないと言い返す。
「『その3、仁旺が成人するまでに親族が迎えに来なかった場合は葵家は仁旺の自由意志を尊重する事。仁旺が新しい家族を持つ事を望めば葵家から立派に婿として送り出す事。以上。』
これは絶対に外せない条件なの。だから家族じゃ無い破王さんに仁旺を渡せないの。仁旺が成人した後に自分から破王さんと一緒に行くって言うならわたし達も止めない。だけど今は絶対駄目なの」

それもちょっと違う気がするぞ。だけど……
 仁旺は自分も聞かされていなかった事実に聞き入った。
 祖父母、両親、萌絽羽の温かく優しい思いが胸を締め付ける。

じい様が俺を抱き上げてくれた時から、俺にとっても葵の家は本当の家族なんだよ。
それに俺は萌絽羽の事を……

 仁旺の思考を破王の怒鳴り声が断ち切った。
「戯れ言を申すな! 人間ごときが鬼王の家族だと? 我ら妖と人とが家族であれるはずが無い!」
 萌絽羽も負けずに言い返す。
「前世はどうであれ今の仁旺は人間でしょ! 破王さんが何と言ったって仁旺はうちの大事な子なの!」

萌絽羽、「うちの子」って……お前にとって俺は本当に何なんだよ?
仁旺は心の中でだーっと音がするぐらい涙を流した。

 小さな身体から生気をみなぎらせる萌絽羽に、一瞬怯みそうになったが、人間ごときに圧されるなど破王の矜持が許さなかった。
「鬼王が人の姿を取っているのは妖としての力を別の場所に移されているからなのだ。力さえ取り戻せば鬼王は本来の姿に戻れるのだ」
「破王、それ以上言うな!!」
 それだけは絶対に言って欲しく無いと、仁旺が絶叫した。

 睨み合っていた破王と萌絽羽は同時に振り返り、今にも泣き出しそうな仁旺を見つめた。
 萌絽羽は様子の豹変に仁旺の元に駆け寄ろうとしたが、破王の冷たい声に思わず足を止めた。
「鬼王、真実をこの娘に知られるのがそれほど怖いか? ああ、たしか一緒に暮らす内に情が移ったとか世迷い事を言っておったな。人として生きる内にお前の頭はおかしくなってしまったのだ。だが、案ずる事は無い。力さえ取り戻せばお前もすぐに元に戻るだろう」
「破王、止めてくれ!」
 仁旺が両手で耳を抑えて叫んだ。
「破王さん!」
 萌絽羽がぎりぎりまで近寄って、渾身の力を込めて破王の頬を平手で打った。
 破王は打たれた頬を押さえて、萌絽羽を正面から睨み付ける。
「人間無勢が我に手を上げおったな」
「破王さん、いくら友達だって言って良い事と悪い事が有るでしょ?」
 怒った萌絽羽は相手が妖だという事も忘れて両手を握りしめて訴える。
「分もわきまえぬ小娘が、後悔させてやるわ」
 破王の起こした風が萌絽羽の身体を瞬時に壁に叩き付けた。
「萌絽羽!」
 意識を失ってずり落ちていく萌絽羽を仁旺は抱き上げ破王を睨み付ける。
「破王、言ったはずだ。萌絽羽に何かしたら許さないと」
 ふんと鼻を鳴らし、破王は仁旺の腕から即座に萌絽羽の身体を奪った。
 細い萌絽羽の首を掴んで笑い声を上げる。
「都合良く気を失ってくれたな。先程からうるさくてかなわなかったのだ。鬼王、良い機会ではないか。この娘の心臓を取り出し喰らえばお前は元の姿に戻れるのだぞ」
 仁旺が破王に飛びかかり萌絽羽を取り戻そうとするが、いとも簡単にかわされた。
 破王の長い爪が萌絽羽の喉に食い込み、赤い跡を残している。
 このままでは萌絽羽が殺される。
 仁旺はそれだけは耐えられないと破王に駆け寄って膝を付いた。
「俺はそんな事を望んでないと何度言えばお前は解ってくれるんだ? 俺に萌絽羽を殺せる訳が無いだろう。頼む。破王、萌絽羽を放してくれ」
 仁旺がプライドも何もかもかなぐり捨てて、畳に顔をすりつけんばかりに土下座をして懇願する。
 そんな仁旺の姿に破王は心底から苛立ちを感じた。
「なんて無様な真似だ。鬼王よ、お前にそんな姿は似合わぬ。頭を上げよ」
「無様でも何でも良い。それでお前が諦めてくれるのなら俺はプライドなんか捨ててやる。頼むから萌絽羽を返してくれ」
 仁旺が涙を流しながら顔を上げると、破王がはっとして息を飲む。
「我は今、心底から驚いているぞ。お前の涙など千年来見た事が無かった」
 頬を伝う幾筋もの涙を見て、破王は仁旺の本気を知った。
「破王、お願いだ」
「分かった。お前がそれほど自らの手でこの娘の命を絶つのが躊躇われると言うのなら……」
「破王」
 漸く解ってくれたのだと安心して、仁旺が両手を差し伸べる。
「我が代わりに殺してやろう」
 破王の長い爪が萌絽羽の心臓めがけて突きつけられた。
「やめろ!!」
「何だと!!」
 2人の叫び声が同時に部屋に響き渡った。

 萌絽羽の胸を貫くはずの破王の爪は全て折れていた。
 破王も仁旺も何が起こったのかと呆然と萌絽羽を見つめる。
 意識の無いままに本性を現してまばゆい光に包まれた萌絽羽の身体を、破王はついに耐えきれずに投げ離した。
 仁旺が必死で落ちる萌絽羽を抱き止める。
「萌絽羽! 無事で良かった」
 仁旺は傷1つ無い萌絽羽の身体を力一杯抱きしめた。

『力の鬼王よ。いや、今は仁旺であったな。久しいの』
「その声は……法師か!」
「何だと!」
 仁旺の言葉に驚いた破王が信じられないと2人を見つめる。
 気を失った萌絽羽の口からは、400年前に鬼王と共に死んだはずの法師の声が紡ぎ出された。
『驚いたか? 仁旺よ。わしは命と引き替えにお前の力を封じた。その為にわしの魂はお前の力と同じ運命を辿ったのだ』
「という事はつまり……」
 ごくりと仁旺が唾を飲み込んだ。
『わしの魂もまた、お前の力と共に萌絽羽の魂の中に封じられているのだ。お前の力とわしの魂、その両方を萌絽羽はこの身に封印しているのだ』
 破王が400年間の恨みをはらさんと全身に怒りの気を纏って2人に近付いた。
「あの時はすでにお前は事切れて、我は鬼王の敵を討つ事が出来なかった。今こそ娘ごとお前を殺してやる」
「止めてくれ。破王!」
 仁旺が全身で破王から萌絽羽を庇った。
『案ずるな仁旺。何も心配する事は無い。風の破王よ、お前がいかに萌絽羽を殺そうとしてもそれは決して叶わぬ』
「それはどういう事なのだ?」
 破王がぎりっと歯を食いしばり問い掛けた。
『風の破王と2つ名で呼ばれるほどの者がその爪を見てもまだ解らぬのか? 仁旺は萌絽羽を愛している。鬼王の力はその身体から離れても仁旺の意志に従うのだ。お前がいかに力を振るおうとも仁旺の想いが萌絽羽を護る』
「法師……」
 仁旺はそのとおりだと何度も笑って頷いた。
『仁旺、人として生まれ変わってお前は人の情というものに触れた。そしてお前自身も情を持った。本当の意味で生まれ変われたのだ。あの時、わしが言った意味が今のお前ならば解るだろう?』
「ああ。法師、本当に感謝している」
 鬼王だった頃には考えられない仁旺の素直で正直な言葉に、法師は軽く笑い声を上げた。
『わしはもう眠る。萌絽羽の強い封印を無理矢理破って表に出るのは魂を引き千切られそうな苦痛を伴うのだ。2度と会う事は有るまい。さらばだ。仁旺』
「法師、さようなら」
 そう言って仁旺はそっと萌絽羽の身体を横たえた。

 破王の瞳から透明な滴が流れ落ちた。
「何故だ? 我はずっとお前に会いたかった。あの時救えなかったお前を今度こそ護ろうと人界に来たのだ。なのに何故……」
「破王」
「我はあの時、自分の無力さに打ちのめされた。だから今度こそは失敗しないと誓ったのだ……」
 でも、また自分の無力さ故に鬼王を取り戻せないと破王は俯いて呟いた。
 仁旺は破王の涙を指でそっと拭う。
「破王、俺は人に生まれ変わって本当に良かったと思っているんだ」
「鬼王?」
 破王の問い掛けに仁旺は小さく笑って応えた。
「萌絽羽はその名のとおり、俺に取って『諸刃の剣』なんだ。俺は萌絽羽を愛してる。俺が妖としての力を取り戻すという事は愛する人の命を失うという事。人が持つ温かい情の心を失うという事なんだ。解るか?」
 前世と何も変わらぬと思っていた仁旺の瞳には、あの頃には見られなかった穏やかな光が見える。
「それ程までにあの娘を想っているのか?」
「ああ」
「では我はどうすれば良いのだ? 我にとってもお前はただ1人、大事に想っている存在なのだぞ」
 ずっと長い時を共に居た。
 鬼王だけが破王の孤独も全てを理解して、何だかんだと軽口を叩き、時には喧嘩をしても側に居続けてくれた。
 配下では無く、同じ立場に立つ唯一の者として。
 仁旺もそれを忘てはいない。
 人として転生した今でも破王は仁旺に取って大切な親友で、それでも破王より萌絽羽を求める気持ちを抑えきれないのだ。
 自分が萌絽羽に取って家族としてしか想って貰えないのだとしても、自分の気持ちに嘘はつけない。
 萌絽羽の側に居られるだけで仁旺は幸せだった。
「破王、済まない」
 仁旺が破王の肩に手を置いた。

「なんだ。そんな事だったの」
 重たい空気を振り払う様にむっくりと萌絽羽が起き上がった。
「萌絽羽!」
「小娘!」
 2人が同時に萌絽羽を振り返った。
 きょとんとした顔で自分達を見つめる萌絽羽を仁旺が抱き上げる。
「萌絽羽、何処か痛む所は無いか?」
「全然平気。だって破王さん、ちゃんと手加減してくれたもん」
 にぱっと破王に向かって萌絽羽はVサインを出して笑い掛けた。
「そう……なのか?」
 仁旺が破王に問い掛けると破王は少しだけ頬を赤く染めて視線を逸らした。
「もし我が本気で力を使っていれば、たとえお前の力が護っても所詮は人の身、無事で済むはずが無かろう」
「……と、いう事。わたしが先に切れちゃって手を上げたんだからお互い様だよね」
 今度は萌絽羽は仁旺に笑顔を向ける。
 安心した仁旺がそっと萌絽羽を座布団の上に座らせ、わざとらしく咳を1つすると、赤くなる頬を隠しながら問い掛けた。
「萌絽羽、どの辺りから聞いてたんだ?」
「さっきの話?」
「あ、ああ……」
 頬を更に赤く染めて仁旺は萌絽羽から視線を逸らした。
「んーとね。寝てたからよくは聞こえなかったんだけど、破王さんが心から仁旺を護りたいって思ってる事と仁旺が人間のままでいたいって事だけは解ったの」

肝心の所は全く聞いて無かったって事かよ。
わざとか? こいつーっ。
 仁旺はどこまでもタイミングをずらしてボケまくる萌絽羽にぶるぶると震えていた。
「はいはーい。破王さんに提案でーす」
 脳天気に手を上げる萌絽羽に、諦めた破王が跪いて「何だ」と問うた。
「破王さんはこれから葵家に出入り自由。好きな時に仁旺の部屋に泊まってくれてOK。あ、でも仁旺の受験が終わるまでは勉強の邪魔だけはしちゃ駄目だよ。破王さん専用のお布団と食器も用意するね。そうしたら仁旺が家に居る時はいつでも会えるでしょ?」
「……」
 仁旺はあまりの展開に絶句した。
「どう?」
 にっこり笑う萌絽羽に破王は信じられぬと口を尖らせた。
「本気か? 小娘、我は妖ぞ。妖を家に住まわせるつもりか?」
「もー、いい加減に名前で呼んでよね。萌・絽・羽」
 萌絽羽は立ち上がると腰に手を当てて正面から破王に向かい合った。
「……萌絽羽」
「それで良いの。それじゃさっそく今から家族会議で絶対に破王さんの居住権を勝ち取って来るからね。吉報を待ってて」
 2人に元気良く手を振ると走って萌絽羽は部屋を出て行った。

 残された2人は呆然と萌絽羽が出ていった襖を見つめていた。
 風の破王をして疾風のごとしと思わせる萌絽羽の早業に、全く反応が出来なかったのだ。
 破王は大きな溜息をついて額を押さえて唸った。
「我には、萌絽羽という娘が理解出来ぬ」
 渋面を浮かべる破王に仁旺が笑い掛けた。
「性格がぶっとんでるって初めに言っただろ」
 萌絽羽に続いて仁旺の脳天気な態度に、ぶちっと額の血管が切れる音を破王は聞いた様な気がした。
「我は萌絽羽を殺そうとしたのだぞ。その相手にどうしてああもおおらかに振る舞えるのだ?」
「気を失ってたし、萌絽羽の事だから破王の気持ちを知って、結果オーライって考えたんだろ」
「全く解せぬ」
 尚も「納得がいかぬ」と言い募る破王の背を仁旺はぽんぽんと軽く叩いた。
「萌絽羽はああいう奴なんだよ。俺が惚れた理由を少しは解ってくれたか?」
「たしかに、千年生きてあんな大馬鹿は見た事が無いな」
 ぶははと笑い始めた仁旺の頭を「ここは笑う場面じゃ無い」と破王は思いっきり殴り付けた。

「やったぁ。1番上がり!」
「「ああ!!」」
 トランプを放り出して萌絽羽は景品のお菓子を総取りした。
 ふっふっふっと笑って饅頭を頬張る。
 破王は大好物を目の前で食べられて目に涙を浮かべていた。
「なーに? 破王、ゲームに勝ったらお菓子を独り占めって言いだしたのは破王でしょ」
 ずずっとお茶をすする萌絽羽の言葉には容赦が無いが、全くそのとおりなので破王は一言も文句が言えない。
 毎日おあずけを喰らっている上に更に畳み掛けられて、破王は項垂れて泣くしか出来なかった。
 さすがにこれは可哀相だと同情した仁旺がぽんと破王の肩に手を置いた。
「あのな破王。うっかり言い忘れていたが、萌絽羽はゲームで何かを賭けたら負けた事が無いんだ」
 過去1度たりとも萌絽羽が負けたところを見た事が無いと仁旺に言われ、破王は滝の様な涙を流しながら訴えた。
「そういう事はもっと早く言っておけ! これでもう7日も負け続けているではないか」
 矜持の高さでは他に類を見ないはずの破王の泣きじゃくる頭を撫でながら、仁旺は小さく溜息をついて萌絽羽に頼み込んだ。
「萌絽羽、たしかに勝負は勝負。だけどこいつは萌絽羽の強さを知らなかったんだから勘弁してやってくれないか」
「うん良いよ」
 そう言うと萌絽羽はまだほとんど手つかずの饅頭を全部破王に渡した。
 好意か同情か、萌絽羽の真意は掴めぬが、手の中の好物に破王は喜びを何と言って良いか判らず「済まぬ」と言って頭を下げる。
「こういう時は『済まぬ』じゃ無くて『ありがとう』って言うの。少しは今風の言葉覚えてね。ここのところずっと独りでお菓子食べてたから太っちゃったらどうしようかと思ってたの。今度からはお菓子を賭けるのは止めようね」
 何でも無い事の様にあっさりと言う萌絽羽に仁旺が渋面を作る。

こいつ、お菓子で無かったら今度は一体何を賭ける気なんだ?
一抹の不安を感じた仁旺が何とか萌絽羽の気を逸らそうと時計を指差した。
「萌絽羽、もう10時だぞ」
「あ、いっけなーい。お風呂入って寝なきゃ。破王、それ食べたらちゃんと歯を磨かなきゃ駄目だからね。2人ともお休みー」
 貰った饅頭を頬張っている破王にきっちり釘を刺しすと、慌ただしく萌絽羽は部屋を出て行った。
「……歯を磨けだって」
 どうするという顔で仁旺が破王の顔を見る。
「我はそんな事をせずとも虫歯になどなった事は無い」
 重い病ならともかく命に関わる怪我以外は、自力で治せる妖にとって虫歯などという症状は縁が無い。
 仁旺もそれを承知しているが、軽く肩を竦めて破王に歯ブラシを投げた。
 妖の世界では2つ名を持つ破王も、葵家に居る間は萌絽羽にとって、他の人間と変わらぬ友人の1人なのである。
「萌絽羽には逆らわない方がお前の身の為だと思うぞ」
 うっと唸って破王は眉間に皺を寄せたが、諦めて歯磨きセットを持つと、とぼとぼと歩いて洗面所に向かった。

 萌絽羽の宣言どおり、破王は好きな時に葵家に泊まる事を許された。
 どうやってあの家族全員を説得したのか仁旺にも想像が付かなかったが、結局は誰も萌絽羽には敵わないのだ。

本当は俺にとってはすごくお邪魔虫なんだけど萌絽羽が良いって言うものは仕方ないよな。
俺の恋も前途多難だよ。

 仁旺は苦笑しながら押入から2組の布団を取り出した。

おわり



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