_/_/_/日本徘徊(名瀬→石垣)_/_/_/

1999年12月26日
奄美大島には「みき」という飲み物がある。米とサツマイモと砂糖の飲み物。どろっとして甘酒のようだ。
とにかく長い県道79号を走り手安の弾薬庫へ。洞穴の中に建物がある二重構造。そのため中は快適でビバーク可か。ヤドリ浜のキャンプ場へ。設備も揃い、きれいな芝地があって、海もすぐで、しかも無料。今までで最高のキャンプ場である。

1999年12月27日
古仁屋の魚屋で、青く鈍く光る魚をさばいている。写真を撮らせてくれというと、同じデザインで赤い魚が出てきた。

1999年12月29日
山羊汁を食す。

1999年12月30日
サトウキビを齧る。

1999年12月31日
今日はにぎやか。屋久島の各務ヶ原ライダーと再会する。韓国の人から激ウマの甘辛汁を頂く。黒糖焼酎&ギター。2000年を待てずにKO。

2000年1月1日
6時起床でホノホシ海岸へ歩いてゆく。途中大阪のサーファーが車に乗せてくれる。ホノホシは付近であまりない日の出スポット。結構にぎわっている。しかし、雲で初日の出は絶望的。かなりの人が帰った後、水平線に雲の切れ間ができ、太陽が上がってきた。荒波に映って美しい。やがて5分ほどで雲の中に沈んでいった。
午後、裸足になって海に入る。

2000年1月3日
加計呂麻島の金子崎戦跡へ。小中学校へ行くと大きな木にぶらんこが下がっている。それで遊んでいる子供が、「お腹がすいた」と言った。

2000年1月5日
巨大なウニを捕獲。割って食べる。しかし、時期のせいか卵巣が少ないし、あまりうまくない(後で調べたらこれはガンガゼで毒があるらしい)。

2000年1月10日
4:30頃、名瀬港へ。クイーンコーラル7で徳之島亀徳新港へ。サトウキビを満載したどう考えても過積載のボンネットトラックが走っている。シンデ浜へ行くと、黒い牛が水浴びをしている。ここは闘牛の島である。こうして傷を癒すのだ。コーヒーを沸かしているとスモークローレルのあんちゃんが話し掛けてくる。名所をすべてガイドしてくれる。島の道路は、牛→トラクター→車の優先順位らしい。
畦のキャンプ場に設営。ここも快適で無料。
寿と書かれた金箔入り黒糖焼酎を発見。お正月バージョンらしい。2合で350円だから、通常バージョンと同じだ。購入。

2000年1月11日
またも各務ヶ原ライダーと会う。

2000年1月12日
海から懲りずにウニを採ってくる。この島ではムラサキ系ではなくバフン系を食べるらしい。かなり大物のバフンウニを捕獲。中身はやはり小さめ、ムラサキウニよりクセがあるがうまい。

2000年1月13日
郷土資料館へ。きれいな人骨がある。この島の水はカルシウム分が多いので、骨が温存されるらしい。 徳之島闘牛初代横綱実熊牛のビデオを見る。この島では家族一丸となって牛を育てる。えさは1日30kg。夜は黒糖焼酎の卵酒。試合前にはえさが1/6に減らされ、替わりに玉露を飲ませる。空腹とカフェインで士気を高めるのだ。負けるようになると肉になる。牛は天からの授かりもので、無駄にせず天に返すのだ。
闘牛は「慰み」と言われる。琉球と薩摩藩の二重支配の重税で苦しい生活のはけ口だったのだ。
ここに南海日日新聞の記者が来てインタビューをうける。彼は徳之島支局長であり、記者であり、カメラマンである。弁当を食べながら雑談した内容が、次の日鮮やかに記事になっていた。
ここではいろいろな話が聞けた。面縄の海に近い高台に巨大なデイゴの木がある。これが真っ赤な花を付けると船はこれを目印に入港したという。つまり灯台の役目をしていたらしい。
サトウキビ満載トラックは、それでも以前より低くなったらしい。理由は信号ができたからだという。つまり信号に当たらない程度にしてあるのだという。

2000年1月14日
松原銅山へ。昭和初期の閉山なので、自然に帰りつつある。
家からバスタオルを巻いただけの女性が出てきて息を呑む。風呂が離れになっているのだ。

2000年1月16日
風葬跡を求めて聞き込みを開始。しかし、もう過去のものになっているようで、証言が一致しない。10人くらいに聞いて、だいぶ場所が特定できてきた。しかしそれはジャングルの中である。とにかく分け入る。鮮やかなヘビが横切る。しかし、鮮やかなのはハブでないので、安全である。問題は地味なやつだ。薮漕ぎをしていくと、サトウキビ畑へ出てしまった。方向が違ったらしい。再びジャングルへ。一度滑落。何とか這い上がると足元に階段を整備した後が。それを昇っていくと、風化珊瑚の洞窟がある。風葬跡だった。かつては骸骨がそのまま転がしてあったという。今は埋められているが、人の形をなぞるように石が置かれていて、ここに安置されていたのだなという事が想像できる。いずれここも自然に帰ってゆくのだろう。

2000年1月20日
伊仙で、闘牛の練習を見る。激しくタイヤを跳ね飛ばしている。サミット場所に出るのだという。闘牛場のサークルの中に入ったような臨場感。ふと自分の頭に赤いバンダナが巻いているのに気付く。

2000年1月21日
天候回復。いい日旅立ち。今日の船はAラインあけぼの。甲板の上でゲリラライブ。長渕を弾いていたら、兄ちゃんが「何か弾いてくれませんか」と話し掛けてくる。与論高校のブラスバンド3年生川端君だ。彼もギターを弾く。おいらが、かぐや姫を弾けば、彼がドラゴンアッシュを。おいらが、陽水を弾けば、彼がルナシーを弾く。結構古い曲も知っている。「古いからって良くないって言うのは頭悪いですよ。」あっと言う間に与論入港。下船間際に、「僕の兄貴がコブラツイスターズっていうバンドでデビューするんです。」「ああ、覚えておくよ。」こんなインパクトの強い名前を忘れるはずがない。甲板から港を見ると、彼が手を振っている。僕らは、ヨロン=バブルリゾート=当然通過となってしまうのだが、行けばよかったなと思った。
夕方沖縄本部港入港。沖縄では希少な無料ビーチ瀬底島へ。林の中に沢山住んでいる。

2000年1月22日
沖縄の道はとにかくダンプが多く、この島がかなり公共事業に依存している事を示している。商店はコンクリ二階建てで必ずテラスがある。そして、それが道に沿って角が丸くカーブしていて、剥げかかったペンキで宮城商店などと書かれている。どこかで見たなと思ったら、中国なのである。家の入口に鉄の柵があったりするのも中国チックだ。
石川市で汚い食堂を見つける。店の前には車が沢山停めてあり、作業服の人たちが出入りしている。これだと思い入る。これは当たりだった。沖縄そば大400円。麺はちゃんぽんを平たくしたよう。生姜で煮た肉、油の載った三枚肉。そしてなぜか沖縄にしかない豚肉コンビーフポークランチョンが入る。テーブルには激辛泡盛のコーレグースがあり、これを入れるとまたうまい。
キャンプハンセンへ。基地前に米軍相手の店が並ぶ。日本人を殆ど見ない。ホテル東京の前がホテルニューヨーク。日本と沖縄とアメリカが混沌としている。若い男二人を撮らせてくれというと、抱き着いてキスをしようとする。
名護市の市場食堂でトーフチャンプルーを注文。ご飯もあるかと聞くと、付いてるという。沖縄でチャンプルーと言えば、定食になっているのが常識なのである。シロウトがばれてしまった。かなりボリュームがあるが、500円。
夜は各務ヶ原氏と飲み。私の入手した具志川の泡盛と彼の今帰仁の泡盛で飲み比べ。残念ながら今帰仁に軍配。

2000年1月23日
真栄田岬へ行くと、海兵隊ダイバーのグループがいたので、撮らせてくれというとナイフを舐めるポーズをとるやつも。「さんきう!」と言うと「ARIGATTO!」
楚辺通信所を見て、読谷村を散歩。この村はちょっとした市ぐらいの街がある。基地の分が人口に入らないからだろう。
今日はやはり市場でゴーヤーチャンプルーを食べる。かすかな苦みがコーレーグースに合う。名護城はもう桜が咲いている。

2000年1月24日
今日は北部へ。道の駅大宜味でアメリカ弁当300円というのを買う。X線フィルムのような袋に入った野戦食だ。茅打ちバンタで弁当を開けてみる。謎の袋が沢山出てくる。作り方が書いてあるが、勿論すべて英語。水も必要らしい。帰ってからゆっくり解読する事に。

2000年1月25日
アメリカ弁当を解読する。自己発熱型のレトルト食品。その他、そのまま食べるクラッカー、クッキー、ジュース、ゼリー、キャラメル、ガム、コーヒーと様々なものが出てくる。ただ、量はそれほど多くない。大柄な米兵はこんなもので足りるのだろうか。
夜はタコライスを作る。

2000年1月28日
久々に晴れたので、那覇へ。大東島行きの船を調べる。国際通りを歩き、牧志の市場を徘徊する。ごちゃごちゃで、楽しい市場だ。一週間振りの銭湯日の出湯へ。230円で安い。脱衣所と浴室の間に仕切りが無いのが、沖縄流。蛇口が高い位置にあり、立ったまま体を洗うよう設計されている。
北谷のナイトマーケットへ。いろんな食べ物がほとんど100円くらいで食べられる。中ジョッキも200円だが、残念ながらバイクだ。シーズンオフなので、結構さびしい。かぐや姫のあかちょうちんが流れる。テンガロンハットのアメリカ人が一人でビールを飲んでいる。アーノルド坊やのような子が遊んでいるが、明らかにうちなー口(沖縄の言葉)である。島唄が流れている。

2000年1月29日
やはり市場でポーク卵を食べる。普通はスクランブルエッグなのだが、この店はなぜか目玉焼き。

2000年1月31日
大東島へ行く為、ベースキャンプを移動する。月光荘という1500円の宿へ。夜はみんな集まり、泡盛で宴会。オーナーアメシュウさんは親切な人だったが、1人キュウというつまらない男がいて少々うんざりしてしまった。彼は説教などと言っていたが、そんな気の効いたものではなく、20歳年上ぷぅさんという人にかなり無礼な事を言っていた。途中でぷぅさんは退席。彼はぷぅさんを追い出したと手柄のように言っていたが、煙たがられてたのはぷぅさんだけでなくキュウもだったのだろう。宴会から1人2人と消えてゆく。人数が減ってきたので、こっちにもつまらん事を言うようになる。アンタと俺はいつからそんな親しくなったんやと思う。やつと私ともう一人だけになった時、私は無言でコップを全部片づけた。それでお開きとなった。
ベットに就いた時、米軍放出ザックを背負った大きな男が到着した。

2000年2月1日
バイク屋でバイクを預かってもらう交渉をする。「これは盗難があるかもしれないなぁ。1週間なら5000円で預かるよ。」親切だが、その5000円が厳しい。外に置かせてもらう事にする。15:00だいとう乗船。すると、米軍ザックを背負った人が歩いてくる。月光荘の同一人物らしい。スキンヘッドのクスノキさん。大東島で仕事を探すという。波は2mほどで凪だが、700tの船なので、良く揺れる。

2000年2月2日
7:00北大東到着。9:30南大東到着。大東島両島は高い断崖に囲まれた島で、港が作れない。その為、断崖の上に港を作り、すべて クレーンで荷役を行う。人間もケージに入れて吊り上げる。そのため、下船は上部甲板から行う。空中ブランコのようにふわりと浮いて静かに着地。
赤血球のような形をした島一面がサトウキビ畑。海は200m沖へ行くと2000mの深さになる。つまり、2000m級の山の頂上だけ海面に出ているという感じなのだ。その為周囲を断崖に囲まれている。だから、島のくせに海水浴ができない。岩を掘って作った海水プールで泳ぐ。飲料水も取れないので、海水を淡水化している。いかにも不味そうだが、海水がきれいなためかまともな水が出る。売店が数軒ある程度という街の規模のくせに、なぜか飲み屋街が形成されている。飲兵衛が多いのだという。
大東にはある非常にうまい魚があるという。うまいが、その魚の脂を分解する酵素を人間は持たない。つまり、食べると腹を壊す。しかし、そうまでしても食べたいくらいうまいのだそうだ。
大東製糖の近くにシュガートレイン達が朽ちている。

2000年2月3日
島の道はひたすらサトウキビ畑で果てしない。周囲が高い独特な形のため海が見えず、北海道的風景になってしまう。

2000年2月5日
朝船が着き、鉄人原さんが降りてくる。「えらくペース遅いねぇ。」「君こそ。」変わって私が空中ブランコで乗船。30分ほどで北大東へ。
燐鉱石貯蔵庫跡へ。
民宿二六荘に泊る。夕食を食べていると少年が新聞でーすときた。朝刊は夜来るらしい。

2000年2月6日
朝食後にパッションフルーツを頂いた。グレープフルーツのような味で、種まで食べられる。東京の放送が入るので、関東甲信越小さな旅がやっている。今年は見られないのだなと思うと、雪景色が懐かしい。
ここのカタツムリはカワニナのような尖った殻を持っていて、しかも巨大である。そして、犬は短足。
宿のおいちゃんが沖縄で一番うまいサトウキビだといって、きびを割ってくれる。かじってみると梨のように柔らかくみずみずしい。機械でサトウキビを絞るようになってから、固くても虫や台風に強い品種が好まれるようになったので、こういうサトウキビは希少になってしまった。
島には東西南北4つの港があり、風向きによって港が変わる。急遽西港から北港に変わり、民宿の車で送ってもらった。ゲリラビバークとかしてたら逃すところだった。今回は、小さなボートに陸の上で乗り、クレーンで海に落とされる。そして沖に停泊している船の後ろの方に横付けする。そして、波でボートが上に上がった瞬間に船員に「えや!」と引き上げられる。

2000年2月7日
那覇に戻ってきた。バイク屋へ。バイクはそのままあった。しかし。ヘルメットがない。ゴーグル付きのヘルメットは8000円。5000円で預けた方が良かったのだ。賭けに負けたのである。まあ、バイクが消えなかっただけよしとせねばなるまい。3500円のしょぼい半キャップを買う。
南部を走り、知念の浜で設営。水がないので、近くの工事現場でもらう。

2000年2月8日
激しい風。沖縄は天気の考え方を根本から変えなければならない。高気圧は晴れではないのだ。高気圧、すなわち大陸高気圧の張り出しは、気圧配置を冬型にしてしまう。すると北西の季節風が吹き、大陸の寒気を呼んでしまう。つまり、高気圧は雨。低気圧も勿論雨。そして沖縄の冬はほとんど晴れない。
琉球大学の学食で沖縄そば200円を食べる。ちゃんとコーレーグースも用意してある。 道の駅で琉球新報を見ると自転車で日本一周をしながら、ホームページを更新している人の記事が載っている。
再び瀬底へ。

2000年2月10日
よるチャリダーが3人集まり、泡盛を飲みながら喋る。琉球新報に出ていた、モバイルチャリダーたじさん。35歳ラテン系チャリダー吉松氏。米10kgを携行する寿司職人チャリダーしんちゃん。

2000年2月11日
いよいよ石垣へ。と思ったが、雨が止まず、結局見送ってしまう。

2000年2月12日
海中道路を走った帰りに沖縄市の銭湯越来湯へ。200円。相変わらずオープンデッキタイプで、20cmX30cmくらいの小さな富士山が描かれている。
今日は瀬底に海兵隊二人とガールフレンドがキャンプに来ている。そいつらと飲む。極度に洋楽に弱い私は、上を向いて歩こうとレットイットビーを弾いたら、弾けるのが無くなってしまった。彼らはマリン(海兵隊)であって、ネイビー(海軍)とは全く別物らしい。彼らは、いざ戦争が起こると一番先に敵地に乗り込み、本体上陸の足がかりを作る、致死率90%の厳しい任務だ。つまり、先遣隊なのだ。それだけに誇りを持ってやっているという。言外には海軍なんかと一緒にしてもらっては困るという気配があった。そして俺の爺さんも第二次大戦のマリンだったと言う。「俺の爺さんも日本軍のマリンだった。だから、俺の爺さんとアンタの爺さんは闘ったかも知れないな。」と言うと通じたようで、笑い合った。スタンドバイミー。そして、島唄。

2000年2月13日
畝さんという人が潜って採ってきたシャコ貝、オコゼ、カワハギの刺し身、貝のつぼ焼きが振る舞われる。昼間からビールにならざるをえない。

2000年2月14日
いよいよ石垣行きの船が出る。しかし、撤収したとたんにスコールに見舞われる。14:00やっと出発できる。船は台湾行き国際航路だけあって、かなり良い。二等なのに6人用コンパートメントで、各部屋にトイレとシャワーがついている。たじさん、原さん、吉松さん、が集結する。飲みながらいろいろ話す。海は4mの波。ちょっと揺れてくる。

2000年2月15日
朝飯にアンパンを食べていたら、酔ってしまった。こんないい船なのに情けない。えらく遅れて13:00石垣入港。港の前で話していたら、コマを持った少年が登場。私のカメラに興味を示し、知らない人を激写している。
港の公園でビバーク。12度くらいで思ったより寒い。

2000年2月17日
高速船に強引にバイクを積む。しかしこれがまずかった。西表島に着いたら、引潮で桟橋が階段を登るようになっていたのだ。3人掛かりで何とか引き上げる。
星の砂キャンプ場に設営。

2000年2月18日
今日も雨。西表炭鉱アタックを試みたが道がどろどろで見合わす。
子午線パークというのがあり、何とインターネットができる。ホットメールを作る。記帳ノートがあり、秋田で会った増田さんが数ヶ月前に記帳している。
夜、テントから出ると猫と目が合う。イリオモテヤマネコか!と思ったがどうも野良猫らしい。

2000年2月19日
再び西表炭鉱宇田良坑を目指す。途中、根が平らなサキシマスオウノキやマングローブの林があり、楽しめる。がさっと、音がして、ヘビのしっぽが逃げていった。地味な色。ハブかもしれない。ハブがいる島というのがある。氷河期に水没しなかった島。すなわち、標高の高い場所のある島はハブがいる。西表は当然いる島。炭鉱は見事だった。レンガのアーチが連なり、それがガジュマルに飲まれつつある。最南端の廃墟にふさわしい。石炭があちこちにまだ残っている。
書籍が再販制度によって全国一律の価格を維持している、という常識が崩れた。この島では、雑誌が20円アップの離島価格になっているのである。また、港から遠い場所ほど物価が高い。その代わり、見栄えの良くないかぼちゃが50円だったりする。
NHK第一放送がなぜかFMで入る。ラジオが壊れたかと思った。
夜、星砂の浜でギターを弾く。すると高校生が話し掛けてくる。湯原からヒッチで来たらしい。
サザエがうろうろしている。巨大ヤドカリだった。

2000年2月21日
南風見田へ行く。聞いていたとおり、ドカシーで住んでいる沈没者が沢山いる。
また子午線パークでインターネットをしようとすると、太ったネェチャンが「これ町役場のページしか見れない事になってるんですけど」と面倒臭そうに言った。立派な建物立てて、仕事のできない女を雇って、更新の無いページを見せるとは恐れ入った。「ああそうですか。」と言って、ホットメール。今日たじさんと吉松さんが西表入りするらしい。 星の砂に戻るとたじさん達が到着している。BMWに乗った炎の料理人佐藤さんが来ていて、餃子と肉じゃがを作るという。彼は仙台出身。しかも、かなり近いところに住んでいた事が判明。

2000年2月22日
今日もひどい雨。また強引に高速船にバイクを積み石垣へ戻る。屋久島の久保池氏にばったり会う。製糖工場の夜勤明けらしい。一緒に200円カレーを食べに行く。
港の公園でビバークしようとすると、徒歩ダーがやってくる。山形の阿星君。話していると、私が小さい頃に遊び場にしていた学生寮に住んでいた事が判明。日本の南の端で「あの長沢商店がコンビニに変わりましてね」なんて狭い話で盛り上がる。

2000年2月23日
良く揺れる船で与那国へ。とりあえずクブラバリへ。馬糞にきのこが生えている。増田氏によるとこれは幻覚作用があるらしい。ただ、生えている場所が場所だけに試用ははばかられる。
一応最西端へ。一眼レフカメラを持った女性が一人いる。腕も確かそうだし、美人なので証明写真を撮っていただく。ついでにちゃっかり撮らしてももらう。千葉の人で、「祖内のお墓が良かったですよ」と言っていた。
しばらく走ると、与那国馬で散歩する人がいるので、こちらもパチリ。
島で唯一キャンプ公認の比川浜で設営。強い雨とこの季節に珍しい東風で苦しむ。一部床下浸水。隣のテントは潰れたり復活したりしていて、良くあの中で寝れるなと思う。

2000年2月24日
今日も強い雨と突風。 前夜の反省から、テントを方向転換し、砂に立たないペグを諦め、珊瑚に変える。
舞富名の泡盛工場へ行き見学。そして60°の花酒を試飲。少量を口に含むと、鼻から目に抜ける。試飲だけで、心地よくなる。
小さなボトルを買って、夜飲んでみる。コップに注ぐと貝を耳に当てたような静かな音がする。目に鼻に喉にしみわたる。火を放ってみると青く美しい完全燃焼。まさに、五感で楽しめる酒である。お湯で割って、やっとウィスキーのストレートくらいになる。

2000年2月26日
長雨でカメラバックにかびと苔が生えていて唖然とする。今日は公民館で立松和平の講演会があるはずなのだが、飛行機が飛ばなくて中止に。本を読みに公民館へ行くと、講演会で使う予定だった、与那国海底遺跡のビデオを見せてくれた。経済的事由によりダイビングができなかった無念を少し晴らしてくれた。


その先の日本へ