_/_/_/日本徘徊(福岡→名瀬)_/_/_/

1999年11月9日
枕元で吐く音に目覚める。AM1:00。玄界灘は激しく荒れている。船が波に乗り上げ、落ちる時にドーンという衝撃が走る。その度、咳き込む音、吐く音、溜め息が聞こえる。地獄絵のようだ。2時間遅れで比田勝入港。地元の人は足早に降りていく。まだ6:00。身寄りの無い私は、船内で仮眠。
博多から通常4時間。しかしここから釜山までは1時間半。
少し時間を潰して、豊砲台跡へ。巨大な井戸のような穴があり、ここから戦艦大和と同じ高射砲がせり上がる構造になっていたという。
御前浜キャンプ場で設営してから厳原へ。高い石垣に阻まれた狭い路地が多く、徘徊向きだ。川には柳が並び風情がある。
御前浜に戻る。灯かりは星のみ。韓国のFMがステレオで入る。

1999年11月10日
壱岐に渡る。スーパーで、アベックラーメンという棒ラーメンを見つける。即ゲット。
黒崎砲台跡へ。豊と同様だが、より崩落度が高い。
勝本の町を散歩。裏通りがいい雰囲気。なぜか万国旗が下がる。

1999年11月11日
郷ノ浦を散歩。やはり万国旗。男根の看板を掲げる土産物屋。「よつば」でなく、「みつば牛乳」というのがある。飲んでみると濃厚な味。よくみると低温殺菌牛乳である。パッケージには一言も書いてなくて、当然の如く低温殺菌というのがこだわりを感じる。
呼子へ渡る。未成線の廃線、呼子線を見ながら走る。伊万里でちゃんぽんを食べる。ラーメンと同じ値段で、大量の野菜が食べられる。昔それほどおいしいと思わなかったが、やけにうまい。→以後癖になる。
平戸大橋の公園で、設営。夜激しい雷雨。

1999年11月13日
崎戸島へ渡る為に太田和港へ。しかし待合室が閉鎖されている。近くの爺さんに聞くと、平成11年11月11日に橋ができたのだという。行ってみると開通して初めての週末という事で、歩いて渡り初めをしている人が多い
。まず崎戸へ。すぐに廃墟ビル群が見えてくる。崎戸鉱業所。アワビ採りの漁師が海底から燃える石を拾ってきたのが発祥。最盛期は8000人が働いていた。昭和43年の閉山。4階建てのコンクリ廃墟に入る。すべて同じ形の部屋で、風呂があったりするので、寮だったのではないかと思う。二階に上がるとみゃーという声が。ここの住人らしい。猫に案内されるように各部屋を覗く。垂直の配管だけの部屋がある。その真上が便所。つまり、排泄物を重力を利用して一階にダイレクトに贈る方式らしい。
別の集合住宅へ。屋上へ上がると青い空と青い海が広がる。いいアパートだったのだろう。

1999年11月14日
夕方瀬戸に着く。松島でビバークする為に船に乗る。しばらくすると爆音と共にハーレーが乗ってきた。もう定年を過ぎた春田さん。「今日どこに泊るんだ」「その辺で野宿を・・・」「泊ってけ」という事に。築100年の家。奥さんが野菜いっぱいのちゃんぽんを出してくれる。ひどくうまい。夜、春田さんの車で島を一周。現役炭鉱、池島炭鉱の夜景が見える。結構明るいが、それでも昔より減ったという。
春田さんは二度ほど大きな事故をやっている。意識不明まで行った事もあるらしい。体は傷跡だらけ。それでもいまだハーレーで一日600kmを走ったりするらしい。バイク乗りってやつは。

1999年11月15日
雨。春田さんの車でもう一度島を散策。やぶの中のトンネル跡へ。地元の人でないととてもわからない所にある。松島炭鉱四坑跡へ。レンガの建物はアコギという木に飲まれつつある。
池島に渡り、8階建て廃墟ビル群を撮る。港のショッピングセンターへ。スーパーと市場とバーが混ざったような空間。味付け海苔を肴にビールを飲んでいた跡がある。
大きな建物の前で、人が待っている。みんな洗面器を持っているので、公衆浴場らしい。炭鉱の福利厚生施設のようだ。おいちゃんに「一般は入れないですか」と聞くと、「今日だけならよかばい。入っちまえ。」とにかく広い。浴槽だけで六畳くらいはありそうだ。浴槽をゴールエリアとすると浴室はペナルティエリアくらいある。おいちゃんは石鹸と洗面器まで貸してくれる。老人が多いが、みんな引き締まったイイ体をしている。みんな炭鉱マンだったのだろう。
今日も春田さん宅でお世話になってしまう。夕食は皿うどんでこれまたうまい。夜は、ギターでミニライブ。奥さんが「娘が昔弾いてたんです」と持ってきたのは、さだまさしの楽譜。表紙を見るとフサフサの髪をしたさだまさし。という訳で本場で「秋桜」を唄う。奥さんは涙を流して喜んでくれた。人生最高のライブ。

1999年11月16日
何とお弁当まで作ってもらって出発。長崎はオランダ坂へ。観光地は行かなくなって久しいが、坂は無料である。坂の上に女子大があり、お嬢様風の女の子が沢山降りてくるのも良い。しかしさすがオランダ坂。降水確率10%で晴れていたにも関わらず、雨が降ってきた。
警察署で、パトカーから裸足の男が引きずられていった。何があったのだろう。
原爆資料館へ。ここは初めてではない。しかし、4、5階建ての武骨なビルだと思っていたが、きれいなミュージアム風に変わっていた。が、内容の良さは相変わらずだった。

1999年11月17日
いろいろ手を尽くして、軍艦島行きの船を手配。船頭のおいちゃんが樺島に行ったら良かろうというので、行ってみる。大うなぎの住む井戸を覗いていると幼稚園の遠足に取り囲まれる。保育士の人が園児を持ち上げてうなぎを見せているので手伝う。石川県から来たと言うと、「滋賀県からだって、まぁ遠くから・・・」何回訂正しても滋賀県になってしまうので、そのままにしておく。
海岸の芝地に設営。よく晴れているのに、地元の人が「今夜は雨になるだろう」と言い残して去ってゆく。そう言えば船頭さんも同じ事を言っていた。
夜、大雨と突風。テントが激しく踊り酔いそうだ。とても船は出ないだろう。こうなったら一週間でも二週間でもねばって、意地でも軍艦島に渡ってやると決意する。
しかし、風は更に強まり、4:00に仕方なくテントを潰す。

1999年11月18日
それでも船は出るらしい。船は木の葉のように進んでゆく。本当に美しい軍艦の形をしている。かなり潮をかぶる。堤防の割れ目からロープを伝い、梯子を登り、コンクリを這い上がって上陸。
まだ陽が登らないので、ロケハンで一周。瓦礫の山で道らしきものはない。左舷が炭鉱。後ろが学校・病院。右舷が住宅で、前がオフィスや工場といった感じか。てっぺんに灯台があり、これだけが唯一の現役施設。まず高いところから攻めて、炭鉱に降りる。落ちたらまず帰ってこれないような穴がある。小学校でさえ7階建てである。入るとあまりに落書きが多い。「1993年8月3日ジュン&マサ参上!」などと書いていくのは、センスがなさ過ぎる。廃墟は人為的に変えてしまった時点で価値が半減する。
相変わらずの強い海風は、ガラスを砕いては落としてゆく。病院に入る。無影灯が今も下がる。歯科診療台は肉が剥がれ鉄骨だけに。レントゲン、薬瓶、カルテが無造作に放置されている。
8、9階建てのビルは、外壁が剥がれ、中のレンガが出ている。初期の高層建築で、鉄筋のようなものは入っていない。内装は木製。夢中で撮影。狭い島だが、立体的に広がっているので、かなり疲労する。
やがて迎えの船が来る。潮が満ちていて、足を波で洗ってしまう。甲板に腰を下ろし潮をかぶりながら、遠ざかる巨大な船体を眺めていると、一つの闘いが終わったような気がした。

1999年11月19日
雲仙の新湯へ。地元の人が入ってくる。昔貨物船の船員をしていて、世界を周ったという。日本一周が小さくなってしまう。
島原へ。水無川に立つと、今も扇型に土石流の氾濫原が広がる。
不吉な国道444号を辿る。筑後川の川原でビバークをしていると職務質問。

1999年11月20日
柳川の掘割を散歩。それから海へ。堤防に上がると一面泥の海。よく見ると点が無数にある。蟹だった。泥をじっと見ていると、ムツゴロウが見えてくる。豊かな海だ。
三井三池三川坑へ。昔見たトロッコ達は消え失せていた。
501号線を走っていたら、後ろからダンプがクラクションを鳴らしてきた。頭に来たので、絶対譲らない。すると、対向車があるのに抜いてきた。そして案の定抜ききれず、強引に幅寄せをしてきたので、クラクションを鳴らしまくった。するとダンプは停まり、運転手が降りてきて、つかみ掛かってきた。「んだと、コラ!」と振り切り、走り去る。また来たら、また邪魔してやろうと思ったが、それ以上追ってこなかった。

1999年11月22日
朝の崎津を散歩。海面から霧が発生していて、その向こうに天主堂が霞んでいる。朝の斜光線がそれを幻想的に写し出す。

1999年11月24日
知覧の特攻記念館へ。出発前の兵士の記念写真は晴れ晴れとしたいい笑顔だった。茶畑の真ん中でガス欠。しかし、カブはガス欠でもスロットルを戻さなければ3kmくらい走れる。ぎりぎりで、JAスタンドへ。指宿で砂蒸温泉を見に行く。砂浜に首が並んでいてちょっとシュールだ。入るのは200円の元湯で貸し切りだった。セントラルパークで設営。

1999年11月25日
朝食を食べていると、グランドゴルフのおいちゃんおばちゃんが集まってきて、本場のサツマイモをもらう。鹿児島で300円のラーメンを食べてから、離島行きのフェリーの情報を集める。鹿児島港と鹿児島新港があり、新港の方が古いのでややこしい。新港は砂っぽく、浮浪者も多い。
ダイエー前の公園でビバーク。

1999年11月26日
霧島のダートを走って、川湯温泉へ。川原を掘ると温泉が出るのだが、高温なので、川でもいいくらいだ。硫黄の酸性泉。
霧島スカイラインを越えて、えびのの友人松窪宅へ。彼と初めて会ったのは、中学時代に九州を旅した時だった。あの頃僕らは無人島でビバークしたりしていて、やつはヒッチハイクなんかをやっていた、ちょっと変わり者同士だった。そんな訳で、自然と親しくなった。それからしばらく連絡が途絶えていたが、大学の頃、彼が徒歩で日本縦断をしていて、近くを通ったからと遊びに来た。そして今回、私が彼の家へ行く。十数年の間に三回という非常にスパンの長いつきあいだ。その夜は、昔話で2:00まで。

1999年11月27日
小林市に楽譜と弦を買いに行き、激しくギター。やつは、古ければどんな曲でも唄える。激しく芋焼酎。

1999年11月28日
発作的に列車に乗りたくなり、大畑駅から真幸駅まで乗る。この区間はループ線があったり、スイッチバックがあったりと非常に楽しめる。また、運ちゃんが圧倒的に面白い。真幸駅に降りると、砂防ダムに突っ込むように駅が設置されているこの風景はどこかで見た事がある。と言うよりも、十数年前にここに来ているのだった。何も変わっていない。帰りは畳に座る。この列車、お座敷付きなのである。
京町の金原温泉へ。番台に人はいないし、何も書いてない。地元の人は回数券で入ってゆく。地元のおいちゃんに聞くと、200円位置いてけば良かろうと言う。
今日も芋焼酎ギター。

1999年11月29日
松窪氏の車でえびの高原へ上がる。岩の山肌に、注意深く見ると石の規則的な並びが見える。やつの説明が無ければとても見つからないが、これが、かつての硫黄採取跡である。寒いので、ワイルドな市営露天風呂で体を温める。
夜は泡盛ギター。

1999年11月30日
鹿児島へ。ダイエーで屋久島や離島の為に、500円のリュックを入手する。南国鹿児島とはいえ、結構冷え込む。

1999年12月1日
屋久島Uに乗船。美人のスチュワーデスが乗る、国際航路のような船だ。しかし屋久島上陸早々、雨の洗礼を受ける。仕方なく、お好み焼き屋で雨宿り。昼間から焼酎を飲む人がいる。「兄ちゃん、今日どこに泊るんや。」「まだ決めてないんです。」「うちへ泊りや。」と言う事に。この人は通称クマさん。山岳ガイドなどをしている。
夜はソファに寝る。しかし、なんとなくしっくりこない。床に寝てみる。これに慣れてしまったらしい。

1999年12月3日
朝、森林鉄道を撮影する。 猿の群れに会い、写真を撮っていると、子供の猿がカブに接近。振り向くと止まる。だるまさんころんだの様だ。そして、シュラフのビニールをちぎりだした。ビニールの中に食べ物がある事を知っているらしい。

1999年12月4日
ヤクスギランドへ。150分コースを歩く。ランドなどという名前でなめてかかると結構険しい。しかし、見事な杉がごろごろしている。
海中温泉へ。ぬるくて、しかも波がかかる。どうやら満ちているらしい。

1999年12月5日
矢筈の海岸で、テントがいくつか建っている。ほとんど一周ライダー。夜中に雨風が強まり、テントが激しく踊る。

1999年12月6日
熊本の徒歩ダー永田君と話をする。名前は剛。長渕とは一字違い。という事があってかどうか、長渕ファン。という訳で、長渕を弾く。
ライダーハウスとまり木へ。玄関の上に、松窪氏撮影の縄文杉の写真がある。雨が降っているにもかかわらず、風が強く乾燥していて、Gパンが2時間で乾く。常連ばかりで、どうしても浮いてしまう。徳山の男がアーリータイムズを飲みながら話し掛けてきた。彼も集団から少し浮いているようだった。

1999年12月7日
5:30起床。縄文杉アタックである。登山口へ向けて、急勾配を登ってゆく。朝焼けが美しい。ローでしか登れないので、どんどんバイクに抜かれてゆく。荒川登山口には知った顔もちらほら。彼らは7:00頃スタート。おいらはパッキングをして7:20出発。森林鉄道の軌道をひたすらスタンドバイミー。途中2人を抜く。しかし、小杉谷の廃村を撮ったりしているうちに抜かれてしまう。途中橋が落ちていて、山中の迂回路へ入る。ピンクのリボンを頼りながら歩く。今日は穏やかに晴れているが、霧が出たりすると結構危険だ。大株入口。ここから軌道を離れるので、険しくなる。勾配もきつく、這い上がるように進む。途中先頭のライダー久保池氏を抜く。休憩を取りながらでなければ結構きつい。ウィルソン株。大きな切り株の中はドーム状になっていて、中から水が湧いている。潤う。最後階段を登り切ると突然巨木が現れる。縄文杉だった。今まで、ガイドブックや絵葉書で何度も見てきたにもかかわらず、意外な程大きい。この迫力は写真では伝え切れていないらしい。そして私も同様の写真を撮る事になるのだろう。
出発より3時間10分。久保池氏が3時間40分。22歳の若者が4時間10分で、これがガイドブック標準タイム。各務ヶ原のライダーは、鞄からおもむろに御岳(屋久島の焼酎)を出した。しまった。その手があったか。
夕方、閉鎖中の青少年旅行村に行くと、久保池氏と永田氏が来ている。そんな訳で、長渕と御岳。

1999年12月8日
すべき事が一通り終わったので、今日はボーっと過ごす事に。
湯泊温泉で汗を流した後、ビールを持って浜辺でギター。永田氏も来る。実は長渕だけでなく、中島みゆき、尾崎豊、オフコースなど、いろいろいける事が判明。夜には、久保池氏から焼酎屋久島が振る舞われ、ギター焚き火飲み。ものすごい数の星が出る。

1999年12月10日
宮之浦で再び永田氏と会う。彼に離島行きのノウハウを聞いてから、屋久島Uに乗船。再び鹿児島へ。

1999年12月11日
それでは一路沖縄へ。と、普通はなるところだが、我旅はそうならない。大畑駅に、妖しげな男達が集結する事になっているのである。気温が低いので、温泉で解凍しながら大畑駅へ。ぽつぽつと人が集まってくる。この駅の旅ノートを管理しているCさん。早速お酒が入っている原子力技師Aべのさん。MR2に乗る謎の美少女CG画家Uえださん。佐田雅志に似ていると言われるAりほさん。物静かで、でも圧倒的な鉄道知識を誇るMモさん。携帯売りの元女子校教師。そして、真幸駅のベンチを作ったと言われる松窪K二氏。圧倒的に個性が強くフェチで濃いメンバーが集まったところで、駅務室において最終も来ないうちに鍋が煮えてくる。食べて飲んでマニヤックな話題で夜は更けてゆく。

1999年12月12日
朝は氷点下になったらしい。カブは氷の世界。急行えびので、M希さんという可愛らしい女性が到着し、真幸駅で焼き肉という事になる。最終列車でMモさんの見送りみんなで行うと、運ちゃんは「この駅のこんな盛大な見送りは20年振りだ」と呟いた。
スイッチバックで昇ってゆく列車に手を振ると、運ちゃんから汽笛のサービス。

1999年12月14日
それでは一路沖縄へ。と、普通はなるところだが、我旅はまだそうならない。鹿児島より裏航路のクイーンコーラル8に乗船。9月に就航したばかりの新造船だ。船室でビールを飲んでいると、「番号お間違えでないですか?」と言われる。指定制だった事を知らなかったのだ。しかしその人と話しているうちに、ロビーでビールでも飲みましょうという事になる。広島の商船学校に通い、今は奄美大島の病院で調理師をしている松崎さん。

1999年12月15日
4:30奄美大島名瀬入港。明るくなってから町を徘徊。雨。小浜キャンプ場へ。エメラルドの海。きれいな芝地。しかし、ヤスデが大発生している。しかも内地のものよりかなり大型のものだ。設営だけしてから再び街へ。松崎さんと飲みの約束があるのだ。屋仁川のお店に入る。タナゴエビという、自分の体よりも鋏の方が大きいようなえびが出る。お互い学生寮出身なので、寮話で盛り上がる。新入生歓迎の時期になると、全館にマスペ(トレペの事ですね)節約が呼びかけられる。こうして、マスペを大量に確保。新入生は舞台の上で大声で、自己紹介、直属の先輩の名前などを叫ぶ。少しでも詰まると、水に濡らしたマスペが飛んでくるのだ。鳥刺しを初めて食べる。クセがなく、歯ごたえがある。盗食(編集部注:他人の給食を盗む事)の話は経験があり、どこも同じだなと思う。脂たっぷりの焼き豚に柚胡椒が合う。
飲み代は決して受け取らない。「心は使えないけど、お金は使えるんですよ。」別れ際に聞いた言葉が心に響く。いい島に来たと思う。

1999年12月16日
あやまる岬へ。珊瑚礁が美しい。写真家がいるので、話し掛ける。この島にはまって、通っているらしい。でも、この島の人はカメラマンを見ると怪しいものを見る目で逃げてしまうので、人を撮るのは諦めたと言っていた。しかし、私はそういう印象がない。カメラマンベストを着て、東ドイツの中型カメラなんかを向けられたら誰だって引くだろう。カメラマンの風貌は写真を左右する事がある。
赤尾木で煙突の列を見る。しかし煙突の下に工場も何もないので、製糖ではなさそうだ。バスを待っているおばあちゃんに聞くと、あれは日本軍の通信所で、煙突に見えた柱の間に電線が張ってあったという。そこへセニアカーに乗っておじいちゃんが登場。おじいちゃんとおばあちゃんの会話はほとんど理解できない。かすかに3と4の数だけ聞き取った。それをおばあちゃんが正確な標準語に訳してくれる。「4本のうち1本が倒れ3本が残っている」という内容だったらしい。その他にもいろいろ話した。おばあちゃんは東京の息子と大洗の海に行った事があるらしい。あれは海ではないという。でも、東京では2、3時間掛けてあの海に行くのだ。ここでは2、3分でエメラルドの海。
今日もヤスデをサクサク踏みながらテントへ戻る。黒糖焼酎をいただく。九州から沖縄まで島に寄りながら行くと、酒の移り変わりが楽しめる。鹿児島の芋焼酎。奄美の黒糖焼酎。沖縄の泡盛。与那国の花酒。中でも私が一番気に入って、その後の標準焼酎となってしまったのは、黒糖焼酎である。クセの無い味とほんのり甘い後味がたまらない。
夜中にトイレに行きたくなり、靴に足を突っ込むと何かが動く感触が。ライトを当てるとヤスデであった。

1999年12月18日
撤収すると、テントの下から大量のヤスデが発見される。この上で寝ていたかと思う。 地元合奏団のクリスマスコンサートへ行く。南の島でホワイトクリスマスを聞く。昔雪が降った事もあるらしい。トカラ行きの船が早いので、港の公園で設営。テントの中でパッキングをしていると「良太郎!」という声が。松崎さんだった。酒やつまみを持ってきてくれたので、乾杯。

1999年12月19日
5時撤収。軒下におばあちゃん達が集まっている。トカラへ行くのだろう。乗船は荷役の後だという。日本一周中だというと、90歳のおばあちゃんが握手を求めてくる。何か有名人だと思ったらしい。しかし、話していてどうも食い違う。通りがかった船員さんに聞くと、これは徳之島行きの貨物船で、トカラはその奥だという。危なかった。その船員さんは、「トカラはいいとこだ。ハブに噛まれんようにな。」
1000tの船だからまあまあだ。乗客は一人。硬い古風な切符には「宝島行き」と書いてある。乗船してすぐ眠り、起きると激しく揺れている。接岸しているのだが、波が高く船が前後に動いてしまう。遊園地のバイキングのようである。止まった瞬間一瞬だけタラップが掛けられ、ダッシュで下船する。クレーンでコンテナが投下される。四隅に四人が駆け寄りクレーンを外し、ぱっと散る。珊瑚の港は荒れていても濁らない。コバルトの港でエキサイティングな荷揚げが続く。キャンプ場へと歩き出すと、耕運機が停まり、行き先も聞かずに乗れという。キャンプ場に行きたいのだというと、逆向きに歩いていると教えてくれた。後で分かった事だが、時化で入港する港が変更になっていたのだ。リバースしていると、今度は軽トラが停まり、やはり行き先も聞かずに乗れという。荷台には子供たちが3人乗っていた。こいつらと一緒にオープンカーで走ってゆく。
きれいなキャンプ場だが、突風が吹いている。炊事場を盾に設営。カレーを作るが、風でロスが大きく、ガスが減ってしまった。新品を手に入れておくべきだった。

1999年12月20日
宝島。人口2〜300人の小さな島。郵便局と売店が1軒あり、自販機が3台ある。お金が使えるのがこれだけである。売店は朝1時間、夜2時間開く。とりあえず売店の前で缶コーヒーを飲んでいると昨日の軽トラのお母さんと子供たちが来る。このお母さんが売店をやっている。特別売店を開けてくれたので、甘食パンを買う。ガスボンベは売り切れで船が来るまで来ないという。
牧場を越えて、銅山跡を探したが痕跡を全く確認できなかった。売店のお母さんが「2000年問題でペットボトルを大目に取っといた方がいいかしら」とか言っている。ダムの制御がうまく行かなくなると水道が止まるかもしれないのだ。こんな所まで2000年問題はやってくる。
カロリーメイトと甘食で昼食。
郵便局ではがきを買う。局長さんが「もしかしてキャンプ場に泊っているのでは?」「そうです。」「この風じゃ大変だろう。シャワー室に泊りなさい。」撤収してシャワー室に移動してると軽トラが来て、ビーチハウスの中で泊っていいとカギまで渡してくれる。外は離陸しそうな風。本当に助かった。

1999年12月21日
フローリングとはいえ、やはり背中が痛い。そのせいか夢を見る。カブで走っていたのがいつのまにかチャリダーになっている。しかも上り坂。坂の上には白いシーツの寝心地良さそうなベット。登り切ると100円玉が大量に落ちていて、夢中で拾っていると今度は500円玉が。「一瞬、ワナかな」と思いつつも、「ワナでもいいじゃないか。俺は今500円玉を拾うんだ。」と開き直り拾っていると、そのすきにチャリが盗まれ徒歩ダーになってしまう。それから、カレーをタラフク食べる夢。食べても食べても満腹にならない。なんと、情けない夢だろうと思う。
甘食とキャラメルコーンで空腹を癒す。
郵便局ではなぜか宝くじが売っている。やはりここは夢の島なのか。
砂浜を歩くとバラバラになった船が打ち上げられている。えらいところに来たものだと思う。
金山跡も分からず。ゆっくり歩いたがすぐに一周してしまう。一周するともうすべき事はない。
嵐の中虹が架かる。今日は週に3回の温泉が沸く日だ。こういうささやかなイベントが結構楽しみ。この島で私の唯一の仕事は待つ事である。塩と鉄を含む真っ赤な湯。休憩室でテレビを見ているとえらくきれいな人が温泉に入ってゆく。この島、若い女性は極少だが、美人率は高い。
ビールを飲みながら坂を下ってゆく。雲の切れ間から満月が出ると冷黒調の風景が広がる。

1999年12月22日
今日も嵐。朝早く有線放送が入り、船が隣の島を出た事を告げる。この嵐の中定刻で航行しているのが頼もしい。
暇なので宝島の唄を作る。
コミュニティセンターで本を読んでいたら、例の子供たちが集まってきて読めなくなる。更に別の子3人も加わる。おんぶに抱っこ、肩車。2、3人抱えて駆けずり回る。奴等は体力の塊みたいなものだ。奴等は何でも遊びの対象になる。私も例外ではなかった。いつしかおじちゃんと呼ばれるようになった。不本意だが仕方がない。とても写真を撮れるような状況ではなかった。こういう状況で写真を撮った荒木はやはりすごいのかもしれない。売店のお母さんがコーヒーを入れてくれる。「何それー」「大人の飲み物よ」「ぼくはね、いつもかふぇおーれ」昔友人のお父さんに喫茶店に連れていってもらい、見栄を張って「かふぇおーれ」を頼んだ事を思い出した。
5時、売店開店。船は無事接岸し、売店には物があふれ、活気がある。ガスボンベも無事入手。これでご飯が炊ける。
帰ってくるとシャワー室に灯かりが点いている。中を覗くとチャリダーがいる。後に鉄人と呼ばれる事になるパワフルチャリダーの原さんだ。彼と芋焼酎で乾杯。彼は、かなりカメラに詳しい事が分かり、カメラ談義に。

1999年12月23日
午後に局長さんが網を見に行くという事で、良く分からないままついていく。公務は大丈夫なのだろうか。風化珊瑚の海岸で、凸凹している。その窪んだ部分に引潮時網を張る。やがて潮が満ちてまた引くと伊勢海老がそこここに掛かっているという塩梅だ。この島の人は、いとも簡単に伊勢海老を採ってしまう。
気象の変化が激しく、虹が頻繁に現れる。
夜、局長さん宅に呼ばれて行くと、伊勢海老と鍋をご馳走になる。採れたての伊勢海老、最高である。

1999年12月24日
昼食後みかんを食べているとパフィーのような女の子が来る。兵庫の旅人藤川さん。まさか旅人がいるとは思わなかった。一緒に難破船を見に行く。この島の近くの海域は珊瑚礁で浅くなっている。日本の船はそれを避けていくのだが、外国船は知らずに通ってよく座礁するらしい。そして船を放棄して逃げてしまう。やがて船は粉々になり荒波によって島に上がってくる。
売店のおばさんからゾウリエビを頂いてしまう。味は伊勢海老のようで、そのままでもうまいし、醤油を少し滴らしてもうまい。
公園で三兄弟がお絵描きをしている。ゆうたが雪の絵を描いた。「雪見たことある?」「あるよ。僕らが雪を見たいといったら、神様が降らせてくれたんだ。」

1999年12月25日
港へ行くと局長さんがいけすから伊勢海老を出していた。巨大なやつである。
出港まで時間があるので、コミュニティセンターで本を読んでいると汽笛が聞こえてくる。慌てて港へ行く。島の人のほとんどが港に来ている。とにかく乗船。すると1時間も早く出港。危ないところだった。これを逃すとまた1週間である。
名瀬に着いてからバスセンターへ。バスターミナルではない。銭湯である。


その先の日本へ