_/_/_/日本徘徊(石川→青森)_/_/_/

1999年5月22日
なぎさドライブウェー。能登半島の羽咋というところにある、砂浜のフリーウェイ。私はその道を、風とともに走っていた。相棒は、蒼い海に一際目立つ、真っ赤なポルシェ・・・。が、似合うはずだが、様々な事情により、苔のような色をした50ccのスーパーカブだ。

「じゃ、ちょっと行ってくる。」 近所の本屋へ行くのとあまり変わらない感じで、家を出た。それが旅の始まりだった。夏を予感させる白い陽射しの中、北へ向かった。

この砂の道は初めてではない。昔は飛沫を上げて川を渡ったりしたものだが、今は整備され、快適な道になっている。でもその分、物足りなくも思う。

美川という近所の町で「おかえり祭」をやっていた。出発して30分。早くも「おかえり」とは・・・。しばしの停滞の後、再び出発。まあ、急ぐ旅でもなし。

傾きはじめた陽射しの中で、海は輝きを増してゆく。バイクを停めてみる。風が爽やかになってきた。

不法入国の難民船が停泊する金石港を抜け、粟ヶ崎で浅野川電車の踏み切りを渡った。道なりにひたすら北に向かう。高松の町を散歩する。あまり人がいない。今浜より砂の道へ。

砂の道の終点付近で設営。辛いやきそばを作り、ビールの栓を抜いて、ささやかに旅立ちを祝う。美しい夕陽。ラジオからは旅の行方を暗示するかのように、渡辺真知子の「迷い道」が流れる。

1999年5月23日
福浦というところに、木造の白い小さな灯台がある。そこの芝地で、鞄を枕に昼寝。
ヤセの断崖。先端に立つと背後から涼しい風が流れる。足元には風化した花束が。誘われているらしい。
門前の町で散歩。若いお坊さんが2人、スーパーの袋を提げて歩いてくる。手を振ってカメラを向けると、「あ、これはまずいかなぁ」と笑いながら、ビニールを後ろに回す。
今日はのと鉄道の能登市ノ瀬駅で、STB(ステーションビバーク)。待合室につばめが巣を作っている。親がせっせとえさを運んでいる。雨が近いのだろうか。

1999年5月24日
釣り舟に近い船で、1時間半。舳倉島へ渡る。一周散歩するとすべき事は何も無い。する事も無い。しようと思ってもできない。貴重だなと思う。駐在所はあるが、閉鎖されている。犯罪もしようがないのだろう。
雨降り出す。今日も市ノ瀬駅でSTB。

1999年5月25日
目覚めると暴風雨。おまけに、シュラフにツバメの白撃砲を一発受けている。7:00頃、爺さんがまむしを持ってやってきた。
冷たい雨の中、能登をぐるりと回る。縄文真脇の竪穴式住居温泉に入り、千畳敷ポケットパークという、道路脇駐車スペースに設営。

1999年5月26日
「ちょっとここできないんですけど」掃除の婆さんに叩き起こされる。朝5時。しかも、痴呆の婆さんで、こっちが何を言っても的を得ない。仕方なく、少し走って、遠島山公園でもう一度設営し、少し仮眠。テントを出ると、掃除の爺さんが「よう眠れたかい」。こうも違うものか。
能登島農業大橋という、新しい橋で祖母ヶ浦へ。何もないのだが、つい来てしまう。
夜は、加越能バス藪田というバス停でB−STB(バスストップビバーク)しかし、これは失敗だった。ここは緩い坂の途中にあり、登る車はここで吹かし、下る車はエンジンブレーキをかける。それがコンクリの待合室に反響する。しかも予想よりトラックが多い。ベンチは奥行きが浅く、体が1/3くらいはみ出すし、窓から雨は吹き込むし、壁の粉でシュラフは真っ白になるし、ブツブツ・・・

1999年5月27日
今日も強い雨。富山新港を無料の渡船で渡る。富山の町を散歩。少し疲労したので、富山ユースホステルに泊る。5日目にして早くもユースに泊るなどという贅沢をして、この先やっていけるのだろうか。久しぶりに旅人と話をする。定年で退職し、旅に出た人。公務員という安住の地を捨てて旅に出てしまった人。住所不定無職が集まってしまった。勿論自分も旅に出ると言って会社を辞めてきた「クビ→タビ」の人間である。

1999年5月28日
神岡鉱山茂住坑へ。コンクリートの建物の壁だけ残っている。花で縁取られたトロッコ道を歩く。鉱車が線路から落下した形で放置されている。野原となった鉱山住宅街に、テンが住んでいる。
新穂高の河原で設営。

1999年5月29日
テントを出ると、綿がチロチロと飛んでいる。ナウシカのような世界だ。新穂高バスターミナルの無料温泉に入り、温泉たまごを食べる。湧き水でコーヒーを入れる。
古川の公園で設営。

1999年5月30日
高山を散歩。開田を抜け木曽へ。ふと、赤い屋根が見たくなって、大滝村へ。木曽福島の公民館で設営。

1999年5月31日
19号線を北に。鳥居トンネルに突入する直前にバキュームカーに抜かれる。かなり厳しい。権兵衛峠を越え、後輩の家へ押し入る。
うしお食堂にて伊那の誇る郷土料理ローメン超盛。続いて中央食堂へ。どっから見ても民家にしか見えない店。人の家でご馳走になっているようだ。ローメンを頼むと、ローメン、ご飯、サバ、味噌汁、漬物が出てくる。これで500円。趣味でやっているとしか思えない。
夜は、後輩宅に悪友A氏が来て、飲みギター。

1999年6月5日
信州大学の中庭に張ったテントを撤収。A氏の車で小串鉱山へ。少し写真を撮り、鉱山跡でビバーク。やきとり缶を肴に飲む。鳥の声しかしない、静かな夜。

1999年6月7日
山国長野県内で、唯一海の見える集落がある。小谷村戸土。急勾配の狭路をやっとで登って着いたが、梅雨時曇り空で見えず。仕方なく、少し下って河原でラーメンを食べていると、地元の子が「私アラレ」と自己紹介した。

1999年6月8日
雲が多いので、諦めつつも一応戸土へ再アタック。すると、雲に紛れつつも、緩い弧の連なっているのが確認できる。見えた。長野県の集落から海が見えたのである。
小谷温泉の密林の中の露天風呂に入る。

1999年6月10日
旧信越線の廃墟、丸山変電所を撮る。眼鏡橋で釜飯を食べる。またも、後輩宅へ押し入る。

1999年6月15日
下折立温泉というところに来る。共同浴場らしきものがあるが、看板がない。覗いてみるとおいちゃん達が、「本当は地元民しか駄目なんだが・・・1人か?はよ入っちまえ」お湯はぬるめでかなり濃い。上がるとさらさらして心地よい。

1999年6月16日
金山町の上横田というところで、天然炭酸水なるものを見つける。井戸があり、紐の付いたやかんで汲む。「水質検査をしていないので、飲めません」と書いてある。飲んでみる。微炭酸で、鉄の味とほのかな甘さがある。鉄の味がしなければ結構おいしいかもしれない。
湯倉温泉は、100円程。脱衣所の戸が開いていて、おばあちゃんのヌードが見える。浴室は混浴。鉄と塩の温泉で、赤い色をしている。余分なお湯はすべて川に流すという贅沢さ。皆手ぬぐいが茶色くなっていて、相当通っているらしい。

1999年6月17日
雨。西山の辺りを走っていると、川から硫黄の臭いが。川を溯ると、ポコポコ泡が出ている。川を掘って、浴槽を作るがうまく温度が上がらず、入るまでには至らなかった。

1999年6月18日
雨。八総鉱山跡へ。選鉱場、坑口、学校跡を撮る。大内宿へ。ここには20年程前来た事がある。川の横の溝にきれいな水が流れ、おばあさんが大根を洗っていたという記憶がある。今は観光バスが来て、沢山のお土産屋が並んでいる。月日が経ったのだと思う。
湯野上温泉の無料露天風呂で体を温める。
会津豊川駅でSTB。ここは、昼間でも列車がほとんど停まらない駅だ。ホームと、屋根と、ベンチがあるだけの駅。寝ている横を通過列車が駆け抜けてゆく。

1999年6月19日
雨。両生類になってしまう。日中線熱塩駅はきれいに保存されていた。
鹿瀬の近くで、草倉銅山跡というのを見つける。かなり険しい路。諦めかけた頃銅山跡に到着。坑口、石垣、赤い川、墓などが残る。

1999年6月20日
雨!五泉で蒲原鉄道に乗る。もう廃止になっているはずだが、地元と折り合いが付かず、まだ走らされている。ドアは手動。
新潟交通の廃線跡へ。特徴的だった駅舎の壁が外され、放置されている。
空港の芝地で設営。

1999年6月21日
やっと雨上がる。テントの中で、絞りの開かなくなったレンズを直す。
赤谷鉱山へ。「トロリー線に注意」という看板がある。鉱山鉄道は電化されていたらしい。坑口は3つあり、コンクリートで塞がれている。ここから出た水は滝となって沢へ流れ落ちる。
新発田から北へ行くと黒川村というのがある。黒川とは石油の事である。油田の跡がある。本場に敬意を表して給油。
温海の漁港で設営。

1999年6月22日
五十川で写真を撮っていると、「田川炭鉱2.0km」という看板を見つける。坑口はかなり大きく、20m位入ったところで埋められていた。鉱山事務所らしきところで写真を撮っていると車が入ってきて、挨拶すると「コーヒーでも飲んでいきませんか?」という事に。そこで、昔の鉱山の写真を沢山見せていただく。当時は3000人くらいいたという。白い服にガスマスクをつけた救護隊5人が写っている写真は、なかなか恐くてよかった。選炭場を見てからまたひたすら走る。
院内銀山の跡へ。いくつか坑口が残る。

1999年6月23日
秋田大学の鉱業博物館へ。鉱山の名前が書かれたボタンを押すと、地図上にランプが点るという、マニアックで嬉しい装置がある。今は跡形もない鉱山の石達がこの博物館に眠っている。
下浜駅でSTB。

1999年6月24日
激しい雨。鞄が開いているのに気付かず持ち出そうとして、撮影機材をホームや線路内にぶちまけてしまった。そこへ電車が入線・・・。
土崎の近くで、草生津川というのがあった。草生津→くそうず→臭水→油田である。すぐにポンプが見えた。

1999年6月25日
八郎潟を走る。申川油田へ。ここは水攻法なのであまり風情がない。
入道崎で女性の一周ライダー増田さんに会う。久しぶりに人と喋った気がした。この人も失業ライダー。ユースで寒風山がいいと教えられたという。行ってみると、菱形の八郎潟と円弧の日本海が見える絶景。増田さんも北へ向かっているらしい。「では、北海道で会いましょう。」と別れる。でも、彼女のバイクは400cc。一方おいらのは50cc。しかも、秋田は鉱山が多い。会う事はないだろう。

1999年6月26日
快晴。宮田又鉱山を目指す。延々ダートを走ると、スキー場に出てしまった。道を間違えたらしい。スキー場は鉱山を潰すし、紛らわしい道を作るしで敵である。戻って軌道修正。荒れ気味の長いダート。行き止まりまで行ったが、やはり痕跡は見つからず。諦めて戻ると、道端でおじいさんとおばあさんが車座になっていた。そのおじいさんはカラミ(鉱石から銅などを採った滓)から金を採る技術を持っていたという。帰り際に、おにぎりや煮っころがし、魚などをくれた。
次に日三市鉱山へ。どぶに青い水が流れ、不毛の土地があるので、鉱山と分かるが、痕跡はほとんどなし。

1999年6月27日
阿仁合の院内鉱山へ。それから、大巻銅山、立叉銅山、小真木鉱山と鉱山メドレー。
夜は大湯のユースホステル。客は全館で一人。10畳の部屋、その端っこに布団を敷く。

1999年6月28日
尾去沢鉱山へ。かなり規模の大きい鉱山である。マインランドにも入ってみる。それから花輪鉱山へ。坑口や沈殿池、選鉱場などが残る。

1999年6月29日
小坂鉱山の鉱山住宅と内之岱鉱山を撮る。相内鉱山、古遠部鉱山と鉱山三昧。
弘前、五所川原を散歩。車力村の神社に設営。

1999年6月30日
明るくなってみると、墓の隣に寝ていた。雨風がひどい。近くの出光で給油。そこでコンタクトを入れさせてもらう。すると突風が吹き、コンタクトが跳ぶ。見失ったが、どうやら雑巾洗濯用の黒油水洗濯機の中に落ちたようだ。店の人が水を抜きながら、「無いねぇ」。絶望感が広がった時、「あった」。やれやれ。再びコンタクトを入れている時、店の人がポケットに沢山飴玉を入れてくれた。車力村、いいところである。
それにしても雨風がすごい。3速で登れる坂が風に押されてローに。竜飛崎で、歩いていて飛ばされそうになった。岬に海軍の望楼がある。ふらふらしながらバイクで走る。スピードを出すと危険だが、出さないと転がる。階段国道も覗くだけ。
青森の市場近くで泰平食堂に入る。自由に一品選んでそれにご飯と味噌汁を付ける、正しい定食屋方式だ。ホッケの定食400円。申し訳ないくらい安くてうまい。
そのまま、フェリーターミナルに行き、函館行きに乗船。


その先の日本へ