長城には行かない 

 

 2008年5月3日

 万里の長城へ行くと言えば、真っ当な観光客なら八達嶺へ行く事になっている。確かに素晴らしいが、ちょっと綺麗に直し過ぎなのである。レプリカ感が強く、パチンコ屋の屋上にある自由の女神を見てしまったような違和感を覚えるのである。ピサの斜塔が中国にあったら、真っ直ぐに直されていたかもしれないなと思う。それに人がとにかく多いので人が入らない写真を撮る事は不可能だ。それに対して司馬台は、アクセスが悪い事もあって人が少なく、修復もあまりされていなくて昔のままの姿が残されているという。せっかくなら本物を見てみたい。司馬台はガイドブックにはあまり詳しく書いてなく、情報が少ない。頼みのインターネットは、情報がまちまちでどれが確実なのか分からない。信憑性が高そうな情報として、旅游バスが東四十条と宣武門から7時前後に出ているという。市内を抜けなくていいので東四十条の方が速そうだ。中国の旅は一筋縄ではいかないことは十分承知している。異例の早起きをして、バスではなくタクシーを選んだのも、万全を期しての事である。そして、その判断は甘かった・・・。

 ホテルから大通りに出て手を上げれば一瞬でタクシーが捕まる。東四十条まで行きたいと言うと、「東四十条のどのあたりだ」と聞かれているようだ。うまく答えられずにいると、運ちゃんは携帯でどこかに連絡して、代われと言う。電話に出ると片言の日本語を喋る人が出る。しかしこちらも東四十条が詳しくないので、いまいち要領を得ない。結局運ちゃんに地図を見せ、「この地下鉄の駅の辺りだ」と言うと了解したようだ。タクシーはすごいスピードで街を駆け抜ける。やがて、地下鉄駅に横付けされる。30元。交通カードはこのタクシーでは使えなかった。時間は7時前。7時のバスに間に合いそうだ。周辺を歩いて旅游バスを探す。が、これが見つからない。もう一度通りの名前を地図で確認すると、東直門にいることが分かった。タクシーの運ちゃん、一駅分オーバーランしているじゃないか。まぁそうすんなりと行くわけはないと思っているから、ここは落ち着いて地下鉄で一駅戻る。時間は7時15分。まだ間に合うだろう。駅から出るとバスターミナルが見えた。しかしいるのは路線バス。おっちゃんに尋ねると、「今はここじゃないんだ。前門にかわったんだよ。地下鉄で前門に行きなさい。」まぁ二つくらいの障害は想定の範囲内だ。再び地下鉄の階段を降りてゆく。

 前門の出口を出ると「天安門発車中心」というところがあり、旅游バスが沢山停まっている。これだよこれ。切符売り場に行くと、様々な観光地と一緒に「司馬台」の文字もある。ネットには前門から出発するという情報もあった。それが正解だったらしい。やれやれ。時間は7時45分。8時のバスがあるだろう。「司馬台まで2枚!」と言うと、「司馬台は宣武門よ!」「なんですとぉ?」三つ目の障害。さすがにそろそろ「行けないかもしれない」と思いはじめてきた。地下鉄への階段を降りかけた足が止まる。もうやめようか。日帰りツアーの客引きが「八達嶺!八達嶺!万里の長城に行くだろう?」と盛んに声を掛けてくる。「万里の長城へは行かない!」「お前はアホか!北京に来て万里の長城に行かないなんて!」アンタの言ってる事は正論だよ。そんなにまで言うのなら、もう一つだけ行ってやる。再び地下道をくぐり、更に地下鉄の入口を降りてゆく。宣武門へ行ってもすぐにバス停が見つかるとは限らないが、すぐ見つかれば少し遅れた8時のバスに間に合うかもしれない。かなり虫のいい発想で無理やり自分を納得させて地下鉄に乗り込む。A出口とB出口は賭けだ。Aに掛けよう。ところが北京の地下鉄の案内板の書き方は紛らわしくて、B出口に向かってしまった。いまさら戻る気力もなくそのまま出口を出ると、そこが旅游集散中心だった。旅游バスが何台も停まっている。奥に停まったバスのウィンドウに「司馬台」の文字が見えた時、急に力が抜け「何でそんなにまでして行くのだろう」とひどい徒労感がこみ上げ、足が止まった。もう疲れたよ。萎えるハートに鞭を打って切符売り場へ。入場料込みで90元という情報だったが、160元になっていた。中国の観光地はどんどん値段が上がっていくな。惰性で切符を買いバスに乗り込むと、車内の半数は欧米人。もう半分は中国人で日本人は見当たらない。8時10分に出ると言っていたバスは8時半にようやく動き出した。司馬台まで2時間半掛かるという情報だ。市内を抜けるので3時間といったところだろう。少しでも眠っていかなければと思い、後の西洋人にリクライニングしてもいいか聞くが、なんと断られる。まぁアンタの脚が長いのは分かるけどね、ケッ。

 10時頃、道端の公共厠所でハーフタイム。なんと雨が降り出した。井上さんも言っているように傘がない。日本から折り畳み傘を持ってきてはいるが、まさか北京で雨が降るなんて事は思ってもみなかった。おまけに北京の空はいつも霞んでいて雨の予想がつかない。だから傘はバックパックと一緒に宿に置いてある。完全に戦意を喪失している人間を、バスは容赦なく北へ運んでゆく。なるようになるしかない。途中から高速に入り順調に飛ばしていたが、降りてしばらくしてから全く動かなくなった。だいぶ経ってから対向車がまとまって走ってきたので、片側交互通行になっているらしい。そしてようやく動き出すと、沢山のトマトを積んだトラックが横転していた。このトラックの運転手の人生を考えるとなんかやるせない気持ちになってきた。雨は窓を曇らせ、手で拭いても5秒で見えなくなる。3時間はとっくに過ぎたが、司馬台のスの字も出てこない。だいたい、走っているのは平野である。長城なんてあるわけない。

 バスがようやく山にさしかかった頃、司馬台の文字が見えた。タペストリーが下がり、舗装は真新しい。案外観光化されているんだなぁと思う。すぐ着くかと思ったがそれからも随分走り、13時頃、約4時間半掛かって司馬台に到着。集合時間は16時15分。食事をしてから出掛けたら2時間半しかない。雨は相変わらず鬱々と降り続ける。とにかく露店で傘を買う。一つ15元だ。二つで25元にまけさせる。近くの食堂に入る。値段を見て驚く。街で5元ほどの大肉面が36元もする。日本だって観光地は高いが500円の月見そばが3,600円になることはないだろう。納得いかず、隣の店へ。しかしメニューを見ると、ここもどれも30元以上だ。仕方ない。せめて暖かいものが食べたいと思い、「熱い面はあるか?」と聞くと、店のあんちゃんは少しフリーズした後、別のメニューが出てきた。このメニューは少しリーズナブルだ。中国公民用のメニューらしい。大肉面15元を二つ頼む。しばらくして大肉面が運ばれてきて、その後トマタマ面が運ばれてきた。同じものを頼んだのにおかしいなと思ったが、おいしそうだったのでそのまま食べる。しかしその後もう一つ大肉面が運ばれてきた。どうやらウェイターのあんちゃんが間違えたらしい。でもこちらはもう食べてしまっている。味はやけに酸味が強く塩が弱い感じで、ちょっとハズレ感があった。

 14時前にようやく出発。少し歩くが、ぜんぜん長城が見えない。雨は降り続け、風も強くなってきた。時間内にたどり着けるのだろうか。そしてなんと頼みのゴンドラリフトが動いていない。もういくつ目の障害かは覚えていない。絶望的な気分のまま遊歩道を歩いてゆく。他にする事がないからだ。遊歩道は途中からレプリカ長城になっている。これを見て帰る事になるのか。しかし、だんだんと山の陰から長城が姿を現した。風でぶれるのでデジカメの感度を400に上げて撮る。風景写真を高感度で撮るなんて最悪である。レンズについた水滴をティッシュで拭うなんていうのもキチンとした写真家ならしないであろう。遠景は雨で霞む。長城らしいと無理やり納得する。しばらく登っていくと、両側の壁が無くなった。ここまで来ると人影もまばらだ。なるほどこれは八達嶺には無いな。雨も収まってきた。せっかくだから、望遠レンズを出そう。この為だけに無駄に重いレンズを持ってきていたのだ。こんなものより傘を持って来るべきだったが。遠くの長城は霞んで形もおぼろげだ。いいじゃないか、らしくて。この道の先へレンズを向けると、長城が垂直に立った。天に昇る梯と言われたのも頷ける。しかし、あまり感慨にふけっている暇も無く、そろそろ折り返さなければならなくなってきた。金山嶺からの道と合流するあたりでなぜか名前を呼ばれた。しかも日本語である。あまりに唐突で不可解な事態に、雨でふやけた頭は思考停止。見ると大学の後輩ワカヤマさんが立っている。なんでこんなところにいるのだ。まぁそれは向こうが言いたい台詞だろう。「えぇ、どうしてここにいるんですか!」ってこっちが言いたい台詞だって。ツアーのガイドをしていて、金山嶺から司馬台へ抜けてきたらしい。この広い中国で、しかもここへ来られなかった可能性の方が高かったのに、出会う確率の低さを考えると気が遠くなる。この人は、1年間アフリカを旅して写真展を開いてしまうような、パワフルな人だ。この人の撮る写真は、みんな笑顔である。この人がいると、周りがみんな楽しくなってしまうからだ。山を降りるとゴンドラは動いていた・・・。まぁでも様々な障害や偶然が積み重なって、この楽しい人と会えたのだろう。そう思うとやりきれない思いも少しは収まる。

 露店のおばちゃんに飴はあるかと聞いたら、隣の店からガムを持ってきた。できれば飴がいいのだがと思っていると、隣の店のおばちゃんが自信満々に「有!有!」と言う。そして、何やらがさごそ探して、ビニール袋を開けて見せた。そこにはいろいろな飴が混じって入っている。どう考えてもおばちゃんの私物である。これを分けてくれるというのか?では、有難く5個ほど選ぶと、おばちゃんは指を一本立てる。ははん。くれるのではなく、売ってくれると言う訳だ。「1個1毛?」「違う1元」そりゃそうだ。チャイナの商人を甘く見ちゃいけない。何も買わない外人に何の義理があって施しをする必要があろう。その燃える商魂に敬意を表しその高級なヴェルタースオリジナル"風"の飴を買った。

 席順は行きと一緒なので、椅子も倒せずぼんやりと外を眺めているとまたも渋滞だ。もう何も驚きはしない。しばらくして動き出すと。観光バスの前が潰れ、お尻が半分崖から空中に出ているのが見えた。その横には首の曲がったトレーラー。バスがもう少し早く出発していたらああなっていたのか。北京首都空港からやっと高速に入った。高層ビルに映る夕焼けをふやけた脳味噌で眺める。中国でこんな綺麗な夕焼けは見たことなかったな。そして、市内に入ったところでバスは停まり数人が降りた。朝タクシーで連れてこられた東直門だった。前門にも停まったので、そこで降りた。帰りは3時間15分ほどだった。

 
来た甲斐はあったと思う
昔天に梯子を掛けた人がいた
ロバーガー

 

 そのまま59路に乗ってホテルへ。少し休んでから、近所を歩いて直感で店に入る。下町の食堂といった風情のこの店は写真入のメニューがあってわかり易い。醤茄子炒めと炸醤面、揚州炒飯を頼む。店のおっちゃんはなかなか愛想がいい。お前去年も来たか?なんて事を言っているようだ。ふと壁のメニューを見ると驢肉火焼なるものがある。おっちゃんにこれはあるかと聞くと、もちろんと頷く。出てきたのはロババーガーだった。この店は当たりだった。どの料理もおいしく、そして燕京ビールによく合う。ホテルに戻る前に夜のおビールを買って帰ろうと思ったが、昨日の店はもう閉まっていた。すぐ近くの店で、あまり冷えてなさそうだが売っていたので「いくら?」と聞くと、欠伸をしながら「ふぁんふぁいぅー」って、頼むよこっちは外人なんだからもっと明瞭正確な発音を心がけてくれよ。まぁこれで2.5元ってのが通じるのは四声がある中国語ならではだなぁ。



その先の中国へ