2004中国(三輪車、雑技)
ツアーの旅をしたことがない。一般の人が旅行といえばこのツアーのことである。かつてノーキョーと呼ばれた日本の由緒正しい旅のスタイルである。ほとんどの正しい日本人がノーキョーによって世界を知り、ほとんどの外国人がノーキョーによって日本人を知ったはずである。しかし、非国民の私は一生ツアーの旅はできないだろうと思っていた。だいたい、ツアーでは市場を歩けないし、屋台で焼きそばを食べることはできない。ツアーでは本当の中国は見えてこないと思う。では、一人旅なら本当の中国が見えるのか?やはり偏った中国しか見えないだろう。両方から見てみれば、少しは視野が広がるような気がする。そして、その機会がやってきた。社員旅行が北京になったのである。
これは、貧乏旅行者が初めての体験に戸惑いながらも、結構楽しんでしまった物語である(プロ○クトX風に)。
2004年9月18日
その日の仕事は、さっさと切り上げるつもりだった。しかし、そんな日に限って持ち前の運の無さから障害が立ちはだかり、あせりが失策を誘う。なんとか仕事を終えて、ザックに荷物を放り込むともう出発時刻である。貸切の深夜特急バスは0時に名古屋へ向け出発する。富山からもフライトはあるが、午後の遅い時間でしかも大連に着く。飛行機を乗り継いだらそれで一日が終わってしまう。2泊3日のツアーでそれは厳しい。名古屋発なら、半日観光ができる。その代わり朝までに名古屋へ行かなければならない。
バックパックなんか担いでいる人間は私一人だけだった。ツアーにはスーツケースがふさわしいし、圧倒的に便利だ。平らな空港の床は、スーツケースを楽に転がしていけるようにできている。硬いスーツケースに囲まれたら、やわらかいバックパックはひとたまりもないので、機内に持ち込むことになる。しかし、一眼レフやパソコンなどアヤシイモノ満載のバックパックは、当然手荷物検査に引っかかり、一人だけお店を開いたような状態になって、早くも団体行動を乱している。
機内アナウンスは日本語。フライトアテンダントも日本人。機内食も日本食で、ビールもキリンサッポロアサヒから選べる。JALであるから当然なのだが、この飛行機は本当に中国へ行くのかと不安になる。
北京首都机場へ無事着陸。大連でもでかいと思ったが、更にひたすらでかい。空港では日本語を流暢に話すガイドがLOOKJTBの旗を振って待っている。そして、空調の効いたマイクロバスへと案内される。流石にJTBが用意したバスだけあって、非常に丁寧な運転である(中国としては・・・)。普通のバスのようにクラクションを鳴らしながら、他の車を蹴散らすようなことはしない。とは言うものの、北京仕込のドライバーの腕は確かなようで、サンタナと三輪車と公安がひしめく交差点で、クイックターンをキメたりするから侮れない。
まずは、三輪車(サンルンチャー)に乗って胡同(フートン)ツアーである。ツアーでなかったら乗る機会もなかったと思うが、正直言ってしまうとこれが結構楽しい。日焼けしたおいちゃんが、力強くこぎ出すと、街並みが映画のように流れはじめる。果物を売る人、日がな一日佇む人、木陰の理髪店。白昼夢のような危うい風景が現れては、通り過ぎていく。撮影の為に運ちゃんに停まってもらったので、うちの車は集団から遅れをとってしまった。しかし、運ちゃんは猛然とラッシュをかけ、先頭に踊り出る。こらこら社長の車を抜いてはいかん・・・。
宋美齢旧居へ。日本語で説明を聞きながら見学するという、ごく普通の観光スタイルがやけに新鮮である。修学旅行以来かもしれない。この場所だけの臨時のガイドさんと、日本語中国語混じり文で話をする。「秘書」は同じ漢字で「ミーシュー」だと教わる。なぜこの漢字を充てるのかイマイチ分からない言葉だが、それが日本語と中国語で同じ漢字を使うというのも面白い。そして思いがけず習ってしまったこのマニアックな単語を使える時が来るだろうか。
予想よりかなりたっぷりと走って、漸く出発地点の鼓楼へ戻ってくる。ガイドさんから5元程のチップを渡したらいいと、説明を受けているので、「小意思!」と一応中国語で渡すと、通じたようで少し和んだ。中国はあまりチップの習慣はあまりないが、この肉体労働ならこの程度は当然だと思う。それに、今日はブルジョワな旅である。
食事は割と無難なものが出る。街で食べるともっとクセがあるものが出るんだけどなぁ。まぁ、恐らくツアー客達が、あれが食べられないこれが食べられないとクレームをつけた結果なのだろう。だいたい、香菜が一つも入っていないのがおかしい。ツアー企画担当者の苦労が伺えるメニューである。
中国5回目にして初めて雑技団を見る。これは流石にすごい。体と体が複雑に絡み合って、何がどうなっているのか分からない。「それはどう考えても無理でしょう」という光景が眼の前で、次から次へと繰り広げられる。CGに慣らされて干乾びた眼に潤いを与える。「写真を撮る事勿かれ」と大きく書いてあるが、そこは中国語の読めない外人のフリで、夢中でカメラに収めていく。この迫力はとても切り取りきれないのは分かっているけれど。
飯店に帰り着いたのは10時頃。ツアーは本当に良く働く。部屋を物色すると、LANケーブルが出ている。デジカメのデータをパソコンに流し込み、ケーブルに繋いでみる。写真をアルバムにして、早速ホームページにアップしてみようという魂胆なのである。しかしこれが見事に繋がらない。ビジネスセンターに行き、「どうしても繋がらんがですけど」と言うと、「すみません、今日はホテルのシステムがダウンしていて、繋がらないのです」と言われる。そして、無料でビジネスセンターのパソコンを使わせてくれた。「没有!」と追い払われる覚悟だったが、流石星四つのホテルである。
デジタル一眼レフ
今回の旅では、初めてデジタル一眼レフを携えている。購入当初はこれで漸く作品が撮れるようになると、鳴り物入りでデビューを飾ったものの、記念写真専用機として不遇な一年を過ごしてきた。もちろんツアーなので大半は記念写真であるが、最終日の午前中だけ自由の身となる。
わがEOS-10Dは既に一世代前の機種となっていて600万画素。コンパクトでも500万画素は当たり前で、700、800のも出ている。ただ、やはり一眼の撮影は別物の心地よさがある。スナップは刹那が命なので、撮りたいと思った瞬間にシャッターを切りたい。銀塩時代のコンパクトはその点においては一眼と差がなかったが、デジタルではちょっと差がある。コンパクトデジタルでは、「間に合わない」と思って、撮影そのものを諦める事が多くあった。一眼は結構間に合ってしまう。ただ、撮影機材が間に合って、意識の方が間に合っていないことが結構あって、結局失敗というような写真も多く撮れるようになったのはご愛嬌である。