2000中国(北京→庄河)

 

2000年12月10日

 北京駅の候車房のキオスクに沢山の新聞や雑誌が並んでいる。その中の一つが日本の防衛費が増加した事を一面で伝えている。これは日本ではあまり大きく取り上げられない記事である。記憶の半減期は加害者側と被害者側でかなり明確な差がある。

 今日は北京を出発し、大連行きの普通旅客快車に乗る。硬座は以前に乗っていて、これなら一晩程度問題ないなと思っていた。日本での、夜行連泊は慣れている。しかし、今回の硬座は前回と大分違う。直角の非常にシンプルなベンチで肘掛もない。同じように見える日本のボックス席というのは結構工夫が為されているのだなと思う。この座席で一晩過ごすにはちょっと体調が思わしくない。我がボックスはおいちゃんたちで埋まり、少々窮屈だ。肘掛がないので、通路側は寄りかかることができない。

 前のおいちゃんがゆで卵をくれる。「謝謝」一ついただくと、おいちゃんは2個目を割って渡す。食べ終わるとまた割られる。わんこ玉子状態で6個食べる。さすがにちょっときつい。腹がそれほど空かないので、方便麺(カップラーメン)で夕食。食べているとおいちゃんは大きな鶏肉を入れてくれた。

 中国人はテーブルに突っ伏して寝ているので、真似してみると、腕が痺れて起きる。しかも車端の席なので、風が入る。駅に着くと外気が吹き込む。ホームから拡声器でなにやら盛んに車内に向かって叫んでいる。暖房は車端で石炭を燃やしていて、その煙が入ってSLのようだ。近くのボックスでは大音量で音楽を鳴らしている。車内ではなんとテレビレンタルがあり、それを見ている人もいる。喧騒の中で夢うつつをさまよう。

 

2000年12月11日

  喉は痛いし、胃は痛いし、寒い。ほとんど眠れず、体調は最悪の状態で5:50極寒の大連到着。未明の駅に吐き出され途方に暮れる。こんなときに限って強烈に催し、差し迫った状況になっている。売店で「厠所どこ!」と尋ねるが全く通じない。何故だ。通行人に尋ねると、「ついて来い」と言い、待合室の中を通り、厠所の前まで行き「W!C!」と叫んだ。謝謝!有難う!礼をしたい所だが、既に緊迫した状況を迎えている。仕切りだけあるシンプルな水路に跨り安堵の息を吐く。

 薄暗い待合室の冷たいベンチの上でじっと夜明けを待つ。7:00、寒さに耐え切れなくなり、出発。今日の北京の予報は−17度〜4度。大連も似たようなもんだろう。風が強いので体感温度は北京よりも低い。とりあえず有軌電車(市電)に乗る。うまいこと迎賓大廈の前に停まったので、そのまま宿へ。中国のホテルは朝っぱらから入れるので助かる。1泊130元。もう少し安い部屋はあるかと訊くと、バストイレ共同で80元があるという。KO寸前なのでとにかく寝床を。午前中寝て落ち着いてきた。こんなことならはじめから寝台を取ればいいのだが。

  安食堂で肉絲麺を食べてから、有軌電車に乗る。中国のバスは前も後ろも関係なく人が乗降するが、市電では前乗り後ろ降りがきっちり守られている。市電は日本が作ったらしい。その頃のやり方が受け継がれているのだろうか。電車は大連駅止まりだったので、すぐに降ろされる。古い電車に乗り換えて民生広場下車。少し歩くと小さな中国銀行を発見。そう言えば人民元が少なかった。窓口は一つしかない。無理かなと思いつつも頼んでみると一応両替してくれる。

  しばらく歩くと中山広場に出る。雑誌スタンドがあり、H本を売っている。中国でこの手の本はあまり見かけなかった。その辺りの事に関してはまだお堅い国である。しかし、上に政策あれば下に対策ありの国でもある。無い訳は無いと思っていた。この街は日本に占領されていた事もあり、また外国への航路があって、他の中国の街とはちょっと違った香りのする都市という印象を受けた。中国を基準に考えるとちょっとエキゾチックなのである。逆の立場で言えばさしずめ長崎といった感じだろうか。それがこの本の、雑誌スタンドに飾るというオープンな売り方に現れているらしい。私はその大連の風を感じるためにこの本を購入した(ちょっと言い訳が長くなったか)。

  大連駅まで歩いて地下に降りてみる。ここは地下四階建ての大商城だ。デイリークイーンで久しぶりの珈琲を飲む4.5元(60円)。ナムコのゲーセンがある。ダンスレボリューションやプリクラも来ている。飯店に戻り、テレビをつけると太陽にほえろ的ドラマをやっている。分かりやすくて面白い。しかし、いいところで終わった。次回を見るなんて不可能だろうなと思う。

 

2000年12月12日

  我が迎賓大廈のすぐ横に長途汽車站がある。ここから庄河行きの公共汽車が出る。何故庄河か。それは自分の名前が庄川だからである。他に理由は無い。斯様にしてさしたる理由も無く街をさまようのが習慣である。従って、未だに万里の長城には行ってないし、上海雑技団も見たことが無い。 庄河までは15.5元(220円)。もちろんボロバスである。切符には指定席のように書いてあるが、乗ったら自由席。辛うじて席を確保する。通路にプラスチックの椅子が出て、更に立ち客まで出て出発。プラスチック椅子よりは良いが、タイヤハウスの上でかなり窮屈な姿勢で固定される。前々から人民は何故この寒いのに窓を開けるのかと不思議に思っていたが、そうではないらしい。振動によって勝手に開くのである。この席も5分おきに窓を閉めなければならない。直行かと思っていたら各停で細かく停まっていく。緩やかなアップダウンを繰り返す道で、登りは極端にスピードが落ちる。そしてサミットを越えるとエンジンを回し、そのままクラッチを切って惰性で下ってゆく。

 3時間半程で庄河市の街外れにある長途汽車站へ到着する。少し歩いて第三電机招待所というところに入ってみる。当然外国人未開放都市だから、外国人の泊まれるホテルは無い。身分証をと言われ、駄目元で赤いパスポートを出してみるとすんなりOK。基本的に相部屋で、二人部屋は1ベット25元(350円)。大部屋なら15元(210円)だ。一応ブルジョワジーに25元の部屋をとる。

 街へ向かって歩き出す。蘭州拉麺を看板に掲げた店に入る。大で2元(28円)。香菜の効いたスープにうどんとソーメンの間くらいの麺が入っている。当然手打ちで太さがバラバラなのがご愛嬌。かなり量が多い。しかもなぜか麺のスープと同じ香菜のスープが別に付く。

 予想より大きな街。庄河大廈という不思議なデザインのタワーがあり、町の中心を思わせる。近くの市場へ潜入する。マネキンがずらりと並び不思議な光景である。 体が冷え切ったので、招待所へ戻る。

 少し休んで、再び街へ。市場の食堂へ入る。メニューは無い。店のじいさんに「炒飯はあるか?」と訊くと、炊飯器を開けて「これでいいか」と言う。「好!」炊飯器にはなぜか赤いご飯が入っている。途中、卵を持ってきて「これで作るがいいか」「好!」店には中国人三人が食事をしていたが、外国人に関心を示し、盛んに話し掛けてくるが、殆ど分からない。従って、大筆談タイムに突入。「旅行か?」「何処へ行った?」「日本の首相は誰だ?」など矢継ぎ早に文字が書かれる。そして、一人がおもむろに「七三一部隊を知っているか?」と記した。緊迫した雰囲気に。私は「少し知っている。彼らは良くないことをした。」と言うと、彼らは穏やかな表情に戻り、陽気に焼酎を飲みだした。

 やがて激ウマの赤い炒飯が運ばれた。どうもメニューに無いものを作らせたようで申し訳ないので、ビールも頼んだ。ビールをおいちゃんたちに勧めると「俺たちはもう沢山飲んでるから」と遠慮した。筆談は更に続く。「日本サッカー隊のセンターフォワードは誰だ?」サッカーはそれほど詳しくないが「中田だ」と答えると「知っている。彼はイタリアに行っているね?」と言う。逆に「中国で有名な歌手は誰?」と尋ねてみる。「那英、それに毛寧だ。」その時、店のじいさんが筆談帖に何か書きだした。「紅光市場鴻運快餐庁、飯代は免費(無料)だ!」払うと言うが、じいさんはやさしい笑顔のまま静かに首を振った。じいさんと握手をしながら目頭に熱い物がこみ上げてきた。いい街に来たらしい。別れ際、じいさんは唄を唄ってくれた。その唄を私は知らない。しかし、その直立不動の姿勢はそれが日本の軍歌である事を伝えていた。


その先の中国へ